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8 迷宮の扉

 病院の真上を見上げ、しばらく目が離せなくなった。黒い雲が渦を巻いている。

 普通の雲なんかじゃ――自然現象なんかじゃない。なぜなら、渦の中心には雲でできた巨大な顔がある。その眼窩と思しき場所は果てのない深淵へと誘うような空洞だ。そいつが、圧倒的な存在感でもって病院を睥睨している。

 見ているだけで吸い込まれそうな気分になり落ち着かない。だと言うのに、病院前の道を行く人々は、頭上に広がる異様で不気味な事態を誰一人気にしようとしない。多分、彼らには見えていないのだ。

 上空の異変は詩恵利による儀式と無関係ではない——と退魔師が告げた。クラスメイトのために張り切り過ぎたのか、おそらくは中堅クラスの悪魔を呼び寄せてしまったのだろう、とのことだ。奥歯を噛むその様子から、妹さんへの想いが透けて見える。

 僕はと言えば、ついさっき神様から頂いた勇気もどこへやら。雲に睨まれただけで竦み上がり、自分の肩を抱いている有様だ。こんなことじゃいけない、てっちゃんの身体を取り戻すのだから。

 僕の手の甲に重ねられる、大きな手の感触。肩を包む温かさに、我知らず微かな息が漏れて出た。

「退魔師……」

 気遣ってくれてるのか。

 恥ずかしい。はっきり態度に出すほどびびっていたなんて。

「…………」

 上目遣いに見上げたが、退魔師は無言で病院を睨んだまま、僕と目を合わそうとしない。

(ずるいぞ退魔師。身体があるからってそんな自然に亜美とスキンシップを――)

 口を尖らすてっちゃんが視界に入った。年齢の割に幼い仕草だが、それは僕がよく知るてっちゃんの様子だった。

「うるさいぞ生き霊。どの道、俺たちのやることは決まってんだ。成田を守る気があるならぼんやりしてんじゃねえ。俺だって……、いや、その、なんだ。俺だって、自分の身を守るので精一杯だ。正直言って、守りきれるかどうかさえ判ったもんじゃねえ」

 そうか、退魔師だって不安なんだな。

 僕は自分の肩から手を離し、右手でてっちゃん、左手で退魔師の手を握った。

「二人の言い合い見てて少し落ち着いたよ。びびっててごめん。りりちゃんと妹さん、助けなきゃね」

 あれ? てっちゃん、さっき少し薄くなったと思ってたけど早合点だったかな。むしろ、身体というか幽体というか、その輪郭に沿って燐光を放っているようにさえ見えるぞ。体温を感じる。ただ、とっくに温かいのを通り越しているような。

「おい暑苦しいぞ生き霊。化け物を倒したダメージから回復した精神力は褒めてやるが、余計なエネルギーを放射してんじゃねえ。肉体に戻る前に生命力を使い果たして成仏なんかしちまったら洒落にもならん。少しはセーブしろ」

(わかった。……ってあれ、ちょっと待て——)

「それから、いくらあんたの霊体が頑丈だからって言っても体当たり戦法は使わないぞ。病室で待ち構えているはずの悪魔は下っ端の妖とは比べ物にならんほど強力な奴だろうからな」

(待てってば。よく考えたら退魔師くんの歳って俺より一つ下——)

「行くぞ」

 相変わらずのスルースキル。傍観を決め込んでいた僕は苦笑した。


 退魔師の号令で、僕らは病院の正面の道路を横断し始めた。この横断歩道を渡り切ると、もうほとんど病院の敷地だ。目を凝らしてみたが昼下がりに見た化物たちの群れが見当たらない。まさか、いなくなったということはあるまい。

 てっちゃんの身体もだけど、りりちゃんと詩恵利さんは無事だろうか。

「さっきの小鬼グレムリンは生き霊を探していた。あんたのことを邪魔だと感じているんだろう。それはつまり、肉体に戻ろうとするあんたの想いが強いせいでネクロマンシーが難航しているということだ。確証はないが、そう思う」

 今ならまだ間に合う。乗り込むにせよ、全てを諦めて逃げ帰るにせよ。

 退魔師が無言で僕とてっちゃんの顔を交互に見た。僕らの意志を確認したいのだろう。でもそんなこと問われるまでもない。

 僕はてっちゃんと顔を見合わせた後、退魔師に向けて力強く頷いてみせた。

 無言で頷き返す退魔師の隣に並び、三人同時に病院の敷地に足を踏み入れた途端——。

 寒い。そして薄暗い。

 そういえば化物たちばかりか、患者や職員の姿さえ見当たらない。いつからだろう。横断歩道を渡る前から? 昼下がりに見た時と変わらぬ姿で聳える病棟――その正面出入口が、不気味な迷宮への入口のように見えて足がすくむ。

「かなり強力な結界だ。もう引き返せない。……病室へ行くぞ」

 退魔師の言葉に、僕らは気合いを入れ直した。胸に手を当て呼吸を整える。神社の石は持てるだけ持っている。退魔師にはさらに、神様から貰った護符が三枚。

 大丈夫、行ける。迷宮に挑むため、無理やり足に力を込めて駆け出した。


 病室の正面に着くまで、医師や看護師どころか入院患者やお見舞いの人さえ見かけなかった。それだけではない。さっきの小人のような化け物による「お出迎え」さえなかったのだ。今、僕らのすぐ目の前にてっちゃんの肉体が眠る病室がある。

 拍子抜けとさえ言える事態にも退魔師は険しい表情のままだ。彼はためらいなく病室のスライドドアに手をかけ、無造作に開いた。

 まだ夕方のはずなのに、室内はとても暗い。

(莉々花!)

「詩恵利!」

 ふたりの声が遠い。いや、遠ざかっていく。

「てっちゃん? 退魔師!」

 いない、消えた。何だ、何が起きたんだ。

 深まる闇に物理的に押しつぶされそうだ。孤立——。心臓が早鐘を打ち、背筋が冷えていく。

「てっちゃん、てっちゃん!」

 心細さに耐えきれず右腕を伸ばす。伸ばした指先が見えないほどの濃密な闇。

 唐突に、外で見た不気味な顔を思い出す。僕はあの目玉に吸い込まれたんじゃないだろうか。確かに病棟に飛び込んだはずだけど、悪魔の魔術によって錯覚させられているだけなんじゃないだろうか。

 恐怖に怯え、伸ばした腕を引っ込めようとして——。

「ひゃん!」

 掴まれた。

 細くしなやかな指が僕の腕を捕らえて放さない。しかも、見た目のしなやかさにそぐわず強い力で引いてくる。

 闇に呑み込まれる!

 いつの間にかからからに渇いていた喉は悲鳴を上げることさえままならない。せめてもの抵抗として、低く腰を落として堪えていた僕の耳に届いたのは、女の子の声だった。

「友を救うためなら危険を顧みないとはな。健気で愚かな小娘よ」

 低く落ち着いた、それでいて澄んだ声。しかし、言葉の内容と口調は悪意と威厳に満ちている。

 闇をかき分け、ツーサイドアップにした活動的な印象の少女が顔を出す。通った鼻筋と険しい目つきが意志の強さを感じさせる。どことなく、退魔師と似た雰囲気を感じさせる風貌だ。

「——————っ!」

 左腕も掴まれた。

 右腕に意識の大半を割いていただけに、完全に不意を衝かれた格好だ。

「うふふ。健気で愚かな小娘ぇ……」

 こちらは高く甘ったるい声の、髪の長い少女。僕の腕を掴んでいるというよりは、まるで甘えるかのように抱きかかえているといった印象だ。

 成長しても変わらない、小顔に大きな瞳の可憐な顔立ち。こんな状況でもほんの一瞬だけ、僕の意識は十年前に飛ぶ。

「……りりちゃん!」


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