20.私達は分からなければならなかった
(叶小枝の住人・服部真一)
家の中の空気は最悪だった。
星さんが家から去ってから、小枝さんと畳さんは一言も会話をしようとしないし、何故かあれ以来、他の人達も姿を見せない。
まるで、家の中から全ての人が姿を消してしまったように思えた。そして次の日、昼食の時になって、ようやく二人は会話をした。
「失敗だったわ」
と、口を開いたのは畳さん。
「初めから、何かおかしいと思っていたのよ。あの星って人、体質が急に変化するのだもの。
罠だったのね。どうも保険金の事も知っていたみたいだし、そもそもこの家の事を調べる為に近づいたのだと思うわ。しかも星さんを迎えに後でやってきた連中は、ナノネットの研究者か何かよ」
ナノネット?
ぼくはその単語を知らない。言葉の意味は分からなかったけど、一応、畳さんはこれでも小枝さんとの関係を改善しようしているのだろうと僕は思った。しかし、小枝さんはそれに対してこう答えた。
「そういう問題ではないでしょう? 星さんの目的が何であろうが、あなたが暴走したのは事実よ」
それに畳さんは何も返さない。しばらくずっと黙っている。やがて、ゆっくり息を吐き出すと、こう言った。
「そんな事、今更でしょう?
わたしはずっと、こうだったじゃない」
それに小枝さんは頷いた。
「そうね。ずっとこうだった。そして、ずっとおかしかった。私達は分からなければならなかったのよ、それを」
「わたしが、おかしいって事を?」
それを聞いて、小枝さんは止まる。そして、次の瞬間、こう言った。
「違うわ」
それからキッと、畳さんを睨むとこう続ける。
「この場所が、そもそもおかしかったという事を」
それを聞くと、畳さんは「なに、それ? つまり、わたし達を全否定って事?」と、そう続けた。それから小枝さんに対する皮肉なのか、ぼくに対してこう言った。
「服部君は、どう思う? あなたはここから消えるべきだって言われているのよ」
その言葉の意味がぼくには分からない。小枝さんは、畳さんの質問には答えず、こう言った。
「私は、この場所をこんな場所にしたいと思っていた訳じゃないわ。もっと、皆がただ普通に暮らせるような場所にしたかった。当たり前にある、自然に囲まれた生活こそが、この場所の存在意義だから……。
今じゃ、ここは、単なる妄念の溜まり場じゃない!」
畳さんはそれを馬鹿にする。
「自然? ナノネットなんてものを利用しようとしたクセに、よく言えるわ」
それに小枝さんは何も返せなかった。また沈黙が流れ始める。つらい。雰囲気に耐え切れなくなったぼくは、こう言った。
「ぼくもこの場所は、おかしいと思う。変わらなくちゃいけないのじゃないかって」
それを聞いて畳さんは鼻で笑った。
「服部君は、それが何を意味するか分かっているの? 小枝さんは別にして、わたし達が変わるという事は…」
その言葉を小枝さんは制した。「畳さん」と、一言。それで畳さんは言うのを止めた。
それから、またずっと気まずい沈黙が流れ続ける。結局、会話をしても、二人の間にある溝は埋まらなかった。
そして、その次の日だった。星さんから、メールが送られて来たんだ。どうやら、またこの家を訪ねたいらしい。ただし、一人じゃない。紺野さんというナノネットを研究している人、山中さんという怪談収集家、そして藤井さんという探偵をやっている人。その人達も来るのだとか。何だか、よく分からないけど、凄いメンバーだ。
ナノネット。
その単語を知らなかった僕は、それからインターネットで、検索してその存在を知った。
それはナノマシンで構成されたネットワークの事で、人間の精神に影響を与え、コピーなどにより、疑似的な人格を形成する場合がある。ナノネットが、人間の脳を利用した場合は、その人格にかなりのリアリティが生まれる事もあるのだとか。
ぼくは少し驚く。
畳さんは、この家でこれを利用していると言ったんだ。つまりそれは、このナノネットというものが、この家の近くに繁殖しているって事だ。それでぼくは心底不安になった。何か、ぼくの足元が脆くくずれていくような気がした。
“――私達は分からなければなかった”
そんな事を、確か小枝さんは言っていた。
何をだろう?
何を、小枝さんは分からなければならないと言ったのだろう?
ぼくの不安は続いていた。
「来てもらいましょう」
星さん達が訪ねて来たがっているという話をすると、小枝さんはそう言った。何かを覚悟した口調のようにぼくには思えた。畳さんが反発する。
「何を言っているの? 何かを企んでいるに決まっているじゃない」
「仮にそうであったとしても、私達の不利益になる事かどうかは分かりません」
「私達? あなたのでしょう?」
その反論には答えず、小枝さんは続けた。
「それに、そもそも、これを拒否したところで、私達にはどうしようもありませんよ。相手がナノネットの専門家で、堂々と正面から訪ねてくるというのなら、対処の方法に自信を持っているのでしょう。逃げられないし、防ぐ手段もないのじゃありませんか?
むしろ、こうして面会の場を設けようと提案しくれている事に感謝すべきです」
畳さんはそれに何も言わない。そして、少しの間の後で、
「分かりました。小枝さんには、もう頼みません」
と、そう言った。何故か、穏やかな口調に戻っている。
「ですが、わたしは最後まで抗いますよ」
そして、そう言ってその場を去っていく。その時、その後ろ姿に向けて、小枝さんはこう言った。
「畳さん。あなたは、変わる事はできなかったのですか?」
それに畳さんはこう返す。
「知っているくせに訊かないでください。無理ですよ。わたしはあなたの言う妄念そのものなのだから」
次の日の午後。
星さん達が訪ねて来た。ぼくが意外だったのは、その場に畔さんがいた事だった。星さん達がやって来る前にこの人は来た。そして、星さん達を待ち構えていたんだ。
畔さんを呼んだのは、小枝さんじゃない。どうやら畳さんらしい。畔さんを嫌っているはずの畳さんが、彼に協力を求めたんだ。多分、利害の一致という事だろう。この家で外の人に対抗できそうな人は、畔さんくらいだろうから、畳さんにしてみれば、仕方なかったのかもしれない。
星さん達が訪ねて来ると、まずは小枝さんが出迎えた。そこで、廊下から畔さんが、星さん達の事を睨みつけた。やっぱり、脅して無理矢理に追い返すつもりらしい。ところが、畔さんが出て行こうとしたところで、妙に目の細い狐みたいな人が、こう言ったのだった。
「あなたが畔さんですか? 初めまして、私はナノネットを研究している者で、紺野秀明といいます。
すいませんが、そんなに怖い顔をして睨まないでもらえますか。後ろにいる警察官の方達が、勘違いをしてしまうので」
その言葉に畔さんは止まる。
「警察官? 聞いてねぇぞ」
「まぁ、言ってませんからね。でも、もし、言ってしまったら、あなたは来なかったでしょう? あなたからも話を聞きたかったのですよ、私は」
その紺野さんの言葉に、畔さんは明らかに動揺した。
「罠に嵌めたのか?」
「いえ、そんなつもりはありませんよ。念のため、用心しただけの事。あなたが危害を加えなければ、彼らは何も動きません。実は私は警察ともコネがありまして、その程度の話なら聞いてくれるのですよ」
そう言い終えると、紺野さんは小枝さんを見つめて言った。
「さて。どうか、家の中に上げてはもらえませんか? ここでは、少々、話し辛い」
もう畔さんは何も言わなかった。そして、小枝さんが頷いて星さん達を家の中に招くと、彼も一緒に付いて来る。
畔さんは逃げたかったのかもしれないけど、今逃げたら、それこそ警察から疑われるだろうから、それもできなかったのだろうと思う。星さん達が、家の中に入ると、今度は畳さんが現れた。
星さんを一瞥すると、彼女は紺野さんを見てこう言った。
「麦茶を飲んでいる訳でもないのに、もうわたしの姿が見えるのね。あなたが何者なのか知らないけど、大したものね」
紺野さんはそれに微笑みながら頷く。
「ええ、準備をして来ましたから。無駄な抵抗をしてもらいたくなかったので、こちらの能力を見せておこうと思いまして。もっとも、それでも山中さんには見えていないでしょうがね」
わたしの姿が見える? 山中さんには見えない?
どういう意味だろう?
不思議に思って、山中さんだろう女性を見ると、確かに怪訝そうな顔をしていた。それを聞くと、畳さんはこう言った。
「何をどこまで、あなたは知っているの?」
「いえいえ、実は知らない事だらけです。だからこそ、ここに来たのですが。ただ、畔さんのあの態度と、あなたの姿を見て確信した事はあります。
畔さんに私達が来る事を伝えたのは、あなたですね。やはり星君が保険金詐欺に関わる件で、ここに来ていた事に気付いていたんだ。しかし、それを知った上で、星君にあんな事をしたというのなら、やはり殺すつもりだったのですか… 見過ごせませんね」
その言葉に、星さんが反応する。
「どういう事ですか? どうして、僕を殺そうとしていたって……」
紺野さんは淡々と返した。
「もし、星君を生かしておくつもりだったのなら、保険金詐欺の件に関わる事をできる限り隠そうとするでしょう? それを隠さずに星君の身体を乗っ取ったのは、命を奪う気だったからですよ」
その言葉に、畔さんが反応した。
「おい、いい加減な事を言うなよ」
紺野さんはそれを気にしない。軽くあしらった。
「いい加減な事かどうかは、これから分かります」
そして、小枝さんを見つめてこう続ける。
「さて、叶さん。私はこれから“お籠り”をやろうと思っています。もっとも、疑似的なものですがね」
小枝さんは、それを聞くと首を傾げた。
「お籠り、ですか?」
不思議そうな小枝さんの様子を見てか、山中さんという人が説明をした。
「お籠りというのは、神社や寺で行われていた行事で、村人達で泊まり込んで、祈りなどを行うものです。単なる儀式ではなく、それを行う事で、村内の人間関係を調整する役割があったとも言われています。
その昔、この場所でも、似たような事が行われていたのではありませんか?」
それに小枝さんは頷いた。
「はい。“お籠り”かどうかは分かりませんが、確かに人は集まって来ていたそうです。もっとも、私はほとんど記憶していませんが」
その言葉を受けると、山中さんがまた尋ねた。
「すると、やはり、ここは神域だったのですか?」
「神域と言えるかどうかは分かりませんが、特別な場所だった事は確かです。私は、ここは重要な場所だから、決して見捨ててはならないと教えられて育ちました。人が住むべき土地だからと。人はこの場所に暮らす事で、自然を敬う事を知るのだと。それこそが、この地の信仰だとも言われました。
……ただ、やはり僻地ですから、少しばかり難しくて。それで、仕方なく、行き場のない人達を受け入れる事にしました。そういう人達じゃなければ、来ていただけないのでないかと思いまして。
世間では私を人格者だと言っている人もいるようですが、だから決してそんな事はないんです。本当の目的は単に人を呼びたかっただけで……」
そう言った後で、小枝さんは呟くようにこう言った。
“寂しかったから”
と。
それを聞くと、紺野さんは数度頷き、こう返した。
「なるほど。その心理を、ナノネットにつけ込まれて利用されてしまったのですね。この地に、時期を同じくして偶然に、ナノネットが繁殖していたんだ」
しかし、そこで畳さんが口を開いた。
「つけ込まれた? 違うわよ。小枝さんは、自分から積極的にナノネットを利用したの。もっとも、思った通りにはならなかったようだけど」
それを聞くと、紺野さんは黙って畳さんの事を見据えた。そして、それから、ゆっくりとこう口を開く。
「興味深い話ですが、後にしましょう。そろそろ、“お籠り”を始めたいと思います」
紺野さんはいつの間にか、何かのスイッチを手に持っていた。それを押す。
「さぁ この“叶小枝の家”に住まう者達、全員に、ここに出て来ていただきましょうか」




