【第一章:ショーケースの中の剣】
天蓋へと昇りゆく太陽が、東の空からその姿を現して間もない頃――。
かつて至高精霊の版図であった西大陸は、今や連合議会の全種族が共栄する「至高州」へと変貌を遂げていた。その州の西北に、数千年の時を超えて聳え立つ「世界樹」は、この地の揺るぎない象徴として君臨している。
至高州の中央には、高さの異なる摩天楼が林立し、首都の街並みを形成していた。
その一角。かつて『至高精霊魔法技術学院』と呼ばれ、現在はその名を改めた**『至高連合学府』**のキャンパス内では、教壇に立つ人間の講師が、魂の抜けたような声で教科書の内容をなぞっていた。
教室の隅。至高精霊の少女――議長令嬢は、授業など露ほども聞いていなかった。彼女はただ窓の外を眺め、虚空を見つめたまま、この死んだような静寂を切り裂くチャイムの音だけを待っている。
「……君。エルフの生徒!」
講師の二度目の呼びかけで、ようやく彼女の魂が引き戻された。 顔を上げると、教壇の講師と視線がぶつかる。全クラスメイトが息を呑んで見守る中、二人は無言のまま、気まずい睨み合いに突入した。
「ええと……。では君、**『深淵侵攻』**の歴史概略を説明してくれるか」 死んだような目をした講師が、彼女の机にある、一度も開かれていない教科書に視線を落とした。
令嬢は立ち上がると、百年以上も生気を失っていたような瞳で講師を見つめ、録音機のような無機質な声で、淀みなく語り始めた。
「――深淵侵攻。別名、世界5年瀕滅戦争。深淵の外来生物がハボン島に初上陸し、ハボン公国が最初の人類国家として滅亡。続いて東西両大陸へ全面侵攻が開始された。種族の垣根を超えた対抗勢力として、連合議会と連合帝国の二大国家が形成。両大陸より選出された勇者パーティが軍を率いて深淵を討伐。勇者が順次魔王を倒し、最終的に冬の終わりに終戦。世界は勇者により平和を迎えた……」
講師は、彼女が読み上げる内容がテキストと一言一句違わぬことを確認すると、力なく礼を言った。 「……感謝する。では、次のページを開いてくれ」
授業は瞬く間に最後のコマへと移り、生徒たちは広々としたグラウンドへと集まっていた。 教壇に立つのは、エルフの代講講師だ。
「皆さん、現代の発展がもたらした便利さを忘れないでください。ですが……魔法やシャーマニズムの元素は、依然としてこの世界の重要な一環です。我々が知る通り……」
クラスメイトの中に座る令嬢は、両手で膝を抱え、相変わらず虚空を見つめていた。心の中では、別の悩み(・・)が渦巻いている。
(……放課後、商店街に行く? それともモール? ……でも、飽き飽きだわ。こんな、何も変わらない毎日……)
「……君。エルフの生徒?」
またしても二度目の呼びかけで現実に引き戻された。今度は精霊の講師が、彼女の目の前で屈み込んでいた。その不意の動作に、令嬢はわずかに狼狽する。
「……では君、クラスの皆に『火球』のプロセスを見せてくれるかな?」
講師の言葉が終わるか終わらないかのうちに、周囲の生徒たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。事態を察した講師が慌てて魔法障壁を展開する。 だが、死んだ魚のような目をした少女は座ったまま、右手を上に向けて差し出した。 コンマ数秒で火球が凝縮され、爆燃する。火光が、彼女の淡々とした顔を鮮やかに照らし出した。
精霊の講師は呆然と立ち尽くした。これでようやく、前任の講師がなぜ全身包帯まみれで、自分に代講を頼んできたのかを理解した。
チャイムが鳴り、一日の授業が終了した。 令嬢はクラスメイトの誘い適当な理由で断ると、独り校門へと向かった。
校門の外では、わずかに白髪の混じった髪を二本の三つ編みにし、右腕に精緻な機械義肢を装着した緑色の肌の獣人が、黒塗りのセダンの傍らで待ち構えていた。
令嬢が口を開くより早く、正装に身を包んだ獣人は悠然と助手席のドアを開け、親しげに問いかけた。 「お嬢様、本日はどちらへ?」
「……随扈。どこか別の場所へ連れて行ってくれない?」 令嬢は助手席に滑り込むと、淑女の嗜みなどかなぐり捨ててシートに深く沈み込み、脚を投げ出した。退屈そうに校門から出てくる生徒たちを眺める。
「お嬢様、私との約束を忘れたのですか? すべては時間に余裕があるか次第です」 獣人の随扈は運転席に戻り、ドアを閉めると、片眉を上げて彼女を見た。 「奥様が戻られた際、私が内緒で連れ回したことがバレてごらんなさい。今度こそ外出の機会すら失われますよ」
「商店街もモールも……もう、うんざりなのよ」 令嬢は白目を剥き、後頭部を何度もシートの背に打ち付けながら、小さな声で不満を漏らした。 「どこへ行っても、何もかも同じだわ」
「仕方がありません。お嬢様の身分を考えれば、リスクの高い場所へお連れするわけにはいきませんから」 獣人は笑って首を振ると、慰めるように続けた。 「ですが信じてください、お嬢様。必ず何か新しいことが起こるはずです。生活がずっと変わらないなんてことは、決してありませんよ」
獣人が車を発進させ、ゆっくりと走り出す。窓の外を流れる見慣れた景色は、今の彼女にはただの無機質な映像にしか見えなかった。
「……待って! ゆっくり走らせて!」
突如として令嬢が叫んだ。獣人は無意識にアクセルペダルを緩める。 「お嬢様、どうしました? 何か珍しいものでも?」
令嬢は目を見開き、窓の外を凝視していた。視線の先には、対向の通りを歩く、見慣れているようでいて見知らぬ背中があった。顔をガラスに押し付けんばかりの勢いで見つめ続け――ようやく、その女性エルフが自分の母親であると確信した。
母親がカジュアルな服を着て、歩道を右に曲がっていく。驚きと好奇心で頭がいっぱいになった彼女は、慌てて随扈に指示を飛ばした。 「右よ、右に曲がって!」
指示に従い、獣人はハンドルを右に切った。 車が曲がると同時に、その背中がはっきりと視界に入る。獣人は一瞬絶句し、呟いた。 「あれは……奥様……?」
令嬢はまるで名探偵にでもなったかのように身を乗り出し、母親の背中を追う。 「ゆっくり走って……お母様に気づかれないように……」
獣人は言われた通りに速度を落としたが、困惑を隠せない。 「……お嬢様、奥様に挨拶しなくてもよろしいのですか?」
令嬢は猛然と振り返り、彼に詰め寄った。 「挨拶? 冗談を言わないで。あんな格好をしたお母様がどこへ行くのか、あなただって気になるでしょ?」
「それは……」 獣人は躊躇いながら説明しようとする。 「お嬢様、奥様にも個人的な御用というものがおありでしょうし、私は……」
令嬢は顔を曇らせ、言い放った。 「……あなたは昔から私を可愛がってくれていたじゃない。お母様が何をしているのか、少し後をつけるだけよ。何か問題ある?」
「う、ぐっ……」 獣人は言葉に詰まった。 (……分かった、ほんの少しだけだ。戦神の加護を……どうか、何も起こりませんように……)
黒いセダンは低速走行のレーンに入り、亀のような速度で尾行を続けた。 だが、十字路に差し掛かったところで赤信号が点灯し、車は停止を余儀なくされる。その間に、向かいの歩道へ渡った議長は次第に遠ざかっていく。
「無視して進めないの?」 母親の姿が遠くなるのを見て、令嬢は獣人の逞しい右腕を左手で叩き続けた。
「お嬢様……赤信号ですよ……」 「何よ、この車は防弾なんでしょ?」 「……お嬢様。問題はそこじゃないんです……」
信号が青に変わると同時に、獣人は車を発進させて交差点を越えた。しかし、議長は既に二人の視界から消えていた。
「もう……見失っちゃったじゃない……」 令嬢は頬を膨らませてシートに倒れ込み、あからさまに落胆した表情を見せた。
不機嫌になった令嬢を見て、獣人は通りを挟んだ向かいにあるケーキ屋に目を留めた。 「……向こうにケーキ屋がありますよ。お嬢様の大好物を買ってきましょうか?」
「そういうことじゃな……っ!」
令嬢が拗ねて言い返そうとした時、頭の中で母親との移動ルートの差を計算し、予測を立てた。 間もなく、少し前方の角に車椅子の車輪が見えた。そこには足の不自由な人間の青年がおり、そのすぐ後ろを歩いているのは、見失ったはずの母親だった。
令嬢は目を見開き、驚愕の声を上げた。 「えっ! お母様!? あの人は誰? ……知らない人間と一緒に歩いてる!」
獣人の随扈もその声に導かれて前方を見る。そこには、一人の車椅子の青年を押し、談笑しながら通りを横切る議長の姿があった。
(……あの人間の少年は……? 議長の公務に関連する人物だろうか。……いや、お嬢様のことだ、間違いなく後を追いたがるだろうな。……何とか理由をつけて止めなければ)
母親の異常な行動に、令嬢はドアハンドルに手をかけ、車を降りて追おうとした。だが、獣人がそれを制した。
「お嬢様、落ち着いて。スパイ映画の追跡シーンで、真っ昼間から堂々と後をつけるバカがどこにいますか? 周りを見てください。そんなコソコソした動きをすれば、群衆の不審を買い、確実に奥様にバレますよ」
説得された令嬢は、少し考えてから聞き返した。 「……じゃあ、どうすればいいの?」
その問いに、獣人は一瞬冷や汗を流し、思考をフル回転させた。警察映画のセリフを必死に思い出す。 「……ここで待つんです。私の経験上、こういう時こそ冷静に観察し、奥様と見知らぬ男の足取りを掴むことが先決です……」
(……この隙に、どうやってお嬢様を説得して帰るか考えないと。奥様にバレたら、二人ともおしまいだ……)
やがて、黒いセダンの中で息を潜める二人の前を、議長が車椅子の青年を押し戻ってくる姿が通り過ぎた。二人は親しげに語り合っている。 獣人が危惧したのは議長の情事でも公務でもなく、「奥様が自家用車に気づかないこと」一点のみだった。
一方、令嬢の胸には、名状しがたい痛みが走っていた。彼女は母親と青年のやり取りを凝視し続ける。 (……不公平だわ。お母様は、会ったこともない人間の青年の相手はするのに、私の相手はしてくれないなんて……)
二人は、議長が青年をある建物の中へ押し入れるのを見届けた。間もなく議長が一人で建物から出てくると、大きく背伸びをし、車の方へと歩き出した。
「早く、頭を下げて……!」 最終ボス(奥様)がこちらに向かってくるのを見て、獣人は令嬢を急かした。
コツコツという高いヒール音が近づき、やがて遠ざかり、完全に消えるまで。 獣人の随扈はいつの間にか全身に冷や汗をかいていたが、ようやく安堵の吐息を漏らした。
「……よし、奥様は行かれました。本日の任務はここまでです。何度か観察を重ね、次の段階へ……」 用意していた台詞で令嬢をなだめようとする。
「……待って。私、降りるわ」
獣人が完璧だと思っていたシナリオは、令嬢の一言で脆くも崩れ去った。
「バタン!」というドアの閉まる音とともに、獣人も慌てて車を降り、彼女を止めようとする。 「お嬢様! それじゃ藪蛇ですよ! 映画でも言っていたでしょう、まずは静観して周到な計画を……」
「そんなの、尺稼ぎ(・・・)のための退屈な演出に決まってるでしょ。私は今、あの人間に、お母様とどんな関係なのか直接聞きに行くの」
令嬢は振り返ることもなく、一直線に人間の青年の住処へと歩き出した。
「お嬢様、お嬢様! それじゃ不法侵入ですよ……!」
足早に去る令嬢を追いかけながら、獣人の随扈は建物の角に消えていく彼女の背中に向かって、最後のが無駄な足掻き(抵抗)を叫び続けた。




