第12章 宿縁の鬼還
1.
「結界消失!」
参謀部は沸いた。浮かれていないのはと見回すと、副参謀長と主任参謀の2人のみ。なるほど、冷静さが第一だなと肝に銘じたソフィーである。
「敵の引っ掛けかもしれません」
「そうだな」
副参謀長はうなずいて現場の指揮官を呼び出すと、落ち着いた声で告げた。
「警戒しつつ前進してください。庭師は、もしもの時は救助の心構えで」
『了解』
勇む声をスピーカーから聞きながら、ソフィーは一息つこうとして、気付いてしまった。
まだ米軍機に撤収する指示を出していないのだ。
主任参謀はもちろん、副参謀長も。
そのことを尋ねるためには、勇気が必要だった。
静まる参謀集団の中から振り返った2人は、アッサリと答えた。
「まだオプションを手放す時期じゃないからだよ」
「敵の首、見てないわ」
なるほどと言いつつ、ソフィーは沈思する。
あの洞窟の中で、何が起こっているのだろうかと。
その出入り口から何も飛び出してこない。敵は狭い開口部を利用した徹底抗戦の構え。沙耶たちに外部からの援軍が到達するのは当分先だろう。
零時まで、まだ3時間弱ある。
ここからどう詰めるか。観戦し甲斐があるといいな。
そして、みな無事でありますように。
ソフィーは胸の前で十字をそっと切って、彼女の神に祈った。
2.
投降しなさいという沙耶の呼びかけは、失笑を買っただけだった。
「神たるこの私が、なぜ降らねばならないのかね?」
傲然と肩をそびやかし、言い放つ栗本。その自信の根拠は、いまだノーダメージの堅牢な体だろう。スタミナも落ちたようには見えない。
「まさか、ほんとに神……?」
「違うわ」
沙耶は先ほど同じ言葉を繰り返した。続けて、いかにもやれやれといった感じで口を開く。
「お前が神なら、なぜ妖魔を召喚しないの?」
「必要がないからだ! 私は最強にして至高! この現世に唯一屹立する神なのだから!」
沙耶は鼻で笑った。珍しい光景だ。いつもはおっとりとした風情からの煽りが入るのに。
そのわけを、トゥオーノが代弁した。
「ああそっか、疫病神は召喚しますもんね」
「そういえばそっか。なんでだろうね?」
アスールも――さすがに敵から眼は離さないが――首をかしげてる。栗本からの答えは無い。怒りの目で沙耶をにらみつけているが、強がっている風にすら見えてきた。
また沙耶が鼻の息を抜いた。声色に嘲弄が混じる。
「やっぱり、所詮は成り損ないね」
「沙耶ちゃん、解説してよ」
ブラックの要請に首を振ると、沙耶はずいと前に出て声を張った。
「さ、みんな。一息つけたでしょ? ちゃっちゃと片付けるわよ」
いつか聞いたその言葉は、その時とは一つ違っていた。
『片付けてちょうだい』じゃなくて『片付けるわよ』、つまり、沙耶が近接戦闘に参加するということだ。
そのことに気付いたのは、栗本も同じだった。
「はっ! 貴様など、こうすれば赤子も同然だ!」
言うなり、栗本の2対の腕が伸びた! しかも唸りを上げて振り回され、直撃を受けたアンバーが吹き飛ぶほどの豪腕である。
掻き回されて乱戦になる。しかも巧妙なことに、沙耶には近づかないのだ。
(なんとか近づかなきゃ……でも、あたしのダッシュでは……)
火球をまた叩き落とされて、次の攻撃を思案したルージュは、敵のアンダースローを視認した。
「突光だ!」
後ろにはブラックがいる。發衣で反射するか、避けるだろう。ルージュはすっと左へステップ――
「危ない!!」
というイツヒメの叫び声が背後に聞こえ、風切り音が耳の側を通過した。突光じゃない。そう知覚したのは、ブラックのくぐもった声を聞いた後だった。
振り向いたルージュは、呆然と立ちすくんだ。ブラックの左胸に乳白色の固体が刺さり、その身体が糸の切れた操り人形のように崩れ折れていくのだ。
栗本が投げたのは、折れて落ちてきていた鍾乳石だったのだ。そう悟って、ルージュはイエローを呼びながらブラックに駆け寄った。
あたしが避けたせいで。あたしのせいで。
ほかの仲間たちが壁になるため集まり、一人バルディオール・アルテだけが別の場所から栗本とやり合っていた。
「隼人君! 隼人君!」
「沙耶さんちょっと下がって!」
「離して! 離して!」
「抜くでイエロー!」
「よしこい!」
栗本の哄笑が聞こえ、アルテがひざまずく。それを眼の端に捉えながら、グリーンが鍾乳石をブラックの胸から引き抜くのを見つめた。すかさずイエローが治癒を施したが、少量とはいえ鮮血がほとばしるのは避けられない。
「あ、あああ……」
かつて聞いたことのない奇妙な声で、沙耶が震えていた。ブラックに取りすがっていた彼女は血しぶきを浴びたのだ。
沙耶が顔に付いた血を拭って見つめたその時、ルージュは圧迫された。
物理的にではない。物理的に思えるほどの精神的な圧力が、彼女を打ったのだ。
ほかのエンデュミオールも、アルテも、栗本ですら、戦いを止めてしまうほどの、高圧。
その発信源、沙耶がゆらりと立ち上がった。
「蒼也君だけでなく……隼人君まで……」
彼女の声は低く、この地下の底から湧き出るように響く。その不穏さも。
そして、ルージュは震えた。彼女から放たれる怒気に。その怒涛はこの空間に存在するすべての生物を沈黙させた。
来る。何かが来る。全く分からない、でも、破滅的な何かが。
ルージュの予感は、沙耶の血を吐くような咆哮によって現実となった。
「許さん……! 許さんぞオオオオオオオオ!!」
両手を大きく拡げて、体の深奥から全てを開放するような仕草。沙耶の身体中から真っ赤な光がほとばしり、眼を射る! 反射的に屈み込んだイエローたちは、しばらくして開けた眼で見たものを受け入れられず、呆然と見つめるしかなかった。
沙耶がいた場所には、沙耶はいなかった。いやソレは彼女の戦胞を身にまとい、眼を怒らせている。両の拳を握り締め、宿敵・栗本を見すえるその顔は腫れ上がったかのように赤く醜く、前頭部に生えた2本のツノが小刻みに震え――ツノ? ツノ?!
「……さや、さん?」
そう、そこにいたのは、1匹の鬼だった。赤黒いショートヘアは見慣れたもので、それだけがかろうじて彼女と異形の者をつなぐ共通点だった。
哄笑放つは先に異形の者となった栗本。
「これはこれは、悪あがき、じつに清々しい。だが、私には勝てない!」
彼が無造作に伸ばして叩き付けてきた右腕は、彼の嘲弄の語尾とともに消え失せた。赤鬼が軽く払い除けただけで。
ドサリと落ちてきた物体を眺め、二瞬後アスールとトゥオーノは悲鳴を上げた。彼女たちの目の前に落ちてきたそれは、栗本の腕だったのだ!
ようやく痛みが脳に到達したのか、こちらは汚い罵声を上げてのけぞる栗本。彼の眼には、次の3秒は受け入れ難いものだったろう。なぜなら、味方のルージュたちですら予想だにしない結末を強いられたのだから。
鬼が右手をすっと差し上げると、羽衣が現れた。ひらひらと降りてきたそれの下端を掴み引きずりおろしたとたん、なんと羽衣は姿を変えたのだ。棍棒、いや、黒光りする極太の金棒に。
そして、立ち直った栗本が反撃の雄叫びを上げる間もなく、いかにもな重量物を振り上げた鬼の姿がその場から掻き消えた。気勢を上げ損ねて口をあんぐりと開けた栗本の眼が最後に見たもの。それは、10メートル以上あった彼との距離を正に瞬きする間もなく詰めて出現した沙耶と、彼女が振り下ろした金棒の棘だった。
グチャッという肉が潰れる音と、ゴキャッという骨が砕ける音。倒した妖魔から散々聞いていたはずの音とともに、栗本は、神に成り損ねた男は肉塊と為った。
誰も何も言葉を発しない場に、金棒の乾いた音が鳴る。鬼が金棒を取り落したのだ。その揺れ始めた視線の先にいたは、
「沙耶……」
エンデュミオール・ブラックだった。
「ア、アア、アアアアアアアアアアアアア!」
赤鬼は逃げた。振り返らず、全てから。
ブラックは走った。掻き消すように消えた鬼の残像を追って。
3.
洞窟の出口に向かう途中は、掃討作戦を遂行していた巫女たちで混雑していた。だがブラックが駆け抜けようとすると、皆一様に驚いた顔で固まっている。
「ブラック! 今のは? 沙耶様は?」
琴音の問いかけにも答える余裕はなく、出口まで突っ走った。そして、包囲陣の外にある一番高い木を目指す。上から見下ろして探すしかない。そう直感が告げたのだ。
木々を飛び移る要領で、なんとか高い枝にたどり着くことができたのは、沙耶が失踪してから何分後だろうか。焦る気持ちを落ち着けて周りを見回すのだが、ここは自衛隊の演習場。地面を照らすものといえば月明かりだけで、人なんてとても見つけられないではないか。
「くそっ! どこ行ったんだよ!…………あれは……」
ここから遥かに煌めく水。やや強い風に波が立ち、岸辺の草が揺れる。そう、湖だった。
ブラックの脳裏に、思い出が浮かぶ。沙耶に連れられ共に手を合わせた、あの緑色の湖面が。
鬼還りの伝説の結末を語る沙耶の悲しげな横顔が。
「まさか……」
目を凝らしても遠すぎて判別できないが、人らしき影が見える。それとも必死さゆえの『枯れ尾花』なのか。
確認を取ってもらおうとしたが、携帯が無い。説明に戻る時間の余裕もない。
賭けるしかない。
ブラックは跳躍して地面に戻ると、目一杯疾走しはじめた。
「鬼?! あれが、沙耶様……そんな……そんな……」
動揺と焦心の真ん中で、琴音はがっくりと地に膝を突いた。
それは、恐怖からではない。沙耶の変わり果てた姿を一瞬見た時の自分の驚愕の表情を嫌でも思い浮かべることができるから。
そして、その表情に傷ついた沙耶の眼すら思い出せるから。
取り返しのつかないことをしてしまった。慙愧の念しか湧いてこないのだ。
そこへ、残酷なアクアが攻めてくる。
「ねーあれ、元に戻れるんでしょ?」
肩を落として首を振ることしかできない自分が悔しい。涙を流すことしかできない自分が、哀しい。どうすることもできない自分を殴りつけたいほどに。傍らの巫女たちも、重い溜息しか出ないのだ。
「なんでブラックはあっちにダッシュしたんやろ?」
「わけも分からず駆けずり回ってるんやろか?」
さすがの双子も、広域捜索センサはついていないようだ。ほかのエンデュミオールも、どうしようどうしようと狼狽えるばかりである。
そこへ、参謀部から連絡があった。林の中を疾走するブラックを捕捉したというのだ。急きょ準備されたモニタに映し出されたのは、無人機の暗視カメラで撮影している暗い林の中を脇目も振らず、でこぼこの地面に時々足を取られながらも走り続けるブラックの姿だった。
「参謀部! ブラックはどこへ向かってるの? あの先に何があるの?」
巫女の一人が問うと、4秒ほどして回答が来た。湖があるというのだ。
「湖? なんで?」
美玖と霧乃のつぶやきは、意外なところから答えが来た。優羽がぱちんと手を叩いて叫んだのだ。
「シズ様の伝説だ!」
シズ様。鬼還りした己の姿を儚んで湖に入水したご先祖様……
「このあいだ言ってたんですよ隼人先輩! 沙耶様に湖に連れてかれてご先祖様の話を聞いたって! だから――「参謀部!」
琴音の叫びは報われた。こちらの会話を受信していた参謀が手回しよく無人機を湖方面へ向かわせたのだ。急いで持ってこさせた地図を灯光器で照らして待つこと1分余り。
『いました! 沙耶様です! 映像送ります!』
モニタの前に詰めかけた者全て、息が止まった。沙耶が少しずつ、湖の中へ歩を進めている……!
イツヒメが声を置き去りにして駆け出した。ソフィーも一瞬遅れて鳥人となり、夜空へ舞い上がる。
「先行します」「私も」
イツヒメは手近な樹上に跳躍すると、猿飛の術で樹々を渡っていった。ソフィーは高空を旋回して方向を見定めると、滑るように飛翔していく。どんどん小さくなっていく2人の姿に向かって、思い切り叫んだ。
「沙耶様を止めて! 影縫いでもなんでも!」
一方で先ほどの巫女が、参謀部に呼びかけていた。
「ブラックを無人機で先導できないかしら? 音が出ないから難しいかもしれないけど」
『やってみます。いや、やらせます』
「車を回せ!」「バカ、機材なんか置いてけ! 人を乗せろ!」「乗車! 乗車! 急げ!」
庭師たちのきびきびした声が夜中の山地に木霊する中、エンデュミオールたちは会長を先頭に静かに走り出した。車には乗りきれないと見てとったのだろう。
車に乗り込みながら、優羽が笑っているのに気づく。
「どうしたの?」
「エンデュミオールのみんな、表情が違ってたのが面白くって」
「長生きするね、優羽ちゃん」
鈴香が呆れた時、車がタイヤを軋らせながら発進した。
間に合え。
間に合って、隼人さん。
お願いだから。
琴音は我知らず胸の前で手を組んで祈り始めていた。
4.
ジェット機の轟音が2つ、頭上を飛んで去っていくのを沙耶はぼんやりと眺めていた。機影は見えないが、恐らくプランAのために待機させていた米軍機だろう。
あのプランは実行されることなく済み、栗本は殺した。でも、実行するべきだった。沙耶の眼に涙が溜まる。
私ごと、栗本も隼人も押し潰されてしまえばよかった。そうすれば、こんな姿を隼人に、みんなに見られることはなかったのに。
じっと、手を見る。胸の前に広げた両手は、これでもかというくらいごつごつとしていた。その手のあいだに見えるのは、さざ波が立つ湖面。今日が風の強い日でよかった。この醜い面――触るだけで、元の沙耶とは似ても似つかない醜女、いや鬼女に変わり果てていることが容易に想像できる――を映し出されなくてすむのだから。
また溢れてきた涙を袖でごしごしと拭って、沙耶は前を向いた。夜の闇に沈む対岸を。
あそこに向かって歩けば、沈むことができる。
しまった。浮かんじゃったらどうしよう。でも、石とか抱けば沈めるのかしら?
探しに戻ろうか。でも、それもだるい。
だるい。
そうだ。このだるさなら、きっと沈み込める。
もういいんだから。
「沙耶!!」
それは今の彼女にとって、一番聞きたくない声だった。
でも。振り返ってしまう馬鹿な自分が悲しい。
岸辺には、エンデュミオール・ブラックが立っていた。ぜいぜいと肩で息をして苦しそうに顔を歪めている。それでもどうにか唾を飲み込んで、
「良かった、間に合った……」
変身を解除して彼――神谷隼人に戻った。
最悪だ。
そのままちょっとふらつきながらもザブザブとスニーカーごとこちらへやって来る。
「沙耶、戻ろう」
「来ないで!」
最悪だ。沙耶は金切り声になる自分を抑えきれない。
「来ないで! 戻れるわけないじゃない! 戻れないのよ……」
大声で怒鳴られて、隼人は驚いた様子で立ち止まった。でもあきらめずに手を差し伸べてくる。
「そんなことないよ。さあ、こっちに戻っといでよ」
「戻れないわよ! 鬼還りしたら……二度と……」
そんな自分と、そんな彼女を分かってくれない彼。それが悔しくて、涙が溢れ始めた。
「こんな、こんな姿でもう誰にも会いたくない! 会っても……怖がられて、化物扱いされるだけ……」
逃げる道すがらにすれ違った巫女たちの眼は、驚きと恐怖に染まっていた。
親族ですらそうなのだ。
まして、知らない人なんて……
そうぶちまけると、少し困った表情になったが、隼人はなおも手を差し伸べたまま、口を開いた。
「初めて見て驚いただけだよ。戻ろう、みんなのところへ」
「嫌だって言ってるでしょ! そうよ、驚きが去ったら、今度は……敬遠されるだけよ……私の事は、もう放っておいてよ……」
それでも差し伸べた手を下げない彼を直視できず、うなだれてしまう。だが、彼の次の言葉は声色が変わった。今まで聞いたことのないものに。
「どうしても?」
答えられない。答えたくない。うつむいたままの彼女の耳に、はっきりと聞こえたのだ。
盛大な溜息が。
終わった……彼はあきらめてしまった。もう終わりだ。
そう悟った瞬間、足ががくがくと震え始めた。と同時に、魂がごっそりと抜け落ちてしまったかのように、寒い。
沙耶は自分自身を掻き抱いて、泣いた。終りだ。彼すら、隼人君すら……ああ……
次は彼が引き上げていく水音だろう。それが聞こえたら、自分も回れ右をして、湖に入るのだ。
さあ早く、もう行って――
「じゃあさ、山に行こうよ」
?!
まったく予想だにしない一言に、思わず顔が上がる。そこにはあきらめていない笑顔があった。いつも私に見せてくれる、穏やかな笑顔が。
オウム返しに問い返すと、彼は言った。
「うん。ほら、あの湖の周りの山だよ。お母さんの持ち物なんだろ? あの山のどこか、そうだな、山菜取りとかも来ないような深い所に、二人で住もうよ。どう?」
「な……なんで?」
彼はちょっと首を傾げて、
「だって、その姿を他人に見られたくないんだろ? でも、家に籠るのは大変じゃん? 俺も今のお袋に4日間くらい監禁されたことあるけどさ、辛くって」
さりげにとんでもない過去を口走った気がするが、気にしていない様子の彼の説明は続いた。
「だからさ、山ならほら、ヘリとかに気を付ければ、誰にも見られずに住めると思うんだ」
「何言ってるのよ……住めるわけ、ないじゃない……」
「……んー、確かに」
ほらやっぱり。
「家建てる金ないしなあ。ま、最初はテントから始めりゃいいんじゃね?」
どうして、どうして、どうして……
「なんでそんなに……」
彼は、にかっと笑った。
「なんでって、分かってるくせに」
彼には申しわけないが、たった今思い出したのだ。あの湖に行った時の、彼の言葉を。あの時の、彼の顔を。
それは今、目の前にある。彼はまったく変わってない。私を。私のことを。
それが顔に出たのだろう、彼はついに両手を少し広げて、ゆっくりと言った。
「だから、おいで」
断りたい。でも、彼が差し出し続けたあの手を、断れない。
私は、彼のことが、好きなんだから。
沙耶は、その広げられた両手に誘い込まれるように、ゆっくりと歩いて戻った。少しずつ冷たい水が脚から離れていく。それがくるぶしより上まで下がった時、彼はもう一歩踏み込むと、沙耶を抱きしめた。
「よかった……」
でも、その抱擁は彼女に再認識させたのだ。
ごつい身体を。盛り上がった肩ではちきれんばかりの服を。そして、彼が頬ずりする頭に生えたツノを。
だめだ。
「沙耶」
やっぱり私は……
「沙、耶」
彼に呼ばれていることに気付いて、そしてもう一つのことに気付くのには、少しだけ時間がかかってしまった。
彼に、呼び捨てにされていることに。
自分がかつて彼に言った事に。
『呼び捨てって、いいな』って。
「沙耶」
「は、はい!」
思ったより大きな声になってしまい、赤面した。この顔では気付いてもらえないだろうけど。月明かりしかないし。
彼はにっこり笑ったあと、ちょっと恥ずかしげに言いよどんでから、思い切ったように口を開いた。
「もしよかったら、その、結婚しないか?」
「は、はい! あの……」
彼の顔を直視できない。だから彼に抱かれたまま、自分の両手を広げて、月明かりに照らしてみた。
ごつい手。鬼の手。でも、でも。
それをゆっくりと握り締めて、まるでもう離さないとばかりにしっかり握り締めて、それから沙耶は彼の顔を見上げた。
言葉は、自然に口からこぼれ出た。彼女の真心からの受諾の言の葉が。
「こんな私でよかったら、もらってください……」
穏やかに微笑んで、顔を近づけてくる、彼。応じて眼を閉じながら、彼女は祈った。何に対してかは分からないまま。おそらくは、自分自身に。
お願い。元に戻って。お願い。やっぱりこのままはいや……お願い!
優しく口付けをされた彼女の身体が、赤く光り始めた。
「戻った……戻った! 戻ったよ!」
繰り返し再生のように戻ったしか言わない琴音を抱きしめて、鈴香は親友とともに嬉し涙にくれた。今日までの苦労や心配が涙で流れ、あるいは吹き飛んでしまったかのような歓喜が心から湧き出るような感覚さえ覚える。
傍らでは優羽と瞳魅が手を取り合って、二人とも泣き笑いが止まらないまま飛び跳ねている。その向こうでは小中学生の巫女たちが、あるいは眼をキラキラさせて抱き合う二人を見つめ、あるいは可愛い悲鳴を上げて笑い合っている。鈴香たちと同じく涙を流しているのは成年の巫女たちが多いだろうか。
彼女たちは、やがて一つの衝動に身を委ねた。
嬉し涙と笑いに満ちた巫女たちとは違って、庭師たちは動的だった。ハイタッチや拳を打ち付け合って歓声を挙げていたのだ。その庭師たちが始めた万歳に、彼女たちも唱和した。大勢の歓呼が、深夜間近い山に木霊する。何度も何度も。
それは、エンデュミオールたち他所人も同じだった。庭師たちのハイタッチに参加してそのままバンザイが繰り返されて、いつもは隼人を揶揄するのがお決まりのブリランテやトゥオーノも笑顔でまたみんなとハイタッチを再開し始めた。さすがに支部長やミラーは穏やかに笑っているが、眼尻に涙が光っているように見受けられる。
でも、鈴香の中の黒い眼は、見抜いてしまったのだ。
心から満足そうなルージュを。
そしてバンザイどころか声すら出さず、目の端を痙攣させたままのブランシュを。
「戻っ……ちゃった……」
手は、すっかり元の女の手に戻っていた。そのほかも、多分。
とたんに、彼に抱かれていることが気恥ずかしくなってきた。岸ではみんながはしゃいでるし。冷やかしも聞こえるし。
「良かったな」
岸からの冷やかしなどどこ吹く風といった彼の――いまや彼女だけのものになった声と笑顔に触発されて、気恥ずかしさなど吹き飛んでしまい、沙耶は彼の胸に抱かれて泣き続けたのだった。




