6.根幹の国の前国王
日の出と共に大陸は激震した。
大陸の王達に仕える魔術師たちと聖者の一門が身を震わせ、それぞれの王達は恐怖を思い出した。
だが慄く人間たちを嘲笑うように大陸の端に追いやられ散り散りになった闇たちが、日の光の中息を吹き返し立ち上がった。
獣たちはのびのびと体をほぐし、鳥たちが枝の上で寛いだ。
魔神の一柱、『髪の王』の解放である。
生首と迷子 6
「魔神の胴は!?封印は解かれていないだろうな!」
「は!現在も魔術師たちによる封印の重ね掛けが続けられております!」
「くそっ…髪の王め、どうやってあの封印を解いたっていうんだ…!」
騎士を連れた壮年の男が苦々しくため息を吐いた。
男はかつてこの地に根付いていた髪の王を斃し、人間の力によって国を築いた勇者だった。
王となり、我が子に在位を託した現在は髪の王の封印を見張る者として死湖の間近、高台の星見の塔に居を構えていた。
そして今、高台から見下ろす死湖には常とは異なる奇異な光景が見られた。
死湖の名の由来である巨大な渦の全てが静まり返り、まるで鏡のように朝焼けの美しい空を写している。
その中央には、遠くて肉眼で見ることはかなわないが、あの髪の王の首があるのだろう。
「首に直接貼り付けた魔力封じ、アリステラや俺たちが作り上げた圧縮核、そして天然の牢獄である死湖に練り込んだ魔力管理のライン…。圧縮核やラインは髪の王の力であれば消化されても理解できる。だが魔力封じだ。アリステラや聖者たちの至高の術が何故消化された…?」
髪の王の封印が解かれたことにより、人間以外の生き物たちの生命力が溢れ出していることが肌に伝わる。
おそらく数日もすれば各地で人間が襲われ、死者の数が跳ね上がることだろう。
近年ではほぼありえなかった、寿命、不運な病死以外の死が舞い戻る。
彼がかつて仲間たちと共に死に物狂いで封じた毒の沼地、闇に呑まれた獣たちの成れの果てである怪物、手の施しようのない凶悪な病魔…あらゆる負が復活してしまう。
髪の王の首が胴と繋がらなければ、まだなんとか食い止めることができるかもしれない。
が、いくら渦が消え去った今とはいえ巨大な湖の中央へと威力をそのままに攻撃を放つということは至難の技だ。
それこそ国一番の魔術師であるアリステラや、国一番の聖者であるユーリスでもない限り。
だが彼らは胴に封印を重ねるため王宮から出てくることはできない。
「せめて俺が平和に死んだ後にしてくれよ…おっと、今のは聞かなかったことにしてくれ」
「はっ。承知しました」
年若い騎士が律儀に敬礼する姿に苦笑する。
この地に人間が生きるには地獄のようであったあの時代には、まだこの騎士は生まれてもいなかったことだろう。
平和によって気骨を奪われ、また生きるか死ぬかといった経験をしなかった者も増え。
随分と、骨のある人間も減ってしまった。
(俺の仲間たちが健在であるこの時代だからこそ、まだ救いはあったのかもしれないな)
星見の塔の地下へと降り、男は埃をかぶった古い木箱から弓を取り出した。
見る者を圧倒する神々しさを放つ、女性の身の丈ほどもある巨大な弓。
白い樹木の枝を切り出しそのまま曲げたような形だというのに何故か弓としか例えようのない物だ。
そして弦も矢も揃ってはいない。
「前王陛下、その弓は…」
恐る恐る訪ねた騎士に男は告げた。
「聖弓『純潔の聖女』だ。かつて髪の王を仕留める際に使ったんだが……俺の担当は近接攻撃だったからな。射ることはできても俺の体がもつか…」
「そんな!」
早くしなければ魔力管理のラインが完全に消え去ってしまう。
もともと外敵が髪の王を解放しようとすることや、空気中の魔力による圧縮核への作用を防止するための封印であったため、髪の王であればさほど時間をかけずに消化してしまうことだろう。
となればラインが消化されてしまう前に聖弓で頭部を射って破壊し、髪の王が再生する前に再び封印を施さなければならない。
「シースも間に合わんな…」
かつて髪の王との戦いでこの聖弓を用いたのは彼ではなく仲間の一人であった。
故郷の村で今も狩人をしているであろう男を思い浮かべ、しかし待つには遅いと判断した。
「…当ててみせるさ」
星見の塔の屋上へと上がり、寝着のままに魔術師たちが懸命にラインの維持に努めている中へと割行った。
「前王陛下!」
「前王陛下、もう持ちません!」
玉のような汗が吹き出し、それを拭う暇すらなく魔術を施す彼らに首肯した男は、かつての仲間の姿を思い出しながら弓を構えた。
「前王陛下!弦と矢は…!」
「要らねえよ。コレにはな」
片手で弓を構え、もう片方であるはずのない弦を摘み引く。
ありえない光景に皆が目を見張る中、弓はぐんぐん曲がり力を溜めた。
だが弓を構える手の表面に亀裂が入り、血が噴き出した。
「前王陛下!」
「…っ…俺が放ったらすぐにラインを強化しろ!いいな!」
「はっ!」
白い聖弓の下半分が血で真っ赤濡れ、地面に血が滴る瞬間、男は弦を摘む手を離した。
ひぅん、と矢が空気を切り裂く音と死湖の中央で閃光が煌めくのとどちらの方が速かっただろうか。
手に伝わる感覚から見事首を射たと確信し、男が弓を放り出し荒い息をした。
だが無情にも、男の意図は外れる。
魔術師がラインを強化したというのに、そのラインが根本から掻き消されてしまった。
「そんな…まさか」
どくん、と空気が波打つ。
目に見えない重苦しい何かに圧倒されて、皆が膝から崩れ落ちた。
「必中の神器が無効化されただと!?」
確実に手応えがあった。
いや、手応えなどなくともこの聖弓は『射たという事実』を生む概念なのだ。
聖弓を用いたということは即ち髪の王が射られたという事実でしかない。
聖弓が認めた者でなければ腕の筋肉繊維をズタズタに引き裂くというリスクはあるが、しかしその神器の力は確かなものだ。
また、この聖弓は髪や衣類などの無機物は射た対象としない。
いくら髪の王が髪で防御しようとも関係がないのだ。
陸地とも遠く、ラインに掛かるため鳥も近寄れず、魚も死にゆく死湖であることから身代わりということもありえない。
男が聖弓を用いるまでラインが保たれていたというなら外部からの援護もありえない。
「何をした…髪の王!!!」
ふわり、と髪に模した魔力の繊維が音もなく伸びてきた。