第13章 祝い 貸切 島崎理佐
1.
翌朝。隼人はもう何度目かも分からない生あくびをしながら、タカソフに出社した。
帰りのトラックの中ではウトウトしかできなかった。横で沙耶がずっとすすり泣きしてたし。
部屋に戻ったのが午前3時過ぎ。シャワーを浴びて布団に倒れ込んだまま、ギリギリまで寝て朝飯抜きでここに至るというわけだ。
ああ、眠い。何もかもが遠いぜ。
このままでは、大事な文書に傷をつけてしまいかねない。どうしよう――
心配は無用だった。隼人に向かって、大量のクラッカーが鳴らされたのだ!
目一杯見開いた眼に飛び込んできたのは、A3の紙を繋げた、いかにも即席らしい横断幕だった。
『社長 神谷君 婚約おめでとう!!』
……さ、帰って寝るか。
「帰るな!」
Tシャツの背中を思い切り引っ張られた。
「おめでとう。社長をよろしくね」
弓子のお祝いの言葉をきっかけに、社員たちはてんでにしゃべり始めた。製品が一つマスターアップしたと聞いている。みんなの晴れ晴れとした顔はそれも一因なのだろう。
「いやあ、キミちゃんの予想どおりだったな」
「でしょでしょ! でもまさか2カ月あまりで婚約とは読めなかったなあ」
そんな予想を立てられていたとは。恐る恐る訊いてみると、
「だって、あの社長が男の子をバイトに連れてくるなんて、絶対怪しいもん」
「だよね」とほかの女性社員も口を揃える。
「しかもお昼まで一緒に食べて」
「しかも社内でデートの約束までして」
うわああああああああ! あれ、聞かれてたのかよ!
聞くつもりはなかったが、社長が部屋から思いつめた顔で下の階へすっ飛んで行ったから、みんなの注意を引いてしまったらしい。
いたたまれない赤面の隼人は、しかし主賓ゆえ逃げられない。開き直って頭を下げた。
「すみません、ドタバタしちゃって」
「いやいや、よかったよ」
「?」
社員が口々に曰く、社内が明るくなったそうな。
「社長がめちゃ幸せオーラを発してるからさ、なんかこっちもウキウキしてくるよね」
「そうそう、仕事がはかどるな。なんかしらんけど」
「やっぱ女の子はカレシがいてナンボだよな」
「人事部! コマさんのセクハラ発言を告発します!」
「じゃ駒沢君、ちょっと出るところへ出ようか」
「やめろぉぉぉぉぉぉ!」
そこへ、社長秘書の理恵がずいと進み出た。セクハラ発言に物申すのかと思いきや、
「というわけで、神谷君は来月末で退職です」
「あ、ですよね」
いくらワンマン経営とはいえ、そこはけじめをつけるということなのだろう。
それを潮時と、とりあえずのお祝い会はお開きとなった。後日仕事の進捗状況を見て、お祝い会を開いてくれるらしい。
すっかり眼が覚めて、さあ今日も文書をスキャンするぜと気合いを入れたところで……あれ?
3階の仕事場に、弓子だけじゃなく理恵までついてきたのだ。
きっちり後ろ手にドアを閉めて、理恵は少し寂しげな表情で微笑んだ。
「沙耶ちゃんをよろしくね。あの子も苦労してるから」
社員の前では言い辛かったのだろうと推察して素直に頭を下げたが、弓子が不審げな声を上げたのには驚いた。
「隼人君が沙耶ちゃんとくっ付くの、反対してたのに?」
「あ、そうなんすか?」
理恵は渋い顔をした。
「今ここで言わなくてもいいじゃない」
「だって、どうせばれるじゃん? 隼人君が鷹取家に入ったら」
ああそうか、婿養子になるんだっけ。神谷の苗字は義父のものであり、隼人には特にこだわりも未練も無いから問題はないが。
理恵は溜息をつくと切り出した。
「そう……神谷君には悪いけど、正直、沙耶ちゃんには、いえ、鷹取家には不釣合いだと思ってたわ」
ですよね。我ながらその点に異論はない。
ここで、理恵の声色が変わった。
「でもねぇ……」
「はあ」
「もう、ずぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ――」
身体をくの字に折り曲げてまで、『ぅ』を続けた理恵は、
「――ぅぅぅっとあなたの話をしてくるのよ社長ったら! たまに静かになったと思ったら、あなたにメール打っていたり、献立を考えていたりするし」
んー、目に浮かぶなあ。
理恵はまた寂しげな表情になって、
「付き合うのを止めろなんて、言えなかったわよ。私も……鷹取だし……」
理恵は厳しい表情で、隼人と正対した。
「私の父も含めて、鷹取家には、あなたがただの馬の骨だってことで、快く思っていない人たちが少なからずいるわ。心に留めておいて」
「分かりました。ありがとうございます」
やっと微笑んでくれて、理恵は副社長を補佐すべく上階に上がって行った。
「大変だねぇ。やだやだ」
「弓子さんにはないんすか? 玉の輿願望とか」
ヤレヤレ感満載のジェスチャーをする弓子に訊いてみたら、違う違うと手を振られた。
「鷹取家にいるこだわりさんだよ。中途半端なプライド抱えてさ」
そういえば、チョビヒゲの人が婿養子の一部と結託してどうちゃらってのがあったな。あれ、どうなったんだろう。
「あ、そういえば、なんで知ってるんです? 婚約したって」
「琴音ちゃんから朝一で電話かかってきたよ」
ものすごく興奮した口調で一方的にしゃべって切れたらしい。
「知り合いにかけまくってるみたいだから、午前中には知れ渡るんじゃないかな」
「さすがおしゃべり娘……」
もう一つ、さっき思い出したことがある。
「メアドを教えてもらった時――」
「ああ、有料だったね」
弓子はすっと身体を寄せてきた。必然的に目が釘付けになる胸の谷間を隠すこともなく。
「夕方、時間ある?」
「駐車場警備のバイトですが」
「替わって。誰かと」
「婚約する前にお支払いしたかったっすよ」
本当に残念だ。
だよね、と笑ってシトラスの良い香りが離れた。
「ま、これから払い続けてもらうから」
「ここの給料で?」
また違う違うされて、弓子は深刻そうな顔になった。
「生きて。沙耶ちゃんからこの世界を守るために。あたしが楽しんでるこの世界を生かし続けるために」
「沙耶が? まさかそれはないでしょう?」
隼人の反駁に、弓子は窓の外を眺めてつぶやくことで答えた。
「どうだかね……」
夜9時を少し回って、隼人は部屋に帰りついた。
(沙耶から連絡無かったな……)
彼女は精密検査を受けると聞かされていた。ヒトからオニになり、またヒトに戻ったのだ。身体になんらかの変調が起きているかもしれない。それを調べるためである。
その結果報告がまだ来ないだけではない。沙耶からも、いや、誰からもその件についての連絡が無いのだ。
窓を開けて外気を取り込むいつもの作業をしていたら、電話が鳴った。沙耶からだ。
ぐっと気合いを入れる。なにがあっても驚かない。嘆かない。そう心に決めて。
「もしもし」
『あ! 隼人様! お仕事お疲れ様でした!』
……はやと、さま?
「あの……沙耶?」
『はい?』
「なに? 『さま』って。丁寧語になってるし」
受けた沙耶は、当然であるかのようにしゃべりだした。ちょっとはにかむ雰囲気も混ざって。
『え、ほら、私たち、婚約しましたでしょ? しきたりで、そういうことになってるんです』
ほんとかよ……まあいいや。
精密検査の結果を確認したら、一転沈黙してしまった。言葉も途切れ途切れにしか出てこなくなってしまったのだ。
『その……あの……』
「うん」
『ツノが……生えたままなんです……』
……つまり、ヒトに戻れたわけじゃないってことだな。この消え入りそうな声からすると。
隼人はバイト中に思いついたことを聞いてみることにした。
「そっかそっか。でさ」
『は、はい……』
「お母さんとかご家族の人に挨拶に行きたいんだけど、いつが空いてるかな?」
また沈黙。待っていると、また消え入りそうな声が聞こえてきた。
『あの……えと………』
「うん」
『私…………ヒトじゃないんですよ?』
「でもキミ、沙耶でしょ?」
三たびの沈黙はすぐに嗚咽に変わった。
『ありがとうございます……いつまでもお側にいさせてくださいね』
「あ、うん、こちらこそ、よろしく」
弓子が言った『お支払い』のためにも。
『あ! ご挨拶の日取りですね? いま訊いて参りますので、しばらくお待ちください!』
「じゃあ風呂に入るから、30分後くらいで――」
『ああ! そうでした! 申しわけありません!』
そこからひたすら謝られて、電話は切れた。
「怖いな、丁寧って……」
やめさせる方法はないだろうか。
2.
翌朝。隼人は混み合う歩道を走っていた。
昨晩の電話で、なごみとくるみにも婚約の報告をしにいくことになったのだ。
余裕を持って隣野駅に到着したのに、バスが交通事故に巻き込まれて駅に来られなくなってしまった。もちろん駅周辺は大渋滞で、鷹取家の迎えも入れない。で、走っているというわけだ。
息がだいぶ乱れたところで市民病院に到着。これまた混み合うロビーを見回すと、ああ沙耶とお母さんがいた――
「はやとさまー! おはよーございまーす!」
うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
ロビーにいる全員から一瞬で注目を浴びて、もう帰りたい! でも帰れない……
「あの、沙耶、こういうところでその呼び方は――」
「あら、すぐに慣れますよ」
「ほんとかよ……」
赤面を押し隠した隼人の手を、沙耶の母がしっかりと握った。
「隼人さん、ありがとう。娘を救ってくれて」
「いえ、最後は沙耶が自分で戻ってきたんですから」
「そこの前よ、前」
母はじろりと娘をにらんだ。
「いくらなんでも早まりすぎよ! しかも隼人さんの呼びかけまで断って! 私はそんな子に育てた覚えはないわ!」
「も、もう! そんな済んだことはいいんです!」
膨れた沙耶は隼人の手を取った。
「さ、病室に行きましょう。隼人様は10時からゼミですから、お忙しいんです」
「ああ、そうだったわね」
繋がれた手に微苦笑しながら、でも嬉しそうにうなずくと、母は2人の後をついてきた。
「ええええ?! 婚約?!」
「そうなの」
沙耶は満面の笑みで報告すると、隼人を見上げた。
病室には、なごみもいた。沙耶が手回しよく呼んでおいたのだ。その顔には既に察しているような雰囲気が見て取れた。
ゆえに大声を上げたのはくるみだったのだが、大きく息を吐くと、ベッドにもたれかかることもせず、はっきりと言った。彼女も半ばあきらめていたのだろうか。
「おめでとう、お兄ちゃん、沙耶さん。お幸せにね」
「うん、ありがと。それでな、報告があるんだ」
隼人はゆっくりと話を始めた。
それは、隼人が鷹取家の婿になること、そして、2週間後に鷹取屋敷に引っ越して沙耶と同居を始めることだった。
「そうなんだ……どこなの? そのおうち」
隣野市からは遠くなると説明すると、くるみは寂しげな表情になった。うなだれて、状況を必死に飲み込もうとしているように見える。
その時、なごみが動いた。突然立ち上がって、こう言ったのだ。
「お兄ちゃん、沙耶さん、お母さん。お願いがあります。くるみを、そちらに住まわせていただくわけにはいきませんか?」
もうすぐ退院予定のくるみを、またあの環境に戻すのはよくない。だから、兄と一緒に住ませてやってくれないか。そう言うのだ。
「お姉ちゃん……なんで……」
「くるみ――」
むずかる赤子をなだめるように、姉は妹の手をそっと包んだ。
「大丈夫よ。お兄ちゃんがいるから。同じ部屋ってわけにはいかないけど。あなたはあの家を出たほうがいい。そのほうが病気のためにもいいし、きっと道が開ける。そう思うの」
「じゃあ、お姉ちゃんも一緒に……」
なおもすがる妹に、姉は首を振った。
「わたしはお父さんの世話があるから。あの人、パンツ1枚洗えないじゃない」
ほんとにな。隼人ですら洗濯くらいできるのに。
黙って推移を眺めていた沙耶の母が、姉妹の会話が途切れたのを見計らって声を発した。穏やかな、自信に満ちた表情で。
「喜んでお迎えするわ。私の娘になるんですもの。不自由はさせないわ」
その顔は、なごみにも向いた。
「なごみさんも含めて、うちの門はいつでも開いてるから」
くるみは唇を噛んで悩み、やがて目を閉じて、そして受諾のあいさつをした。
「よろしくお願いします。できれば、兄と部屋が近いほうがいいんですけど」
2週間の内に部屋をどこにするかを考えるということで、その話は終わった。
「それにしても――」
くるみがなにやら怪しみ始めた。
「2ヶ月で婚約って、沙耶さん、大丈夫ですか? お兄ちゃん、こんな人ですよ?」
「なんだよこんなって」
くるみとにらみ合う前に、沙耶が語り出した。自分の両手のひらを見つめながら。
「こんな私をもらってくださるんだもの。感謝してもしきれないくらいよ、隼人様には」
ああああああまたそれ……とチラ見したら、やっぱり。
「はやとさま?」
「お兄ちゃん、ちょっと図に乗りすぎじゃないの?」
「俺じゃない! しきたりだって言うから……」
隼人は逃げた。もう学校に行くことにしたのだ。
「あ、じゃあお送りします」
という沙耶を押し留める。
「2人に、鷹取のことを教えてあげてほしいんだ。引っ越してきてからじゃ大変だと思うし」
「あらそうね、じゃあ私が送っていくわ」
沙耶の母が笑って立ち上がる。バスで帰るからと言っても聞かない。
「母親なんだもの。そのくらいさせてちょうだい。ね?」
結局、車で大学まで送ってもらうことになった。
「じゃあ、散歩でもしながらお話ししましょうか」と姉妹に語りかける沙耶を置いて。
3.
3日ぶりのゼミは、入室したとたん全員の視線がこちらに向く痛い現場であった。
その中から、杉木が抜け出てきた。顔には不審さと半笑いが張り付いている。
「隼人、ちと良からぬ噂を聞いたんだが」
「ほう」
「婚約したって、嘘だろ?」
ミキマキだな情報源は。にやついている双子の顔をちらとにらむと、杉木の間抜け面を正面から見すえた。
「事実だぞ。つか、もう一緒に住むし」
巻き起こる野太い歓声と黄色い悲鳴をバックに、杉木は錯乱し始めた。
「う、ウソだろ隼人。お前、なんでそんな裏切りを」
「裏切ってねぇし。お前と約束なんかしてねぇだろ」
「「さすが鷹取家。もうぎっちりがっちり取り込む算段やね」」
どうやら誰と婚約したかはわざと伏せてあったらしく、『鷹取家』というキーワードにまた盛大な反応が起こった。
「ええ?! じゃあ財閥も隼人君の物?」
「んなわけあるかよ。財閥はお兄さんが継いでるから。本家の跡取り娘だよ」
そして、錯乱が最高潮に高まったらしい。杉木が絶叫し出した。
「くぅぉぉぉぉぉぉぉなんでそんな出会いがお前ばっかりにあるんだよぉぉぉぉぉ俺にも分けてくれよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「知るかよそんなこと」
とパンチを打ち込んで沈黙させたが、ゼミ仲間たちの感想も同じだったようで――
「でな、お祝いするから、出席してくれってさ」
夜、ご飯を作りに来た沙耶は、調理もそこそこに甘えてきた。彼女を胸に抱いて四方山話に興じているうちに、ふと思い出したのだ。
「ふふ、いいですよ。私も隼人様のご学友がどんな方々か会ってみたいし」
「ご学友、っていうほど格調高くないけどな、みんな」
ていうか、と続ける。
「本音は沙耶を取っ掛かりにコンパがしたいみたいだぞ?」
「あらあら、それは嬉しいですわ。ちょっと年上とか遠距離でもよければ」
「まあそこは妥協するんじゃね?」
そう笑うと、胸元から見つめられた。
「隼人様は、妥協されたんですか?」
首を振って微笑む。そんなわけないじゃん。
「沙耶のことが好きだから、プロポーズしたんだぜ?」
抱き締める腕に力をこめると、嬉しげに甘い声を上げ始めた。体型もふかふか具合も、以前の彼女をまったく変わらない。
(これ擬態なんだよな、一応)
胸に頬を摺り寄せてくる、かわいい彼女、もとい婚約者。よしよし、俺も頬ずりを追加……痛い。
「ツノ……」
そう、沙耶の前頭部にツノが生えているのを忘れていたのだ。彼女の髪で隠れる位置と大きさだから、
「ぱっと見、分かんないな」
「ええ、でも、ちょっと髪型を変えようかなって思ってまして。風が吹くとチラチラ見えるものですから」
断って、少し髪を掻き分けてみる。なんというか、形といいサイズといい、
「ツボを刺激するやつみたいだなこれ」
「ちょ! ちょっと! は、隼人様?! くすぐったいです! ひあ?! だめ、ダメです!」
新鮮な反応が面白くていじり倒しているうちに、盛り上がってきた2人であった。
そのころ、『居酒屋 むかい』では、昨今ご法度の大ジョッキ生ビール一気飲みを敢行する50代女性の姿が見られた。
ぐっ、ぐっ、ぐっと喉を鳴らしてビールを飲み干し、空ジョッキを置きがてら、ふうっと息を吐く。
同席している女性2人の拍手に応え、しかし女性――鷹取家総領の美弥はしみじみとつぶやいた。
「やっと、娘が売れた……」
「おめでとさん」
と受けた店主・向井葉子の悪戯っぽい目が、横に座る海原雪乃に向けられる。
「次はユキちゃん家の番だな」
「あ、あははは、いやあまったく脈というか音沙汰が無くって……」
そう韜晦するが、琴音はともかく、姉はおしとやかな性格に情熱的な面も秘めていることを美弥たちは知っている。
「満瑠ちゃんはイケるんじゃないの?」
「そうよ、男性と親しげにしてる写真、出回ってたじゃない?」
葉子の娘・木之葉が持ってきたお代わりに口を付けて、
「次のイベントは同居。楽しみだわ」
「それはあれか? 久しぶりの若いオトコっていう」
「バカ言ってんじゃないわよ、あなたじゃあるまいし。娘が2人増えることよ」
そう、くるみだけでなくなごみも同居することになったのだ。
あのあと沙耶たちと合流して隼人の実家に行き、父親に挨拶をしたら――
『奥様、お願いがございます』
しばらく腕組みをして唸っていた父親が、いきなり畳に手を突いて頭を下げたのだ。
『なごみもくるみと一緒に住ませてやってもらえないでしょうか?』
『お父さん! 何言ってるのよ!』
驚くなごみの肩を掴んで、父親は声に力を籠めた。
『俺のことは気にするな。お前はここにいちゃいけねぇ。こんなチャンスは二度とねぇよ』
再び総領たちに向き直り、頭を畳にこすりつけ、声を絞る。
『お願いします。なごみも引き上げてやってください』
総領と沙耶もなごみを歓迎し、話がまとまったのであった――
というのに、悪友は引き下がらない。
「そんなこと言って、あんまり押し付けると嫌がられるぜ? お姑さんなんだからよ」
もちろん、応戦する美弥である。
「あらあら、経験者は語るかしら?」
アワアワし始めた雪乃を無視して目を細める。
「あんまり帰ってこないんでしょ? 蒼也さん。お仕事が忙しいとか言って」
「おかげで助かってますよー」
と、厨房から蒼也の妻である木之葉の声が聞こえた。
「財布はこっちが握ってますから。亭主元気で留守がいい、ってもんですよ」
嘘だ、と心の中でつぶやく。沙耶が泣き言を聞いているのだから。葉子も苦虫を噛み潰したような顔でにらんでいる。
無理やり話題を転換しようと雪乃が空咳をした時、表で声がした。
「ありゃ、本日貸切だってよ」
「「残念やな。せっかく調べてきたのに」」
この声! 美弥は素早く行動した。
「いらっしゃい!」
「え?! 総領様?」
「さ、入って入って!」
戸を勢いよく引き開ければ、予想に違わず、西東京支部のフロントスタッフたちだった。
「いいんですか? 貸切なんじゃ……」
わけを告げるのに、少しだけ躊躇する。噂だけは聞いている美貌の――そして狂乱の――モトカノもいるのだ。
「沙耶の婚約祝いを内輪でしてたのよ。ちょうど話も途切れたところだったから」
そう告げたら、ある意味想定内のリアクションを理佐は見せてくれた。お祝いを口々に述べる仲間に和せず、黙って頭を下げることもしない。いっそ清々しいと笑えてきた。
そのあいだに、木之葉も動いていた。奥の居住スペースに向かって大声を張り上げていたのだ。
「スズちゃ~ん! お客さんだよ~!」
呼ばれて出てきたのは、
「わ! いらっしゃい!」
「え?! 鈴香ちゃん?」
スウェットの上下を着た完全くつろぎモードのまま、サンダルを引っ掛けていそいそとやってきた鈴香は、そのまま一座に混ざりこんだ。
「鈴香先輩の実家だったんですね……」
「そうなの~……あの、なにか?」
テーブルに流れる微妙な空気を、木之葉が敏感に察知した。さすが若女将、分かってらっしゃる。
「スズちゃんは別会計だから、大丈夫だよー」
あざーすと泣き真似が交錯する光景に、総領たちは心から笑った。
彼女たちは先日の戦闘のご苦労さん会だそうだ。『美味しい唐揚げが食べたい』とるいがリクエストして、検索と吟味の結果ここになったとのこと。
「雪乃さんもご無沙汰してます」
「お久しぶり。斎藤さんの披露宴以来ね」
海原商事の常務だな。確か息子がこのあいだ結婚したはず。そんな記憶を手繰っているあいだに、雪野の話題は美弥たち3人の馴れ初めに移っていた。
「私たち、高校が同じだったんですよ。私が1年後輩で」
「へぇ、そうなんですか。いいっすね、いまだに仲が良いって」
そうそう、と雪乃の目が三日月形に歪む。
「でも大変だったわ。弘毅さんっていうカッコイイ人が先輩でいてね、2人で取りあ――」
雪野の回想は、文字どおりの眼前にかざされた柳刃包丁で中断した。葉子の低くうなる声が、静かになった居酒屋に響く。
「雪乃。その思い出はそのまま墓に持ってけ。な?」
コクコクとうなずきかけた雪乃の首に、総領は腕を絡みつかせた。
「そのおしゃべりが娘に遺伝したっていい加減 気 付 け よぉぉぉぉぉ!」
「ちょ! ミヤチャン苦し、チョークスリーパーはダメ……」
そのドタバタを眺めながら、木之葉はお通しを手際よく整えていた。鈴香に手伝わせることにして、こちらに呼ぶ。
ついでに、そっと耳打ち。
「例のモトカノってぇのはどれ?」
「へ? ああ、あの中で一番背が高くて美人の人ですよ」
鈴香が一瞬震えたような気がしたが、まあいい。2人でお通しを並べる時、とくと観察した。
一緒に空のお盆を抱えてきた鈴香に、これはぜひとも尋ねざるを得ない。
「なんで?」
「なにがですか?」
「カネ以外ボロ負けじゃね? 沙耶」
「殴られますよ沙耶さんに」
翌日午後も4時を過ぎて、ゼミの仲間たちとダベっていた隼人の側に、人が立った。振り返る必要も無く、来たかと腹をくくる。
島崎理佐だった。




