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【第二章:匕首(あいくち)との邂逅】

 慌てて後を追う獣人の随扈ずいこは、一際並んだ住宅に視界を遮られ、角の先も同じ住宅街だと思い込んでいた。だが、その足を止めた瞬間、彼は呆然と立ち尽くす。


 目の前にあったのは住宅などではなく、高く、そして朽ち果てた壁と、錆びついて口を開けた鉄門だった。壁の向こうからのぞく角張った建築物は、そこが工場であることを物語っている。


 獸人は頭を振り、すぐさま工場内へと足を踏み入れた。雜草の生い茂る空き地を通り抜け、お嬢様を探しながら、工場の主にどう言い訳すべきかと頭を悩ませる。


 エルフの少女が既に工場の入り口まで達しているのを見つけ、獣人は必死の形相で追いかけた。


「お嬢様……もう、いい加減にしてください……」

 ようやく背後に追いついた獣人は、彼女を連れ戻そうと説得を試みる。


「變ね……この工場、廢墟みたい。お母樣、なんであんな人間をこんな場所に連れ込んだのかしら?」

 少女は工場の中を見つめていた。高く吊るされたクレーンのフックが風に揺れ、「ガラン、ガラン」と虛しい音を響かせている。


 彼女の言葉に促されるように、獣人もようやく靜まり返った工場を觀察した。そこには微塵も生氣がない。彼は緊張で声を潛め、再び諫めた。

「お嬢様……いい加減にしてくださいってば」


 令嬢は振り返りもせず、眉を寄せて獨り言をこぼす。

「もしかして……お母樣、あの人間のチンピラに弱みを握られて……ここで恐喝されてるんじゃ?」


 彼女の腦內補完(妄想)を聞かされ、獣人の腦裏にもあり得ない光景が浮かんでしまった。

 ――普段は凜としたスーツに身を包み、端正で威嚴に滿ちた精靈議長が、車椅子の少年と背後の刺青だらけの集團を前に、ハンカチを嚙んで淚を浮かべ、怯えながら財布を差し出す。そんな哀れな姿を。


 獣人は即座に首を振り、不謹慎な幻想を振り払った。

「恐喝なんてあるわけないでしょう……。早く行かないと、工場の持ち主に見つかったら大變なことになりますよ」


「何を怖がってるの? 見つかったら見つかったで、視察兼ビジネスの相談に来たって言えばいいじゃない」

 令嬢は周圍を見渡し、最後に工場の二階へと続く小さな部屋に目を留めた。

「まだ時間はあるわ。あの人間を見つけて、真相を白日の下に晒してやるんだから」


「人間なんて放っておけばいいのに……」


 獣人は彼女の手を引いて車に戻ろうとしたが、一步早く、令嬢は二階への階段を直進していった。

 彼女が階段を驅け上がるのを呆然と見送った獣人は、顔を曇らせ、絕望的な溜息を漏らす。

「ああ……わが戦神マルスよ……」


「お嬢様、聞いてください。ここは貴女が勝手に立ち入っていい場所じゃないんですって……」


 獣人は彼女を翻意させようと後を追い、二人は前後に並んで階段を上っていく。道中、獣人は泥棒と間違われないかと周圍をキリキリと警戒していた。


 やがて二階の部屋の前に辿り著く。令嬢は錆びた鉄門と、その橫にある鈍い光を放つ曇り窓をじっと見つめた。彼女は不審げに眉をひそめ、鉄門をわずかに開けて中の様子を窺おうとする。


 だが、彼女の手が扉に觸れるより早く、內側から勢いよく扉が開かれた。

 唐突な出來事に、獣人と令嬢の二人はその場に硬直してしまう。


 扉の向こうにいたのは、車椅子に座った人間の青年――ビッグボーイだった。

 彼は目を細め、目の前の「馬鹿な二人組」を眺めるような冷めた視線で問いかけた。

「……どなたです? こんなところに何か用でも?」


 反射的に反應した獣人は、すぐさま令嬢を背後に隱し、適當な言い訳を並べ立てた。

「あ、ええと……。我々はこの工場がどのような事業を行っているのか知りたくてですね。もしかしたら後日、何らかの取引ができるのではないかと……」


(……俺までお嬢様が考えそうな下手な噓を吐いちまった……)


「一人は扉の隙間から覗き見、もう一人は舉動不審にあたりをキョロキョロと。それが『取引』に来た人間の態度か?」

 ビッグボーイは死んだ魚のような目で二人を見つめ、無造作に頭上を指差した。


 指し示された方向を見上げると、そこには隱されるように一台の監視カメラが設置されており、レンズが真下を向いていた。


 令嬢は獣人を押し退け、堂々とした態度で言い返した。

「さっき私のお母樣をここに連れ込んだくせに、よくもそんな口が叩けるわね!」


 彼女の言葉を聞き、ビッグボーイは怪訝そうに片眉を上げた。

「君の母親?」


 しばらく沈黙した後、彼はようやく彼女の正体に気づいた。信じられないといった様子で身を仰け反らせ、目の前の「野生のガキ」を確認するように見つめる。

「……あんた、議長の娘か?」


「そうよ! 私がそうよ!」

 令嬢は誇らしげに顎を引き、鼻で彼を見下ろすような仕草で答える。そして目を細めて追い打ちをかけた。

「二度とお母樣に付きまとわないことね。さもないと、痛い目を見ることになるわよ!」


 そう言い放つと、ビッグボーイは瞬時に顔を引きつらせ、盛大に白目を剝いて返した。

「議長が弱者支援の公務で來ていることと、付きまといや恐喝に何の関係があるんだ?」


「まだしらを切るつもり? 誰がこんな廢墟みたいな場所で弱者支援なんてするのよ?」

 令嬢は腕を組み、冷ややかな視線を突き刺した。まるで彼の噓を完全に見拔いていると言わんばかりに。


 ビッグボーイは平然と片眉を上げ、問い返した。

「あんたの目の前にいる俺自身が、その『弱者』だってことに気づかないのか?」


「貴方……ッ!」

 彼の輕妙な返しに言葉を詰まらせた令嬢は、赤面しながら脅しをかける。

「……白狀しなさい! 隣にいる私のボディガードは、伊達じゃないんだから!」


 卷き込まれた獣人の随扈は、呆れ果てながらもお嬢様の面子を潰すわけにもいかず、隆々とした筋肉を誇示し、下顎の牙を剝き出しにして凶暴な表情を作った。


 ビッグボーイはこの奇妙な二人組を眺め、力なく溜息を吐いた。

「信じてくれ。あんたたちは俺たちのチームとやり合いたいなんて、微塵も思わないはずだ」


「はっ! 尻尾を出したわね! やっぱり人間の犯罪グループじゃない!」

 キーワードである『チーム』という言葉を聞き逃さず、令嬢はビッグボーイの鼻先を指差して滿足げに斷じた。

「お母樣はやっぱり貴方に脅されているんだわ! 証拠を出しなさい! あとで私に罰金を上納することね。教育的指導として!」


(――人間の犯罪グループ? 弱み……議長を脅迫?)

(――最後のは何だ? それって完全に『みかじめ料』の要求だよな?)


 ビッグボーイはあまりの飛躍に絕句し、眉を寄せて嫌惡感を露わにした。

「な、何を言って……話が全然嚙み合ってないんだが」


「惡事を働きすぎて、ボロが出たわね! しらばっくれても無駄よ! 私の言う通りにしなさい。さもないと、隣の彼が貴方をあっという間に『言葉にできない形』に折り疊んでくれるわよ!」


「……勝手にしてくれ」


 この突如現れた跳ねっ返り娘が議長の愛娘であることを考慮し、ビッグボーイは吐き捨てるように答えると、車椅子の車輪を回して迷わず部屋の奧へと消えていった。


「ふん、逃げるつもりね……」

 勝利を確信した令嬢は追擊しようとしたが、背後の獣人に肩を摑まれ制止された。


「お嬢様、いい加減に。……ここは私が」

 獣人は令嬢を見下ろすと、視線を部屋の內部へと向けた。


 簡素な部屋には、シングルベッドと最低限の家具しかなかった。だが、唯一、獣人の目を引いたのは、傍らに並んだ様々な水晶と、そこから投影される無數の映像裝置だった。


 室内の配置と、ビッグボーイと議長の関係を察した獣人は、腰を屈めて狹い門をくぐり、部屋の中へと問いかけた。

「君は……政府の情報部門インテリジェンスか?」


 ビッグボーイが答えるより早く、獣人の後ろについてきた令嬢が割って入った。

「情報部門って何よ?」


「國家の威脅を排除したり、敵に潛入して情報を盜み出したりする單位だよ。學校に通っているガキが知るべき場所じゃない」

 青年は説明しながら車椅子をディスプレイの前まで進め、畫面の中身を一つずつチェックし始めた。


「貴方が? 國家の威脅を排除?」

 令嬢はそれを聞くと、露骨に不滿そうな顔をした。

「どう見ても私と同年代の學生じゃない。學業を疎かにして中退し、外で遊び步いているチンピラにしか見えないわ……」


 ビッグボーイは死んだような魚の目で令嬢を見つめ返した。

「……じゃあ、あんたの思う『情報部員』ってのはどんな姿なんだ?」


「決まってるじゃない! ピシッとしたスーツに、風にたなびく長い髮。老練で落ち着きがあって、少しヤギ髭を蓄えた渋い顔。それこそが情報部門よ!」

 令嬢は大真面目に答えた。


 彼女の描寫を聞いたビッグボーイは、魂が拔けたようにしばらく沈黙し、ようやく一言だけ返した。

「……そうか」


「……パシッ」

 あまりの氣まずさに、獣人は掌で顔を覆った。もはや自分の手に負えるレベルではない。彼は三十六計逃げるに如かずと決めた。


「申し訳ありません、すべては私の不徳の致すところです。路上で夫人と見知らぬ方が共にいるのを見かけ、さらにここが怪しげな環境だったため、職務上の判斷からこのような誤解を招いてしまいました」

 獣人はビッグボーイに向き直り、誠意を示すように上半身をわずかに傾けた。

「貴公と夫人の関係は理解しました。すぐに、お嬢様を連れて失礼いたします」


 ビッグボーイには、この獣人が責任をすべて被ろうとしているのが分かった。言葉を濁してはいるが、この二人組に惡意がないことも。


 彼はしっしと手を振り、早く歸って仕事に戻らせてくれと合図を送った。


 獣人が令嬢を連れて立ち去ろうとしたが、彼女の足はまるで地面に根を張ったかのように動かなかった。


「ちょっと! 何よ『貴方が見かけた』って! 私が見つけて貴方を呼んだんでしょうが! それに悪いのは向こうじゃない、なんで謝ったりするのよ?」

 令嬢は不滿たらたらである。


 ビッグボーイは眉を跳ね上げ、白目を剝いて溜息を吐くと、車椅子を投影裝置の方へと向けた。畫面に集中し、手慣れた手つきで卓上の水晶球を滑らせ、キーボードを叩く。


「……待て」


 制止する間もなかった。ビッグボーイの指先が鮮やかに躍る。


 壁の一つのスクリーンに『至高連合學府ハイ・ユニオン・アカデミー』のホームページが立ち上がり、その橫には理解不能なコードの羅列が現れた。


 ビッグボーイが文字列を次々と打ち込むと、畫面には即座に令嬢の學業データ、滿点の成績、さらには教職員による非公開の期末評價までもが映し出した。


(……ああ、まずいことになったぞ……)


 獣人が令嬢に目をやると、彼女はビッグボーイの鮮やかな操作に呆然と立ち盡くしていた。獣人の顔は強張り、腦內の警鐘が激しく鳴り響く。


(……開けてはいけないスイッチが、入ってしまった!)


 言葉を失った令嬢の頰は朱に染まっていた。だが、それは怒りからではない。指先一つで他人のプライバシーを根こそぎ暴き出すその光景に、得も言われぬ神秘を感じていたのだ。


「これ以上居座るなら、あんたの成績を全部『不可』に書き換えてやる。そうなったら議長がどう出るか……俺には知ったこっちゃないな」

 ビッグボーイは振り返り、うつむく令嬢を冷たく突き放した。


 令嬢は唇を嚙み、拳を握りしめて震えていた。そして一言も發さず、彈かれたように部屋を逃げ出していった。


(――あんなに簡単に、非公開のデータにアクセスできるなんて……あいつ、今なんて言った? 成績を書き換えられる?)

(――それってつまり……目の前に『チート(金手指)』がいるってことじゃない!?)

(――最高だわ! 絶対に手に入れてやる!)


 お嬢様が死に物狂いで食い下がると思っていた獣人は、彼女が脫兎のごとく逃げ出したのを見て、一瞬呆然とした。


 我に返ると、彼は慌ててビッグボーイに一度頷き、令嬢の後を追って部屋を飛び出した。


 喧騷が去り、元の靜寂に戻った部屋。ビッグボーイは一度大きな溜息を吐き、獨り首を振ると、令嬢の情報ページを閉じ、畫面を一通一通の電子メールへと切り替えた。


 內容を繰り返し精査していく。窓から差し込んでいた光が次第に弱まり、部屋は暗闇に包まれていった。


 不意に、外から重い足音が聞こえてきた。ビッグボーイが監視カメラに畫面を切り替えると、そこには先ほどの獣人の随扈が袋を手に立っていた。彼は靜かに扉を叩く。


 獣人は頭上のカメラを見上げ、手提げ袋を掲げて呼びかけた。

「……やあ。俺だ。朝のボディガードだ」


「どうした?」

 ビッグボーイは車椅子を入り口まで進ませた。


「安心しろ、惡意はない」

 扉越しに獣人の声が響く。


 ビッグボーイは眉を寄せ、扉を開けた。獣人は持っていた袋を差し出した。

「……これを受け取ってくれ」


 中を覗くと飲み物が入っていた。ビッグボーイは無言で受け取ると、顎で室內へ入るよう促した。


 獣人は手を振ってそれを断り、言葉を継いだ。

「……お嬢様のことは申し訳なかった。彼女に惡気はないんだ……」

「分かっている」


「伏してお願いする。今日のことは夫人に伏せておいてほしい」

 獣人は深く頭を下げた。

「あの子は立場上、嚴しく管理されて育ってきた。いろいろと、世間知らずなところがあるんだ」


 ビッグボーイは眉を跳ね上げた。

「……氣にするな。大したことじゃない。終わったことだ」

「すまないな。余計な手間をかけさせた」


 獣人は謝罪を終えると、背を向けて立ち去った。


 ビッグボーイは階段を降りる獣人の背中を見届け、再び扉を閉めた。手元の飲み物を見つめて少しだけ口を尖らせると、一口飲み、再び投影裝置の前へと滑り戻っていった。

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