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【三顧の礼、あるいは招かれざる客】

 昇り始めた太陽が、混み合う車列を照らし出す。

 学園のチャイムが鳴り響くと、正門からは学生たちの波が溢れ出した。


 その人混みを縫うように現れた議長令嬢は、待機していたセダンへと飛び込む。彼女は運転席の獣人の随扈ずいこを急かした。

「さあ、出発よ! まずは高級菓子店パティスリーへ!」


 エンジンをかけたばかりの獣人は、期待に満ちた令嬢の横顔をミラー越しに見て、苦笑いした。

「お嬢様……今日は何かいいことでもあったのですか?」


 彼女は目を細め、狡猾な笑みを浮かべて唇を吊り上げた。

「ふふん、手ぶらで工廠こうしょうへ行くわけにいかないでしょ?」


「はあ!?」

 獣人は衝撃を受け、慌てて彼女を思い止まらせようとした。

「お嬢様……あの方は素性も知れぬ人間です。あまり関わらない方が……」


 一晩かけて「完璧な計画」を練り上げた令嬢は、自信たっぷりに答える。

「だからこその贈り物よ! 歴史の授業で習ったじゃない。勇者が隠居中の魔導師を仲間に引き入れるために『三顧の礼』を尽くしたって話をね」


 獣人は顔を引きつらせ、呆れたように口を尖らせた。

「……それ、深淵戦争の戦史と何か関係があるんですか?」


「あるに決まってるじゃない! 『チート(金手指)』を山から引きずり出すには、それ相応の礼節が必要なのよ!」

 令嬢は得意げに急かした。

「もう、四の五の言わずに早く出してちょうだい!」


 令嬢の強引な督促に、獣人は抗う術もなくアクセルを踏み込んだ。こうして二人は、菓子店を経由してあの廃工場へと向かうことになった。


 工場の二階、あの小さな部屋の前。

 ビッグボーイは死んだような魚の目で、扉の前に立つ二人組を眺めていた。

 そこには、精巧なデコレーションケーキを手にした令嬢が、あざとい笑みを浮かべて立っていた。


(……また来たのかよ)


「あ、あの。ビッグボーイ。昨日のことは謝るわ。このケーキで、昨日の誤解を水に流してほしいの」

 令嬢はいたずらっぽく、ぺろりと舌を出してみせた。


 その芝居がかった台詞を聞き、ビッグボーイは獣人の随扈に視線を移した。獣人は気まずそうに目を逸らし、工場の外の景色を眺めるふりをしている。


「ほら、喧嘩するほど仲がいいって言うじゃない? このケーキ、とっても美味しいのよ。一緒に座って食べないかしら?」

 令嬢は友好的な態度を装い、ケーキをビッグボーイの目の前へ差し出した。


「『知らないおじさんからお菓子を貰っちゃいけません』って、母親に教わらなかったか?」

 ビッグボーイは目を細めてケーキを一瞥し、眉を上げて令嬢に問いかけた。

「それに、俺に甘いものを食べる習慣はない。……単刀直入に用件を言え」


(チッ、こいつ……何なの? 予定と全然違うじゃない……!)


 社交辞令が通用しない相手に、令嬢は一瞬たじろいだ。微動だにしないビッグボーイを前に、彼女の脳細胞が高速回転を始める。

 彼女は取り繕うように笑った。


「ふふ、ごめんなさい。私のリサーチ不足だったわね。でも、贈り物は礼儀でしょう? 運命に導かれて出会ったんだもの、少しお願いを聞いてほしいの。ね? 運命のいたずらって素敵だと思わない?」


「本音は?」

 ビッグボーイは依然として目を細めたままだ。安っぽい話術には一分も乗る気はないらしい。


 化けの皮を剥がされた令嬢は、屈辱を堪えながら白状した。

「……ああ、もう! 分かったわよ! せっかく顔見知りになったんだから、友達になりましょう。それで、後で少しだけ手伝ってほしいことがあるの」


「嫌だ」

 ビッグボーイは即答した。


 令嬢は一瞬固まったが、引きつった笑みを保ったまま食い下がる。

「じゃ、じゃあ……お母様のスケジュールの書き換えくらいならできるでしょ?」


「できない」


 令嬢は深く息を吸い込み、ケーキを彼の頭に叩きつけたい衝動を必死で抑え込んだ。最後の優雅さを保ちながら、彼女は問う。

「……じゃあ、貴方のその『技術』を私に教えるっていうのは?」


「無理だ」


「ぐ……っ……!」

 笑顔を崩さない令嬢の喉から、押し殺したような呻き声が漏れる。


「……はぁ。いいわ。今日は忙しいみたいね。また出直してあげるわ……!」


 彼女は拳を握りしめ、ケーキを抱えたまま、踵を返して部屋を飛び出していった。

 取り残された獣人の随扈は、ビッグボーイに申し訳なさそうに何度も頭を下げると、脱兎のごとく令嬢の後を追っていった。


 同じように太陽が昇り、同じように車が溢れ、再び学園のチャイムが響く――。


 令嬢はセダンの助手席にどかっと座り、腕を組んで歯噛みした。

「行くわよ! 私は諦めないんだから!」


「お嬢様、もうよしましょうよ……。元々、赤の他人なんですから」

「誰が赤の他人よ? お母様と出かけてるくらいなんだから、何かしら弱みがあるはずよ。私の執念を見せてやるんだから!」


 令嬢は悔しげに言い放ち、こう付け加えた。

「あいつの専門技術だって、世界に一つだけじゃないはずよ。私にだって習得できるわ!」


 それを聞いた獣人の随扈は、顔に大量の汗を浮かべながらハンドルを握った。

(……これ、当初の目的からだいぶ逸れてきてないか……?)


 工場。ビッグボーイと令嬢は、至近距離で睨み合っていた。

 沈黙がしばらく続いた後、耐えきれなくなった令嬢が口を開く。

「……いつまでこうして見つめ合うつもり?」


「勝手にしろ」

 ビッグボーイは車椅子を回し、ホログラム投影装置の前へと戻った。


 入り口に放置された令嬢は不満げに声を上げる。

「ちょっと! 少しはジェントルマンらしくできないの?」


「悪いな。あんたの言う『ヤギ髭を蓄えた、風になびく長髪の特務』じゃないもんでね」


「貴方……っ!」

 憤慨した令嬢は足音を荒らげて室内へ踏み込み、椅子を乱暴に引きずってビッグボーイの隣に陣取った。

 その物音に、ビッグボーイが眉を上げて振り返る。

「……今度は何だ?」


「貴方のことなんて気にしてないわよ! 貴方は貴方の仕事をしなさい。私は私のことをするだけだから!」

 令嬢は頬を膨らませ、目の前のディスプレイを凝視した。


「好きにしろ」

 ビッグボーイは一度目を細めたが、それ以上は構わなかった。


(見てなさい……習得できないはずがないんだから!)


 令嬢はビッグボーイの動作と投影装置を全神経で追った。彼が時折打ち込む理解不能なコード。画面上で次々と書き換わる膨大なデータ。

 令嬢の姿勢は、最初は凛としたものだったが、やがて片手で頬を突き、最後には重たいまぶたが上下し始めた。


「……すぅ……ふぅ……」


 微かな寝息が、ビッグボーイの集中を削いだ。彼が眉を寄せて横を見ると、令嬢はいつの間にか机に突っ伏して熟睡していた。


 その光景を見た瞬間、ビッグボーイの脳裏に、かつての懐かしい情景がフラッシュバックした。彼は無意識のうちに穏やかな微笑を浮かべたが、すぐさまその表情を消し去った。


 ビッグボーイは振り返り、ソファに目をやった。そこでは獣人の随扈もまた、頭を仰け反らせて爆睡していた。

 狭い一部屋に「獣」と「エルフ」が一人ずつ。ビッグボーイは溜息を吐き、車椅子を転がして獣人のもとへ向かった。


「おい、起きろ」

 彼は獣人の頬をペシペシと叩く。


「……あ、ん……?」

 獣人は寝ぼけ眼で飛び起きた。


 死んだような目でビッグボーイが忠告する。

「今すぐ帰らないと、議長に殺されるぞ」


「あ、あああ!」

 正気に戻った獣人は目を見開き、慌てて頭を抱えた。


「しっ、静かにしろ……」

 ビッグボーイは人差し指を口に当て、机で眠る令嬢を指差した。

「彼女を背負って帰れ。ぐっすり眠ってる。起こさないようにな」


 二人がかりで、獣人は令嬢をそっと背負った。立ち去り際、獣人はビッグボーイに感謝と謝罪を込めて一度頷いた。ビッグボーイはただ、肩をすくめてそれに応えた。


 翌日。再び扉を開けたビッグボーイは、依然として気だるそうに尋ねた。

「……まだ来るのか?」


 令嬢は顔を真っ赤にし、頬を膨らませて横を向いた。

「昨日は……ちょっと寝ちゃっただけよ! だからノーカウントなんだから!」


 その無意識な仕草と言葉が、ビッグボーイの記憶の底にある声と重なった。

 ――『兄ちゃん! 今のはまだ練習中だったんだから、ノーカウントだよ!』


 ビッグボーイは眉間に指を当て、不意に蘇った記憶を振り払おうとした。彼は警告するように片眉を上げる。

「ノーカウントとかそういう問題じゃない。……今日、あんたの母親がここに来る。それでも居座る気か?」


「ふん、子供扱いしないで。お母様は議会で忙しいの。こんなところに来る暇なんて……」

 令嬢の声が、一瞬だけ寂しげに曇った。だが、彼女はすぐに首を振り、目を細めて言った。

「とにかく、そんな嘘で私を煙に巻こうなんて無駄よ」


 ビッグボーイは黙って顔を背け、監視モニターを指し示した。そこには今まさに、工場へと足を踏み入れる人影が映っていた。

 そのシルエットを、ビッグボーイは見間違えるはずもなかった。


(……噂をすれば、か。もう間に合わねえな)


 彼は車椅子を下げ、不敵に笑う令嬢に画面を見せた。

 疑い深そうにモニターを覗き込んだ令嬢の顔から、一瞬で血の気が引いた。彼女は冷や汗を流しながら、獣人に小声で助けを求める。

「え、ちょっと……お母様、本当に来たわ! どうしましょう……!」


 それを聞いた獣人も硬直した。モニター越しに見える議長の姿に、彼は恐怖で戦慄する。

「こんな急に……私だって、どうすればいいか……」


 この活発な二人組の慌てふためく様を見て、ビッグボーイは深い溜息を吐いた。

「……汚れるのが嫌じゃなきゃ、ベッドの下に一人分のスペースはある」

 彼は令嬢にそう告げると、獣人を指差して部屋の隅のドアを示した。

「悪いが、あんたはトイレで少し辛抱してくれ」


 二人は一瞬見つめ合ったが、外から階段を上る足音が聞こえてくる。もはや選択の余地はない。二人はビッグボーイの指示通り、それぞれの場所に身を隠した。


 扉がノックされ、ビッグボーイは車椅子を転がして応対した。

 入ってきた精霊議長は、開口一番に尋ねた。

「変わりはないかしら?」


「いつも通りだ」

 ビッグボーイは肩をすくめた。

(……あんたの娘に絡まれてる以外はな)


 議長は彼の背後に回り、外へ連れ出そうとした。

 だが、ビッグボーイは首を振ってそれを断る。

「今日はいい。まだ書かなきゃならないコードがあるんだ」


 議長は眉を寄せ、母親のような口調で説教を始めた。

「……一日中画面に向かっているなんて、不健康よ」

「構わないさ。他のメンバーが散歩に連れ出してくれる」


 二人が話しているその時、ベッドの方から「ドンッ」と鈍い物音が響いた。

 その音に、議長が振り返る。彼女はベッドの下を怪訝そうに見つめた。

「……今の音は?」


 ビッグボーイは音のした方を平然と眺め、淡々と答えた。

「ああ、ドブネズミ(盗鼠)だろうな。ここにはパーツが散乱してるから、あいつらには格好の遊び場なんだ」


「まったく、貴方はお父様にそっくりね。少しは部屋を片付けなさい」

 議長は心底嫌そうな顔をし、袖を捲り上げてベッドの方へ歩み寄ろうとした。

 ビッグボーイの眉がピクリと動く。彼は車椅子を操作し、議長の行く手を遮った。

「いいよ。後でゴブリンに駆除装置を造らせるから」


「……分かったわ」

 議長は軽く溜息を吐き、言葉を重ねた。

「貴方って、性格までお父様みたいに頑固なんだから」


 ビッグボーイは眉を上げ、下唇を突き出して肩をすくめる。

 その態度に、議長は口を尖らせながらも、最後にもう一度確認した。

「本当に外出しないの? 予定がないなら、私はもう行くけれど」

「ああ、大丈夫だ。気をつけて」


 ビッグボーイは慣れない笑みを無理やり作った。

 議長は苦笑しながら首を振り、扉を閉めて去っていった。


「……よし。危機は去った。出てきていいぞ」


 しばらくして、ビッグボーイが声をかけると、隠れていた二人が這い出してきた。令嬢は後頭部を痛そうにさすり、その髪にはうっすらと埃がついていた。


 ビッグボーイは片眉を上げ、二人に告げる。

「礼はいらない。母親が帰宅する前に、さっさと帰れ」


 令嬢は唇を噛み、拳を握りしめたまま一言も発さなかった。彼女はうつむいたまま、弾かれたように部屋を飛び出していく。その後を追うように、獣人の随扈もビッグボーイに一度だけ深く一礼し、慌てて後を追っていった。

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