「君みたいな地味な女じゃ、俺の出世の役に立たない」と婚約破棄された私ですが、ネット将棋界では『無冠の女王』と呼ばれていました——元婚約者が全てを失った頃、私は本当の自分で生きることにしました
「婚約は破棄する」
居酒屋の喧騒が、一瞬で凍りついた。
金曜夜の飲み会。部署の打ち上げで賑わう座敷の真ん中で、高梨蓮は立ち上がり、私を見下ろしていた。
「……は?」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど間抜けだった。
三年。三年付き合って、婚約して、両親にも挨拶して。来月には結納の予定まで入っていたのに。
なぜ、この場所で?
「蓮、何言って——」
「聞こえなかったか? 婚約破棄だよ、婚約破棄」
蓮は苛立たしげに髪をかき上げる。その隣には、見覚えのある女性が寄り添っていた。
ウェーブのかかった栗色の髪。ブランド物で固めた華やかな装い。白鳥建設の社長令嬢——白鳥麗華。
「あら、まだ分からないのかしら。察しが悪いのね」
麗華は赤い唇を歪めて笑う。
「蓮さんは私と婚約するの。政略結婚ってやつ? あなたみたいな地味な女じゃ、蓮さんの出世の役に立たないでしょう?」
周囲の同僚たちがざわめく。スマートフォンを取り出す者もいる。
最悪だ。公開処刑じゃないか。
「蓮」
私は静かに名前を呼んだ。せめて、本人の口から聞きたかった。
蓮は一瞬だけ視線を逸らし——そしてすぐに、傲慢な笑みを浮かべた。
「麗華の言う通りだよ。君みたいな地味な女じゃ、俺の出世の役に立たない。分かるだろ? 俺はもっと上を目指せる男なんだ」
——ああ、そう。
三年間。私は何を見ていたんだろう。
いや、違う。見ていなかったのは、この男の方だ。
私の企画書を「俺が手直しした」と上司に提出したことも。休日に呼び出されて資料作成を手伝わされたことも。将棋が趣味だと言ったら「女が将棋? 似合わねぇ」と鼻で笑われたことも。
全部、全部、見て見ぬふりをしてきた。
——馬鹿みたい。
私は眼鏡の奥で、静かに目を伏せた。
そして、左手の薬指に光る指輪を見つめる。
三年前、「一生大切にする」と言って渡された、0.3カラットのダイヤモンド。正直、デザインは私の好みじゃなかった。でも、気持ちが嬉しかったから、ずっと着けていた。
……ああ、なんだ。
すっきりした。
「そうですか」
私は立ち上がった。
声は自分でも驚くほど平坦だった。震えも、涙も、どこにもない。
「では、お返しするものがありますね」
指輪を外す。三年間で一番、スムーズに外れた気がした。
「詩織?」
蓮が怪訝そうに眉をひそめる。きっと、泣いて縋りつくと思っていたのだろう。
残念でした。
私はテーブルの上にそっと指輪を置いた。コトリ、と小さな音が響く。
「三年間、お世話になりました」
深く、丁寧に頭を下げる。
顔を上げたとき、蓮は明らかに動揺していた。台本通りにいかない展開に、対処できていない顔だ。
——ああ、この人、本当に詰めが甘い。
将棋なら、こういう相手は一番組みしやすい。自分の読み筋しか見えていないから、想定外の手を指されると途端に崩れる。
「ちょ、ちょっと待て。何だよその反応。もっとこう——」
「もっと、何ですか?」
私は小首を傾げた。
「泣いて縋りつけば良かったですか? 『お願い、考え直して』って?」
蓮の顔が引きつる。図星だったらしい。
「残念ですけど、私、そこまで暇じゃないんです」
鞄を手に取り、財布から千円札を数枚出してテーブルに置く。
「私の分の飲食代です。お釣りは皆さんで使ってください」
振り返らずに、座敷を出る。
背後で蓮が何か叫んでいる気がしたが、もう聞こえない。
居酒屋を出ると、六月の夜風が頬を撫でた。
——ああ、終わった。
三年間。長かったような、短かったような。
私は空を見上げる。都会の空は明るすぎて、星はほとんど見えない。
「……さて」
口の端が、自然と持ち上がる。
明日から、どうしようか。
とりあえず——久しぶりに、将棋でも指そうかな。
本気で。
***
婚約破棄から三日後。
私は自宅のデスクで、ノートパソコンを開いていた。
画面に映るのは、ネット将棋サイト『将棋キングダム』のログイン画面。
ID:ShioriHime
——詩織姫。
それが、私のもう一つの名前だった。
「……三ヶ月ぶり、か」
ログインボタンを押す。
途端に、通知が画面を埋め尽くした。
『詩織姫さん、お久しぶりです!』
『女王、待ってました!』
『対局お願いします!!』
フレンド申請は999件でカンスト。対局申し込みも山のように溜まっている。
私はネット将棋界では、ちょっとした有名人だった。
通算勝率98.7%。
負けた相手は片手で数えられる程度。
レーティングは歴代最高を更新し続け、「無冠の女王」「詩織姫」と呼ばれるようになった。
無冠、というのは皮肉を込めた称号だ。
大会には一度も出場していない。顔も名前も明かしていない。だから公式のタイトルは何も持っていない。
でも、実力だけなら——
——プロにも負けない自信がある。
「……昔は、こんなこと考えもしなかったのにな」
幼い頃の記憶が蘇る。
将棋を覚えたのは五歳の時。父が教えてくれた。最初は楽しかった。勝つたびに褒めてもらえたから。
でも、すぐに父には勝てなくなった。
父が、じゃない。私が強くなりすぎたのだ。
将棋教室に通い始めて半年で、大人の有段者を全員倒した。
子供大会では負けなしの優勝。
小学二年生で、アマチュア県大会を制覇した。
「この子は本物だ」
藤崎先生はそう言ってくれた。
でも——
「詩織ちゃんと指しても面白くない」
「絶対勝てないじゃん」
「なんか、怖い」
同い年の子たちは、一人、また一人と私から離れていった。
大人たちの視線も変わった。最初は「可愛い天才少女」だったのが、いつしか「異様な存在」を見る目になった。
——強すぎる、というのは罪なのだ。
中学に上がる頃には、私は将棋をやめていた。正確には、人前で指すことをやめた。
「普通の女の子」として生きることを選んだ。
地味な服を着て、化粧は薄く、目立たないように。誰かより優れていると思われないように。才能を隠して、周囲に合わせて。
高梨蓮と付き合い始めたのも、そんな生活の延長だった。
「将棋? 私、全然分かりません」
嘘をついた。彼のプライドを傷つけないために。
三年間、ずっと。
「……馬鹿みたい」
私は自嘲気味に笑う。
あの男のために、自分を殺してきた三年間。何の意味があったんだろう。
画面に、一件の対局申し込みが表示された。
『Kiriyama_CEO』
——この人か。
その名前には見覚えがあった。
私がネット将棋で唯一、引き分けた相手。
序盤から終盤まで、一切の隙がない完璧な指し回し。私の読みを常に上回り、私の罠を見抜き、私と同等以上の終盤力を持つ——化け物のような相手。
256手の激闘の末、千日手で引き分け。
あの日以来、この人とはタイミングが合わず、再戦できていなかった。
『お久しぶりです、詩織姫。お元気でしたか?』
チャットが届く。
私は少し考えてから、返信を打った。
『いろいろありまして。でも、元気です』
『それは良かった。一局、いかがですか?』
対局申し込みが点滅している。
私は迷わずクリックした。
——久しぶりに、本気で指せそうだ。
画面に将棋盤が表示される。
私の持ち時間は15分、相手も15分。
先手は私。
7六歩。
角道を開ける、最も基本的な一手。
でも、この一手から、無限の可能性が広がる。
相手の応手は——8四歩。飛車先の歩を突いてきた。
なるほど、相掛かりを狙うか。真っ向勝負を挑んでくるつもりらしい。
面白い。
私は口の端を持ち上げ、次の一手を指した。
そこからは、あっという間だった。
激しい攻め合い。互いに飛車を成り込み、金銀をぶつけ合う。
私は読む。一手先、十手先、三十手先。
相手も読んでいる。私の読みを上回ろうと、必死に考えている。
——ああ、楽しい。
これだ。この感覚が欲しかった。
全力で考え、全力でぶつかり合う。勝っても負けても、言い訳なんて存在しない世界。
盤面は嘘をつかない。
私の強さも、弱さも、全部曝け出される。
——だから、将棋が好きだ。
102手目。
私は、詰みを読み切った。
『——投了します。参りました』
相手からのチャットが届く。
私の勝ち。でも、紙一重だった。
『ありがとうございました。相変わらず、強いですね』
『そちらこそ。危なかったです』
本音だった。この人相手だと、一瞬の油断も許されない。
『詩織姫。一つ、お聞きしてもいいですか?』
『何でしょう』
少しの間があって、メッセージが届いた。
『あなたは、なぜ大会に出ないのですか? その実力があれば、プロにも手が届くのに』
私は画面を見つめた。
「……なぜ、か」
答えは分かっている。
怖いから。また孤立するのが怖いから。「異常」だと思われるのが怖いから。
——でも。
あの男に捨てられた今、隠す意味なんてあるだろうか。
誰のために隠して、誰のために「普通」を演じてきたんだ。
私は、指をキーボードに乗せた。
『——考えてみます』
送信ボタンを押す。
画面の向こうで、相手が何を思っているかは分からない。
でも、一つだけ確かなことがある。
私は、また将棋を指したい。
本気で、全力で、誰に遠慮することもなく。
——それが、駒田詩織という人間の本質なのだから。
***
婚約破棄から一週間後。
「駒田さん、ちょっといい?」
上司の佐々木部長に呼ばれたのは、昼休み前のことだった。
「実は、取引先との接待があるんだけど——」
接待。嫌な予感しかしない。
「先方の社長さんが将棋好きでね。うちの社員で相手できる人を探してるんだけど、駒田さん、将棋できたよね?」
——は?
私は思わず固まった。
「い、いえ、私は——」
「中村くんから聞いたよ。スマホで将棋アプリやってるの見たって」
中村翔太。後輩の好青年の顔が浮かぶ。
——あいつ、余計なことを。
「あの、でも、私そんなに強くないですし——」
「大丈夫大丈夫、相手の機嫌取れればいいから。わざと負けるくらいでちょうどいいよ」
わざと負ける。
その言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。
昔から、そうやって生きてきた。相手を立てるために、自分の力を隠して。
でも——
「……分かりました」
私は頷いた。
まあいい。接待将棋くらい、適当にこなせばいい。
——そう思っていた。
接待の場所は、都内の高級料亭だった。
「ようこそ、本日はありがとうございます」
通された個室には、すでに二人の男性が座っていた。
一人は初老の紳士。取引先の社長だろう。
そして、もう一人——
「初めまして。桐山悠真です」
その瞬間、息が止まった。
切れ長の目。端正な顔立ち。黒髪を軽く流したスタイリッシュな風貌。
身長は180センチを超えているだろう。仕立ての良いスーツに身を包み、柔和な笑みを浮かべている。
でも、私の目は彼の外見ではなく、別のものに釘付けになっていた。
——この人、知ってる。
名前じゃない。顔でもない。
空気だ。
将棋を指す人間には、独特の「空気」がある。思考の深さ、集中力、闘争心——それが滲み出る。
この人のそれは、今まで会った誰よりも——
「桐山さんは、あの『キリヤマ・テクノロジーズ』のCEOでいらしてね」
佐々木部長が説明する。
「それに、プロ棋士でもあるんですよ。若くしてタイトル戦にも出場された天才でね」
——プロ棋士。
どおりで。この圧倒的な存在感は、本物の証だ。
「今日は将棋を指せる方がいらっしゃると聞いて、楽しみにしていました」
桐山さんが私を見る。
柔和な笑みの奥に、獲物を見定めるような鋭さが一瞬だけ光った気がした。
「あ、あの、私なんかで良ければ……」
私は曖昧に笑った。接待だ。適当に負けて、適当に持ち上げればいい。
「では、一局お願いできますか」
将棋盤が運ばれてくる。
本榧の盤に、黄楊の駒。本格的なセットだ。
駒を並べながら、私は考える。
——どうやって負けようか。
相手はプロ棋士。普通に指しても負けるだろうが、あまりにあっさり負けるのも不自然だ。中盤まで粘って、終盤で崩れるくらいが自然か——
「先手をどうぞ」
桐山さんが言う。
私は頷いて、駒に手を伸ばした。
7六歩。
角道を開ける。ごく普通の初手。
桐山さんの応手は、8四歩。
——相掛かりか。
その瞬間、背筋がぞくりとした。
待って。この出だし、どこかで——
2六歩。
私も飛車先を突く。
8五歩。
相手も飛車先を伸ばしてくる。
2五歩。
……同じだ。
一週間前の、あのネット対局と同じ進行。
偶然? いや、相掛かりは珍しい戦型じゃない。たまたま同じになることはある。
私は意識して、序盤の構想を変えた。違う形に誘導しよう。
7八金。
——ここで相手が6二銀なら、この前と違う将棋になる。
桐山さんの手が、駒を持ち上げた。
3二金。
私は息を呑んだ。
——この前と、全く同じ手順。
偶然じゃない。この人は、私の指し筋を知っている。
「どうかしましたか?」
桐山さんが穏やかに微笑む。
「いえ……何でもありません」
私は平静を装って、次の手を指した。
でも、心臓は早鐘を打っていた。
——まさか。まさか、この人——
中盤に入り、私は決断を迫られていた。
接待将棋だ。負けるべきだ。
でも、この人は——
私の指し筋を、知っている。
ネット将棋での私を、知っている。
つまり、この人は——
「……面白いですね」
桐山さんが呟いた。
「あなたの将棋、どこかで見た気がする」
心臓が、止まりそうになった。
「まさかとは思いますが——」
桐山さんの目が、まっすぐに私を捉える。
柔和さは消え、獰猛な光が瞳に宿っていた。
「あなたが——『詩織姫』ですね」
時間が、止まった。
「な、何のことですか……?」
私は必死で平静を装う。でも、声が震えているのが自分でも分かった。
「隠さなくていいですよ」
桐山さんは穏やかに笑った。
「僕はずっと探していたんです。ネット将棋で唯一、引き分けた相手を」
——Kiriyama_CEO。
あの化け物のようなプレイヤーの正体が、目の前にいる。
「あなたの将棋は独特だ。序盤の構想、中盤の捌き、終盤の寄せ——全てに『詩織姫』の癖がある」
「そんな——」
「誤魔化しても無駄ですよ」
桐山さんは将棋盤を見つめた。
「盤面は、嘘をつきませんから」
——その言葉に、私の心は打ち砕かれた。
そうだ。盤面は嘘をつかない。
私がどれだけ隠そうとしても、将棋を指せば本性が出る。それが将棋だ。
「……どうして」
私は小さく呟いた。
「どうして、黙っていてくれないんですか」
「黙っていてほしいですか?」
「……はい」
「なぜ?」
「私は——」
言葉が詰まった。
強すぎるから? 孤立するから? 「異常」だと思われるから?
三十年近く積み重ねてきた言い訳が、全部、馬鹿らしく思えた。
「——怖いんです」
気づいたら、本音が漏れていた。
「本当の自分を見せるのが、怖いんです」
沈黙が落ちた。
周囲の喧騒が遠くに聞こえる。佐々木部長と取引先の社長が何か話しているようだが、内容は頭に入ってこない。
「——なるほど」
桐山さんは静かに頷いた。
「才能を隠して生きてきたんですね。周りに合わせて、自分を殺して」
「……はい」
「辛かったでしょう」
その言葉に、目頭が熱くなった。
辛かった。ずっと、辛かった。
誰にも本気を見せられない寂しさ。全力を出せない苦しさ。「普通」を演じ続ける虚しさ。
三年間、高梨蓮と付き合っている間も、ずっと——
「でも」
桐山さんが言った。
「もう、隠さなくていいんじゃないですか」
「え——」
「あなたの将棋は美しい」
桐山さんは真っ直ぐに、私を見つめた。
「隠すには、惜しすぎる」
その瞳に、嘘はなかった。
打算も、お世辞も、何もない。純粋に、私の将棋を——私自身を、認めてくれている。
「——」
言葉が出なかった。
代わりに、私は将棋盤に向き直った。
「……続きを、指しましょう」
声が震えていた。でも、もう隠さない。
「本気で、いいですか」
「もちろん」
桐山さんが微笑む。
私は深く息を吸い、駒を手に取った。
——久しぶりだ。
誰かの前で、本気を出すのは。
盤面に集中する。相手の狙い、自分の狙い、十手先、二十手先——
思考が加速する。世界が将棋盤に収束していく。
これだ。この感覚。
私は、生きている。
「——王手」
終局は、私の勝ちだった。
桐山さんは目を見開き——そして、声を上げて笑った。
「素晴らしい。やはり、あなたが詩織姫だ」
「……ありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。心臓がまだ早く打っている。
「駒田さん、でしたね」
「はい」
「また、指していただけますか」
桐山さんの目は真剣だった。
「僕は、あなたのような人を探していた。対等に戦える相手を」
対等。
その言葉が、胸に染み込んでいく。
「……はい」
私は頷いた。
「喜んで」
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
新しい何かが、始まろうとしていた。
***
接待将棋から二週間後。
会社で、大きなニュースが飛び込んできた。
「コンペ、負けたらしいぞ」
「マジで? 高梨さんのチーム、自信満々だったのに」
「審査員に桐山さんがいたんだって。あのIT企業の」
私は自分のデスクで、聞こえてくる噂話に耳を傾けていた。
大型プロジェクトのコンペティション。高梨蓮のチームが総力を挙げて臨んだ案件だった。
——負けた。
正直、驚きはなかった。
蓮のチームの企画書は、私が下書きを手伝ったものだ。でも、核心部分は蓮が勝手に変更していた。「お前の書き方じゃインパクトが足りない」とか言って。
その結果がこれだ。
「駒田先輩」
後輩の中村翔太が、こっそり近づいてきた。
「聞きました? 高梨さんのチーム、惨敗だったみたいですよ」
「そうみたいね」
「それで、勝ったチームの企画書——」
中村くんは声を潜めた。
「駒田先輩が前に作った企画書と、構成がそっくりだったって噂ですよ」
私は一瞬、手を止めた。
「……何の話?」
「去年、先輩が自主的に作ってた新規事業の企画書あったじゃないですか。あれ、結局上に提出されなかったけど、俺、コピー持ってるんですよ」
「なんで持ってるの」
「だって、すごく良かったから。勉強になると思って」
中村くんは真剣な目で言った。
「先輩の企画書、今回のコンペの勝者とコンセプトがほぼ同じでした。先輩の方が一年も前に作ってたのに」
「……偶然でしょ」
「偶然であんなに似ます? 先輩、もしかして——」
「中村くん」
私は静かに遮った。
「私は何もしてないよ。今回のコンペには関わってすらいない」
「でも——」
「終わったことは、どうでもいいの」
中村くんは何か言いたげだったが、結局黙った。
「……分かりました。でも、先輩の実力、俺は知ってますからね」
彼は自分のデスクに戻っていった。
私はパソコンに向き直る。
——今回のコンペの勝者。
その企画を練ったのが誰なのか、私には心当たりがあった。
先週、悠真さんとカフェで話した時のことだ。
『駒田さん、一つ相談があるんですが』
『何ですか?』
『今度、審査員を務めるコンペがありまして。どんな企画が良いか、ご意見を伺いたいんです』
彼は参加企業の情報を隠した上で、企画の方向性について私の意見を求めた。
私は自分が以前作った企画書の内容を——もちろん、それが自分のものだとは言わずに——アイデアとして話した。
結果として、そのコンセプトを採用した企業が勝ち、蓮のチームが負けた。
——因果応報、というやつか。
私は小さく笑った。
蓮は昔から、私の企画を「自分の手柄」として上に報告していた。それに気づいていながら、波風を立てたくなくて黙っていた。
今回、その構図が崩れた。それだけのことだ。
「うわ、やば……」
誰かの声が聞こえた。
見ると、営業部のフロアで騒ぎが起きていた。
「白鳥さん、来てるらしいぞ」
「マジ? あの社長令嬢?」
「高梨と揉めてるって——」
私は席を立ち、そっと様子を見に行った。
廊下の向こう、会議室の前で、蓮と麗華が言い争っている姿が見えた。
「待ってくれ、麗華! コンペの失敗は俺だけのせいじゃない!」
「言い訳なんて聞きたくありませんわ」
麗華は冷たく蓮を見下ろしていた。
「負け犬と婚約なんてありえません。父にも報告しましたから、この話はなかったことに」
「な——」
蓮の顔が蒼白になる。
「ちょっと待て、コンペ一回負けたくらいで——」
「一回?」
麗華は嘲るように笑った。
「調べさせてもらいましたわ。あなたの『実績』、ほとんど他人の手柄の横取りじゃありませんの」
蓮が息を呑む音が聞こえた。
「特に、元婚約者の駒田さんでしたっけ? あの方の企画書を何度も自分の名前で提出していたそうですわね」
「それは——」
「わたくし、無能な男には興味ありませんの」
麗華はくるりと背を向けた。
「さようなら、高梨さん。もう二度と連絡しないでくださいまし」
ヒールの音が遠ざかっていく。
蓮は呆然と立ち尽くしていた。
——ざまあ。
そう思った自分に、少しだけ驚いた。
以前の私なら、少しは同情したかもしれない。でも今は——
「……当然の報いね」
小さく呟いて、私は自分のデスクに戻った。
スマートフォンに、メッセージが届いていた。
『今夜、お時間ありますか? 話したいことがあります。——悠真』
私は少し考えてから、返信した。
『大丈夫です。どこに行けばいいですか?』
即座に返信が来る。
『将棋会館の近くのカフェで。一局指しながら、お話ししましょう』
将棋会館。プロ棋士が対局する、あの場所の近く。
『——分かりました』
私はスマートフォンを閉じた。
何の話だろう。
胸騒ぎがした。でも、悪い予感ではなかった。
新しい何かが始まる——そんな予感だった。
***
それは、悠真さんとの約束の前日のことだった。
退勤時間を少し過ぎた頃、会社のエントランスで待ち伏せされた。
「詩織」
聞き慣れた声。振り返ると、高梨蓮が立っていた。
二週間前に公衆の面前で婚約破棄を宣告してきた男。白鳥麗華にも捨てられ、会社での評価も下がり——
——その顔は、見るも無惨だった。
目の下には濃いクマ。髪は乱れ、スーツも皺だらけ。かつての「イケメン枠」の面影は、どこにもない。
「何の用ですか」
私は立ち止まらず、歩き続けた。
「待ってくれ!」
蓮が腕を掴んできた。
私は冷たく手を振り払う。
「触らないでください」
「話を聞いてくれ、頼む」
蓮は縋るような目をしていた。
「俺、間違ってた。お前のこと、ちゃんと見てなかった。でも、今は分かるんだ。お前がいないと——」
「いないと、何ですか?」
私は足を止めた。
「仕事が回らない? 企画書を書いてくれる人がいない? 資料を作ってくれる便利な女がいなくなった?」
「違う!」
「何が違うんです?」
私は真っ直ぐに蓮を見つめた。
三年間、この人の顔色を窺ってきた。機嫌を損ねないように、プライドを傷つけないように、自分を殺してきた。
——もう、そんな必要はない。
「高梨さん」
私は静かに言った。
「あなた、私の何を知っていますか」
「え?」
「私の趣味、知ってますか? 私の特技、知ってますか? 私がどんなことを考えて、どんなことを大切にしているか——知ってますか?」
蓮は口を開いたが、言葉が出てこなかった。
「……三年付き合って、何も知らないでしょう」
私は小さく笑った。
「当然です。あなたは一度も、私のことを見ようとしなかったんですから」
「それは——」
「『地味で従順な女』。それがあなたの私への評価でしたよね」
蓮の顔が強張る。
「飲み会で言ったでしょう。『君みたいな地味な女じゃ、俺の出世の役に立たない』って」
「あれは——違うんだ、あれは——」
「違わないですよ」
私は言い切った。
「それがあなたの本音だった。私は便利な道具。出世の踏み台。それ以上でも以下でもなかった」
「違う、俺は——」
「じゃあ、証明してみてください」
私は鞄から、小さな木箱を取り出した。
「これ——」
「将棋の駒です」
携帯用の将棋セット。ネット将棋だけでなく、リアルの盤面でも指したくて、最近買ったものだ。
「一局、指しませんか」
蓮は目を丸くした。
「将棋? お前、将棋なんて——」
「できない、と思ってました?」
私は薄く笑った。
「三年間、隠してましたからね」
「……何だって?」
「私、将棋が趣味なんです。ネット将棋では『詩織姫』って呼ばれてます。聞いたことありません?」
蓮の表情が変わった。困惑、そして怒り。
「騙してたのか?」
「騙す?」
私は肩をすくめた。
「言おうとしたことはありましたよ。でも、あなた、『女が将棋? 似合わねぇ』って笑ったじゃないですか」
蓮は黙った。
「私、あなたのプライドを傷つけたくなかったんです。だから黙っていた。——馬鹿でしたね、本当に」
私は将棋盤をエントランスのベンチに広げた。
「勝負しましょう。私が勝ったら、二度と近づかないでください」
「……もし俺が勝ったら?」
「好きにしていいですよ。復縁でも何でも」
蓮は少し考えて——そして、不敵に笑った。
「いいぜ。将棋なら、負ける気がしねぇ」
ああ、この人は本当に何も分かっていない。
私は駒を並べた。
「どうぞ、先手で」
「遠慮なく」
蓮が駒を動かす。7六歩。
私は8四歩と応じた。
序盤は穏やかに進んだ。蓮の棋力は、アマチュア初段くらいか。確かに、素人の中では強い方だ。
——でも、私の相手じゃない。
中盤、蓮の攻めを軽く受け流す。
「くそ、何でこんな——」
蓮の額に汗が滲む。
私は無言で駒を進めていく。
一手、また一手。
蓮の陣形が崩れていく。攻める隙を与えず、じわじわと追い詰める。
「待て、待ってくれ——」
「待ちません」
私は最後の一手を指した。
「——詰みです」
十手詰み。
蓮は盤面を凝視した。何度も確認している。でも、どう足掻いても逃げられない。
「嘘だろ……」
「嘘じゃありません」
私は静かに言った。
「あなたはいつも、私を見ていなかった。盤面も、私の心も」
蓮が顔を上げる。その目に、敗北の色が浮かんでいた。
「私は三年間、ずっと——本気を出せなかった」
駒を片付けながら、私は続ける。
「あなたに合わせて、あなたのために、自分を殺してきた。でも、もうやめます」
将棋盤を鞄にしまう。
「さようなら、高梨さん。もう、会うこともないでしょう」
「待て——詩織——」
私は振り返らなかった。
——ああ、すっきりした。
駅に向かって歩きながら、自然と笑みがこぼれた。
本当の意味での、決着だった。
将棋盤の上で、全てを清算した。
盤面は嘘をつかない。
私の強さも、あの男の弱さも、全部明らかになった。
——これでいい。
スマートフォンが震えた。
悠真さんからのメッセージ。
『明日、楽しみにしています。大事な話があるんです』
大事な話。
胸が高鳴った。
『私も楽しみにしています』
返信を送って、私は夜の街を歩いていった。
明日から、新しい人生が始まる。
そんな予感がしていた。
***
悠真さんに呼び出されたのは、将棋会館近くの静かなカフェだった。
「プロ編入試験を受けてみませんか」
開口一番、悠真さんはそう言った。
「——え?」
私は思わず固まった。
「プロ編入試験。アマチュアからプロ棋士になるための試験です」
「それは知ってますけど——」
「駒田さんの実力なら、合格できます」
悠真さんは真剣な目で言った。
「僕は審査員の一人として推薦します。もちろん、最終的に決めるのはあなたですが——」
「待ってください」
私は両手を上げた。
「プロ棋士って——そんな、私なんかが——」
「『私なんか』じゃない」
悠真さんの声が、少し強くなった。
「あなたは強い。僕と引き分けるほど強い。その才能を、もう隠す必要はないでしょう」
「でも——」
「怖いですか?」
私は黙った。
——怖い。正直に言えば、怖い。
幼い頃の記憶が蘇る。将棋が強すぎて孤立した日々。「異常」だと言われた日々。
「……怖いです」
声が震えた。
「また、孤立するかもしれない。『変な女』って言われるかもしれない。——二十年以上、ずっと隠してきたんです。今さら、表に出るなんて——」
「孤立なんてさせません」
悠真さんが言った。
「僕がいます」
——え。
「僕は、あなたの将棋のファンです。対等のライバルとして、ずっと戦いたいと思っている」
悠真さんの目は、真っ直ぐだった。
「そして——」
彼は一度言葉を切った。
「あなたのことが、好きです」
時間が、止まった。
「将棋を通じて、あなたを知った。強さも、弱さも、優しさも、全部」
悠真さんが手を伸ばしてきた。
「僕と一緒に、将棋を指しませんか。——人生という盤面を、二人で」
私は目を見開いた。
これは——プロポーズだ。
「……悠真さん」
「悠真、でいいですよ」
「悠真……さん」
名前を呼ぶと、彼は少し照れたように笑った。
「答えは、急ぎません。じっくり考えてください」
「……いいえ」
私は首を振った。
「考える必要、ありません」
悠真さんが目を見開く。
「私——」
言葉を探す。二十七年間、ずっと隠してきた気持ち。本当の自分を見せることへの恐怖。
——でも、この人の前でなら。
「私も、あなたが好きです」
声が震えた。でも、ちゃんと言えた。
「将棋を指している時、初めて——本当の自分でいられると思いました」
涙が溢れてきた。
「ずっと、一人で戦ってきました。誰にも本気を見せられなくて、誰にも理解されなくて——でも」
悠真さんの手が、私の頬に触れた。涙を拭ってくれる。
「あなたが——初めて、私の将棋を『美しい』って言ってくれた」
「美しいですよ。本当に」
「だから——」
私は笑った。泣きながら、笑った。
「プロ編入試験、受けます。あなたと一緒に、将棋を指したいから」
悠真さんの顔が、ぱっと明るくなった。
「——ありがとう。本当に、ありがとう」
彼は私の手を取った。
「一緒に、頑張りましょう」
「はい」
窓の外では、夕日が美しく沈んでいた。
***
——半年後。
「プロ編入試験、合格おめでとうございます!」
フラッシュの嵐の中、私は深く頭を下げた。
『最も遅咲きの女流棋士』
新聞の見出しに、そう書かれていた。
二十七歳でプロ入り。確かに遅い。でも——
「遅いなんてことはありません」
記者会見で、私はそう答えた。
「将棋に、早いも遅いもないと思います。大切なのは、盤面に向き合う気持ちです」
記者たちがざわめく。
「それと——」
私は真っ直ぐ前を見た。
「やっと、本当の私で勝負できます。それが一番嬉しいです」
会場の後方で、悠真さんが微笑んでいるのが見えた。
***
プロ入り記念の公開対局。
相手は、桐山悠真八段。
将棋会館の大盤解説会場には、満員の観客が詰めかけていた。
「詩織」
対局前、悠真さんが声をかけてきた。
「手加減なしだよ」
「当たり前でしょう」
私は笑った。
「盤面は、嘘をつきませんから」
対局が始まった。
序盤から激しい攻防。悠真さんの鋭い攻めを、私は全力で受け止める。
中盤、私は勝負手を放った。
会場がざわめく。解説のプロ棋士も「これは——」と息を呑んでいる。
終盤、熾烈な寄せ合い。
——ああ、楽しい。
心からそう思った。
全力で考え、全力でぶつかり合う。勝っても負けても、言い訳なんてない世界。
私はずっと、これがやりたかった。
結果は——私の負けだった。
三手差の惜敗。
「——負けました」
頭を下げる。悔しい。でも、清々しい。
「ありがとうございました」
悠真さんも頭を下げた。
「次は、負けません」
私は宣言した。会場が沸く。
「楽しみにしてる」
悠真さんが笑った。
***
対局後の控室。
「詩織ちゃん」
涙声で呼ばれて振り返ると、藤崎先生が立っていた。
幼い頃、将棋を教えてくれた恩師。白髪がさらに増えていたが、穏やかな目は変わらない。
「先生——」
「ずっと、見守っていたよ」
先生の目から、涙がこぼれた。
「詩織ちゃんが本気で指せる日が来て——儂は、本当に嬉しい」
私も泣いた。
二十年以上の時を経て、やっと——やっと、先生の前で本気を出せた。
「ありがとうございます。先生のおかげです」
「お母さんも来ているよ」
先生が顎で示した方を見ると、母が立っていた。
「……お母さん」
「詩織」
母は私を抱きしめた。
「ごめんね。ずっと、我慢させて。『普通の女の子らしく』なんて——」
「いいの、お母さん」
私も母を抱きしめ返した。
「私が、自分で選んだことだから」
「でも——」
「今、幸せだよ」
私は笑った。
「やっと、本当の私で生きられるから」
母の嗚咽が聞こえた。
「詩織——お母さん、あなたのこと、誇りに思う」
「……ありがとう」
***
その日の夜。
悠真さんと二人で、東京の夜景を見下ろしていた。
「今日の将棋、楽しかった」
「僕も」
悠真さんが私の手を取った。
「来月、入籍届を出そう」
「……うん」
「そして——」
彼は私の方を向いた。
「これからも、ずっと、一緒に将棋を指そう」
「当たり前でしょう」
私は笑った。
「あなたに勝つまで、やめるつもりはないから」
「それは大変だ。僕も負けないよ」
「望むところ」
二人で笑い合う。
夜空には、満天の星が輝いていた。
——高梨蓮が全てを失ったと聞いたのは、その数日後のことだった。
会社からは退職を迫られ、白鳥家からは婚約詐欺で訴訟を起こされた。
「自業自得ね」
私は特に感慨もなくそう呟いた。
もう、あの男のことを考える時間すら惜しい。
私には、やるべきことがある。
将棋を極め、悠真さんに勝ち、女流タイトルを獲得する。
そして——いつか、本当の意味で、彼と対等になる。
「さあ、今日も一局」
パソコンを開き、将棋盤に向かう。
盤面は嘘をつかない。
私の人生という盤面も、これから本当の勝負が始まる。
——詰みなんて、まだまだ先の話だ。




