9.気配のない住人達
(犯罪心理学専攻生・星はじめ)
山中さんのメールアドレスを、思わず服部君に教えてしまいました。山中さんなら、彼の助けになるだろうと思ったからです。もしかしたら、山中さんは戸惑うかもしれませんが、一応、この家の事情を伝えてありますし、彼女の性格ならきっと、問題はないだろうと思います。察してくれるとも思うし。
それにしても奇妙です。畳さんの強引な誘いで、この“叶小枝の家”に泊まる事になった訳ですが、どうして彼女は急に僕を誘ったりなんかしたのでしょうか? それに、叶さんも誘いこそしなかったものの畳さんを本気で止める事はしませんでした。不思議です。
この家は、ただでさえ人が多いはずですから、泊まる人間が増えれば、より大変になってしまうだろうに。
しかし、そう僕は思っていたのですが、夕刻を過ぎても、少しも人は増えなかったのでした。確か、この家の住人の数は十一人だったはずです。常に暮らしているのは、もっと少ないと聞いてはいましたが、それでも後何人かは、帰って来ても良さそうに思えます。
僕は今は空いているという部屋の一室を、貸してもらいました。そこは、泊り客の為の部屋なのだそうです。
「全員が、戻って来ると、一室も余裕はないのですが、全員が一度に戻って来る事など、ほとんどないので」
叶さんは僕にそう説明してくれました。そう言った時の叶さんは、なんだか少しだけ寂しそうにしているようにも思えました。僕にはそれが少しだけ不思議でした。彼女はここで、たくさんの人と共に暮らしているはずです。寂しいなんて事はなさそうに思えるのですが。……もっとも、今のところ、叶さんの他は、畳さんと服部君しか、この家にはいないのですが。
夕食の時も、なんだか少し寂しく感じました。食事の量も少なくて、四人分とは思えません。それは、もしかしたら、畳さんが食べようとしないからなのかもしれません。僕が食べ終えた後も、彼女の皿の上の食べ物は、少しも減ってはいませんでした。
「食べないのですか?」
その時、思わず僕はそう尋ねてしまいました。失礼かとも思いましたが、どうしても気になってしまって。
「あー、わたし、そんなに食べないのよ」
それに畳さんは、そう答えました。“そんなに食べない”どころか、まったく食べていないように思えるのですが。
畳さんはとても痩せているのですが、それで僕は納得しました。この人は極端に小食なのです。これではあまりに不健康でしょう。
「食べないと、身体に毒ですよ」
僕は思わずそう言ってしまいました。すると、畳さんは嬉しそうにしながら、こう言います。
「あら? ありがとう。心配してくれるんだぁ」
どうも、真面目には受け取ってもらえなかったよう。そう言っただけで、やっぱり食事には手を付けません。叶さんも同じ様に痩せていますが、それでも肌の色などは健康的です。恐らく、しっかり食べているからでしょう。それに対して畳さんからは、何というか、病的… いえ、まるで幽霊のような印象を受けます。
初めて見た時は、それほど気にならなかったのですが、畳さんの小食っぷりを知った上で改めて見てみると、それはとても目立っていました。
僕は一層、心配になって、また「食べた方が良い」と言おうとしたのですが(料理を作ってくれた叶さんにも悪いですし)、そこで叶さんが口を開きました。
「無理に食べなくとも、明日の昼食にすれば良いだけの話ですから」
叶さんの口調は、畳さんを庇っているようにも思えました。それで僕は何も言う事ができなくってしまいました。これ以上言ったら、僕が悪者になってしまいそう。
結局、畳さんが食事に手を付けないまま、夕食は終わりました。叶さんは、畳さんの食事を、冷蔵庫に仕舞います。慣れた感じだったので、恐らく、いつもの事なのでしょう。
それから僕は、しばらく部屋で休んだ後で、服部君の部屋を訪ねました。どうして、彼が学校に行っていないのか、その理由を知りたかったからです。最初は、少し質問するくらいのつもりだったのですが、話している内に多少、説教臭いことを言ってしまいました。その流れで、思わず信頼できる人だと言って、山中さんのメールアドレスまで教えてしまったのですが。
その服部君の部屋からの帰りに、僕は台所に寄りました。喉が渇いたので、水を貰おうと思ったのです。すると、そこで畳さんに会いました。やはりお腹が減って、さっき残した夕食を食べに来たのかと思ったのですが、どうも違うようです。単に、居間で寛いでいるだけのよう。
「どう? この家は」
僕に気付くと、畳さんはそう尋ねてきました。僕は正直に「随分と静かで、少し驚いています」と、そう答えます。
「まぁねぇ」と、それに畳さんは曖昧に応えました。僕は続けて、こう言います。
「夜になれば、誰か帰って来るものと僕は思っていたのですが、誰も帰って来ないのですね」
すると、それに畳さんは不思議そうな声で、こう返すのです。
「あら? 何を言っているの? ちゃんと帰ってきているわよ。五谷さんと、市村さん。それと、今日は仙石さんもそろそろ帰って来るのじゃないかと思うけど」
「え?」
僕はそれを聞いて驚きました。
「だって、少しも気配がしませんでしたよ。玄関を開ける音を聞いた覚えがない。それに、二人も帰って来ているのだったら、もう少し家の中から物音がしても……」
それを聞いて畳さんは、可笑しそうに笑います。
「アハハハ。それは、星さんがまだ鈍感なだけよ。この家に慣れていないっていうか。
ほら、この家って、普通の家より大きいでしょう? でも、豪邸って感じじゃない。それで、妙な錯覚を覚えるのよ。人の気配を期待しちゃうけど、期待通りには感じられないから、感覚がおかしくなるのね、きっと」
僕はそれに「はぁ」と、そう返します。そんなものでしょうか……。納得し切れないでいると、背後から声が聞こえました。
「おや? その人が、今日、泊まっているっていう星さんですか?」
振り返ると、やや大柄な男性がにこやかに笑っていました。畳さんが、「五谷さんよ」と、そう説明します。その五谷という人は、笑いながら僕に近付いて来ると、親しげに握手を求めてきました。手を出すと、妙に強く握って来ます。
「いやぁ、外の人が、この家で私を見るのは珍しいのですよ。だから、ちょっと嬉しい。あなたは、なかなか凄い人だ」
僕にはその五谷さんという人の言葉の意味が分かりませんでした。まるで、自分を妖怪か何かみたいに言っているようにも聞こえます。続けて、廊下の辺りからまた別の人が顔を見せました。その人は五谷さんとは対照的に黙ったまま、僕をじっと見つめています。
「そっちの人は市村さんね。ちょっと、大人しい人で、あまり話さないの」
と、そう畳さんが説明してくれました。僕は二人を見て驚いていました。本当に人が帰って来ていたからです。どうして、僕はこの二人の気配に気付かなかったのでしょう?
「一晩だけですが、よろしくお願いします」
僕はそれからそう言って、二人に挨拶をしました。市村さんは軽く首を振る程度でしたが、五谷さんはそれを聞くと、「アハハハ。一晩と言わず、何日でも泊まっていってくださいよ」と、そう笑いながら返して来ました。
「そうよぉ。ずっと、いちゃってもいいくらいなんだから」
と、それに畳さんも続けます。
僕は笑って、それを誤魔化しました。
それから、仙石さんという方も直ぐに帰ってきて、やっと共同生活を営んでいる家らしく、賑やかになってきました。
因みに、仙石さんは真面目そうな事務仕事でもやっていそうなタイプの人で、「ここは交通の便が悪いので、来るのが大変だ」などと愚痴を言っていました。
とても人当りの柔らかい人達で、僕は初対面であるにも拘らず、居間で軽く談話を楽しんでしまいました。本当は、どうして時々しかこの家に戻って来ないのか、その事情を知りたいと思っていたのですが、深刻な雰囲気になってしまいそうだったので、チキンな僕には聞けませんでした。
そうして、その賑やかな雰囲気に、僕は安心をしたのですが、それから居間を出て、部屋に戻ってまた物悲しさを覚えました。やはり、人の気配が少ない気がする。あれだけの人数がいる家には思えない。
ただ、僕はそれを気の所為だろうと思い、そのまま寝てしまいました。そして、それからこう思いました。
“この家を調べるのに、僕の性格は向いていないのかもしれない。雰囲気に流されると、踏み込んだ質問ができなくなってしまう……。これで、もうチャンスはないかもしれない。明日、僕はもう自分の家にいるのだから”
次の日の大学の講義は、午後からでしたが、距離があるので、早く“叶小枝の家”を出なくてはなりませんでした。それで、早朝に起きます。早い時間だったのに、既に五谷さん達の姿は見えませんでした。ここは交通が不便なので、あの人達はもっと早くにこの家を出なくはならなかったのかもしれません。まだ寝ていたのか、畳さんの姿は見えなかったので、僕は叶さんと服部君にだけ、さよならの挨拶を告げて、“叶小枝の家”を去りました。
これで、もう、この家に泊まる機会はないだろうと思いながら。
ところがです。何故か、僕はその日も、“叶小枝の家”に泊まる事になってしまったのでした。
切っ掛けは、僕が“叶小枝の家”に忘れ物をしてしまった事。大切な講義のノートを忘れてしまったのです。叶さんに連絡を取ると、送ってくれると言うので、僕は悪いと思って慌てて「取りに行きます」と、そう言ってしまいました。
あんなノート一冊を、わざわざ送ってもらう訳にはいきませんから。しかも、忘れてしまった僕が悪いのに。
ちょっとした用事があったもので、“叶小枝の家”に着いた時間は、既に夕暮れ辺りになっていました。お礼を言って去ろうとすると、前と同じ様に畳さんが説得してきます。
「もう、遅いわよ。今から帰ると、夜になるわ。夜道は危ない。タクシーを呼ぶって手もあるけど、お金がもったいないわ」
そんな事を言われました。昨日よりも、説得力はある気がします。それで、一日泊まったならもう一晩泊まっても、という気分に僕はなってしまい、結局は泊まる事に。要は流されたのです。その日の晩も、何事もなく、先の晩と同じ様に僕は過ごしました。皆の気配が感じられないのも同じで、夜になると知らない内に五谷さん達が帰って来ているもの同じ。ただ、仙石さんの姿は見えませんでしたが。
そして、次の日の早朝に、異変が起こったのです。
「おい」
と、突然、僕は起こされました。見ると、見慣れない男の人が目の前に。僕は、当然、驚きます。
「あなたは、誰ですか?」
その男の人は顔付きが悪く、なんとなくチンピラのような雰囲気がありました。そこで僕は畳さんから聞いていた畔という人を思い出します。畳さんは、その人が犯罪を犯しているような事を言っていました。それで僕は軽く緊張を覚えます。
「俺は畔っていうんだ。まぁ、この家の住人の一人だな」
やはり。
僕の頭の中に、警鐘が鳴り響きます。
どうしよう? 大声を上げようか?
そう僕は思っていたのですが、しかし、それからその畔さんは、こう言って来たのでした。
「おい。これ、あんたのだろう?」
見ると、畔さんは手に僕の大学の教科書を持っていました。
「居間の隅に置いてあったんだ。見つかり難そうな場所にな」
「ありがとうございます」
僕は不可解に思いながらも、そう言ってそれを受け取りました。すると、畔さんはこう続けるのです。
「礼はいい。これは、あの女の仕業だ」
「あの女?」
「畳だよ。畳かえで。恐らく、あんたをここの一員にしようとして、あんたの持ち物を隠したんだろう。この家に来させる為に。何度も泊まってれば、いずれはあんたはこの家の一部になっちまうだろうからな……」
“この家の一部になる?”
僕はその表現に少しだけ恐怖を覚えました。何故、そんな不気味な言い方をするのでしょう? 畔さんは、更に続けます。
「おい、あんた。悪い事は言わない。今の内にさっさとこの家を出て行け。じゃないと、あんたも被害者になるぞ」
「被害者? 被害者って…」
「事情があって詳しくは話せない。だが、これだけは言っておこう。あの、畳かえでって女は魔性の女なんだよ。小枝さんが、なんとか抑えてはいるが、彼女がいなかったら、今頃、もっと酷い事になっている…」
僕はそれに反論しました。
「確かにいい加減な人で、だらしない部分もありますが、僕には畳さんが、そんな酷い人には思えないのですが……」
どちらかと言えば、この畔って人の方が悪い人に思えます。
「馬鹿野郎。なら、どうして、あんたのこの本が、居間に隠してあるんだよ。恐らく、昨日は別の物がなくなっていたはずだ。それも、あの女の仕業だよ。
俺はな、親切で言ってやっているんだよ。普通の奴なら、まだマシだったかもしれないが、どうやらあんたは特別らしい。体質に妙なもんを感じる。この家にいちゃまずい。畳かえでに利用される」
「利用される?」
「あいつの願望… いや、欲望を適える為に利用されるんだよ。ここに住む男連中のほとんどは、元々はその目的で、あの女に入居させらたんだからな。とにかく、早くこの家を出ろ。そして、二度と戻って来るな。
畳かえでや、あの服部ってガキは、俺がなんとかしておいてやるから」
僕はその言葉に戸惑っていました。
この畔という人と、畳さん… 一体、どちらを信じるべきなのでしょうか?




