【第四章:呼応する匕首(あいくち)】
同じ工場、同じ時間。
鳴らされた呼び鈴に応じ、モニターには議長令嬢と獣人の随扈の姿が映し出された。
ビッグボーイが車椅子を漕いで扉を開けると、所在なげに立つ二人を微かに眉を上げて見やった。その声には、少しばかりの揶揄が混じっている。
「……てっきり昨日のことにビビって、もう二度と来ないかと思ってたよ」
その言葉に、令嬢はわずかに顔を赤くして不服そうに舌を出した。
「誰がビビるもんですか!」
彼女はすぐさま変顔をやめ、視線を逸らしながら、手に持っていた精巧な包みの手土産を差し出した。
「ほら! 貴方が好きかどうかなんて知らないけど……とにかく受け取りなさいよね」
背後で獣人の随扈が「受け取ってほしい」と促すように頷くのを見て、ビッグボーイはようやくそれを受け取った。彼は目を細めて言う。
「……随分な『恩寵』だな」
「私、人から受けた恩をそのままにするのは嫌いなの。昨日は助けてもらったし、これはそのお返しよ」
令嬢はぷいと横を向いて鼻を鳴らした。
手に持った手土産を見つめ、ビッグボーイは怪訝そうに眉を寄せた。
「……分からないな。あんたのような厚いバックボーンがあれば、大抵の人間より優雅に暮らせるはずだ。なんで俺みたいな、まともに動けない人間にまとわりつく?」
それを聞くと、令嬢はさらに不満げに反論した。
「……できるものなら、私と立場を代わってみなさいよ。貴方が言うほど、楽じゃないんだから……」
「……まあいい、答えないならそれで構わない」
ビッグボーイは眉を上げて深く溜息を吐くと、車椅子の向きを変え、二人に背を向けた。
「あんたの要求を聞こうと思ってたんだがな。内容によっちゃ、力になれるかもしれないと思ったんだが」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、令嬢の瞳に焦りの色が走った。彼女は慌てふためいて叫ぶ。
「待って! 言うわ、言うから!」
ビッグボーイが振り返ると、令嬢は唇を噛み、深く息を吸い込んで話し始めた。
「……貴方には、私たちが手に入れられない情報を、いとも簡単に手に入れる力がある。内容を書き換えることだって……。だから、お母様のスケジュールの内容を弄って、少しだけでも空き時間を作ってほしいの。……それか、私の教師評価を書き換えて、『もっと娘のそばにいてあげてください』って付け足すとか……」
令嬢の視線がビッグボーイと床の間を落ち着かなげに彷徨う。彼女は少し躊躇ってから問いかけた。
「……貴方にとっては朝飯前でしょう? そんなに無茶な要求じゃないはずよね?」
静かに聞いていたビッグボーイは、不可解そうに問い返した。
「……直接、母親に正直に言えばいいだろう。あんたの母親なら、理解してくれるはずだ」
令嬢は白目を剥いて大きな溜息を吐き、その細長い尖った耳も力なく垂れ下がった。彼女は精気のない声で答える。
「そんなに簡単なことなら、最初からここにいないわよ……」
「『いい子ね、お母様は忙しいの。ごめんなさいね、お母様を理解してちょうだい……』」
令嬢は精霊議長の口調を真似ながらソファの前まで歩き、そのままどっかりと座り込んだ。彼女は上を向いて不満をぶちまける。
「毎回、毎回、そんな言葉で誤魔化されて! ……結局、貴方を連れ回す暇はあるのに、私と過ごす時間は惜しいってことでしょう?」
彼女の話を聞き、ビッグボーイはようやくその「誤解」の正体に気づいた。
「……どうやら、あんたは勘違いしているな。あんたの母親と俺は、介護支援という形をとって、互いに情報を交換し合っているだけだ」
「だったら、なんで直接議会でやらないのよ……」
令嬢の感情が昂るのを見て、獣人の随扈がソファの傍らに歩み寄り、機械の右手を彼女の肩にそっと置いた。
令嬢は獣人を見上げ、彼がビッグボーイの方へ視線を泳がせるのを見た。彼女の目はビッグボーイの不自由な脚へと止まり、自分の失言に気づいて謝罪を口にする。
「……ごめんなさい。わざとじゃ……」
ビッグボーイは欠損した脚を一瞥し、軽く手を振って淡々と答えた。
「構わないさ。こんな生活にはとうに慣れている」
彼は沈思黙考に陥り、右手で無意識に車椅子の肘掛けを叩いた。やがて視線を令嬢へと戻すと、その顔には厳粛さと躊躇いが入り混じった表情が浮かんでいた。
鋭い眼光で彼女を凝視し、低く警告する。
「……いいか、こんな行為がバレれば、あんたも俺もタダじゃ済まないぞ。あんたの我儘のせいで、これ以上面倒なことに巻き込まれるのは御免だ」
だが令嬢は希望を見出したかのように瞳を輝かせ、すぐさま胸を叩いて保証した。
「大丈夫よ! お姉さんに任せなさい、絶対に貴方を守ってあげるわ! 私はこれでも精霊議長の娘なんだから!」
その無邪気な保証に、ビッグボーイはまず眉間を指で押さえ、それから目を細めて問い返した。
「精霊の寿命は確かに人間より長い。あんたは見たところ170歳から180歳くらいか? 人間に換算すれば17、8ってところだろう。俺はこれでも50歳だ。……理論上、俺の方が年上なんだよ」
(※注:この世界では50歳の人類は地球換算で25歳前後の成熟度にあたる)
令嬢は気まずそうに乾いた笑いを漏らし、慌てて言い換えた。
「と、とにかく! 妹が絶対に守ってあげるから、大丈夫! 保証するわ!」
「……今回だけだ。力になれるかもしれないのは」
ビッグボーイは仕方のないように溜息を吐き、車椅子を投影装置の方へと向けた。
入り口に立っていた獣人がその言葉にハッとし、右足を一歩踏み出した。だが、好奇心に駆られた令嬢が先んじてビッグボーイの隣へと駆け寄った。
「ただし、知っておくんだな。母親のスケジュールを変更すれば、少なからず連鎖反応が起きる。俺がいじれるのは、影響の少ない公益活動や親民活動の類だけだ。それも、主催側のスケジュールまで一括で変更しなきゃならない」
彼は喋りながら、鮮やかな手つきでキーボードを叩き、水晶球を回した。投影機の画面が激しく明滅する。手慣れた様子で議会ネットワークのログイン画面に侵入し、右側のリスト欄へと視線を移した。作業員のデータが高速で選別され、最後にある政府職員の項目で停止する。
「はっきり言っておくが、あんたの指定通りにはいかない。あんたが望む結果になるとも限らないぞ」
ビッグボーイは左側の画面から、あらかじめ用意していたアカウントとパスワードを呼び出し、メイン画面に入力した。
彼がその職員のスケジュール表を閲覧する間、令嬢は隣でその操作を食い入るように見つめていた。その表情は、あまりの速さに目を回しているようにも見える。
いくつかの画面を跨いで鮮やかな操作を終えると、ビッグボーイは呆然とする令嬢に向き直った。
「……よし。この日の活動を安全点検の名目で一日後ろへずらした」
そのあまりにも淡々とした操作に、令嬢は一瞬思考が停止した。半拍置いて、信じられないといった様子で問いかける。
「……それだけ? これだけで終わり?」
ビッグボーイは肩をすくめ、事も無げに答えた。
「ああ、これだけだ。その日は精霊議長とゆっくり過ごすといい。俺ができるのはここまでだ」
「世界樹よ……」
指先一つで世界を書き換えるような奇跡を目の当たりにし、令嬢の脳内には瞬時に無数の悪巧みが閃いた。彼女は瞳を輝かせ、ビッグボーイの腕に抱きつくと、興奮気味に詰め寄った。
「ねえ、私にも教えてくれる!?」
ビッグボーイの顔が露骨に引きつり、冷たく切り捨てた。
「却下だ」
簡潔すぎる返答に、令嬢は冷水を浴びせられたような顔になり、口を尖らせて不満を漏らした。
「えぇー……ケチ……」
「……気が変わらないうちに帰れ。スケジュールを元に戻してもいいんだぞ」
ビッグボーイが目を細め、手をキーボードへと伸ばす。
「あぁっ! ダメダメ!」
令嬢は慌てて机の上に覆いかぶさり、デバイスを隠した。
その子供じみた振る舞いを見た瞬間、ビッグボーイの中で何かが停止し、記憶の奥底にある光景が呼び起こされた。
(……女の子ってのは、どいつもこいつも老妹(妹貴)と同じなのか?)
(……それとも、ただの偶然か……?)
ビッグボーイは猛然と頭を振り、車椅子を回して背を向けた。
「……すまない、疲れたんだ。早く帰ってくれ」
「えっ……怒ったの?」
彼の突然の冷淡さに、令嬢は首をすくめ、指をもじもじさせながら謝罪した。
「……ごめんなさい……」
「いいからッ!!」
記憶と同じ言葉が、ビッグボーイを再び刺激した。彼は自制を失って怒鳴り声を上げたが、すぐに我に返って失態を悟った。彼は声を低めて謝罪する。
「……すまない。本当に体調が良くないんだ。取り乱した。……用があるなら、明日また来い……」
驚きに目を見開いた令嬢は、ベッドの前まで滑っていくビッグボーイの後ろ姿を見つめていた。事情が飲み込めないまま、彼女は鼻をすすり、所在なげに言った。
「……とにかく、助けてくれてありがとう」
令嬢は足音を殺して扉を閉め、立ち去った。
単調な足音が遠ざかると、室内には再び静寂が戻った。だが、その場から動かずにいた、もう一つの重厚な気配が際立って感じられた。
ビッグボーイは深く息を吸い、その場に残った獣人の随扈に背を向けたまま言った。
「……さっきの態度のことは、謝る。わざとじゃないんだ」
沈黙が流れた後、ビッグボーイは言葉を継いだ。
「……勝手に議長のスケジュールを変えたことが不満なら、あれが唯一の解決策だったと思ってくれ。俺が議長に直接話せば、あんたたちが俺と接触していることが露呈する。それに、部外者が家庭の事情に首を突っ込むのもおかしな話だろ」
言い終えても、獣人は答えなかった。彼はただ眉を寄せ、ビッグボーイの背中を見つめて重い溜息を一つ吐くと、静かに部屋を出て扉を閉めた。
令嬢と獣人が車に乗り込む。先ほどのビッグボーイの感情の爆発を思い返し、令嬢は思わず唇を尖らせて尋ねた。
「……私、さっき彼を怒らせちゃったのかな?」
「……いや。彼個人の問題だ、詮索はよせ」
獣人は座り直し、ハンドルを握りながら溜息を吐いた。そして、諭すように口を開く。
「お嬢様も、あまり余計なことを考えないでください。この手の改ざんがどれほどのトラブルを招くか、分かっているのですか?」
令嬢は頬を膨らませ、耳を塞いでへそを曲げた。
「分かってるわよ……もう言わないで。……今回だけだから」
獣人がエンジンを始動させ、車は工場を離れた。
対向車線に停まっていた古ぼけたバンもまた、それに続くようにエンジンをかけ、背後から追随していった――。




