1.伯爵令嬢が髪を切るまで
江本マシメサ様主催の『男装の麗人小説企画』参加作品です。
全三話の予定です。
一途? そうね……そういう言い方もできますわね。
幼い頃から思い込んだら一直線というか何というか。
主人とも「男の子だったら良かったわね」などと笑いながら話したこともありました。
とにかくこうと決めたらやり遂げてしまうのですもの。
……そうですわよね。
そんなあの子に、軽々しく『将来あなたをお嫁さんに貰ってくれる男の子よ』なんて彼を紹介した私達の落ち度です。
オズウェルの両親とは長い付き合いでしたし、子供同士がちょうど似合いの年頃だったものですから、つい。
ええ、ごく軽い気持ちでした。
大人になって2人にそれぞれ別の想い人が出来たら、その時は無かったことにすればいい、というような口約束でしたのよ。
もちろん正式な婚約は交わしておりません。
約束を知っているのも互いの家族だけです。
オズウェルもキャサリンも、承知していると思っていたのですけどね。
◇◇◇
幼い頃からずっと一緒にいた人だった。
親同士の約束で決まった婚約でもキャサリンにとっては確かに恋だったし、オズウェルも彼女を大切にしてくれていた。
何がいけなかったのか今でもよく分からない。
長い間一緒にいすぎたことか。
15になったオズウェルが魔法騎士になる為に王都の学校へ行ってしまったことか。キャサリンが着いていかなかったことか。
離れたくないと名残惜しげに手を握り、出発の時刻がくるまでキャサリンを放そうとしなかったオズウェルからの手紙は、少しずつ間隔を空けて届くようになった。
キャサリンが異変に気づいた頃にはもう、その内容も当たり障りのない御機嫌伺いに変わってしまっていた。
伯爵家の次女として生を受けたキャサリンは、特に手に職をつける必要がない。
将来はしかるべき家柄の青年の元へ嫁ぐと、生まれた時から決まっている娘だった。
キャサリンに求められたのは、美しい筆跡で文字を書く事、礼儀作法、社交術、そして刺繍の腕前。
怠けるのは性に合わないと、キャサリンは全てに対し真摯に取り組んだ。
その甲斐あって18歳になった今、伯爵令嬢としての評判は上々だ。
このまま時期を待てば、オズウェルが素敵な花束を抱えて迎えにきてくれる。
キャサリンの前には安定した将来が拓けていたし、それは紛れもなく一本道に見えた。
オズウェルの家は代々魔法騎士を輩出している武家寄りの貴族だ。
身分的に釣り合っているし、年も同じ。
幼い頃から交流があり、喧嘩をしたことは一度もない。
婚約者という立場に慢心していたのでは、と謗られるかもしれないが、自分に非があったとはどうしても思えない。
キャサリンは、一途にオズウェルだけを想ってきた。
心を込めた手紙を頻繁に送った。
オズウェルの好きなクッキーを焼いて送ったり、冬になれば暖かなひざ掛けを編んで送ったりもした。
たった3年。
3年待てば、オズウェルは魔法騎士の叙勲を受け、キャサリンの元へ帰ってくるはずだった。
魔法学校に長期休暇があることすら、キャサリンは知らなかった。
3年のうち一度も帰ってこなかったオズウェルの上に訪れた新しい出会いも、試練も、挫折も。
努力も、成果も何ひとつ知らず、キャサリンはただ待っていた。
オズウェルの変化を無視できなくなったのは、最後の冬。
キャサリンの誕生日に、大粒のアンモライトを使ったペンダントが送られてきたことがきっかけだった。
光を当てながら角度を変えると、虹色に輝く素敵な宝石。
オズウェルが魔物討伐に出た際、見つけた石だという。
キャサリンは飽きずにアンモライトを眺めた後、石の意味を調べることを思いついた。
いそいそと図書室へ向かい、宝石辞典を探し当てる。
アンモライト――『過去を手放す』
キャサリンの指が、力なくページから離れる。
過去を、手放す?
これはどういう意味?
彼女は焦燥にかられながら自室へと駆け戻った。
嫌な予感に急かされ、オズウェルから貰った手紙全てを寝台の上にぶちまける。
冬だというのにキャサリンの頬はのぼせそうなほど火照り、喉は何かが詰まったように熱く苦しかった。
『愛しい俺のケイト』から始まる最初の手紙。
そこには、華やかな王都の光景や、古めかしくも荘厳な学校の佇まいなどが生き生きと綴られていた。
オズウェルの味わった興奮が、直に伝わってくるような力強い筆跡だ。
――『必ず一人前の魔法騎士になって君の元へ帰るから、どうか俺を忘れないで欲しい』
結びの文字をそっと指でなぞる。
オズウェルの初めての不在に塞ぎ込んでいたキャサリンを、この手紙がどれほど勇気づけたか。
受け取ってすぐに勢い込んで書いた返事に、彼女はありったけの想いを込めた。
最初の1年が過ぎた頃、手紙の様子は変わってきた。
どうやら学校でパーティを組み、様々な試練に挑んでいくことになったらしい。
実地訓練、という文字がよく出てくるようになった。
『パーティに女騎士がいるんだけど、顔合わせ初日から喧嘩になってしまった。俺なんかがパーティにいて最悪だって彼女は言ってるけど、それはこっちの台詞だよ。ケイトだって何でも出来たけど、君とは全くタイプが違う。常に周りを見下してて、本当に嫌なやつなんだ。全く上手くやれる気がしない』
騎士志望の彼女は、それからちらほらと手紙に出てくるようになった。
【女】と呼び捨てにされていたのが、ブライアースと家名で呼ばれるようになり、やがてレベッカと名前で呼ばれるようになり。
その変化と同じタイミングで、手紙の日付の間隔は空いていった。
『愛しい俺のケイト』という書き出しはついに消え、『親愛なるキャサリン』という余所余所しい文字が文頭を飾るようになった。
パーティの討伐任務についても、最初は詳しく書かれていたのに、どんどんぼやけた言い回しに変わっていく。
一番新しい手紙にはもう、オズウェル自身のことについては何も触れられていない。
寒くなってきたけど体調は崩していないかとか、昔2人で可愛がっていた馬はどうしているか、とか。
親しい昔馴染みにあてて綴るような穏やかな文面を、キャサリンは繰り返し読み、深く溜息をついた。
キャサリンは学校にこそ行っていないが、家庭教師をつけられ一通りの学問は修めている。
時間だけは有り余るほどあったから、沢山の書物も読んできた。
キャサリンも、もう世間知らずの少女ではないのだ。
オズウェルの変化を表す言葉が、頭の中にじわり、と浮かぶ。
心変わり――
幼い頃から思い出を分かち合ってきたオズウェルの心に、もう自分はいないのだと認めることは心を殺すことと同義だった。
キャサリンの頬から滴る涙が、すっかり大人びたオズウェルの筆跡の上に落ちる。
醜く滲んでいく文字を、キャサリンは睨み付けた。
いいえ。私の勘違いかもしれない。決定的な別れを告げられたわけではないわ。
キャサリンは頑固に思い込もうとした。
泣きながら机に向かい、筆を取る。
『愛しい私のオズへ』で始まる手紙。
何も気づいていない振りで、もうじき会える喜びと、彼への変わらぬ愛情と忠誠を込めながら、キャラリンは何度も『大好き』『待っている』と繰り返した。
油断するとすぐ涙で読めなくなる手紙をどうにか完成させ、送ったその日。
入れ違いのように、オズからの別れの手紙が届いた。
――『キャサリンは今も変わらず俺の大切な人だ。だからこそ、こんな無様な状態で君を迎えに行くことはできない。どうか俺に時間を与えて欲しい』
時間を与える?
それは何の時間?
キャサリンとレベッカ・ブライアースを天秤にかけ、どちらにより傾くかを量る時間?
真っ赤に腫れた瞼を閉じ、大粒の涙を零しながらキャサリンは自問した。
――ねえ、ケイト。あなた、この裏切りを許せるの?
答えはもちろん、否だ。
枕に突っ伏しひとしきり号泣した後、キャサリンは決意した。
オズウェルの心を変えたのはおそらく『若い女性でありながら騎士としての強さを求めたレベッカ』だ。
彼の世界と価値観を一変させるだけの何かが、かのレベッカ嬢との間にあったのだろう。
今も現在進行中で積み上がっているのかもしれない。
女という生き物は心変わりした恋人より恋敵に敵意を抱くものらしいが、キャサリンの心にはオズウェルへの怒りのみが湧きあがった。
レベッカ嬢には何の落ち度もない。
婚約者の存在を知った上で横取りしたのだとしても、やすやすと心を移す男が悪いのだ。もしくは、移される女が。
キャサリンはすっくと立ち上がり、暖炉の中に全ての手紙を投げ入れた。
オズウェルからの手紙が火に炙られ、身を捩りながら灰となるのを、冷たい目で見守る。
それから鏡台の前に立ち、腰までの長い髪にハサミを入れた。
ざくり、ざくりと掴んだ髪束を切り落とす度、絨毯の上に眩い金が散らばっていく。
貴族子女が髪を短くするのは、罪人に堕ちた時か修道院へ行く時と相場は決まっている。
だがキャサリンはそのどちらも選ぶつもりはなかった。
キャサリンが心の底から渇望したもの。――それは力だった。
手習い、礼儀作法、社交術、刺繍。それが何の役に立ったというのだろう。
何の役にも立たなかった。
オズウェルの隣に立つ為に払った努力は、水泡に帰した。
大人しく領地で待つなどという殊勝な真似をせずに、キャサリンも魔法学校へ行けば良かったのだ。
行って剣を取り、オズウェルと共に魔物を狩れば良かった。
それなら、たとえ恋心が消えた後でも、友情は残っただろう。
キャサリンは無残に切られた髪のまま両親へ会いに行き、彼らの度肝を抜いた。
抜くだけではなく盛大に泣かせた。
「嘘でしょう、ケイト! その頭、どうしたの!?」
「私はもうケイトではありません」
縋りつく母を振りほどき、キャサリンは宣言した。
「修行へ出たいのです。必ず強くなって戻って参ります。宿願を果たした暁には、領地を守る盾となりましょう。ですからどうか今は、私の我が儘をお見逃し下さいませ」
勇ましい口上を述べるキャサリンだが、平たくいうと『婚約者に振られたので傷心の旅に出る』ということだ。
父は眩暈を覚えながら、強く眉間を揉んだ。
「キャサリン……聞いてもいいかい?」
「はい、父上。なんなりと」
「宿願というのは?」
嫌な予感をひしひしと感じながらも伯爵家当主は、尋ねずにはいられなかった。
どうか違っていてくれ。祈りを捧げながら娘の返答を待つ。
キャサリンは泣き腫らした目元をすいと細め、非常に物騒な笑みを浮かべた。
母は娘のその顔を見てとうとう卒倒してしまった。
「オズウェルに一騎打ちを申込みます。勝っても負けても恨みっこなし。命の取り合いまではしません。……では、父上。母上。これまで育てて下さったこと、誠にありがとうございました。次にお会いできる日までどうか息災で!」
キャサリンは力強く言い切ると弟の部屋へ直行した。
「ちょ、姉様!? どうしたのその頭!」
「私を姉と呼ぶのは今日限りにして。キャサリンは死んだわ」
「いやいや。ちょっと意味が分からない。じゃあ、今ここにいるのは誰なの」
「目に見えるものが真実とは限らないということかしら」
「……姉様、頭でも打った?」
「出世払いできっと返すから」などとうだつの上がらない情人じみた台詞を吐きながら、キャサリンは弟の衣装箪笥を漁った。
主人を追いかけてきたメイドから事情を聞いた弟は、両手を広げてキャサリンの前に立ちふさがった。
「冷静になってよ、姉様。オズウェルが姉様を振るとか、ありえない! もっとちゃんと彼と話を――ぶふぉっ」
キャサリンは無言で弟の脇をすり抜け、更に追い縋ろうとする彼の鼻先に扉を叩きつけた。
今はその名前を聞きたくない。怒りと屈辱で爆発しそうだ。
彼女は弟の服に着替え、手早く荷造りを済ませると、大股で玄関を目指した。
まるで嵐のようだった、と後に弟は語った。
こうしてキャサリンという名の伯爵令嬢は消えた。