12.神域
(怪談収集家・山中理恵)
紺野さんから、久しぶりに調査依頼がありました。ただ、私はその調査依頼が来る事を半ば予想してもいたのですが。
依頼内容は、“叶小枝の家”と呼ばれる家について。
今、藤井さんという探偵の方が、星さんというナノネットに非常に感応し易い憑人体質の人を巻き込んで、その家を調べています。そして、恐らくは、藤井さんは紺野さんを担ぎ込みたがっていると思われます。だから、きっと、近いうちに私にもその話が来ると思っていたのです。
“見事に、藤井さんの思惑通りになっちゃいましたね、紺野先生……”
その依頼を受けて、私はそう思いました。
もっとも、紺野さんがこの手の面白そうな話を無視できるはずもないですから、藤井さんの思惑うんぬんはあまり関係がないのかもしれませんが。
さて。本職の探偵である藤井さんがいるにも拘らず私に依頼が来るのには、それなりに理由があります。紺野さんが欲しているのは、叶小枝の家の人間関係などの情報ではなく、この地域における“叶小枝の家”に関する民俗学的な情報なのです。そういった内容の調査は、探偵さんにはあまり向かないでしょう。少なくとも、藤井さんには不向きです。そして私は妖怪だとか怪談などの類の話が好きで、民俗学などの社会科学方面の知識を持っていますし、そういった方面の方々とも親交があるので、そういう調査ならば得意なのです。
“確かに、この地形なら、この土地に何かあるのじゃないかと疑いたくなりますよね。こういう点に気が付くのは、流石、紺野先生……”
問題の“叶小枝の家”は、ドーナツ状の丘に囲まれていて、しかもその中の民家は“叶小枝の家”一軒だけという非常に特殊な環境にあったのです。どうして、こんな場所に、一軒だけ家が建っているのか。この土地で、“叶小枝の家”はどんな意味を持つのか。何もないなんて事はまずないでしょう。
まず、私は“叶”という姓に注目をしました。叶とは狩野に通じ、狩野とは焼畑の事で、野焼きでもあります。そして、野焼きとは、実は宗教儀式でもあるのです。
野焼きに限りませんが、宗教儀式の多くは、本来、機能的な意味を持っていて、野焼きに関して言えば、土地への栄養素の補給と害虫の駆除の効果があると言われています。つまりは、農業に深く結びついた儀式なのですね。
ただ、そうだとすると、少しばかり奇妙な点もあります。この“叶小枝の家”がある盆地には、それほど農地が多くないのです。ならば、もしかしたら、これはこの地域一帯の野焼きを、叶家がかつて取り仕切っていたという事なのかもしれません。だとするのなら、仮にこの叶家が、昔からこの土地で暮らしている人達だとして、かつては何らかの神職に就いていた可能性があります。もちろん、正式な神道などではなく、民間信仰の類でしょうが。
もっともこれは、単なる私の想像でしかありませんが。
私は現地に行って調べる前に、まずネットを利用して“叶小枝の家”の周囲の地形を、もう少し詳しく調べてみました。
すると、思っていた以上に見事なドーナツ型の地形である事が分かったのです。思わず、人工物なのではないか?と疑ってしまいたくなるほどです(流石に、それはないでしょうが)。
しばらく眺めて、わたしは奇妙な点に気が付きました。トンネルに続く道とは別に、ドーナツの輪を四分の一ほど回る感じで、中途半端に伸びる道があったのです。航空写真を見る限りでは、行き止まりで他のどこにも続いているように思えません。舗装もされていない道のようでしたが、それでもそんな無駄な道を作る意味が分かりません。少しだけ、工事費の獲得の為に、公共事業でもしたのかと疑いましたが、もしそうなら、舗装くらいしそうなものです。
そして、それを見て、わたしはこの点も現地で調べてみる事に決めたのです。
次の日、私は現地に行くと、図書館に置いてあった郷土資料で“叶小枝の家”について調べてみました。すると、かなり昔から叶家がそこにある事が分かりました。孤立した一軒屋ですから、公共インフラを整備するのにだって、その分、余計にコストがかかるはずです。貧乏な時代なら、尚更。ならば、どうしてあんな場所に家があるのか。やはり、何か意味があるはずだと考えるべきでしょう。
それで私は、それとなく、その図書館の司書の方に、その辺りの事情を聞いてみたのです。人が来なくて暇なのか、その初老の司書の方は、快く教えてくれました。
「ああ、あそこは、ずっと前は、集会場みたくなっててね、よく会合が開かていたんだ。共同の場所だからってんで、特別扱いしたのだよ。
もちろん、その当時の話だけどな。今は、廃れちまっている」
「集会場? こんなに交通の便が悪いのに、ですか?」
「いや、もちろん、全員が行っていた訳じゃないけど、偉い連中が集まってたよ。私が知っているよりずっと前は、もっと大人数で行っていたみたいだが」
私はそれを聞くと考え込みます。これは、いよいよ興味深い。続いて私は、こう尋ねてみました。
「あの、地図で見たら、あの丘の周りに中途半端に伸びる道があるみたいなんですが、どうしてなのか知っていますか?」
「ああ。その道は、丘に登る道に続いているんだよ。行けば分かるが、山道みたいなのがあるんだ。
昔は、トンネルなんてなくてさ、その道からあの盆地の中に入っていたんだな」
「盆地の中に? でも、どうせ入るなら、わざわざ道を迂回させる必要もないのじゃありませんか?」
続く道路から、直接、丘を登る道を造ってしまえばいい。それに、その司書の方は「さぁ、そこまでは知らないなぁ」と答えました。
これは、やはり直接、行く必要があるのかもしれません。
神道とは宗教ではない。という主張を聞いた事があるでしょうか? 政教分離の原則に違反し、国が神道の行事に参加したりする言い訳に、その主張が使われたりもするのですが、実際に、神道には教義がないとも言われています。
では、どうして、特定の教義がないのかといえば、それは神道が日本各地の生活の中で生まれた習俗から発生しているからなのだそうです。
ある意味では、それは各地の信仰を、寄せ集めたとも解釈できます。だからこそ、八百万の神様、あらゆるものに霊が宿る、といった考え方も生まれた、或いは生き残って来たのかもしれません。しかしならば、非常に神道的であったとしても、その中から漏れてしまった信仰というものも存在する可能性があるとは思えないでしょうか?
実際、各地に神道とは異なった民間信仰はある訳ですが、恐らく、その中には原始神道とでも呼ぶべき信仰も存在するはずなのです(古神道ともまた違うと思います)。もしかしたら、今私はそれに触れようとしているのかもしれません。そう思うと、私はなんだか興奮して来ました。
例の丘に着くと、私はトンネルではなく、丘の上の道から中を目指しました。やはり迂回する所為で、距離があります。地図で確認しても、“叶小枝の家”に行くためには、遠回りになる。つまり、この道は“叶小枝の家”に行く為に造られた道ではない可能性が大きいのです。
丘には、健康的な木々が生い茂っていました。豊かな自然に恵まれた場所のようです。
……穢れの語源は、気枯れだと言われています。そして、気枯れというのは、水不足栄養不足などで、作物が枯れてしまう事。この気枯れを払うには、当然、水分や栄養分を補給しなくてはならない訳ですが、その源泉が何なのかといえば、山や森な訳です。
木々の生い茂る場所が、作物にとっても有用であるのは当たり前の話で、そして、それを昔の人も知っていました。穢れを浄化する為の玉ぐしなどは、本来は森を象ったものだといいます。そして、だからこそ、信仰の対象とは本来、山や森そのものでした。それこそが、“神”。まさに、自然霊ですね。
だから、神道のような信仰には、その為の制度も建築物も本来は必要ではありません。自然さえあれば、それこそが信仰の対象になり得るのです。
もしかしたら、神道に教義がない一番の理由は、それなのかもしれません。敢えて言うのなら、自然と共に生きる事、そのものが教義。
丘の上の道はとても険しくて、長い歳月、手入れをされていない事が容易に分かりました。恐らく、偶に物好きなハイキング客などが利用する程度なのでしょう。登りはまだ良かったのですが、下りは少しきつかったです。
私はこの道を抜けた辺りの場所が怪しいと踏んでいました。そこに何かある。何故なら、この道が東に位置していたからです。東はもちろん、太陽の昇る方角。恐らくは、だからこそ、昔の人はここに道を造り、そして利用したのでしょう。目的地がこの先にあったのです。
因みに、私はアンチ・ナノネット体質なので、仮にここにナノネットが繁殖していても、問題にならないはずです。憑依はもちろん、察知もされない。
やっと道を下り終えると、わたしは太陽の位置を確認しました。東を見定めたかったからです。しばらく、丘に沿って東を目指して歩くと、明らかに人造物と分かる石畳が見えてきました。意味ありげに、巨岩の前に配置してあります。
近くの地面を探ると、ボロボロになって土とほとんど同化していましたが、しめ縄のようなものを見つけました。
やはり。
これは、恐らくは結界の後なのです。
社とは山や森を模したもので、だから、場所によっては社など存在せず、簡単な結界をその代わりとする。つまりは、神奈備です。この珍しい盆地は、失われた信仰において、恐らくは神域だったのでしょう。
ここで行われていた会合の本来は、この地に祈りを捧げるための儀式だったのではないでしょうか。
しかも、だとするのなら、その場に唯一住んでいる叶家は、何らかの役割を果たす為の特別な家である可能性が高くなります。もちろん、それが今回の件とどう結びつくのかは分からないのですが。




