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16.自己言及の系とその危うさ

 (憑人・星はじめ)

 

 「再帰性という言葉をご存知ですか?」

 そう紺野さんが言いました。僕が再び、“叶小枝の家”に向かう途中の車の中。そこには森里佳子ちゃんの姿もあります。彼女は“叶小枝の家”をハッキングする為に、ここに一緒にいるんです。くまのぬいぐるみを、いつも通りに抱えている。彼女は、別人格である“くまさん”に変わる時、まるでぬいぐるみで劇でもやるかのように、それを操るんです。

 車内には、例によって、ナノネット関連の機材がたくさん積まれていました。レトロに思えるものから、最新式のものまであるので、なんだか奇妙な景色になっています。

 「再帰性ですか? いえ、あまり聞いた事がありません」

 僕がそう言うと、紺野さんは説明を始めました。

 「これは、自己言及に近い概念なんですが、自己の中で、自己を対象に処理するようなものをいいます。まぁ、幅広い概念ですから、ここでは自分の影響で自分が変化する、というような意味として捉えてください」

 突然、どうして紺野さんはこんな事を言い始めたのだろうと、僕は不思議に思いました。すると、その表情を読んだのか、紺野先生は更に続けます。

 「実は最近、ナノマシン・ネットワークにおける“再帰”を研究していましてね。それでとても忙しかったんですが。

 だから、連想しただけかもしれませんが、今回のこの事件では、もしかしたら、この“再帰”が起こっているのかもしれませんよ」

 僕はそれを聞いて、後ろを走る山中さんの車を気にしました。いえ、多分、この話は山中さんも聞きたかったのじゃないかと思いまして。

 彼女は後で里佳子ちゃんを家まで送る為に来ているので、一緒に来る必要はなかったのですが、「どうしても、里佳子ちゃんに宿るくまさんを見たいんです」と本人が言うもので、こうして付いて来ているのです。現地でくまさんが“叶小枝の家”のナノネットをハッキングしている間、彼女はやる事がないので、後で来た方が良いと思うのですが。

 因みに、藤井さんはいると却って邪魔になりそうだから、と言って付いて来ませんでした。本心なのか、それとも単に面倒だったからなのかは分かりませんが、紺野さんもそれを特に気にしていないようです。

 「どうして、そう思うんですか?」

 僕がそう尋ねると、紺野さんは「ネットワークの内部で、様々な葛藤が起こっているように見えるからですよ」と、そう言いました。それから、こう続けます。

 「まぁ、本当を言ってしまえば、要素が相互に影響を与え合う系ならば、再帰はとてもよく観られる現象なので、今回の件に限らないのですがね。ネットワーク構造を持っているのなら、尚更です。ですから、ナノネットでも当然、普通に観られます。ただ…」

 「ただ?」

 「今回の事件にナノネットが関与しているのだとすれば、とても特徴的に再帰が起こっているのではないかと思えまして。その服部君という子は、内部観測を顕著に行っているような気がするんです。それで、ナノネットが自己言及を行っているように思える。

 そして、この点を星君によく覚えておいて欲しいのですが、この“再帰”… いえ、自己言及というのは、秩序を崩壊させる危険性を持ってもいるんですよ」

 「秩序を崩壊って、ただ、自己を追及するだけなのに、ですか?」

 「そうですよ。考えみてください。自己を追及するというのは、つまりは自己を疑う事でもある訳でしょう? つまりは、系を成り立たせる土台を疑う行為だ。土台が揺らぐのだから、当然、系は安定性を失います。

 日本で憲法が変え難く設定されているのはだからですね。社会を成り立たせる為のルールが簡単に変わってしまっては、不安定になって社会が維持できない。人間社会の場合、自由にルールを設定させてしまうと、ルールを作る者にとって都合の良いものにされてしまうといった問題もありますが…

 そして、この自己追求には、奇妙な現象を起こすという特性もあるんです」

 それを聞いて僕は「確かに、“自分探し”をしている人って、傍から見たら、変な行動をしがちに思えますが」と、少しだけおどけてそう答えました。それを聞くと、紺野さんは少しだけ笑って、こう返します。

 「いえ、別にそういう事ではありませんよ。完全に無関係とも言い切れませんが。

 人間社会で、これが分かり易く現れるのは、金融経済ですかね? 金融経済というのは、通貨自体を商品として扱う分野ですが、これはつまりはメタという事です。メタが自己言及だというのは、分かりますよね? メタ言語というのは、言語自体を扱う言語という意味です。通貨は本来、商品の価値の象徴な訳ですが、そこから外れて、通貨自体が価値を持ち、取引が行われるようになってしまった。そしてそこでは、バブル現象のような、需要と供給のバランスで価格が調整されるのなら、本来起こり得ない現象も起こってしまう。因みに、もっと詳しく観ていくと、金融経済では、もっとおかしな現象が観られてもいるのですよ」

 バブル現象は、物の値段が高くなった事で、売る事による利益が得られると期待され、それで需要が増す現象です。需要が増せば、また物の値段が上がりますから、それで更に需要が増え、以後、この繰り返しで、常識外れな値段にまで跳ね上がるのです。もちろん、それは“幻の価値”ですから、いつかは急激な低下が起こるのですが。

 「ルール自体を変えられる力を持ったルール。そこで何が起こるのか、どんな性質を持つのか。残念ながら、今の科学では充分に研究されてはいません。“ゲーデルの不完全性定理”が発見されるまでは、矛盾だと判断されればそれでお終いで、その矛盾のある何かを研究しようなどと思う論理学の研究者は現れなかったのですから、それは無理もないのかもしれませんが」

 紺野さんがそう続けるのを聞いて、僕はこう尋ねました。

 「でも、紺野さんはそれを研究しているのでしょう?」

 「確かに研究していますよ。ただ、まだ研究し始めたばかりで、成果という程の成果は得られていません。それに、飽くまで研究対象はナノネットですからね。それが、人間社会にまで当て嵌められるかどうかは、分かりません……」

 そう言い終えると、紺野さんは少しだけ黙りました。口を開きます。

 「実は私は、あなたを“叶小枝の家”に放り込む事で、この自己言及を強めてやろうかと思っているのですよ。保険金詐欺の件を、あなたに伝えたのは、だからです。ナノネットを刺激してみたかった。その時、あの家に何が起こるのか…… もしかしたら、その先には崩壊が待っているのかもしれません」

 僕は紺野さんのその言葉に、少しだけ驚いていました。そんな僕を見てか、里佳子ちゃんが心配そうに僕の腕をつかみました。僕の顔をじっと見ている。

 多分、“大丈夫だから安心しろ”と言っているのだろうと思います。

 確かに、ここは紺野さんを信用するしかないのかもしれません。

 

 やがて、車は“叶小枝の家”に近付いてきました。そこで、突然、里佳子ちゃんの様子が変化したのに、僕は気が付きます。

 頭をカクンと俯かせ、くまのぬいぐるみの手を持つ。そして、

 「オイ、紺野!」

 少年のような声がそう響きました。里佳子ちゃんの人格が引き込んで、“くまさん”が現れたのでしょう。慣れているからなのか、紺野さんは流石に動じません。

 「くまさん。お久しぶりです。早速、何か分かりましたか?」

 そう紺野さんが尋ねると、くまさんはこう答えました。

 「ああ、薄くダガ、コノ辺り一帯にナノネットが拡がっているナ。車を停めテ、窓を開けロ。ココから探りを入れてミル」

 紺野さんはそれを受けて、言われた通りに車を停めると、ドアを開けました。後ろを見ると、山中さんも不思議そうにしながらも、同じ様に車を停車させています。僕は一応、携帯電話で彼女に事情を説明しておきました。くまさんは、しばらくは何も反応をしませんでしたが、やがて、

 「大丈夫ダ。恐ラク、今回のナノネットには、統一されタ人格なんかナイ。タダ、核が複数、転がってイル。結構、数はありそうダナ」

 と、そう言います。

 「なるほど。それは良い情報です。繁殖している主な場所は分かりますか?」

 そう紺野さんが尋ねると、くまさんはこう答えました。

 「池がアルと言っていたロ? 多分、ソレだナ。ナノネットは、一部ニ集中しているガ、水が溜まっテいる感じがスル」

 紺野さんはそれを聞くと、顎を擦りながら、「それを聞いて安心しました。もし、ここのナノネットを消去したいと思ったら、強引な手段が可能という事ですね」と、そう言います。それから紺野さんは再び車を動かしました。しばらく行くと、“叶小枝の家”へと続くトンネルが見えて来ます。紺野さんはそこで車を停めました。

 「さて、星君。いよいよ、“叶小枝の家”に行ってもらう訳ですが、その前に、このナノネットカプセルを飲んでください。これは、あなたを介して、くまさんのハッキングをやり易くする為のものです」

 そう言われて、僕は渡されたカプセルを一度ゆっくり眺めてから決心をすると、それを一気に飲み込みました。続いて、紺野さんはもう一つカプセルを渡して来ます。

 「これは、アンチ・ナノネットカプセルです。飲めば、ナノネットとの接続が切れます。大丈夫だとは思いますが、もし身の危険を感じたなら、これを飲んでください」

 僕はその受け取ったカプセルをポケットに入れておきました。そしてそれから、「それでは、言って来ます」と言い、ドアを開けます。車の外には、山中さんが待っていて「気を付けてくださいね」と、優しい言葉をかけてくれました。そして、それから僕は、“叶小枝の家”へと向かったのです。少しばかり、緊張をしながら。

 トンネルを抜け、豊かな自然の残る道を進んでいくと、“叶小枝の家”が見えてきました。僕は玄関のベルを鳴らそうとしたのですが、その前に、自然にドアが開きました。叶さんが僕を迎えに出てくれたのです。彼女が僕の存在にいち早く気が付いたのは、恐らく、ナノネットを通して察知したからだと思います。

 僕が“叶小枝の家”に戻った事に、叶さんはとても驚いているようでした。多分、畔さんから僕を逃がした事を聞いていたのでしょう。そしてそれは、彼女がここに存在するナノネットに気付いているだろう事を意味してもいます。少なくとも、この家が普通じゃない場所である事は知っているはずでしょう。だからこそ、僕を玄関で迎えた時「本当に、よろしいのですね?」と、彼女は僕に訊いて来たのだと思います。この家に関わる事は、この家の一部になる事だと言って。

 僕が「覚悟はある」と答えると、叶さんは僕を家に上げ、そして麦茶を持って来ました。今なら分かります。この麦茶には、ナノネットが混入しているのでしょう。だから、叶さんや畳さんは、僕にこれを飲ませようとしていた。

 つまり、この麦茶を飲む事は、この家のナノネットに僕が繋がる、という事を意味するのです。

 僕は決心をすると、それを一気に飲み干しました。

 叶さんは、それを見届けています。そして、その瞬間でした。畳さんが現れたのです。

 「今度は、畔さんを呼んだりしないでくださいよ」

 そう、彼女は言いました。多分、ナノネットを僕が体内に取り入れたのを観て、彼女はここに現れたのでしょう。

 畳さんは僕が戻って来た事に、とても喜んでいるようでした。ただ、それは僕自身を望んでいたからではないと思います。多分、彼女は、他の何かの為に、僕を利用したがっている。叶さんはそれにこう答えました。

 「星さんが自らの意思で、ここに来たというのなら、私に畔さんを呼ぶ理由はありません。

 ただ、あの人が自分から来る事はあるかもしれませんが……」

 すると、微かに笑って畳さんはこう言います。

 「この家が崩壊するような事になっても?」

 “崩壊する”と畳さんは言いましたが、それは紺野さんが言った事と同じ意味ではないのだと思います。どんな意味かは分かりませんでしたが。畳さんの言葉に、叶さんは少し怒ったようでした。

 「そんな事はさせません」

 そう言います。それに、畳さんはまるで悪戯でもするような口調で、「お客さんの前ですよ、小枝さん」と、そう返します。

 僕がこの家に関わると、自己言及が強くなる。

 確か、紺野さんはそんな事を言っていました。もしかしたら、既にそれは始まっているのかもしれません。

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