第2章 充電器上の運命線
1.
翌日も10時を過ぎて、弓子は気だるかった。呑み過ぎたのだ。
帰りたい。でも、帰れない。仕事が押しているのだ。それに、もう一つの賭け《・・》もしている。
会議でもあれば気が紛れるのだが、あいにく今日は予定がない。同僚たちも自分のブースに籠もりっきりで、マウスのクリック音やぼやきのつぶやきしか聞こえてこないのだ。
今日何度目かの伸びと大あくびをした時、男性社員の声が聞こえた。
「あれ? 隼人君、今日出勤だったっけ?」
「ああいえ、ちょっと……」
勝った。そんな自分の声がして、弓子の脳は覚醒した。
勢いをつけて立ち上がり、声を出す。
「待ってたわ隼人君、悪いけどやり直してもらうわよ」
「え?! あ、はい……」
呆然は一瞬だけ。隼人は芝居を飲み込んでくれた。1階下の作業室に2人で入り、ドアを閉める。
「さて、あたしに用事でしょ?」
うなずいた隼人は、照れもせず切り出した。沙耶のメールアドレスを教えてほしいと。
「どうして?」
「お見舞いのメールを送りたいからです」
「そんな理由では、友達のメアドは売れないな」
じっとこちらを見つめてしばらく、隼人は語り出した。夢を見たのだと。
泣いている沙耶に、どうしても近づけない。声を限りに呼んでも、気付いてくれない。そのうちに、沙耶が赤く変色し始めて、絶叫したところで目が覚めた。
「――初めてですよ、夢に見るなんて」
「怖い夢を?」
隼人は首を振った。
「女の子が出てくる怖い夢が、ですよ」
そこで初めて、彼は眼を逸らして、訥々と語り始めた。
前々から気になっていたこと。一緒にいて楽しかったこと。長壁と彼女が一緒にいる時の複雑な気持ち。護らなければと覚悟した時の言いようのない高揚感。
それが、眼が覚めた後、一気に蘇ってきたのだと。
「だから、やっと気がついたんです」
彼はちょっとだけうつむくと直り、弓子を真っ直ぐに見た。
「沙耶さんのこと、好きなんだなって。だから、励まして病気が治るかどうか分かんないですけど――」
「おっと、そこまでよ」
あまりにも真顔で言われて、こっちが照れてしまったのだ。部屋の机に歩み寄って、メモにきちんとメアドを書いた。
「はいこれ。よろしくね」
お礼を言いながら、隼人が首をかしげている。
「なに?」
「さっき、売るとか言ってませんでした?」
「そう、有料よ」
弓子はサービスでウィンクしてやった。
「後日、たっぷりいただくわ」
納得半分の隼人を置いて部屋を去りかけ、大事なことに気づいて回れ右。
「あ、なんすか?」
「そのメール、送るのを30分だけ待って。文案を練ってて」
念を押して部屋を出ると、弓子はブースに取って返した。充電器上のスマホをひったくると、廊下に出る。
相手は3コールで出た。
「もしもし、琴音ちゃん? 大事なお願いがあるの――そう、大事なお願い。30分以内にやってほしいことがあるの」
沙耶はぐったりと、横向きに寝そべっていた。
目の前20センチほどにあるスマホは、昨日の夜から充電器を揺らすことがなくなった。もはや、みんなも飽きたのだろう。
だから、長壁にも受け入れてもらえなかったのだ。飽きられたのだ。ウジウジイジイジしていたわたしは。
馬鹿な女。
そう思うと、また涙が溢れてきて布団を濡らした。
まだ涙なんて出るんだ。それが驚きである。もはや布団の表面など涙の塩でカサカサだというのに。
そう、飽きたのだ。沙耶も。嘆き続け、泣き続け、外部からの接触と説得を拒否し続けることに。
「やるか……」
だが、ゆらりと起き上がって気だるげに見回した部屋は、厭離轍鮒の儀――現世を消滅させる最終秘儀――を実行する呪式陣を描くには小さかった。
「ああ、練武会場……」
そういえば、朝、母が言ってたっけ。合同練武。
「そこでいい……」
お腹が空いた。やるなら今だ。気力の残っているうちに。
思い定めた沙耶が部屋の戸に向かいかけたその時、背後で異音が発生した。異音というのが大げさなら、ついぞ聞いたことのない着信音が。
それは確か、アドレス帳に登録していない相手からの着信音のはず。振り返って見下ろしたスマホから、それが流れてきたのだ。
「どうして……誰?」
疑問が湧くのも当然だ。なぜなら、登録されていない相手からの着信は拒否。そう設定してあるはずなのだから。
音は5秒ほどで止まった。メールだ。誰からだろう?
ふらふらと戻り、布団の上に座り込む。取り上げたスマホの画面にまるで指が吸い寄せられるように伸び、タップする。
やはり見たことのないアドレス。タイトルは――
『神谷隼人です。』
心臓が、生まれて初めて口から飛び出そうなほど大きく跳ねた。
呼吸すら苦しくなりながら、震える指でメールを開く。彼の声が、彼女の脳裏で文面を読み上げ始める。
『お見舞いのメールを送ろうと思ったら、まだアドレスを聞いてなかったので、弓子さんから聞きました。
お加減はいかがですか?
急病と聞いてビックリしました。入院はしてないって聞いて安心して(病気に安心っていうのも変ですけど)いたのに、なかなか治らないので、心配してます。病名も教えてもらえないし、優羽ちゃんたちも歯切れが悪いし…
だけど、どうしても沙耶さんにお見舞いをしたくて、悩んで、弓子さんに無理を言いました。
だから、沙耶さんにも無理をいいます。
早く元気になってください。
沙耶さんのあの穏やかな笑顔が見たいです。
沙耶さんに会いたいんです。
ダラダラ書いてすみません。もし返事をもらえるなら、体調が良くなった時でいいですから、お大事に。』
……文面を三度、読み返した。そのたびに、彼の声以外の思い出が蘇ってくる。
その中の彼は、いつも沙耶に笑いかけてくれていた。彼女を助けるためにその身を犠牲にする時も、彼女のほうを見て、微笑んでくれたのだ。
その笑顔とともに、スマホがぼやけていく。また涙が、しかし今度は満たされたゆえの落涙だった。
沙耶は泣くことによってできた空隙を埋めようと、スマホを胸に押し当てて、動かなかった。
「いい? 行くわよ」
沙耶の離れまで、あと5歩。総領は覚悟を決めた青い顔で、同行者を促した。
同じ表情の親族たちもまたうなずく。一人を除いて。
「ううう、なんであたしまで……」
「説明したじゃん?」
愚図る優羽をなだめる瞳魅は、こんなことまで言い出した。
「今死ぬのも、あとで消滅するのも一緒だろ?」
「どうせ死ぬなら男の子の傍がいいのにぃ」
優羽には気の毒だが、これしかないのだ。合同練武への参加を拒否したら、戸を破り、全員で沙耶の身柄を制圧する。
戸を破った時点で既に不利である。気力があるかどうかギリギリの状態とはいえ、沙耶が唯々諾々と制圧されてくれるとは思えない。
だが、それでいい。母も親族――仲の良い同年代の子たち――も返り討ちにして、彼女の眼が覚めるのなら。
「鈴香様も連れてくればいいのにぃ」
それも説明した。疫病神の気配を沙耶に感づかれないために、母屋のほうで待機してもらっているのだ。
いよいよ、戸の前に到達した。目を閉じ、大きく息を吸い込んで、目を開く。ぐっと唇を噛み締め、戸をノック――
ガラガラという軽快な音とともに、戸は引き開けられた。まったく予想だにしない展開に、頭が真っ白になる。
「ギャー出たー!!」
優羽が動転して逃げ去ったのも無理はない。戸の向こうには、やつれた沙耶が立っていたのだから。
腫れぼったい眼がしばたたかれ、カサカサの唇が開き、意外に張りのある声が出る。
「あ、お母様。まだ時間には早いんじゃないですか?」
「え? え?!」
まだ時間には早い。その台詞を飲み込むのには、永遠とも言うべき体感時間と脳のフル回転が必要だった。
「……合同練武?」
「そうですよ。みんなそろって、迎えに来てくれたの?」
一様に眼を見張り、コクコクとうなずくことしかできない一同の中から、琴音がようやく口を開いた。
「さ、沙耶様、もう、その……」
「? ああ、大丈夫。もう大丈夫」
その言葉で、ようやく娘の姿を見回す余裕ができた。沙耶の顔色は青かったが、胸にスマホを抱きしめて、しっかりと立っている。
「大丈夫よ、もう3年前みたいなことはしないわ。それより――」
「な、なに?」
「お腹が空いたので、何か食べたいんですけど」
沙耶は弱々しく微笑み、総領は不覚にも涙をこぼしたのだった。
2.
夜も更けて、『S・H・A・R・E』にはいつもの面子がそろっていた。今回の一件に関する琴音の報告を聞くためである。今ちょうどそれが終わったところだ。
木之葉が、説明が終わるのを待ちかねたように口を開いた。
『それで、沙耶の様子は?』
「特に変わったところは無かったです。いつもの沙耶様でした」
琴音の証言に、ほっとした空気が流れる。琴音と鈴香以外は電子の彼方なのに、不思議な感じだ。
満瑠は涙ぐみ始めた。この人、こんなに涙もろかったっけ?
『よかった……立ち直ったのね……』
そこに混ぜ返す者、これ有り。千夏だ。
『ほんとかなあ? 3年前よりもっとすんごいことになったりして』
『私、あなたのそういうところが嫌い』
彼女たちも鈴香と琴音のように、装置の前に並んで座っているのだろう。パペットがにらみ合い、ぷいっと顔を背けた。
そこに、弓子が割り込んできた。
『ねぇねぇ、沙耶ちゃんはなんか変わった行動を取ってなかった?』
「変わった?」
いま琴音が変わったところはないって言ったのに……鈴香は頭をひねった。
「……そういえば、休憩のあいだも普通でしたけど、気がつくとスマホを眺めてましたよ」
「ああ、そういえばそうね。珍しいな」
そう話し合って弓子のパペットを見れば、にやりとしている。が、わけを聞いても教えてくれなかった。
夏姫がパチンと手を叩く。
「さて! じゃあ満瑠さんと千夏さんが帰ってきたら、呑み会でもやりませんか? 沙耶ちゃんを励ます会ってことで」
「お! いいねぇ!」
と木之葉が乗ってきた。義理の姉は自分の店では飲めないため、呑み会に飢えているのだ。
だが、また弓子が手を挙げた。そして、みんなの首をかしげさせるようなことを言い出したのだ。
「呑み会もいいけどさぁ、もっと抜本的な解決策が必要だと思うんだ」
それに鋭く反応するのはやはり姉。ちゃんと身体を動かして、自身のパペットを弓子のそれに正対させ、眉をひそめてみせた。
「抜本的な対策ってなによ」
「オトコができればいいんだよ」
「それがうまくいかないから困ってるんじゃないの。なに言ってるのよ」
そして察しが早いのは、やはり幼馴染ゆえなのか。夏姫が身を乗り出してきた。
「弓子、なにか当てがあるんだね?」
「うん、まあ。沙耶ちゃんのほうが4つ年上だけど、会話してるのを見てる限りはいい感じだし――」
弓子も身を乗り出してくる。その顔は真剣だ。
「なにより、鷹取のおうちの事情をちゃんと理解してるから、説明も要らないわ」
沙耶の4つ下、会話がいい感じ、鷹取の事を理解してる……
上ずった声は、琴音とハモった。パペットを指差す仕草まで。
「あ! 隼人さん?!」
正解を告げる電子音を口真似した弓子の笑いは、他の参加者の声に掻き消される。
「誰だっけ?」
「自爆の人?」
「弓子、確証はあるの?」
姉の問いは、明確な反論を呼んだ。
「もちろん。沙耶ちゃんが眺めてたのは、隼人君からのメールだよ。メアドを訊かれたから、なんでって訊いたし」
「なんでって?」
「個人情報じゃん? そしたらね、沙耶ちゃんのことが好きだからって」
なぜかそのシーンが眼に浮かんで、赤面してしまった。自分が言われたわけでもないのに。
そして横目で見た琴音の顔は、輝いていた。親友として思わずしようとした発言を飲み込む。
(いいの? あんた)
装置上のパペットたちには気付かれなかった。彼女たちが鳴らす口笛と笑い、抑えた嗚咽――もちろん満瑠だ――を制して、木之葉が強い声を発する。
「よし、そいつでいこう。それ、沙耶にはまだ話してないんだよな?」
「もちろん。そんなことしたら、出勤できなくなっちゃうよあの子」
「でも、速攻をかけたほうがいいわね」とたずな。目つきも仕草も参謀のそれに変わっている。
「モテモテにーやんの気が変わらないうちに」
その点について議論を交わし、明日、弓子が沙耶への事後報告も兼ねて話をすることに決まった。
「では、西東京支部対策はわたしがします」
と琴音が手を挙げた。
「3年前の件も含めて、説明をしても良いかどうか、総領様に確認します」
「あ、そういえば総領様に報告がまだだった」
それも、海原家当主である琴音の母とともに事後報告をすることに決まり、通信は終わった。
「さ、お母様のところに――「待って、琴音」
せめて確認だけはしたい。
「いいの? あんた」
「隼人さんの心がわたしに向いてないのに、良いも悪いもないでしょ?」
まるで用意していたかのようにさらりと述べると、琴音は当主の部屋に訪問を予告する内線をかける。それを見ながら、今夜は長くなりそうだと鈴香は思った。
打ち合わせが終わったら、お酒を一緒に呑んで愚痴を言わせなきゃ。
3.
翌日の朝、弓子は沙耶にメールを送った。
『仕事が終わったらお茶しない? 理恵ちゃん抜きで』
それなりに親しい理恵を除け者にするのは少しだけ心が痛んだが、その点については今朝来た琴音からのメールで釘を刺されている。
理恵が沙耶を気遣うあまり、過保護気味であること。
理恵もその父も、家柄や家格を気にする傾向があること。
ゆえに、隼人を排除しようとするかもしれない。
「家柄ねぇ……」
待ち合わせ場所に設定した喫茶店に腰を下ろして、弓子は鼻で笑った。
そりゃ確かに、家柄や家格が人を好ましい方向に形成する面はあるだろう。だがそれも、確率が高まるだけのことだ。
もうそろそろ男遍歴が100人を超える彼女にとって男とは、肌が合うかどうかである。姉は弓子を『顔の良し悪しだけで選んでる』と揶揄するが、それは第1ゲートに過ぎないのだ。
(ったく、男の魂を貪り食ってるだけの女のどこがいいんだか……)
姉を脳内でくさしていると、沙耶が来た。落ち着かなげにキョロキョロ、弓子を捜している。
手を挙げてこちらへ招くと、いそいそとやって来た。ウェイトレスにコーヒーを注文して、対面にストンと座る。
「ごめんね遅くなって。珍しいわね2人きりでなんて」
なぜ2人きりなのかを訊かれる前に、会話の主導権を握ろう。
「こちらこそ、ごめんね。隼人君にメアド教えちゃって」
効果はバツグンで、沙耶はたちまち挙動不審になった。
「あ、あああ、そ、そうね。ありがと」
「んふふ」
「なによ」
来たコーヒーを一口すする余裕くらいあげよう。こちらも喉が渇いたし。
「ちゃんと訊いたんだよ? なんでメアドが必要なのかって」
「そ、それはお見舞いをしたいからじゃダメだったの?」
「もちろんよ。その程度の理由で友達のメアドは売れないよ」
困惑の色を隠せない沙耶に、立ち直る隙を与えない。
「隼人君ね、沙耶ちゃんのことが好きなんだよ」
告白のクッションボールを真っ向からぶつけられて、沙耶は逃げるように横を向いた。
「……そんなの、嘘よ」
「真顔だったけど?」
「お、お見舞いしたいだけの取ってつけた理由かもしれないじゃない。なんか別のことに使うかも知れないし。それに、それに……そんなこと、みんなにも言ってるかもしれないし」
そっちに歪む? 弓子は内心の動揺を押し隠して修正を図った。
「あのさぁ、お見舞いの言葉を贈るだけなら、あたしに言付けするだけで良いじゃん! それよりさ――」
みんなに言ってるかどうかはテーマからあえて外して、斬り込む。
「2人で一緒にいて、どう? 隼人君がそんな奴だと思うの?」
うつむいて、ふるふると首を振る沙耶の頬は真っ赤だ。一押ししてみるか。
「で、どう? 沙耶ちゃん的には」
「……いや、じゃない。けど……」
「けど?」
「で、でも、わたし、年上だし……」
想定どおりの引け目ワードがやっと出てきた。対策は考案済み。弓子は優しく諭す表情と声色を作った。
「それも込みで、好きだって言ってくれてるんだよ、隼人君」
もじもじしだした沙耶には悪いが、時間だ。そのためにお店に無理を言って窓際に陣取ったのだから。
向かいのビルに掲げられたデジタルサイネージが見せられるように。
弓子は机に頬杖をつくのをやめて、でも尊大に見えないように椅子の背にはもたれず、
「まあさ、元気もらったんでしょ? お礼に付き合えとは言わないけどさ、映画くらいおごったって罰は当たらないんじゃないの?」
「……隼人君の好みが分からないし」
「自分で訊きなよそのくらい」
ああ、メンドクサイ。現世の消滅を回避するため、なにより親友の幸せのためじゃなければ、ここで放り出すところだ。
そして、タイミングバッチリ。
「まあほら、ちょうど2人の共通の趣味のやつ、やってるじゃん?」
外を指差してやると、素直に振り向いた沙耶の瞳にデジタルサイネージの新作映画紹介画面が映った。
3.
栗本の残党――本人的には仲間のつもり――である平居は、東京から遠く離れた地方都市のネットカフェに潜伏していた。
轟音とともに左方向から甚大なる突光が飛来した時、彼女はちょうど指揮していた妖魔勢を後退させ、隊列を整えている最中だった。
その前衛も中段も消し飛んだ瞬間、彼女は逃げたのだ。他の仲間など意識の外にうっちゃって。
そのことに、なんの後悔も無い。仲間たちに殉じるつもりは毛頭無いのだ。
問題は一つ。あの勝負の場にいなかった仲間とどう連絡をつけるかである。連絡先を全て把握していたのは祖笛だけだったのだ。
その祖笛の携帯は不通のまま。たぶんあの突光で形態ごと消し飛んだのだろう。
乃村と清多の携帯はショートメールが届くから、まだ生きてるようだ。返事がないのは、逃げたことに怒ってるんだな。平居はそう解釈している。
まあいい。あと1年くらい街を転々として、ほとぼりが冷めるのを待とう。金はあるし。
彼女はあの後アジトに直行し、栗本の裏金を――現金も、キャッシュカードも――引っつかんで逃げ出したのだ。
と同時に、置いてきたものもある。
鷹取家への復讐の念だ。
栗本も既に亡く、仲間たちとは連絡が取れない。独りでのゲリラ活動? 真っ平ごめんだ。
というわけで、このままでいい。
「お待たせしましたーランチでーす」
ノックの後ブースに入ってきた店員が、目の前にランチを置いた。最近ちょっと会話を交わすようになった男性店員は、平居に興味深げな視線を送ってくる。
(こいつ、一人暮らしかな?)
彼女をオンナとして扱ってる目つきに、邪心が湧く。表面上は素直に礼を言って下がってもらいながら、
(こいつの家に上がりこんで潜伏も悪くないな)
最近シてないし。
マンガを読みながらランチを平らげると、とたんに眠くなった。ああもう、一日毎の清算の時間がもうすぐなのに。でもまあいいか、ちょっとだけ……
4.
その頃、ヴァイユー家派遣の観戦武官であるソフィーは、目の前の主君におずおずとながら指摘をせねばならなかった。
「腹を立てるか満たすか、どちらかだけになさったらいかがですか?」
主君――アンヌ・ド・ヴァイユーは、いわば緊急来日したのだ。沙耶の病気見舞いを表の目的に、沙耶が現世を巻き込んでの自殺を図った場合、全力で止めることを真の目的に。
だが日本に到着してみれば、沙耶は回復していた。
『あらアンヌ様、ごきげんよう』なんてにこやかに――やや衰弱してはいたが――言われたのだ。
その肩透かしを食らった怒りを、アンヌは飲食に向けていた。それもこのようなジャンクフードに、全力で。
ここは田所優菜の部屋。ここで呑み会が開かれるとソフィーが口を滑らせた結果、アンヌを特別ゲストとして開催されたという次第である。
居酒屋ではやはりお金がかかるということで、誰かの家で時々開かれているこういった会に、ソフィーも呼ばれている。
「相変わらずいい食べっぷりっすね」
関心しきりにたこ焼きを突く万梨亜に笑いかける。
「ごめんね、突然お邪魔して」
「まあ家主がいいって言うなら。てんてこ舞いっすけど」
テンテコマイ? ソフィーの語彙には無いが、るいが眼で示したキッチンの騒々しさを見て察することができた。
そこでは、優菜が奮闘していた。もちろん、特別ゲストが放つ怒涛のオーダーに応えるためである。
「はい、お好み焼きお待たせー」
「あーい、お待ちどおさまですー」
京子がかけ声もかわいらしく持ってきた。久しぶりに見たが、少し女らしくなった気がする。
そう本人を褒めると、盛大に照れだした。
「えへへ、そうっすか?」
「やっぱ男の目があるって大事だよね」
「うんうん」
どうやら誰かと交際しているらしい。が、そこで混ぜ返すのがるいという人間であるとソフィーは知っている。
「ま、最初は楽しいよね!」
「……嫌なこと言いますね」
京子がむくれてしまったのをなだめていると、インターホンが来客を告げた。
「あ、凌ちゃん、いらっしゃい。入って入って」
(ああ、あの子も呼ばれていたのか)
いつかアンヌに紹介しようと思っていたところだったので、好都合だ。
集中ロックを解除して2分ほどで彼女は部屋まで来たが、両手に大きなビニル袋をぶら下げている。そこから立ち上るのは、スパイシーなチキンの香りだった。
「あれ? 隼人に頼んだはずなのに」
優菜の怪訝そうな顔に答えて曰く、
「隼人先輩は別のお荷物を引きずってたので、わたしが代わりに一足先にお持ちしたんです」
「別のお荷物?」
疑問は、たっぷり5分かかって判明した。
「……なるほど、お荷物だな」
「両手に花 鷹取バージョンだね!」
「隼人先輩、よく階段を上がってこれましたね……」
「重かったよ、ああ」
ようやく姿を現した彼の両腕には、優羽と沙良がしがみついていたのだ。
「重いなんてひどいですぅ」「もう離れないからね!」
「離れてください。トイレに行きたいんで」
一気に騒々しくなった場に構わず、凌を招き寄せる。
「紹介しよう。我が主君、アンヌ・ド・ヴァイユー様だ。こちらは、クカミ・リョウさん。以前報告した――」
「ああ、あの……」
そう答えるアンヌの前にすっと正座すると、凌は丁寧に頭を下げた。
「初めまして。お会いしたかったです」
「ああ、私もだ。武器強化系だったな? 君は」
「はい! ぜひお教えを請いたいと思っておりました。よろしくお願いします」
街の鉄塔の上で出会って以来、何度かすれ違ったが、丁寧で快活なあいさつをしてくれる。こちらの心が洗われるような所作に、思わず姿勢を正してしまう。
その彼女が一族から受けた仕打ちを伝え聞いて憤慨したが、我がヴァイユー家の古色蒼然たるさまを思い起こし、どこも同じだと溜息をついたものである。
その時、端末が鳴った。妖魔が出現したのだ。
女性2人とまだワイワイやっていた隼人が素早く反応した。
「ありゃ、出動か。んじゃ、行ってくる」
るいも続こうとしたが、隼人に止められた。
「お酒入ってる人はいいんじゃない? 敵の数も少なそうだし。終わったらまた来るよ」
相変わらずだな、とふと思う。優しく、独りで背負おうとする。この中で飲酒していないのは、いま来たばかりの彼と……
「あたしも行きます!」「隼人くん一人にはさせないわ!」
……ああ、鷹取女子もいたな。そしてもう一人、凌も立ち上がった。ベランダに通じる窓を開けながら、
「じゃ、先行します」
「いってらっさーい」
るいの能天気な見送りの言葉ににっこり笑って、凌は跳躍していった。
ソフィーの横で、アンヌがいきなり立ち上がる。
「どうなさいましたか?」
「私も行く。あの者の戦いぶりが見たい」
お酒がけっこう進んだ状態だが大丈夫だろうか。ソフィーはお供するべく、主君の後に続いた。
飛翔を始めて3分ほどで、アンヌの愚痴が聞こえてきた。
「空気が湿っているな。飛びにくい」
「はっ。もうすぐ梅雨ですので」
「ツユ? ああ、雨期か」
夜目にもどんより曇っていて、飛んでいて楽しくない。不本意な被発見を避けるために高空を飛びたいが、雲の中を飛んで濡れるのは嫌だ。
やがて、今夜の戦場が見えてきた。金剛が1体と長爪が3体。通常の編成だ。大きく硬い金剛を盾に使って長爪がヒットエンドアウェイを行うのが基本戦術である。
アンヌが手ごろなビルの屋上に着地した。鷹取側が優勢なので、あえて手を出さないことにしたのだろう。ソフィーもそれに倣い、眼下の戦闘を見守る。
そこでは、かのシノビが縦横無尽に躍動していた。影に潜って妖魔勢の背後に回りこみ、長爪に斬り付けて注意を引く。うち1体を誘い出すと、影縫いで動きを封じてすかさず喉を切り裂く。やや遅れた他の長爪の反撃をかわしながら跳躍し、横に立つビルの壁を走って逃げる――
「アンヌ様。いま考えていらっしゃることを当ててみましょうか?」
「ほう、分かるか?」
「はい。『去年、敵にいなくてよかった』ではないかと推察いたしましたが』
正解の印は、主君の苦笑とボヤキだった。
「うむ。なんだあれは……潜入も暗殺も、し放題ではないか」
一応対応策はあるようだと説明しているうち、金剛が末期の咆哮を上げた。多数の月輪で切り裂かれ、最後はエンデュミオール・ブラックの光線で止めを刺されたのだ。
「さ、帰りましょうか……アンヌ様?」
傍らの主君が、左手をソフィーに差し伸べていたのだ。この仕草の意味は一つ。
『我が剣をよこせ』である。
一瞬たじろいだのち渡した長剣を鞘ごと握って、アンヌはビルから飛び降りた。上から見物など無礼千万であるゆえ、ソフィーも続く。
撤収作業をしていた人々を驚かせて着地したアンヌは、まっすぐシノビに向かって歩いていった。鳥人体から戻りながら、慌ててかしこまるシノビに声をかける。
「一手、手合わせを願おう」
「よろしくお願いします。しかし、その……」
「ん? ああ、心配するな。死なぬようにするさ」
言いながら、アンヌが取り出したのは、黒水晶だった。額に当て、祈るような仕草をしたのち、胸元に移す。
「変身」
バルディオール・エペへと変身したアンヌは剣を抜くと、正眼に構えた。