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終章 自由と不自由の未来へ

 朝のけだるさを吹き飛ばすべく、もう何回あくびをしただろう。それがようやく報われた。最悪の形で。

「おはよう。相変わらず豪快なあくびだな」

 笑われた優菜は、赤面したまま隼人をにらみつけた。

「こんな朝早くに何やってんの?」

「ん、今から凌ちゃんたちの見送りに行くんだ」

 ああ、フランクご招待ツアーか。思い出しながら、優菜は思わず辺りと上空を見回してしまった。

「なに?」

「車でしょ? 空港まで」

「空に車が浮いてるのか?」

「違う違う、監視が付いてないのかな、ってつい探しちゃったんだよ」

 空港まで電車で行くらしい。監視は目に見えないレベルでがっちりされてるそうな。

「じゃああたしがあんたをドツくと、どうなるのかな?」

「って言いながら殴るなよ!」

 ふん、と笑う。ちょうど駅へ行くところだったんだ。いい道連れができた。

「引っ越しの準備は進んでる?」

「ああ、っつっても物なんてほとんどないけどな」

 そういえばそうだったな、と彼の部屋を思い出しながら、並んで歩く。早出の会社員や高校生が汗を額に早くも浮かべながら早足で歩いていく。あるいは自転車で駆けていく、そんな道を。

 あたしも、来年の今ごろはああなってるのかな。もうこんなフリフリした服は着てなくて。

 隼人の視線に気が付いて、今思ったことを説明したら、考え込まれてしまった。

「なに? 変?」

「ううん。優菜ちゃん、スーツも似合ってたから。そっちじゃなくてさ」

「あんたはほんとにさらっと言うんだよね。まったく……で?」

「俺は来年の今ごろ、何してるんだろうってな」

 そりゃあお前、とちょっと意地悪を言いたくなった。

「お式が9月でしょ? てんてこ舞いか、早くも秋風か、どっちかでしょ」

「なるほど……「いや否定しろよ」

 思わず男言葉に戻ってしまった。

 彼は就職のことで悩んでいるらしい。

「あれ? 『あおぞら』に就職するんじゃなかったの?」

 隼人にそう指摘すると、やるせなさそうに溜息をつかれた。彼の体に埋め込まれている白水晶を活かすためにはそれが最善なのだが、沙耶が難色を示しているのだと言う。

「ああ、なるほどね」

「お、分かる? さすが優菜ちゃんだな」

「女子がいっぱいだから沙耶さんがキリキリしちゃうって言うんでしょ?」

「そっちじゃねーよ!」

 致命傷を負っても白水晶が生かしてくれるとはいえ、その致命傷を負うこと自体が嫌なのだという。

「で、あんたは結局どうしたいの?」

「……正直、塾講師になりたい。これ以上鷹取家三昧は、ちょっとな……」

「それでいいんじゃない? あたしらもやりやすいし」

 何かを言いかけてはやめるを繰り返していた隼人がついに口を開いたのは、赤信号で立ち止まった時だった。

「なあ」

「なに?」

「なんでいつもと口調が違うんだ?」

「ああ、これ?」

 優菜は自覚する。自分は今、確実に悪い笑顔になってる。

「あんたにスパイシーな生活を送らせてあげる。その一環よ」

「意味分かんねーよ」

 嘆きに対してふふんと笑い、優菜は隼人に屈み込ませて耳元にささやいた。

「この会話を聞いてる誰かさんが黄色い手帳に書き込むのよ。『優菜さんが隼人さんと二人きり 女言葉で親しげに』ってね」

 顔をしかめたのは一瞬だけ。彼も悪い笑顔になった。

「なるほど、じゃあ『隼人さんは優菜さんの肩を優しく抱いている』も付け加えてもらおうかな」

「ふふ、黄色い手帳に歯形が付いちゃうね」

 ついでだ、ちょっぴりだけ身も寄せてみよう。隼人も避けないし。

「誰かさんがそんな下品な真似をするとは思えないけどな」

「どうだか……なんか最近さ、美紀ちゃんの気持ちが分かるようになったんだよね」

「ああ、それでアホ毛が立ってるんだ。なるほどねぇ」

「!! もぉ! 先に言ってよ!」

 優菜と隼人は信号が青に変わるまで、寝癖を直す直さないでじゃれあったのだった。

 そのころ、沙耶は隣野市民病院でくるみの診察結果を待っていた。この結果が良ければ、隼人の引っ越しの日に彼女も退院し、一緒にお引越しにするつもりでいる。

 スマホを眺めているふりをして耳を澄ますと、朝の病院ならではの音に混じって、ささやき交わす声が聞こえてくる。

「あれが噂のお嬢様?」

「そうそう、鷹取財閥の跡取り娘だって」

「うわーお兄さん、うまくやったね」

「やっぱおカネには勝てないんだね」

「あたしも貯めてるアピールすればよかったかな?」

「バカねぇ、桁が違うよきっと」

 ……沙耶はそっと口の端を吊り上げた。

 確かに、隼人の決断にそれが作用したのは間違いないだろう。

 でもそれだけじゃない。あの人は私を愛してくれている。

 あのヒトは、この人外《私》を愛してくれている。

 それだけでいい。それだけで、私はこの世界で生きていける。

 同時に、軽く震えた。

 あの人が失われたら。

 どんなに厳重な警護体制を敷いても、限界がある。そもそもあの人は大げさなことを好まないし。

 でももし、何らかのアクシデントであの人が失われたら。

 もし、ほかの女に心移りしたら。

 しばらく考えて、もう一度口の端を吊り上げた。

 結論は分かりきっているのだから。



 もうすぐ8月。日本では真夏が迫ってきている。そんな暑さから逃れるためというわけでもないが、ソフィーは帰省がてら、凌たちをフランクへ引率していくことになった。といっても、2人足りない。優羽が寝坊したため、瞳魅が連行してくるようだ。

 空港のチェックインカウンターで落ち合い、搭乗時間まで雑談を交わしていると、ふとソフィーの脳裏に今日までの記憶が蘇った。

 アンヌに日本行きを下命された時の興奮と不安。

 エンデュミオール・ルージュに右半身を焼かれた時の激痛。

 ミシェルらによって部屋に幽閉された時のうっ憤と、脱出時の激動。

 永田の過去を伝え聞いた時の絶望。

 祖国に戻ってからの疎外感と、逆に日本に再赴任した時のうろたえるほどの安堵。

 そして、彼との出会い。全てを打ち明けて、それを受け入れてくれた彼の笑顔。

 自分が中途半端な才能の持ち主であることを、かつては思い悩んでいた。だが、今のところは吉と出ている。なぜならば、有能な家臣は本国の守りを固めるために残されたのだから。そうなればニッポンなど、観光旅行の行き先候補に挙がる程度の国であったろうから。

 そう思うと、実に不思議な気分だ。もちろんエンデュミオールとの戦いで生命の危機に瀕したこともあり、アンヌの救援が無ければ、ミシェルの家臣同様に戦死者のリストに加わることになっただろう。

 ソフィーは自嘲気味に首を振った。有能だからといって、生き残れるとは限らない。無能では、働けない。

 では、裏切り者は……?

 凌と陽子が気遣わしげな視線を向けているのに気づき、この旅行のあいだに話をせねばならないと気持ちを固める。私のプライベートが巻き起こす難儀に、彼女たちを巻き込むわけにはいかない。

 その時、凌の視線が素早く動き、トレースした陽子の顔があからさまに嫌そうに悪化した。隼人が見送りにやって来たのだ。独りで来たらしい。

「わざわざのお見送り、ありがとう」

 彼も手向けの言葉を贈ってくれたのだが、続いてどうにも返答に困ることを言い出したのだ。沙耶からの伝言として。

「『私も退屈しのぎにフランクに行こうかしら。伯爵様のお屋敷に泊めていただいて』だそうっすよ」

 何が困るって、鷹取家総領候補者にして婚約したての女性を迎えるとなれば、向こうにもそれなりの準備が必要だろう。それに、沙耶は屋敷に出入り禁止のはず。

 それを率直に――目の前にいないことを幸いに――隼人に述べると、苦笑いされた。

「だから止めましたよ。悪魔ディアーブルの大攻勢の時に行きたい、妖魔と違って骨がありそうだしとか言い出したので」

 それで『退屈しのぎ』なのか。ソフィーも隼人にならって苦笑いで答えた。

「前回は幾人もの犠牲者が出たからな……確かに彼女が来れば楽になるだろうが……」

 聞くところによれば、沙耶は二本角――ディアーブルの指揮官格――に相当する緋角すら一撃で圧殺したようだ。彼女独りで十分にお釣りが来るだろうが……

 隼人はそれでも首を振った。

「フランクの人にも戦士のプライドがあるでしょうから、押しかけ助っ人がバーンとぶちのめしてめでたしめでたし、じゃないですよね?」

「それよりも――」

 と凌が会話に参加してきた。

「勢い余ってフランクの人たちと勝負し始めるんじゃないですか?」

「いやむしろ本命はそっちなんじゃ……」

 と陽子も乾いた笑いを見せている。

「嫌な退屈しのぎだな……」

 誠にプライドを傷つけられることながら、我が国の誰一人として沙耶に勝てるとは到底思えない。敬愛する我が主君ですら、あのモンスターの毛先にすら触れられないだろう。

 それは、実体験に基づいた恐怖だった。

 『ちょっといろいろ試したいから』とお願いされて、模擬戦闘を行ったのだ。

 結果は、完敗と言うもおこがましい惨状だった。触れるとか当てるとかの以前に、視界に捉えられないのだ。そしてようやく現れた瞬間、軽く手を振られただけで体中が悲鳴を上げる轟音とともに10メートルは宙を飛ばされた。バラバラにならなかったのが不思議なくらい、激烈に。

 2本目は鳥人体で挑戦するも、結果は同じ。空中にまで追尾されて……

「ハヤト――」

 フライト情報をちらっと見てから、ソフィーは隼人に問いかけた。

「お前はあの子、いや、妻をどこへ導くつもりなんだ?」

 先日の模擬戦闘のことを知らない凌と陽子が、きょとんとしている。その顔を横目に、隼人は明快に答えた。

「ヒト並みの倫理観を身に付けてもらえるよう、努力しますよ」

「……やっぱり、そうなのか?」

 模擬戦闘の時にあのモンスターが見せた表情は、表面上はいつもの穏やかで、少しつまらなさそうなものだった。だが、対峙したソフィーには感じ取れたのだ。有体に言えば『獣』、いや、『魔王』と形容しても遜色ないほどの猛々しくおぞましい激情と酷薄の内面を。

 これも伝えると女子たちは青ざめたが、男子は深くうなずき、周りを見回して声を潜めた。その顔には、普段から朗らかな彼らしくもない憂愁が現れている。

「他人に危害を加える、ってことに関する歯止めが吹き飛んじゃってるんすよ。そこらへんをなんとかしないと……だから導くっていうより、躾とか調教ですね」

「そうか……」

 沙耶をフランクに招く、もしくは入国を許可するのは当分先になりそうだ。

 ソフィーが溜息をついていると、るいが遅れてきた優羽と瞳魅を見つけて戻ってきた。

「お?! なになに? 2つの祖国に引き裂かれる恋人たち?」

「えええええ隼人先輩ひどいですぅ」

「優羽、もういい加減あきらめろよ」

 凌と陽子は顔を見合わせると、吹き出しながらも隼人をいじるほうに加担した。

「最低を超越しましたね隼人先輩」

「くっ、沙耶さんさえいなければこんな汚物、消毒してやるのに……!」

「なに? 陽子ちゃんはモヒカン志望なの?」

 ああ、確かポストアポカリプス物のマンガだったな。彼の本棚にあった……

 彼のこと。そうだ。私の帰省は、それを解決するためでもあるんだ。その思いをまた新たにしたところで、搭乗を呼びかける係員の声がする。荷物を手にしながら、ソフィーは言った。

「ではハヤト。頼んだぞ」

 少しためらって、

「私たちが生きる、この世界を壊されないために。私が住むかもしれない、この国を護るために」

 驚いた顔を一瞬だけしたあと、うなずいて手を振る隼人に手を振り返して、ソフィーたちはゲートをくぐった。



「さ、帰るか」

 ゲートの向こうにソフィーたちが消えるのを待って、隼人は踵を返した。

「ソフィーさん、一族を抜けるってことだよな……」

 独り言をつぶやいて、隼人は左横に声をかけた。

「メモるな」

「ふふ、ばれましたか」

 雑踏から、琴音が舌をぺろりと出しながら姿を現した。黄色い革の手帳をぶら下げたまま、横に並んで歩き出す。手帳の端に歯形が付いているのをちらりと確認したが、あえて触れずに。

「どうして分かったんです?」

「内緒だ」

 実はメモ書きの音を察知してることは言わないほうがいい気がする。彼女が現れると、いい香りがすることも。

「今日は会議じゃなかったの?」

「それが、緊急指令が下りまして」

「ほう。俺を見張れと」

「どうして分かったんです?」

 沙耶が朝からちょっとピリピリしてたから。そう告げると、ヤレヤレ感満載の顔をされた。

「それもこれも、隼人さんが女の子にちょっかいかけまくるからです」

「俺がいつちょっかいかけた?」

「そこです、そこ」

 ビシッと指までさされても、さっぱり分からない。溜息までつかれてしまった。

「まったく……というわけで、お送りしますね」

「琴音ちゃんと一緒に電車で帰りたいなぁ。往復切符買っちゃったし」

「そこです! そこ!」

「切符代なんてケチるな?」

「違います!」

 二度目の溜息をつきながら電話をかけ始めた琴音の向こうに、離陸していく旅客機が見えた。

 こうやって、なんのかんのと構われる生活が始まっている。でもあの飛行機だって、大空を自由にとべるわけじゃない。大空を自由に飛び回れる鳥の自由は、餓死する自由とセットだ。誰にも束縛されない代わりに、誰にも守ってもらえないのだから。

 俺は、何者になるのか分からない身から、鷹取家の婿になった。自由から不自由へ。いや、不自由から別の不自由へと言うべきだろうか。

 でも、それでいいのかもしれないな。俺は英雄にはなれないし。

 隼人はにっと笑うと、不思議そうな目で見つめる琴音にも笑いかけて促すと、真っ直ぐな通路を歩いていった。



悠刻のエンデュミオール 終幕

 朝のけだるさを吹き飛ばすべく、もう何回あくびをしただろう。それがようやく報われた。最悪の形で。

「おはよう。相変わらず豪快なあくびだな」

 笑われた優菜は、赤面したまま隼人をにらみつけた。

「こんな朝早くに何やってんの?」

「ん、今から凌ちゃんたちの見送りに行くんだ」

 ああ、フランクご招待ツアーか。思い出しながら、優菜は思わず辺りと上空を見回してしまった。

「なに?」

「車でしょ? 空港まで」

「空に車が浮いてるのか?」

「違う違う、監視が付いてないのかな、ってつい探しちゃったんだよ」

 空港まで電車で行くらしい。監視は目に見えないレベルでがっちりされてるそうな。

「じゃああたしがあんたをドツくと、どうなるのかな?」

「って言いながら殴るなよ!」

 ふん、と笑う。ちょうど駅へ行くところだったんだ。いい道連れができた。

「引っ越しの準備は進んでる?」

「ああ、っつっても物なんてほとんどないけどな」

 そういえばそうだったな、と彼の部屋を思い出しながら、並んで歩く。早出の会社員や高校生が汗を額に早くも浮かべながら早足で歩いていく。あるいは自転車で駆けていく、そんな道を。

 あたしも、来年の今ごろはああなってるのかな。もうこんなフリフリした服は着てなくて。

 隼人の視線に気が付いて、今思ったことを説明したら、考え込まれてしまった。

「なに? 変?」

「ううん。優菜ちゃん、スーツも似合ってたから。そっちじゃなくてさ」

「あんたはほんとにさらっと言うんだよね。まったく……で?」

「俺は来年の今ごろ、何してるんだろうってな」

 そりゃあお前、とちょっと意地悪を言いたくなった。

「お式が9月でしょ? てんてこ舞いか、早くも秋風か、どっちかでしょ」

「なるほど……「いや否定しろよ」

 思わず男言葉に戻ってしまった。

 彼は就職のことで悩んでいるらしい。

「あれ? 『あおぞら』に就職するんじゃなかったの?」

 隼人にそう指摘すると、やるせなさそうに溜息をつかれた。彼の体に埋め込まれている白水晶を活かすためにはそれが最善なのだが、沙耶が難色を示しているのだと言う。

「ああ、なるほどね」

「お、分かる? さすが優菜ちゃんだな」

「女子がいっぱいだから沙耶さんがキリキリしちゃうって言うんでしょ?」

「そっちじゃねーよ!」

 致命傷を負っても白水晶が生かしてくれるとはいえ、その致命傷を負うこと自体が嫌なのだという。

「で、あんたは結局どうしたいの?」

「……正直、塾講師になりたい。これ以上鷹取家三昧は、ちょっとな……」

「それでいいんじゃない? あたしらもやりやすいし」

 何かを言いかけてはやめるを繰り返していた隼人がついに口を開いたのは、赤信号で立ち止まった時だった。

「なあ」

「なに?」

「なんでいつもと口調が違うんだ?」

「ああ、これ?」

 優菜は自覚する。自分は今、確実に悪い笑顔になってる。

「あんたにスパイシーな生活を送らせてあげる。その一環よ」

「意味分かんねーよ」

 嘆きに対してふふんと笑い、優菜は隼人に屈み込ませて耳元にささやいた。

「この会話を聞いてる誰かさんが黄色い手帳に書き込むのよ。『優菜さんが隼人さんと二人きり 女言葉で親しげに』ってね」

 顔をしかめたのは一瞬だけ。彼も悪い笑顔になった。

「なるほど、じゃあ『隼人さんは優菜さんの肩を優しく抱いている』も付け加えてもらおうかな」

「ふふ、黄色い手帳に歯形が付いちゃうね」

 ついでだ、ちょっぴりだけ身も寄せてみよう。隼人も避けないし。

「誰かさんがそんな下品な真似をするとは思えないけどな」

「どうだか……なんか最近さ、美紀ちゃんの気持ちが分かるようになったんだよね」

「ああ、それでアホ毛が立ってるんだ。なるほどねぇ」

「!! もぉ! 先に言ってよ!」

 優菜と隼人は信号が青に変わるまで、寝癖を直す直さないでじゃれあったのだった。

 そのころ、沙耶は隣野市民病院でくるみの診察結果を待っていた。この結果が良ければ、隼人の引っ越しの日に彼女も退院し、一緒にお引越しにするつもりでいる。

 スマホを眺めているふりをして耳を澄ますと、朝の病院ならではの音に混じって、ささやき交わす声が聞こえてくる。

「あれが噂のお嬢様?」

「そうそう、鷹取財閥の跡取り娘だって」

「うわーお兄さん、うまくやったね」

「やっぱおカネには勝てないんだね」

「あたしも貯めてるアピールすればよかったかな?」

「バカねぇ、桁が違うよきっと」

 ……沙耶はそっと口の端を吊り上げた。

 確かに、隼人の決断にそれが作用したのは間違いないだろう。

 でもそれだけじゃない。あの人は私を愛してくれている。

 あのヒトは、この人外《私》を愛してくれている。

 それだけでいい。それだけで、私はこの世界で生きていける。

 同時に、軽く震えた。

 あの人が失われたら。

 どんなに厳重な警護体制を敷いても、限界がある。そもそもあの人は大げさなことを好まないし。

 でももし、何らかのアクシデントであの人が失われたら。

 もし、ほかの女に心移りしたら。

 しばらく考えて、もう一度口の端を吊り上げた。

 結論は分かりきっているのだから。



 もうすぐ8月。日本では真夏が迫ってきている。そんな暑さから逃れるためというわけでもないが、ソフィーは帰省がてら、凌たちをフランクへ引率していくことになった。といっても、2人足りない。優羽が寝坊したため、瞳魅が連行してくるようだ。

 空港のチェックインカウンターで落ち合い、搭乗時間まで雑談を交わしていると、ふとソフィーの脳裏に今日までの記憶が蘇った。

 アンヌに日本行きを下命された時の興奮と不安。

 エンデュミオール・ルージュに右半身を焼かれた時の激痛。

 ミシェルらによって部屋に幽閉された時のうっ憤と、脱出時の激動。

 永田の過去を伝え聞いた時の絶望。

 祖国に戻ってからの疎外感と、逆に日本に再赴任した時のうろたえるほどの安堵。

 そして、彼との出会い。全てを打ち明けて、それを受け入れてくれた彼の笑顔。

 自分が中途半端な才能の持ち主であることを、かつては思い悩んでいた。だが、今のところは吉と出ている。なぜならば、有能な家臣は本国の守りを固めるために残されたのだから。そうなればニッポンなど、観光旅行の行き先候補に挙がる程度の国であったろうから。

 そう思うと、実に不思議な気分だ。もちろんエンデュミオールとの戦いで生命の危機に瀕したこともあり、アンヌの救援が無ければ、ミシェルの家臣同様に戦死者のリストに加わることになっただろう。

 ソフィーは自嘲気味に首を振った。有能だからといって、生き残れるとは限らない。無能では、働けない。

 では、裏切り者は……?

 凌と陽子が気遣わしげな視線を向けているのに気づき、この旅行のあいだに話をせねばならないと気持ちを固める。私のプライベートが巻き起こす難儀に、彼女たちを巻き込むわけにはいかない。

 その時、凌の視線が素早く動き、トレースした陽子の顔があからさまに嫌そうに悪化した。隼人が見送りにやって来たのだ。独りで来たらしい。

「わざわざのお見送り、ありがとう」

 彼も手向けの言葉を贈ってくれたのだが、続いてどうにも返答に困ることを言い出したのだ。沙耶からの伝言として。

「『私も退屈しのぎにフランクに行こうかしら。伯爵様のお屋敷に泊めていただいて』だそうっすよ」

 何が困るって、鷹取家総領候補者にして婚約したての女性を迎えるとなれば、向こうにもそれなりの準備が必要だろう。それに、沙耶は屋敷に出入り禁止のはず。

 それを率直に――目の前にいないことを幸いに――隼人に述べると、苦笑いされた。

「だから止めましたよ。悪魔ディアーブルの大攻勢の時に行きたい、妖魔と違って骨がありそうだしとか言い出したので」

 それで『退屈しのぎ』なのか。ソフィーも隼人にならって苦笑いで答えた。

「前回は幾人もの犠牲者が出たからな……確かに彼女が来れば楽になるだろうが……」

 聞くところによれば、沙耶は二本角――ディアーブルの指揮官格――に相当する緋角すら一撃で圧殺したようだ。彼女独りで十分にお釣りが来るだろうが……

 隼人はそれでも首を振った。

「フランクの人にも戦士のプライドがあるでしょうから、押しかけ助っ人がバーンとぶちのめしてめでたしめでたし、じゃないですよね?」

「それよりも――」

 と凌が会話に参加してきた。

「勢い余ってフランクの人たちと勝負し始めるんじゃないですか?」

「いやむしろ本命はそっちなんじゃ……」

 と陽子も乾いた笑いを見せている。

「嫌な退屈しのぎだな……」

 誠にプライドを傷つけられることながら、我が国の誰一人として沙耶に勝てるとは到底思えない。敬愛する我が主君ですら、あのモンスターの毛先にすら触れられないだろう。

 それは、実体験に基づいた恐怖だった。

 『ちょっといろいろ試したいから』とお願いされて、模擬戦闘を行ったのだ。

 結果は、完敗と言うもおこがましい惨状だった。触れるとか当てるとかの以前に、視界に捉えられないのだ。そしてようやく現れた瞬間、軽く手を振られただけで体中が悲鳴を上げる轟音とともに10メートルは宙を飛ばされた。バラバラにならなかったのが不思議なくらい、激烈に。

 2本目は鳥人体で挑戦するも、結果は同じ。空中にまで追尾されて……

「ハヤト――」

 フライト情報をちらっと見てから、ソフィーは隼人に問いかけた。

「お前はあの子、いや、妻をどこへ導くつもりなんだ?」

 先日の模擬戦闘のことを知らない凌と陽子が、きょとんとしている。その顔を横目に、隼人は明快に答えた。

「ヒト並みの倫理観を身に付けてもらえるよう、努力しますよ」

「……やっぱり、そうなのか?」

 模擬戦闘の時にあのモンスターが見せた表情は、表面上はいつもの穏やかで、少しつまらなさそうなものだった。だが、対峙したソフィーには感じ取れたのだ。有体に言えば『獣』、いや、『魔王』と形容しても遜色ないほどの猛々しくおぞましい激情と酷薄の内面を。

 これも伝えると女子たちは青ざめたが、男子は深くうなずき、周りを見回して声を潜めた。その顔には、普段から朗らかな彼らしくもない憂愁が現れている。

「他人に危害を加える、ってことに関する歯止めが吹き飛んじゃってるんすよ。そこらへんをなんとかしないと……だから導くっていうより、躾とか調教ですね」

「そうか……」

 沙耶をフランクに招く、もしくは入国を許可するのは当分先になりそうだ。

 ソフィーが溜息をついていると、るいが遅れてきた優羽と瞳魅を見つけて戻ってきた。

「お?! なになに? 2つの祖国に引き裂かれる恋人たち?」

「えええええ隼人先輩ひどいですぅ」

「優羽、それ持ちネタにするの?」

 凌と陽子は顔を見合わせると、吹き出しながらも隼人をいじるほうに加担した。

「最低を超越しましたね隼人先輩」

「くっ、沙耶さんさえいなければこんな汚物、消毒してやるのに……!」

「なに? 陽子ちゃんはモヒカン志望なの?」

 ああ、確かポストアポカリプス物のマンガだったな。彼の本棚にあった……

 彼のこと。そうだ。私の帰省は、それを解決するためでもあるんだ。その思いをまた新たにしたところで、搭乗を呼びかける係員の声がする。荷物を手にしながら、ソフィーは言った。

「ではハヤト。頼んだぞ」

 少しためらって、

「私たちが生きる、この世界を壊されないために。私が住むかもしれない、この国を護るために」

 驚いた顔を一瞬だけしたあと、うなずいて手を振る隼人に手を振り返して、ソフィーたちはゲートをくぐった。



「さ、帰るか」

 ゲートの向こうにソフィーたちが消えるのを待って、隼人は踵を返した。

「ソフィーさん、一族を抜けるってことだよな……」

 独り言をつぶやいて、隼人は左横に声をかけた。

「メモるな」

「ふふ、ばれましたか」

 雑踏から、琴音が舌をぺろりと出しながら姿を現した。黄色い革の手帳をぶら下げたまま、横に並んで歩き出す。手帳の端に歯形が付いているのをちらりと確認したが、あえて触れずに。

「どうして分かったんです?」

「内緒だ」

 実はメモ書きの音を察知してることは言わないほうがいい気がする。彼女が現れると、いい香りがすることも。

「今日は会議じゃなかったの?」

「それが、緊急指令が下りまして」

「ほう。俺を見張れと」

「どうして分かったんです?」

 沙耶が朝からちょっとピリピリしてたから。そう告げると、ヤレヤレ感満載の顔をされた。

「それもこれも、隼人さんが女の子にちょっかいかけまくるからです」

「俺がいつちょっかいかけた?」

「そこです、そこ」

 ビシッと指までさされても、さっぱり分からない。溜息までつかれてしまった。

「まったく……というわけで、お送りしますね」

「琴音ちゃんと一緒に電車で帰りたいなぁ。往復切符買っちゃったし」

「そこです! そこ!」

「切符代なんてケチるな?」

「違います!」

 二度目の溜息をつきながら電話をかけ始めた琴音の向こうに、離陸していく旅客機が見えた。

 こうやって、なんのかんのと構われる生活が始まっている。でもあの飛行機だって、大空を自由にとべるわけじゃない。大空を自由に飛び回れる鳥の自由は、餓死する自由とセットだ。誰にも束縛されない代わりに、誰にも守ってもらえないのだから。

 俺は、何者になるのか分からない身から、鷹取家の婿になった。自由から不自由へ。いや、不自由から別の不自由へと言うべきだろうか。

 でも、それでいいのかもしれないな。俺は英雄にはなれないし。

 隼人はにっと笑うと、不思議そうな目で見つめる琴音にも笑いかけて促すと、真っ直ぐな通路を歩いていった。



悠刻のエンデュミオール 終幕


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。感想などいただければ幸いです。最終巻だし。よろしくお願いします。

 結末はあのようになりました。これをもって『悠刻のエンデュミオール』は終幕となります。ですが、物語が終わるわけではありません。ご存じのとおり『Final Resolution!!』が続編として既に公開されていますし、『Final Resolution 1.X!!』でIntermission的なことをしつつ、1.8と1.9で今後への道筋が付けられることでしょう。

 ……なんか退任あいさつみたいですが、Show must go on です。今しばらくお付き合いください。

 ではまた、いずれ。

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