イルミネーター
「ここでしょう?やっぱりここよね」
岬子は問われたと思って返事をしようと思ったが、それが独り言なのに気付いて口をつぐんだ。
「屋根の形も飾りも馬の顔も同じだわ」
まだ写真と見比べて自分の世界に入り込んでいるので、岬子は一歩下がって周りの様子を窺った。
懐中電灯をぐるぐる回しながら、今ここにいる経緯を振り返った。
とてもいい写真があるから一緒に来て撮ってくれ、と依頼されたのは一週間ほど前のことだった。岬子は会社員をしながら趣味で写真を撮っていた。学生の頃から凝ってしまい、ずっと撮り続けているお陰か、人から「うまいね」、「撮って」と言われることがしばしばあり、今回もその類だった。
依頼人はちょっと癖がありそうだったから、本当なら断りたかったが、同僚の友人だからと引き受けた。岬子はなかなか断れない性格でもあった。
懐中電灯の灯りの先には、葉や茎が伸び放題の花壇があり、その隙間から犬や猫の大きな人形が見えていた。耳や頬が欠けて土埃で覆われていた。暗闇に浮かぶその姿は汚ないというより不気味で、岬子は灯りを横へと滑らせた。どうやらずっと煉瓦の道が敷かれているようだった。
「サキコさん」
そう呼ばれて岬子は振り返り、懐中電灯を声の方に向けた。
フリルが多く付いた長袖の白いブラウスに、黒を貴重とした膝丈のスカート。スカートを重ね穿きしたような細かいフリルから脚が出ていた。首もとには黒いリボンをきれいに結び、靴下にも細いリボンを結びつけていた。靴はエナメルで、足下を照らすとぴかりと光った。目元の化粧が濃くて、目が合うと視線が痛い気さえした。髪は真っ黒で長く、まめに編み込んでから残りを下ろしていた。
これが今回の依頼人の外見だった。どうしてここで撮りたいのか訊くと、ここで撮った写真はどの写真よりきれいだから、と言った。それが本当かは岬子の知るところではなかったが、彼女はどうしてもここで撮りたいらしかった。ただ、だれに訊いても撮影場所がわからず、自分の手で長い時間を掛けてようやくみつけたという話だった。
「ポーズ取ってみてもいいかな?」
「どうぞ」
「どんなのがいいかな?」
「ポーズぐらいいくらでも取れるんだから、ルリさんの取ってみたいの、方端から取ってみたらどうですか?」
岬子はかばんのファスナーを開けながら答えた。
この「ルリ」というのが本名かは知らなかったが、写真を撮るだけだから、特別に知る必要もなかった。それはお互い様で、ルリも「岬子」というのが本名かどうかなんて知らなかった。
「じゃあ、とりあえず座ってみるね」
と言ってルリは馬に腰掛けた。馬は大人しくしていて、ルリが脚を揃えて横向きに座ってたてがみを叩いても、身動きひとつ取らなかった。それは当然だ。この馬は作り物で、岬子の目の前にあるものは、いわゆる「メリーゴーラウンド」だったからだ。
「写真撮ってみて」
ルリは少し首を傾げてシャッターが切られるのを待った。岬子はかばんから出したカメラを構えルリを捕らえたが、納得がいかなかった。
「真っ暗だから、ルリさんが言うようなきれいな写真が撮れるかどうか」
こんな暗闇の中で撮る写真がなぜきれいになるのかわからなかった。なにせ、ここは無断で入った私有地で、建物も荒れていた。きれいに映る要素が何もないと岬子は思った。
「フラッシュがあれば大丈夫よ。きっとここはそういうところなのよ」
きっと、さっき話していた何枚かの写真を思い出しているのだろう。このメリーゴーラウンドを一緒に写すときれいに、魅力的に撮れるのだと。そんなジンクスみたいな話を信じているなんて、話し方にそぐわず子供っぽいと岬子は思った。
「どうしてそんなにここで写真を撮りたいんですか?」
いくらかシャッターを押し、とるあえず形だけ残しておき、岬子は気になっていたことを尋ねた。
「きれいに撮れるから。きれいに撮れたら、他の写真の子より人気になれるわ」
「そうなんですか」
やっぱり意外と子供っぽいと岬子は思った。そんな理由のために夜な夜な女の子が人気のない場所に忍び込むなんて、普通ではないと感じた。そしてそれに付き合ってしまった自分に呆れるのと同時に罪悪感を覚えた。
それからルリはいくつかポーズを変えて、岬子はそれをすべてカメラに納めた。ファインダーに映る絵はやはりそれほどいいものには思えなかった。
早く気が済んで帰る気になってくれればいいのに、と思いながら岬子がルリを懐中電灯で照らしていると、メリーゴーラウンドの屋根飾りの電球が明滅を繰り返してから完全に点灯した。暗がりだったのが突然明るくなって二人はわけもわからず目を合わせた。
「どうして灯りがついたのかな」
「わかりません。でも、ここだけじゃないみたいですよ」
ルリは岬子の視線に合わせて遠くを見て、一呼吸おいてから笑い声を上げた。
「わあ、きれい。あっちにコーヒーカップも見えるし、上の方なんてほら、ジェットコースターの線がキラキラしてるわよ」
確かにあちこちに光が点き、息を吹き返したように土地が華やいだ。ついさっきまでと同じ場所にいるとは思えないほどだった。それにゆっくりとだが、メリーゴーラウンドは微かな音楽を奏で、馬はぎこちなく上下に動きはじめていた。
あははは、と楽しそうに笑うルリを遮るようにして岬子は質問した。
「灯りが点くなんておかしくないですか?ここはとっくの昔にに使われなくなったんでしょう?」
「そういえば調べたときにチラッとどこかで聞いたわ。ときどき電気を通して施設を維持しているんですって。この土地が死んでしまわないように」
「そう…なんですか?」
岬子は半信半疑だったが、これならきれいな写真が撮れるかもしれないと、心の隅ではそんなことを思っていた。
「ねえ、サキコさん。今撮ってくれない?できればインスタントで」
ルリの言葉に、自分の心が読まれたかと一瞬ドキリとしたが、冷静に言葉を返した。
「インスタント?」
「わたしが見た写真はみなインスタントだった。でもそれが独特の雰囲気を持っていて素敵なの。今ならあの写真に勝てる気がするの」
「じゃあ、最後の一枚ってことで」
岬子はかばんからインスタントカメラを出し、手早くファインダーを覗いて構えた。もういい加減に帰りたいというのが岬子の気持ちだった。いくら明るくなったところで、廃墟に変わりはないと思っていた。それに、さっきからずっと斜め上の辺りで雷が鳴ってているのが気になっていた。
「わかった」
ルリはニコリと笑ってから、わざと物憂げな微笑を作り、少しスカートの裾を持ち上げて馬の横に立った。
ファインダーの中のルリはさっきまでとは違う美貌を見せ、髪はより艶やかで洋服は高級感のあるように見えた。岬子は息を止めて、シャッターを押した。無意識のうちに力が入って人差し指の先が固まった。
「撮れたよ」
ゆっくりと吐き出された写真には非現実的ともいえるような美しさのルリがいて、背景のメリーゴーラウンドはまるで生き物のような鮮やかさだった。枠に収まるひとつの絵には幻想的な靄がかかっているようだった。実際に靄など写ってはいなかったが、それくらい柔らかな写真だった。
岬子は見惚れた写真をルリに見せようと、顔を上げた直後、顔は強ばり声を出せなくった。
すぐそこにいたはずのルリの姿がなく、代わりに真っ赤な鮮血のような液体が馬と床の上に広がっていた。
その赤い液体は血液にしか見えず、岬子は動揺した。どうにか違うものに見立てようとしたが、血液としか思えなかった。
ポタリポタリと馬のたてがみに落ちる同じ赤は、自然と岬子の視線を上に向けさせた。
馬の背からつながった金属棒は屋根の中で他の棒と組み合わさって上下に動いていた。それには黒い何かが絡み付き、赤い液体を下に落としていた。ゴウンと仕掛けが動く度に絞られた液体がこぼれた。
岬子がそれが何かを把握するのに大して時間を要しなかった。それは紛れもなく、機械仕掛けに潰されてへばりついたルリの体で、その赤い液体はルリから流れる血液だった。どこをどう伝ったのか、ぼそりと垂れた髪の束からも血が滴っていた。
そしてどういうわけか、メリーゴーラウンドの濁っていた電飾はキラキラと輝きだし、だんだんと旋律の音が大きくなっていった。馬達はゆっくりと回り、ルリは離れていった。ルリの後に視界に入った馬の上には同じように人間がねじれて固まっていた。顔がどこだかはっきりとわからなかったが、汚れた三つ編みとスカートの裾が微妙に揺れているのは見てとれた。
屋根裏に三人いるのを見たところで、岬子はようやく足の自由が利くようになった。後ずさりする間も惜しんで全力で駆けた。途中、人の声が聞こえたような気もしたし、同じ道を何度も通った気もしたが、ひたすら走り続けてなんとか敷地から出ることができた。
一歩外へ出た途端に、ずっと息を止めて走っていたのではないかと思うほどの息苦しさにむせた。腰を曲げて手を膝に当て、瞬きを忘れて呼吸した。落ち着くまでに一時間は掛かったのではないかと感じた。泣きたいほど怖いのに涙が出てこなかった。
誰も知らないメリーゴーラウンドでの写真が、未だに誰にも知られない理由がわかった岬子は、皆が同じ写真を撮ろうと思わないようにと願う他なかった。インスタントカメラの濁ってしまったレンズをみつめながら、ルリの最後の写真を思い浮かべて、おぞましい最期の姿を忘れようとした。ルリを思い浮かべるしかなかったのは、写真をいつの間にかどこかでなくしてしまったからである。