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第3章 RISING THE DRAGON

1.


 ソフトウェアベンダー・タカソフの社内にある資料室の前で、沙耶はかれこれ10分近くつぶやいていた。

「会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う。会ったらお礼と映画に誘う……」

 資料室の中で聞き耳を立てていた弓子の耳に、お題目が聞こえなくなった。続いて、会話が聞こえる。

「なんか、目標をセンターに入れてスイッチみたいね……」

「一文字も合ってません。といいますか、隼人君を殲滅する気ですか?」

 秘書である鷹取理恵の呆れた声が、密やかに変わった。

「ね、社長。無理をする必要はありませんよ?」

「で、でも……」

「お礼だけで十分じゃありませんか。社長の負担になるようなことをするべきではないと思います」

(さっそく始まったな……)

 理恵は沙耶に対して過保護気味。そう報告を受けてはいたが、隼人が相手と分かってブーストがかかったようだ。

 そこへ、ご本人さんが現われた。

「あ! 沙耶さん! おはようございます!」

「あ! ああああああああああ」

 さっそくキョドり始める沙耶に、隼人の快活な声が襲い掛かる。

「よかった、治ったんですね」

「え、ええ、そそそそそそそうなの」

(ほれ、早くお礼を言いなよ)

 だが、沙耶の口からは要領を得ない意味不明な言葉が漏れるばかり。弓子はついに我慢の限界が来た。

 それでも最後の瞬間自制して、そっと戸を開けて廊下に半分だけ顔を出す。そこには泡を食っている社長と、心配げだが止められない秘書と、不審さをありありと見せるバイトがいた。

 そのバイトが、ずいと沙耶に近づく。

「社長?」

「は、はい!」

「まだ完治してないんじゃないですか? 顔が赤いですよ?」

 その言葉と同時に、隼人は行動に出た。沙耶の額に手をあて、自分の体温と比べ始めたのだ。

「んー……やっぱりまだ微熱が……」

 そりゃそうだろう。突然額に男性から手を当てられたら、免疫のない沙耶なんて、体温が急上昇するに決まってるのだから。

 案の定、指先まで真っ赤になってしまった沙耶の精神は破綻した。

「だだだだだだだ大丈夫だから!」

 絶叫して逃げ去る社長を、秘書が追う。そのまま2人して階段を上っていってしまい、

「なぜ逃げる……」

 つい声に出してつぶやいた結果、隼人に気付かれてしまった。

 だが、振り向いた隼人の台詞は、ある意味弓子の意表を突いた。

「沙耶さん、まだ治ってないみたいじゃないですか。もうちょっと休んでればいいのに」

「……キミ」

「はい?」

「今の、素でやったの?」

 弓子の質問の意味を理解していない風の隼人から、思わず目を逸らしてしまった。

(強敵だわ……)



 お昼になっても、理恵の妨害は続いた。久しぶりに外で食べましょうと沙耶を誘って行ってしまったのだ。

「なるほど、そうきたか……」

 いずれ来る好機に備えて、琴音と対策を協議しておく。その上で、沙耶にメールをした。

『新装開店したスイーツのお店でおやつを買ってきたから、3時にどう?』

 送信し終えて、視線を隼人に戻す。弁当をパクつくその顔には、特に寂しげとか悲しげといった表情は浮かんでいない。

「残念だね、沙耶ちゃんと一緒に食べられなくて」

「そうっすね。でも、よかったですよ。外で食べられるくらい回復してて」

 そういえば、と隼人が弁当を置いて話し始めた。

「昨日、優羽ちゃんだけじゃなくて沙良ちゃんまで妙にベタベタしてきたんですよ。『渡さないわ!』とか言って。俺、誰かに狙われてるんすかね?」

「あ、ああ、そうなんだ……」

(……もしかして、自分が沙耶ちゃんにメール送ったことすら忘れてる?)

 2人のリアクションについては、琴音から報告を受けていた。彼女が2人に隼人の気持ちを伝えたからだ。

 優羽は、以外に冷静だった。そのことを琴音に指摘されると、シレッと言ったそうだ。

『だぁってぇ、沙耶ねえさまがうまくいくわけないじゃないですかぁ! その時は、ハートブレイクな隼人先輩をあたしが優しく包んであ・げ・ま・す』

 一方、沙良は泣いた。

『私が先につばをつけたのにぃ!』と。

 そして、やっぱりうちに就職させなくちゃと意気込んだそうだ。

『目指せ職場内略奪愛!』

(なんつーか、どっちが翻弄されてるのか分からないな、この子の場合……) 

 いわゆるラブコメ体質ってやつか。

(そういえば蒼也君もこんな感じだったな。あたしらと彼と、どっちが主導権を握ってるのか分からない感じで)

 それが面白かったことは確かだ。結末、というかアフターストーリーがああ(・・)じゃなければ、いい思い出で済んだのに。そう思い返すことが時々ある。沙耶が謹慎から返ってきてからは特に、思い出がふっと頭に浮かぶことが増えた。

(蒼也君のほうが、ツラはいいな。会話とか女のあしらいはこの子のほうが断然上だけど。体を張るってのは……同じくらいか)

 栗本の蜂起の時、蒼也が沙耶をかばって負傷していたことを思い出した。結果的にそれは沙耶が激高するスイッチとなり、蜂起を鎮圧する大きな力となったのだ。

「弓子さん、俺の顔に何か付いてます?」

「ご飯粒だらけよ」

 そうごまかして、沙耶と鷹取家は彼にいつ過去を告げるのだろうかと考えた。


2.


 琴音と鈴香は、玲瑯舎大学の食堂で額を突き合わせていた。

「理恵さんもしぶといね……」

 という鈴香の嘆きに合わせて、溜息をつく。事前に説明しておいたのが裏目に出たのだろうか。

「まあ理恵様もお考えがあってのことだとは思うけど……」

 そうつぶやいたら、すぐ反論が来た。

「なに言ってんのよ! そんなに家柄だのが大事だってんなら、紹介すればいいじゃん! お相手を探しもしないでうだうだ言ってんじゃないよ!」

「鈴香、声が大きい」

 まるでわたしが責められてるみたい。周囲の好奇の目がそう語ってるのだ。

 でも、

「結局、そこなのよね……わたしたちも含めて」

 長壁という有力候補がいることに安心して、だめだった場合の次の一手を考えていなかった。思慮深いことでは一族の中でも有数の母や総領ですら。

 そのことをまたつぶやいて、最後のサンドイッチをちぎる。

「そういう意味で、たずなさんのいう速攻っていうのは正解だったわけよね。隼人さんがもてるかどうかにかかわらず」

「まだ終わってないよ」

「そうね、気を抜いちゃダメよね」

 そう、まだ終わってないわ。わたしだって。琴音はその言葉をサンドイッチの欠片とともに飲み込んだ。


3.


 気が重い。

 もうすぐ3時。隼人が仕事から上がる時間だ。お礼を言って、映画に誘う。ただそれだけだと思っていたのに。

 やっぱり、あの一言が効いているんだ。

『隼人君はね、沙耶ちゃんのことが好きなんだよ』

 恥ずかしながら、生まれて初めて言われたのだ。それらしい風の噂くらいしか耳にしたことがなかった身にとっては、衝撃と動転の事態である。

 蒼也の時のように、自分から告白すればいいのに。そう言われるかもしれない。でもそれは、苦い思い出で終わったのだ。

 また、あんな思いをするくらいなら……でも、このあいだとは確度が違う……でも……

 秘書に声をかけられて決裁をし、考え込んでまた声をかけられて。その繰り返しはなんの救いにもならず、刻一刻と時間が過ぎてゆく。

 長針があと2目盛で12へと到達する位置まで来た時、静寂と圧力を破る事態が起こった。沙耶のスマホが着信音を奏でたのだ。

 それは、あの時のメロディだった。

 不覚にも飛び上がって机の引き出しを破壊してしまい、赤面しながら取り上げたスマホ。そこに表示されていたのは、隼人からのメールではなく、スパムメールだった。あの日琴音が傘下のキャリアに命令して外させたプロテクトを、戻し忘れたのだろう。

 だが、何の変哲も無い電子音は、確実に沙耶の心を打った。

「そうだ……」

 彼に励ましてもらったんだ。今お礼を言わなきゃ、わたしはまた……

「飽きられちゃう……」

「え? 社長?」

 沙耶は勢いをつけて立ち上がると、秘書を見下ろした。

「ちょっと、席を外します」

 一方、資料室では弓子が次の算段を立てていた。あの愚図をどうするか。ほんとに、どうしてくれようか。

「あのー、弓子さん?」

「ん? ああ、お疲れ」

 彼は不思議そうな顔をしながら退社していく。こちらの顔に不機嫌さが張り付いているのだろう。

 だがその不機嫌は、ものの5秒で吹き飛ぶことになる。資料室を出たところで、隼人の快活な声がしたのだ。

「ああ、社長。お先に失礼します」

(来た!)

 ガタンと音高く椅子を蹴立ててしまい焦ったが、幸いにも外の会話には支障が無かったようだ。

「ああああああのね、その、このあいだ……」

「はい」

(がんばれ、沙耶ちゃん)

 息を無理やり整える音が聞こえて、また沙耶の声がした。

「メール、ありがとう。その……すごく、うれしかった」

 第一段階突破! 弓子は小さくガッツポーズをした。

 応える隼人の声は、とても嬉しそうに聞こえる。

(さあ、次、次!)

「で、でね、ああああああの……」

 また止まってしまった。モジモジしているような衣擦れの音がしばらく続く。というか、いつまでたっても次の言葉が出てこないではないか。

(これ、隼人君もよく我慢してるな)

 あまり時間をかけると、理恵が来て連れ戻されてしまいかねない。弓子がジリジリし始めたころ、

「と、取引先からね、映画のチケットをもらったの。ちょうど、2枚……」

 消え入りそうになっていく語尾を押しのけるように、ガサガサと胸ポケットを探る音がする。

「こ、これ……」

(そこだ! がんばれ!)

「よ、よかったら……」

「はあ」

「どうぞ」

「はい」

(あげてどうするんだぁぁぁぁぁ!!)

 オワタ、オワタヨ……弓子は感情が急騰したあとの急落でめまいを覚え、思わず床に膝を突いてしまった。

 相対的に高くなった位置から、隼人の変わらず穏やかな声が聞こえる。

「あ、じゃあ、どうすか?」

「え?!」

「一緒に行きませんか? 沙耶さん」

「あ――あああ、うん!」

 壁の向こうの沙耶の声に負けないくらい、弓子はもう飛び上がらんばかりだった。今度はまさに昇竜のごとく。

 そして、

「疲れた……」

 帰りたい。でも、マスターアップがぁ……


4.


 深夜の『S・H・A・R・E』の上では、爆笑が巻き起こっていた。実に疲れた声で弓子から顛末を聞かされた琴音が、彼女不在のここで披露したのだ。

『あいつは……バカなの?』

『いやいや、木之葉ちゃんが高校の時にちゃんと仕込んどかないから』

『よかったね、男の人がフォローしてくれて』

『見たかったわ、その場面』

『えー、見たいっすか? 友達のウレシハズカシ』

『違う違う、弓子のアップダウンよ』

 みんな、勝手なことを言ってるな。鈴香は弓子の苦労に同情を禁じえない。なぜなら、次は鈴香と琴音の番なのだ。

 すなわち、『あおぞら』西東京支部の面々に、沙耶の過去を話して理解を得るという……

(理佐さん、きっと発狂する。きっと)

 あの人は確実にアクションを起こすだろう。

(優菜さんは……分からないな)

 あとはミキマキくらいか。でも多分、あの双子は面白がって様子を見るほうに回るだろう。

 その時、琴音のパペットが何かを耳に当てる仕草をした。

『はい――まあ、そうだったんですか――はい、ありがとうございます――ええ、ほんとに。またよろしくお願いします』

 会社からの連絡だろうか。そう推測したのだが、

『加奈恵さんからでした』

「加奈恵さん? どうしたの?」

 と尋ねると、琴音パペットはヤレヤレを全身で表現した。

『総領様が花火を打ち上げようとしたのを止めたって連絡があったの』

 聞いて、ほかのパペットもそろえたように肩をすくめるのがおかしい。鈴香も同じ所作をしてしまったのだから。

『それが沙耶のプレッシャーになるっつうのに……』

 そのあと、今後の打ち合わせをして通信は終了した。どことなく重い気分で冷蔵庫へ行き、缶ビールを取り出す。開栓して一口呑みながら部屋に戻ったが、ちっともおいしくない。

「やっぱ、嫌だな……」

 理佐たちへの説明がこんなにプレッシャーになってるなんて。

 いっそ現世が消滅したほうが楽だったのになあ。

「馬鹿なこと言わないで!」

 内なる疫病神のつぶやきを口走った自分を打ち消すという次第に、鈴香もどっと疲れを感じたのであった。


4.


 その頃、凌はミキマキに、彼女たち念願の分身の術をレクチャーしていた。といっても極意はほんの少しのコツだけで、残りは地道な反復練習である。

 一緒にひとしきり汗を掻いて、ポタリスウェットを飲む。ペットボトルを下ろしたところで、双子に首を傾げられた。凌が胡乱げな目つきをしているのに気がついたのだろう。

「「どしたん?」」

「……わたし的にはそのユニゾンの仕方が学びたいです」

「言うても、これは生まれつきやからなぁ」

 そう笑った真紀が、何かを思いついたようにうなずいた。

「そや、思い出したわ」

「なんですか?」

 凌には分からないことが、美紀には分かるようだ。その証拠に、うんうんとうなずいて口を開いたのだ。『アホ毛を介して通信している』という与太話は、彼女たちと付き合うほど笑えなくなってくる。

「分身の術のお返し、どうしようかってねーやんと悩んどったんやけど」

「いえいえ、お構いなく」

「まあそう言わずに。うちらから――「オトコ紹介したろと思って」

 台詞を被された美紀が姉をドツくまでの流れのよさに、思わず声を立てて笑ってしまった。

「まったく……でな、凌ちゃん」

「はい」

 美紀が凌の耳元でささやく。

「隼人くんはどないや?」

「? は?!」

「結局自分もしてんじゃん!」

 ドツき返されて吹き飛ぶ美紀を見ても、なぜか今度は笑えない。

「あのー、もうちょっとほかのお返しで……」

「「まあそう言わずに」」

「――ってなんでそこでユニゾンするんですか?」

 凌のツッコミは無視され、左右からにじり寄ってきた双子のささやきが始まった。

「「凌ちゃん、マダやろ? オトコ」」

「へ?! う、ええ、まあ……」

「「九ノ一としてまずいんちゃうの? それ」」

「それはそうですけど……」

 語尾が消え入りそうになる。現在の一族の生き方なら、そんな心配はいらない。でも、凌が進もうとしているのは諜報員としての道なのだ。

 敵対勢力に捕らえられた時のためにも、そういうこと(・・・・・・)は済ませておいたほうがいい。それは分かっているのだが……

「ていうか、なんで分かるんですか、マダとか……」

「「そら分かるがな。1年生カルテットで貫通済みなの、優羽ちゃんくらいやろ?」」

「か、貫通とか言わないでくださいよ……」

 一族の同い年の子とか学校の同級生とは、そこまであけすけな話をしたことがなかった。これが大人というものなのだろうか……いや単にこの人たちが“エロ双子”なだけだよね、きっと。

 その時、赤面の背後から衝撃が襲ってきた。

「お疲れー。へぇ、珍しい面子だね」

「さすが隼人君、持ってるねぇ」「ほんまやな、あんたはほんまに」

 凌はためらいなく四つ身分身をしながら跳びすさり、ついでに空蝉と撒き菱と、とにかく手持ちの品を全部撒いて隼人から距離を取った。

「なに? どうしたの凌ちゃん?」

 隼人が驚く声に、ミキマキのからかうような明るい声が応える。

「照れてるんよ。かわいいやろ?」

「九ノ一としての通過儀礼を隼人君にしてもらいたいんやって」

「ああ……え、ここで?」

「「脱ぐな脱ぐな」」

 ボケとツッコミのあとは、すかさずフォローが入る。手馴れたものだ、と呆れる凌である。

 仕方がないということで、代案が出た。

「凌ちゃんな、このあいだの戦闘を動画で見たんやけど――」

「はい」

「アンヌさんみたいな腕力のある相手にはな、こう受けた時にこっちにこじらずに――」

 なんと、ナイフ術を教えてくれた。

「でな、順手と逆手の切り替えも、まあこれは癖と好みの問題やけど――」

 熱心に教えを受けていると、荒地の向こうが光り始めた。変身したブラックがスキルの練習を始めたようだ。盗み見たその表情は真剣で、こちらに視線すら送ってこない。

 さっきの話は冗談として流してくれたようだ。まあここで脱がれても困るし。目のやり場的に。

(隼人先輩、割といい身体してるんだよね……って何考えてるんだわたしは)

 そんな邪念を振り切って、ナイフ術の習得に励む――なんでそんなものをこの双子が知っているのかは、詮索しないほうがいいと直感が告げている――こと1時間ほどして、陽子が来た。

「「おはようさん、育ち過ぎピーターパン」」

「誰がピーターパンですか!」

「「じゃあピーターやんで」」

「関西風……」

 思わず吹き出したことで一区切りできて、休憩することにした。

 が、直後に後悔することになる。ブラックも練習を切り上げてこちらにやってきたのだ。慌てて周りを見回すが、陽子は――ブラックが接近するのにあわせて――そそくさと練習のため離れていき、双子は姿を消してしまった。

(くぅ、気まずい……)

 程よい高さの岩に腰を下ろしてポタリの残りを飲んでいるのだが、この岩がまた微妙な広さで、ブラックとくっつきそうなのだ。

 そのブラックはと盗み見ると、変身した陽子――ブリランテの練習を眺めていた。彼女の周りで風が渦巻き、指し示した方向へ流れていくのを見て感心している。

「すげぇ上達が早いな」

「練習熱心ですよね、陽子」

 学業にレッスンにと忙しいはずなのに、ほぼ毎日、時間を作ってここに来ているようだ。

「へぇ、バイトはしないのかな?」

「してないみたいですよ。仕送りでやっていけてるみたいです」

「むぅ、うらやましいな」

 そういうブラックの表情には、妬みらしきものは見られない。確か仕送りゼロで苦労しているはずだが。

「凌ちゃんは?」

「え?! あ、ああ、始めましたよ。コンビニで」

 仕送りが無い点はわたしも同じだ。

 ふと、父母と兄弟の顔が思い浮かんだ。でもそれは、あの夜に襲い掛かってきたもの。胸の痛みを覚えて、凌は思わずうつむいてしまった。その涙でぼやけた視界に、光が差し込む。ブラックが変身を解除したのだ。

 そして大きな溜息に続いて謝罪が来た。ためらいがちに横目で見ると、

「ごめんな、凌ちゃんのことじゃないから」

「……なにか、心配事ですか?」

「まあ心配事はいろいろあるけどね。今のはそれじゃなくて、単純に疲れたな、と」

 どうやら強力なスキルを開発しようとしているようだが、

「うまくできないのもあるし、やっぱ強力なやつは体力使うし、それでね」

 ぼそり、とつぶやきが彼の口から漏れる。

「今度はちゃんと護らないと」

 その厳しい顔を見つめていると、彼はこちらを向いてくれた。表情が和らぎ、ゆっくりと近づいてくる。わたしも、高まる鼓動に合わせるように背を伸ばし、そっと目を閉じ――

「――って! 勝手に情景描写入れないでください!」

「「ちっ」」

「汚らわしい……」

「なんで俺が陽子ちゃんににらまれるんだ……?」

 騒動を水入りにするためだろうか、空から水滴が落ち始めた。


5.


 突然降り始めた雨の中を走って、るいはジムに駆け込んだ。そこへたしなめる声が飛んでくる。

「るいちゃーん、お客さん待たせちゃダメだよ」

「ごめんごめん、カレシが離してくれなくって」

 謝りながら、投げられたタオルで頭をガシガシ拭く。大学入学時から通ってる馴染みのジムには、トレーナーとオーナーを除いて誰もいない。わざとこの時間を選んだのだ。

 なぜなら、お客さんとは海原瞳魅なのだから。

 彼女とスパーリングをするのだから。

 ボランティアでの彼女の戦いを見ていて、思ったのだ。いっぺん手合わせしてみたいって。

「ごめんねー瞳魅ちゃん」

「いえ、面白いお話がたくさん聞けて、楽しかったです」

 そう微笑む彼女の首にはタオルがかけられている。先にウォーミングアップを済ませたのだろう、Tシャツが汗で身体に張り付いている。が、自他共に認める『つるぺた』ゆえ、色気が無い。

 更衣室から出てきたら、トレーナーが近寄ってきて、るいの肩に手を置いた。

「るいちゃん――」

「はい?」

「骨は拾ってあげるから」

「いきなり死亡宣告ぅ?!」

 トレーナー曰く、とんでもないウォーミングアップだったらしい。

「軽く打ち込んでるようにしか見えないのに、サンドバッグが縦揺れしてるし、フットワークはやっぱり素人さんだなって見てたら、居残り練習してた練習生の足運びを見てどんどんうまくなってくし」

 このジム期待の若手がすっかり自信をなくして帰ってしまったのだという。

「もー若林くんもトーフメンタルだなぁ」

「オーナーも悪いんだぜ? お嬢様に『私と一緒に世界を目指そう』とか言っちゃってさ」

「いやマジで、海原さんじゃなきゃなぁ。惜しい。世界どころか宇宙だって狙えるのに」

 ダベりつつ、震える。冗談抜きで、今日が人生最後の日かも。

「もーちょっと名残を惜しんどけばよかったかな」

「やだなぁもう。るいさん、殺しませんよ」

 軽く言ってくれる瞳魅に笑いかけて、ウォーミングアップを済ませる。

 さあ、やろうか。

 瞳魅はリングに上がると、さっそく攻撃、いや、口撃をしかけてきた。その顔はキラキラした目と吊りあがった口元で、こっちが本性なのか、あるいは『鬼の血』がうずくのか。

「キックはしませんから、安心してください。使うまでもなく終わりそうだから」

「んじゃ、るいは遠慮なく使わせてもらうよ。早く終わらせるために」

 グローブを前に突き出してチョンと触れ合わせ、スパーリングが始まった。

 しばらく探りあいでゆっくりと動く。瞳魅の構えはボランティアの現場でのと同じく、オーソドックススタイルからやや腕を下げ、右半身気味。斬り技である遅刃おくればを出すための構えだ。

 こちらはまっとうなオーソドックススタイル。というか、いろいろ試すほど練習をしてるわけじゃないし。

 むしろ試したいのは――

「ッ!」

 急発進してジャブを繰り出しつつ、フットワークを目一杯駆使してヒットエンドアウェイを開始! 慌てずガードに努める瞳魅だが、こちらの動きについてこれない。

(やっぱりね)

 きっかけは、鈴香が以前つぶやいた一言だった。

『エンデュミオールの人たちって、屋根を跳び移って怖くないんですか?』

 そのうち慣れるよと答えると、大いに驚かれたものだ。

『そもそも飛び移るっていうか、跳び上がるのがありえない』

 そう、鷹取の巫女たちはあれだけの地力を持ちながら、敏捷性だけは持ち合わせていない。まさに化け物というべき沙耶ですら、跳躍はエンデュミオールに遥かに及ばないのだ。

 だから、フットワークで翻弄できるかどうか。それを試してみたかったのだ。

 瞳魅はガードを固めて、こちらを眼で追うのが精一杯のようだ。その眼がキラキラしたままなのが不審だけど、まあいい。ガードを徐々に崩して狙うはまずリバーブロー。切り裂きが主な攻撃である長爪か、大味な殴打がほとんどの金剛のどちらかしかいない妖魔と戦っている巫女では、対応できないはず。

 さらに速度を上げて、徐々に頭部に攻撃を集中していく。もう少し、もう少しでボディーががら空きに――

 突然、眼の端に赤いグローブが見えた。横から来る、来る、来る! でももう、リバーブローのモーションは止められない! 先に届け、届け!

 るいのグローブが瞳魅のわき腹を捉えたかすかな感触と引き換えに、るいの頭を激烈な衝撃が襲い、目の前が真っ暗になった。



 シャワーを浴びて、ふらふらしながら出てくると、瞳魅が心配そうに寄ってきた。

「ご自宅まで送りますね」

 断りかけて、やっぱり素直にうなずく。オトコは呼んでも来ないだろうし、意地を張って一人で帰るのは無理だ。

 タクシー会社に電話をかける彼女の声を片耳に、

「いいアイデアだと思ったんだけどな~」

 あの時のフック一発が効いて、片膝を突いたところでタオル投入という顛末であった。

 オーナーとトレーナーはまだ未練があるようだったが、にこやかに断る瞳魅に無理強いはしかねたようだ。名残惜しそうに見送ってくれた。

 車内で当初抱いていた目論見を話すと、瞳魅はそうそうとうなずいた。

「わたしたち、実は憧れなんですよ。あの、ひょいって屋根まで跳び上がるの」

 でも、と続く話は驚くべきものだった。実は鷹取家がああいう一族だというのは格闘技関係では密かに語られていて、時々腕試しに来る輩がいるのだと。

「そういう時に遅れをとらないように、対人訓練もしてるんですよ」

 鬼の末裔として、負けるわけにはいきませんから。そう話は結ばれた。

「……みんな考えることは同じだね~」

「そうですね」

 るいは座席からゆっくりと身を起こした。

「じゃあさ、負けたわけだし」

「はい?」

「おごるよ」

「じゃあ今度、イッショクで」

 そう来たか。

「るいは今からだね――」

「頭揺らされた人が飲酒なんてダメです」

 むくれたるいと笑う瞳魅を乗せて、タクシーは夜道をゆっくりと走る。

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