0.自己言及
(大学生・星はじめ)
ヒルベルト計画。
これは19世紀から20世紀にかけて活躍した数学者、ダフィット・ヒルベルトが提唱した、数学に堅固な基礎を与える目的で始められた計画のことです。
大きく分けて、『形式的体型の導入、無矛盾性の証明、完全性の証明』という三段階からこの計画は成っているのですが、ある数学上の大発見がこれに深刻な影響を与えました(ただし、否定された訳ではなく、研究は今も続いているのだそうです)。
それは20世紀の数学者、クルト・ゲーデルが発見した『不完全性定理』。簡単に言ってしまえば、この定理は数学が不完全である事を証明してしまったのです。だからこそ、ヒルベルト計画は、深刻な影響を受けたのですね。
と言っても、別に数学の有用性が消失した訳でもなんでもないのですが。
僕なんかには難しくて、とても理解できないのですが、『不完全性定理』は“自己言及のパラドクス”にとてもよく似ているのだそうです。
“自己言及のパラドクス”で、もっとも有名なのは、こんな文でしょう。
「私は嘘をついている」
この文が正しいのであれば、“私は嘘をついている”のだから、この文は間違っている事になります。しかし、この文が間違っているのならば、嘘をついているのだから、この文は正しい事になる。つまり、真でも偽でも、矛盾が生じてしまうのですね。この文には解がないのです。
自分自身について追及する場合、このような状況が常に発生し得る。だから『不完全性定理』は、数学自体を数学する場合に、成り立っている定理だと言えます。つまり、メタ数学なのですね。
時折、この定理によって理性の限界が露呈したなどと言われますが、だからそれは間違っているのだそうです。『不完全性定理』は数学の定理に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。メタ的な状況下でなければ、この定理は適応範囲外になるのです。
更に言ってしまうのなら、そもそも、“矛盾がある状態”を否定するからこそ、それは問題になるのであって、矛盾性を許容してしまうのならば、何ら問題にならない、という事にもなります。
実際、矛盾したまま、それでも存在しているものが、この世には在るのです。だから“矛盾した状態”で、何が起きるのか、どんな性質があるのか、そういったことを研究するという発想もありだし、役にも立つのかもしれません。
(こう考えてみると、学問というものには、本当に終わりがないと思えますね。数学は不完全である事を証明した、『不完全性定理』によって、人間社会の視野は更に広がったとも言えるのですから)
さて。“金融経済”は、通貨自体を商品として扱うメタ的な分野です。そしてだからなのか、通常の市場原理が通用しません。実体を無視して膨れ上がるバブル経済は、通常の市場原理では観られない現象で(通常の市場原理ならば、額が上がり過ぎれば、需要が低下するが、金融経済では低下しない場合がある)、恐らくその原因は、金融経済がメタ的な性質を持つからです。
因みに、市場原理が通用しないのだから、資本主義にとって大問題のはずですが、この点を指摘している人は少なく、指摘された場合でも何故か無視されがちな傾向にあるようです(これは、経済専門家達が特別愚かという訳ではなく、“経済の常識”という宗教のような信念系に彼らが属し、囚われているからでしょう。人は誰でも、そこに陥る危険性を持っています)。
もし、メタな領域の矛盾性を許容した数学が発展したなら、この金融経済の問題を解決するヒントを得られるかもしれません。
もちろん、現実で観られる“自己言及のパラドクス”はこれだけじゃありません。社会ルールで社会ルールを扱おうとすれば、絶対に解けない壁が現れる事になるだろうし(そんな事例が、裁判の判決をよく考えていくと現れる場合があります)、自己を見つめるという行為にだってそれは観られ、それが葛藤となってその人を苦しめる事もあるでしょう。もっと言うのであれば、社会の構成員である個人が、社会を観察したり、問いかける行為とは、全て“自己言及”であるとも言えるし、そこに起こる葛藤の一部には、この“自己言及のパラドクス”が含まれもするはずです。
つまり、人間の毎日の生活とは、そもそもが“自己言及”なのです。だから、“自己言及のパラドクス”に陥る可能性を常に持っている……、のだと思います。
どうも、“自己言及”とは、普通に考えられている以上に、頻繁に観られ、かつ、興味深いものであるようです。
――と、なれば、それがどんなものなのか、そこで何が起るのか、知りたくはならないでしょうか?
ここでちょっと別の観点から、この話を考えてみましょうか。
哲学的な話題でよく登場しますが、“自己とは他者を知る事で初めて生まれる”ものであるといいます。
他者を識別し、その他者から観られる自分を想定して、そこで初めて自己が生まれるというのですね。そしてもちろん、自己は他者に影響を与えています。ならば、これはこう言い換える事も可能ではないでしょうか? 自己の影響を受けた他者からの“影響”を考える事で、そこに自己が生まれる。仮に、これをネットワークで表現するのであれば、循環したネットワークが想定できます。
これは、循環したネットワークにより、影響は再帰的に伝えられる、と言う事でもあります。“再帰的”というのは、記述の中に自分自身が出てくることをいいます。自己言及もこの一例に含まれるのですが。
(因みに、この話は複雑系科学の一分野の概念である“内部観測”と似たような内容を説明しているのではないかと思います)
先ほど、“金融経済”は、メタ的な分野で、“自己言及のパラドクス”に陥る場合もあると述べましたが、この“ネットワークによる循環”を考えるのであれば、実は通常の経済だって,“自己言及のパラドクス”に陥る可能性を持っている事になります。何故なら、通貨とは循環しているものでもあるからですね。
これは消費者の多くが持っている通貨を使わなければ、不況に陥り、やがては通貨価値の下落を招く、という現象と関係があるのかもしれません。
“再帰”と関連した話ならば、まだ興味深いものもあります。実は“再帰”を利用して人間の脳は“数をかぞえる”事を実現しているというのです。いえ、正確に言うのならば、“大きな数をかぞえる”能力なのですが。
本来、人間には7までしか数を認識できないらしいのですが、再帰的に繰り返す事で、それよりも大きな数を認識できているらしいのです。もっと言及するのであれば、“無限”という概念を理解できるのは、この“再帰”に因るともいいます。
自分の中で、同じ事を繰り返す事が可能だからこそ、“無限”が理解できる。これはなんとなくイメージできるのじゃないでしょうか。
……これは、飽くまで想像に過ぎません。
ですが、再帰… つまり、“自己言及のループ”により、もしかしたら、そこに“一つの世界”が生まれるのかもしれない、なんて事を僕は想像したりもするのです。
人間社会と自然界とでは、明らかにルールが異なります。人間社会では、自分達だけでのルールを設定できる。これを可能にしているのは、根本の根本を追及するのであれば、自己言及のループ……、なのかもしれない。
自己同一性の確立… これには、多かれ少なかれ自己言及が必要になって来ます。人間の成長する心理の中でそれは頻繁に登場し、大きな位置を占めもします。
そしてそこには、『不完全性定理』によって示されたような矛盾が、常に発生する可能性がある。或いは、その“矛盾がある状態”こそが、何かしら意味を持つのかもしれない。
繰り返しますが、これは単なる想像に過ぎません。
でも、もし仮にそうであるのなら、人間社会、そしてそこに住む人間達は、絶対に“自己言及”というその宿命から逃れられないのかもしれません。生物的な意味を遥かに超えた上位の基盤から、それは発生しているのですから。
……いえ、人間社会なんて想定する必要はそもそもないのかもしれない。“自己言及”は、“世界を観測する者”、全てに当て嵌まる条件なのかもしれません。
何故なら、僕らは世界の構成要素の一つであり、そして、その世界の構成要素の一つである自分が世界を観測する、とは“自己言及”に他ならないからです。
人間が、自分の脳で“脳”を科学する。これをもって、「脳科学は自己言及する分野だ」と、そう主張している脳科学者がいます。でも、これは前述のように考えるのなら、他の自然科学だって同じでしょう。
あらゆる観測行為は、本当は、自己言及なのです。
――或いは“彼”の存在は、その自己言及によって発生した“矛盾”の一つの明確な現れなのかもしれません…
今回は、そんな事を、考えさせられるような物語… なのかもしれないと、僕はそんな風に思っているのです。




