15.戻って来た星さん
(叶小枝の家の住人・服部真一)
星さんが戻って来た。何処に行ったのか、どうやって消えたのかはまったく分からなかったけど、とにかく、戻って来た。そして、前に感じたあの強い存在感が、再び星さんからは感じられた。
あの晩、畳さんの様子が怪しかったので、ぼくは心配になって畳さんを探したんだ。そして星さんのいる部屋から、物音が響いて来るのを耳にして部屋に向かうと、そこには星さんの首を絞める畳さんの姿があった。
「また、お前か!」
何故か、畳さんはそう叫んでいた。
そして「畳さん、止めて!」とぼくが叫ぶと、畳さんはぼくを見てこう言ったんだ。
「大丈夫よ、服部君。“これ”は、星さんじゃないから……」
これ?
そう言われて、ぼくは改めて星さんを見てみる。すると、なんと星さんの姿がどうしてなのか黒くなっている。まるで影が這い上がって、星さんを覆い隠してしまったかのよう。
なに?
ぼくは驚いて、その光景を凝視する。ただ、凝視しながら、ぼくはこれと似たようなものを前にも見た事があったような気がしていた。何処かで、ぼくはこれと同じ様なものを見ているんだ。
やがて、その黒い星さんの姿も徐々に消えていく。畳さんは既に星さんの首から、手を離していた。何が起こっているのかまったくぼくには分からなかった。その時に、畳さんが言った。
「あなたは、“これ”を見ない方が良いかもしれないわね。少なくとも、無理に知る必要はない」
そして、そのまま星さんのいる部屋のドアを閉めてしまう。ぼくは慌ててドアを開けた。ドアノブの抵抗を予想したのだけど、ドアは簡単に開いた。ただ、畳さんは自分の背中でぼくの視界を遮っていた。中の様子が分からない。星さんはどうなったのだろう?
少しの間の後で、声が聞こえた。
「そんなに睨むなよ。俺にはあんたの邪魔をする必要があるんだよ。あんたの暴走を止めないと、小枝さんだって困るしな」
「小枝さんが、あなたに連絡をしたのね?」
「それは、想像に任せる」
その声は畔さんのものだった。ぼくはそれに軽く混乱する。さっきは、畔さんの姿なんかなかったはずだ。それでぼくは、畳さんの背中とドアの間を無理矢理に通って、部屋の中に入った。すると、さっきまでいたはずの星さんの姿はなく、代わりにそこに畔さんがいたのだった。
「あの……、星さんは?」
ぼくの言葉に、二人とも何も反応をしなかった。黙ったまま畔さんは立ち上がると、そのまま部屋を出て行ってしまう。ぼくはもう一度言う。
「星さんは何処に行ったのですか?」
今度は畳さんが黙ったまま部屋を出て行った。一人残されたぼくは、さっきの黒い影を思い出し、あれのカスが残ってないかと部屋を探してしまった。それらしきものは何にも見つからなかった。部屋は、ただの普通の部屋だ。そして、星さんの姿も何処にもなかった。
それからぼくは考える。
気が付かなかっただけで、畔さんは星さんの部屋に初めからいたのかもしれない。ぼくは襲われている星さんと、その星さんの首を絞めている畳さんにだけ注目していたから、部屋の奥の方にいた畔さんには気が付かなかったんだ。
多分、そうだろう。いや、そうとしか考えられない。
それからぼくは自分の部屋に戻ると、悩んだ挙句、星さんの知り合いだという山中理恵さんという人にこの事をメールで知らせることにした。
星さんが何処に消えたにしろ、取り敢えず、伝えなくちゃと思ったんだ。
どうしようかと思ったけど、畳さんの名前は伏せておいた。星さんを畳さんが襲っていたようには見えたけど、それで星さんの姿が消えるなんて考え難い。多分だけど、星さんを消したのは、畳さんじゃないんだ。濡れ衣を着せる訳にはいかない。……それに、ひょっとしたら、ぼくが見たあの光景は、三杉君が行方不明なのと何か関係があるのかもしれない。そう思ったから、その事も書いておいた。
メールを送ってから、“これでもしかしたら、この山中さんという人が近い内に、この家に訪ねてくるかもしれないな”と、そう、ぼくは思っていた。
思っていたのだけど。
「こんにちは」
山中さんは訪ねては来なかった。そして、代わりに星さんが戻って来た。しかも、何でもないような顔をして。小枝さんは星さんが戻って来た事にとても驚いていた。
「一体、どうして戻って来たのですか?」
畳さんから聞いて、小枝さんも星さんが消えた事を知っていたのだと思う。何処に消えていたのかを、それから星さんは説明するだろうとぼくは考えたのだけど、星さんはただ「ちょっと、まだ話を聞きたいと思ったのですよ」と、そう答えるだけだった。
まるで、自分が消えてしまった事なんて忘れてしまったかのようだった。
「あの、もしよろしければ、上がっても良いでしょうか?」
次に星さんはそう尋ねた。小枝さんは迷うような顔をした後でこう言った。
「あなたがそうしたいと言うのなら、構いませんが…… 本当に、よろしいのですね? これ以上、この家に関わるという事は、あなたもここの一部になるかもしれない、という事でもあるのですよ?
あなたも薄々は、それに気付いているのではないですか?」
小枝さんの言う意味が、ぼくには分からなかった。ただ、星さんはなんとなく察したらしく、こう返す。
「大丈夫です。少なくとも、関わる覚悟でここに来た事だけは確かですから」
とても真剣な表情をしていた。それを受けて小枝さんはゆっくりと頷く。
「分かりました。では、お上がりください」
そして、そう言って星さんを家の中に招いた。応接室に通すと、小枝さんはまるで儀式のように麦茶を持って来る。そして、「どうぞ」と言ってそれを星さんに勧めた。星さんは「ありがとうございます」と言って、それを一気に飲み干す。まるで、強い決心があることを証明するような感じだった。麦茶を飲んだだけなのに。そして、星さんが麦茶を飲み干した瞬間だった。
「今度は、畔さんを呼んだりしないでくださいよ」
そう、声が響いた。畳さんの声。いつの間にか、そこには畳さんが現れていたんだ。無表情で小枝さんはそれに返す。
「星さんが自らの意志で、ここに来たというのなら、私に畔さんを呼ぶ理由はありません。
ただ、あの人が自分から来る事はあるかもしれませんが……」
「この家が崩壊するような事になっても?」
それを聞くと、小枝さんは目を剥いた。
「そんな事はさせません」
珍しく小枝さんは怒っているようだった。それに嬉しそうに畳さんは返す。
「お客さんの前ですよ、小枝さん」
星さんはその光景を、少し怯えて見守っているようだった。ただ、それほどの動揺はない。さっき“覚悟がある”と言ったのは、嘘ではなかったのかもしれない。
そこでぼくは気が付いた。星さんの感情が再びぼくに分かるようになっていたんだ。どうしてなのかは分からないけど。
二人の会話の意味は分からなかったけど、空気が悪くなった事だけは分かる。それでぼくは誤魔化すようなつもりで、星さんにこう尋ねた。
「星さんは、あの晩は、何処に消えてしまったのですか?」
もちろん、空気を誤魔化したかっただけじゃなくて、純粋に知りたい事でもあったのだけど。
ぼくの質問を聞くと、星さんは困ったように顔を歪ませた。もしかしたら、星さん本人にも何処に消えたのか分からないのかもしれない。星さんのその表情を受けてか、畳さんがこう言った。
「服部君。その事は、もう良いのよ。終わった事だから」
終わった事?
「でも、三杉君が消えたのと関係があるかもしれないし」
ぼくがそう言うと、畳さんはキッパリと断言した。
「三杉君の件とは無関係よ」
どうしてそこまで言い切れるのか、ぼくには分からなかったけど、反論ができなかった。いや、反論ができないだけじゃなく、何故かぼくは納得もしていた。
ぼくが何も返さないでいると、小枝さんが席を立ってこう言う。
「星さん。先日に利用していた部屋をまた使ってください。掃除はしてあるので、直ぐに使えると思います」
星さんはそれを聞くと「ありがとうございます」と返し、席を立った。多分、早速あの部屋に向かうつもりなのだろう。ぼくはその星さんに付いて行く。さっきの質問に答えて欲しかったからだ。
一体、星さんは何処に消えていたのか?
ところが、ぼくが付いて来る事に気付くと、ぼくが質問するより先に、星さんはこんな事を訊いて来たんだ。
「服部君、君はこの家の事をどう思う?」
「どう思うって、どういう事ですか?」
「この家が正しいと思うかどうか…。いや、このままでいいのかどうか、とか。前にも似たような質問をしたかもしれないけど」
ぼくはそれを聞くと、首を横に振った。
「このままでいいとは思いません」
できれば、変えたい。それを聞くと星さんは頷いた。
「うん。それは、ある人に言わせれば、自己言及をしているようなものだそうだよ。君はこの家に育てられた存在で、この家の一部だと言える。その君が、この家を観察し、そして変えようとしている。
そして、自己言及が見られる系では、何かしら特別な事が起こるらしい。創発現象の一部は、それによって発生している……
あ、創発現象っていうのは、何というかな… その土台となるものでは観られないものが、次のステージで発生するみたいな現象を言うのだけどね……。
一人だけでは、犯罪は存在できない。社会があって、初めて犯罪ってものは誕生する訳だけど、例えばそんな事…」
ぼくには星さんの言いたい事が何なのか分からなかった。ぼくが不思議に思っていると、星さんは続けた。
「だけど、その自己言及は場合によっては、自分自身を壊してしまう事もある。ルール自体に、ルールを変えられる力があると、秩序を保てなくなって崩壊に至る可能性だってあるから……
そしてね。もしかしたら僕は、それを起こす為に、ここに来たのかもしれないんだ。僕の存在が引き金になって、この家は壊れてしまうかもしれない。
そして、それで、或いは君自身は…」
ぼくはその言葉を聞いて、妙な予感を覚えていた。星さんの言葉はきっと嘘じゃない。脅しでもない。何故か分かった。そして、もしかしたらそれは、受け入れなくちゃいけない事なのかもしれない。




