表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

「君みたいな地味な女じゃ、俺の出世の役に立たない」と婚約破棄された私ですが、ネット将棋界では『無冠の女王』と呼ばれていました——元婚約者が全てを失った頃、私は本当の自分で生きることにしました

作者: こうこ

「婚約は破棄する」


居酒屋の喧騒が、一瞬で凍りついた。


金曜夜の飲み会。部署の打ち上げで賑わう座敷の真ん中で、高梨蓮は立ち上がり、私を見下ろしていた。


「……は?」


思わず漏れた声は、自分でも驚くほど間抜けだった。


三年。三年付き合って、婚約して、両親にも挨拶して。来月には結納の予定まで入っていたのに。


なぜ、この場所で?


「蓮、何言って——」


「聞こえなかったか? 婚約破棄だよ、婚約破棄」


蓮は苛立たしげに髪をかき上げる。その隣には、見覚えのある女性が寄り添っていた。


ウェーブのかかった栗色の髪。ブランド物で固めた華やかな装い。白鳥建設の社長令嬢——白鳥麗華。


「あら、まだ分からないのかしら。察しが悪いのね」


麗華は赤い唇を歪めて笑う。


「蓮さんは私と婚約するの。政略結婚ってやつ? あなたみたいな地味な女じゃ、蓮さんの出世の役に立たないでしょう?」


周囲の同僚たちがざわめく。スマートフォンを取り出す者もいる。


最悪だ。公開処刑じゃないか。


「蓮」


私は静かに名前を呼んだ。せめて、本人の口から聞きたかった。


蓮は一瞬だけ視線を逸らし——そしてすぐに、傲慢な笑みを浮かべた。


「麗華の言う通りだよ。君みたいな地味な女じゃ、俺の出世の役に立たない。分かるだろ? 俺はもっと上を目指せる男なんだ」


——ああ、そう。


三年間。私は何を見ていたんだろう。


いや、違う。見ていなかったのは、この男の方だ。


私の企画書を「俺が手直しした」と上司に提出したことも。休日に呼び出されて資料作成を手伝わされたことも。将棋が趣味だと言ったら「女が将棋? 似合わねぇ」と鼻で笑われたことも。


全部、全部、見て見ぬふりをしてきた。


——馬鹿みたい。


私は眼鏡の奥で、静かに目を伏せた。


そして、左手の薬指に光る指輪を見つめる。


三年前、「一生大切にする」と言って渡された、0.3カラットのダイヤモンド。正直、デザインは私の好みじゃなかった。でも、気持ちが嬉しかったから、ずっと着けていた。


……ああ、なんだ。


すっきりした。


「そうですか」


私は立ち上がった。


声は自分でも驚くほど平坦だった。震えも、涙も、どこにもない。


「では、お返しするものがありますね」


指輪を外す。三年間で一番、スムーズに外れた気がした。


「詩織?」


蓮が怪訝そうに眉をひそめる。きっと、泣いて縋りつくと思っていたのだろう。


残念でした。


私はテーブルの上にそっと指輪を置いた。コトリ、と小さな音が響く。


「三年間、お世話になりました」


深く、丁寧に頭を下げる。


顔を上げたとき、蓮は明らかに動揺していた。台本通りにいかない展開に、対処できていない顔だ。


——ああ、この人、本当に詰めが甘い。


将棋なら、こういう相手は一番組みしやすい。自分の読み筋しか見えていないから、想定外の手を指されると途端に崩れる。


「ちょ、ちょっと待て。何だよその反応。もっとこう——」


「もっと、何ですか?」


私は小首を傾げた。


「泣いて縋りつけば良かったですか? 『お願い、考え直して』って?」


蓮の顔が引きつる。図星だったらしい。


「残念ですけど、私、そこまで暇じゃないんです」


鞄を手に取り、財布から千円札を数枚出してテーブルに置く。


「私の分の飲食代です。お釣りは皆さんで使ってください」


振り返らずに、座敷を出る。


背後で蓮が何か叫んでいる気がしたが、もう聞こえない。


居酒屋を出ると、六月の夜風が頬を撫でた。


——ああ、終わった。


三年間。長かったような、短かったような。


私は空を見上げる。都会の空は明るすぎて、星はほとんど見えない。


「……さて」


口の端が、自然と持ち上がる。


明日から、どうしようか。


とりあえず——久しぶりに、将棋でも指そうかな。


本気で。



***



婚約破棄から三日後。


私は自宅のデスクで、ノートパソコンを開いていた。


画面に映るのは、ネット将棋サイト『将棋キングダム』のログイン画面。


ID:ShioriHime


——詩織姫。


それが、私のもう一つの名前だった。


「……三ヶ月ぶり、か」


ログインボタンを押す。


途端に、通知が画面を埋め尽くした。


『詩織姫さん、お久しぶりです!』

『女王、待ってました!』

『対局お願いします!!』


フレンド申請は999件でカンスト。対局申し込みも山のように溜まっている。


私はネット将棋界では、ちょっとした有名人だった。


通算勝率98.7%。

負けた相手は片手で数えられる程度。

レーティングは歴代最高を更新し続け、「無冠の女王」「詩織姫」と呼ばれるようになった。


無冠、というのは皮肉を込めた称号だ。


大会には一度も出場していない。顔も名前も明かしていない。だから公式のタイトルは何も持っていない。


でも、実力だけなら——


——プロにも負けない自信がある。


「……昔は、こんなこと考えもしなかったのにな」


幼い頃の記憶が蘇る。


将棋を覚えたのは五歳の時。父が教えてくれた。最初は楽しかった。勝つたびに褒めてもらえたから。


でも、すぐに父には勝てなくなった。


父が、じゃない。私が強くなりすぎたのだ。


将棋教室に通い始めて半年で、大人の有段者を全員倒した。

子供大会では負けなしの優勝。

小学二年生で、アマチュア県大会を制覇した。


「この子は本物だ」


藤崎先生はそう言ってくれた。


でも——


「詩織ちゃんと指しても面白くない」

「絶対勝てないじゃん」

「なんか、怖い」


同い年の子たちは、一人、また一人と私から離れていった。


大人たちの視線も変わった。最初は「可愛い天才少女」だったのが、いつしか「異様な存在」を見る目になった。


——強すぎる、というのは罪なのだ。


中学に上がる頃には、私は将棋をやめていた。正確には、人前で指すことをやめた。


「普通の女の子」として生きることを選んだ。


地味な服を着て、化粧は薄く、目立たないように。誰かより優れていると思われないように。才能を隠して、周囲に合わせて。


高梨蓮と付き合い始めたのも、そんな生活の延長だった。


「将棋? 私、全然分かりません」


嘘をついた。彼のプライドを傷つけないために。


三年間、ずっと。


「……馬鹿みたい」


私は自嘲気味に笑う。


あの男のために、自分を殺してきた三年間。何の意味があったんだろう。


画面に、一件の対局申し込みが表示された。


『Kiriyama_CEO』


——この人か。


その名前には見覚えがあった。


私がネット将棋で唯一、引き分けた相手。


序盤から終盤まで、一切の隙がない完璧な指し回し。私の読みを常に上回り、私の罠を見抜き、私と同等以上の終盤力を持つ——化け物のような相手。


256手の激闘の末、千日手で引き分け。


あの日以来、この人とはタイミングが合わず、再戦できていなかった。


『お久しぶりです、詩織姫。お元気でしたか?』


チャットが届く。


私は少し考えてから、返信を打った。


『いろいろありまして。でも、元気です』


『それは良かった。一局、いかがですか?』


対局申し込みが点滅している。


私は迷わずクリックした。


——久しぶりに、本気で指せそうだ。


画面に将棋盤が表示される。


私の持ち時間は15分、相手も15分。


先手は私。


7六歩。


角道を開ける、最も基本的な一手。


でも、この一手から、無限の可能性が広がる。


相手の応手は——8四歩。飛車先の歩を突いてきた。


なるほど、相掛かりを狙うか。真っ向勝負を挑んでくるつもりらしい。


面白い。


私は口の端を持ち上げ、次の一手を指した。


そこからは、あっという間だった。


激しい攻め合い。互いに飛車を成り込み、金銀をぶつけ合う。


私は読む。一手先、十手先、三十手先。


相手も読んでいる。私の読みを上回ろうと、必死に考えている。


——ああ、楽しい。


これだ。この感覚が欲しかった。


全力で考え、全力でぶつかり合う。勝っても負けても、言い訳なんて存在しない世界。


盤面は嘘をつかない。


私の強さも、弱さも、全部曝け出される。


——だから、将棋が好きだ。


102手目。


私は、詰みを読み切った。


『——投了します。参りました』


相手からのチャットが届く。


私の勝ち。でも、紙一重だった。


『ありがとうございました。相変わらず、強いですね』


『そちらこそ。危なかったです』


本音だった。この人相手だと、一瞬の油断も許されない。


『詩織姫。一つ、お聞きしてもいいですか?』


『何でしょう』


少しの間があって、メッセージが届いた。


『あなたは、なぜ大会に出ないのですか? その実力があれば、プロにも手が届くのに』


私は画面を見つめた。


「……なぜ、か」


答えは分かっている。


怖いから。また孤立するのが怖いから。「異常」だと思われるのが怖いから。


——でも。


あの男に捨てられた今、隠す意味なんてあるだろうか。


誰のために隠して、誰のために「普通」を演じてきたんだ。


私は、指をキーボードに乗せた。


『——考えてみます』


送信ボタンを押す。


画面の向こうで、相手が何を思っているかは分からない。


でも、一つだけ確かなことがある。


私は、また将棋を指したい。


本気で、全力で、誰に遠慮することもなく。


——それが、駒田詩織という人間の本質なのだから。



***



婚約破棄から一週間後。


「駒田さん、ちょっといい?」


上司の佐々木部長に呼ばれたのは、昼休み前のことだった。


「実は、取引先との接待があるんだけど——」


接待。嫌な予感しかしない。


「先方の社長さんが将棋好きでね。うちの社員で相手できる人を探してるんだけど、駒田さん、将棋できたよね?」


——は?


私は思わず固まった。


「い、いえ、私は——」


「中村くんから聞いたよ。スマホで将棋アプリやってるの見たって」


中村翔太。後輩の好青年の顔が浮かぶ。


——あいつ、余計なことを。


「あの、でも、私そんなに強くないですし——」


「大丈夫大丈夫、相手の機嫌取れればいいから。わざと負けるくらいでちょうどいいよ」


わざと負ける。


その言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。


昔から、そうやって生きてきた。相手を立てるために、自分の力を隠して。


でも——


「……分かりました」


私は頷いた。


まあいい。接待将棋くらい、適当にこなせばいい。


——そう思っていた。


接待の場所は、都内の高級料亭だった。


「ようこそ、本日はありがとうございます」


通された個室には、すでに二人の男性が座っていた。


一人は初老の紳士。取引先の社長だろう。


そして、もう一人——


「初めまして。桐山悠真です」


その瞬間、息が止まった。


切れ長の目。端正な顔立ち。黒髪を軽く流したスタイリッシュな風貌。


身長は180センチを超えているだろう。仕立ての良いスーツに身を包み、柔和な笑みを浮かべている。


でも、私の目は彼の外見ではなく、別のものに釘付けになっていた。


——この人、知ってる。


名前じゃない。顔でもない。


空気だ。


将棋を指す人間には、独特の「空気」がある。思考の深さ、集中力、闘争心——それが滲み出る。


この人のそれは、今まで会った誰よりも——


「桐山さんは、あの『キリヤマ・テクノロジーズ』のCEOでいらしてね」


佐々木部長が説明する。


「それに、プロ棋士でもあるんですよ。若くしてタイトル戦にも出場された天才でね」


——プロ棋士。


どおりで。この圧倒的な存在感は、本物の証だ。


「今日は将棋を指せる方がいらっしゃると聞いて、楽しみにしていました」


桐山さんが私を見る。


柔和な笑みの奥に、獲物を見定めるような鋭さが一瞬だけ光った気がした。


「あ、あの、私なんかで良ければ……」


私は曖昧に笑った。接待だ。適当に負けて、適当に持ち上げればいい。


「では、一局お願いできますか」


将棋盤が運ばれてくる。


本榧の盤に、黄楊の駒。本格的なセットだ。


駒を並べながら、私は考える。


——どうやって負けようか。


相手はプロ棋士。普通に指しても負けるだろうが、あまりにあっさり負けるのも不自然だ。中盤まで粘って、終盤で崩れるくらいが自然か——


「先手をどうぞ」


桐山さんが言う。


私は頷いて、駒に手を伸ばした。


7六歩。


角道を開ける。ごく普通の初手。


桐山さんの応手は、8四歩。


——相掛かりか。


その瞬間、背筋がぞくりとした。


待って。この出だし、どこかで——


2六歩。

私も飛車先を突く。


8五歩。

相手も飛車先を伸ばしてくる。


2五歩。


……同じだ。


一週間前の、あのネット対局と同じ進行。


偶然? いや、相掛かりは珍しい戦型じゃない。たまたま同じになることはある。


私は意識して、序盤の構想を変えた。違う形に誘導しよう。


7八金。


——ここで相手が6二銀なら、この前と違う将棋になる。


桐山さんの手が、駒を持ち上げた。


3二金。


私は息を呑んだ。


——この前と、全く同じ手順。


偶然じゃない。この人は、私の指し筋を知っている。


「どうかしましたか?」


桐山さんが穏やかに微笑む。


「いえ……何でもありません」


私は平静を装って、次の手を指した。


でも、心臓は早鐘を打っていた。


——まさか。まさか、この人——


中盤に入り、私は決断を迫られていた。


接待将棋だ。負けるべきだ。


でも、この人は——


私の指し筋を、知っている。


ネット将棋での私を、知っている。


つまり、この人は——


「……面白いですね」


桐山さんが呟いた。


「あなたの将棋、どこかで見た気がする」


心臓が、止まりそうになった。


「まさかとは思いますが——」


桐山さんの目が、まっすぐに私を捉える。


柔和さは消え、獰猛な光が瞳に宿っていた。


「あなたが——『詩織姫』ですね」


時間が、止まった。


「な、何のことですか……?」


私は必死で平静を装う。でも、声が震えているのが自分でも分かった。


「隠さなくていいですよ」


桐山さんは穏やかに笑った。


「僕はずっと探していたんです。ネット将棋で唯一、引き分けた相手を」


——Kiriyama_CEO。


あの化け物のようなプレイヤーの正体が、目の前にいる。


「あなたの将棋は独特だ。序盤の構想、中盤の捌き、終盤の寄せ——全てに『詩織姫』の癖がある」


「そんな——」


「誤魔化しても無駄ですよ」


桐山さんは将棋盤を見つめた。


「盤面は、嘘をつきませんから」


——その言葉に、私の心は打ち砕かれた。


そうだ。盤面は嘘をつかない。


私がどれだけ隠そうとしても、将棋を指せば本性が出る。それが将棋だ。


「……どうして」


私は小さく呟いた。


「どうして、黙っていてくれないんですか」


「黙っていてほしいですか?」


「……はい」


「なぜ?」


「私は——」


言葉が詰まった。


強すぎるから? 孤立するから? 「異常」だと思われるから?


三十年近く積み重ねてきた言い訳が、全部、馬鹿らしく思えた。


「——怖いんです」


気づいたら、本音が漏れていた。


「本当の自分を見せるのが、怖いんです」


沈黙が落ちた。


周囲の喧騒が遠くに聞こえる。佐々木部長と取引先の社長が何か話しているようだが、内容は頭に入ってこない。


「——なるほど」


桐山さんは静かに頷いた。


「才能を隠して生きてきたんですね。周りに合わせて、自分を殺して」


「……はい」


「辛かったでしょう」


その言葉に、目頭が熱くなった。


辛かった。ずっと、辛かった。


誰にも本気を見せられない寂しさ。全力を出せない苦しさ。「普通」を演じ続ける虚しさ。


三年間、高梨蓮と付き合っている間も、ずっと——


「でも」


桐山さんが言った。


「もう、隠さなくていいんじゃないですか」


「え——」


「あなたの将棋は美しい」


桐山さんは真っ直ぐに、私を見つめた。


「隠すには、惜しすぎる」


その瞳に、嘘はなかった。


打算も、お世辞も、何もない。純粋に、私の将棋を——私自身を、認めてくれている。


「——」


言葉が出なかった。


代わりに、私は将棋盤に向き直った。


「……続きを、指しましょう」


声が震えていた。でも、もう隠さない。


「本気で、いいですか」


「もちろん」


桐山さんが微笑む。


私は深く息を吸い、駒を手に取った。


——久しぶりだ。


誰かの前で、本気を出すのは。


盤面に集中する。相手の狙い、自分の狙い、十手先、二十手先——


思考が加速する。世界が将棋盤に収束していく。


これだ。この感覚。


私は、生きている。


「——王手」


終局は、私の勝ちだった。


桐山さんは目を見開き——そして、声を上げて笑った。


「素晴らしい。やはり、あなたが詩織姫だ」


「……ありがとうございます」


私は小さく頭を下げた。心臓がまだ早く打っている。


「駒田さん、でしたね」


「はい」


「また、指していただけますか」


桐山さんの目は真剣だった。


「僕は、あなたのような人を探していた。対等に戦える相手を」


対等。


その言葉が、胸に染み込んでいく。


「……はい」


私は頷いた。


「喜んで」


窓の外では、夕日が沈みかけていた。


新しい何かが、始まろうとしていた。



***



接待将棋から二週間後。


会社で、大きなニュースが飛び込んできた。


「コンペ、負けたらしいぞ」


「マジで? 高梨さんのチーム、自信満々だったのに」


「審査員に桐山さんがいたんだって。あのIT企業の」


私は自分のデスクで、聞こえてくる噂話に耳を傾けていた。


大型プロジェクトのコンペティション。高梨蓮のチームが総力を挙げて臨んだ案件だった。


——負けた。


正直、驚きはなかった。


蓮のチームの企画書は、私が下書きを手伝ったものだ。でも、核心部分は蓮が勝手に変更していた。「お前の書き方じゃインパクトが足りない」とか言って。


その結果がこれだ。


「駒田先輩」


後輩の中村翔太が、こっそり近づいてきた。


「聞きました? 高梨さんのチーム、惨敗だったみたいですよ」


「そうみたいね」


「それで、勝ったチームの企画書——」


中村くんは声を潜めた。


「駒田先輩が前に作った企画書と、構成がそっくりだったって噂ですよ」


私は一瞬、手を止めた。


「……何の話?」


「去年、先輩が自主的に作ってた新規事業の企画書あったじゃないですか。あれ、結局上に提出されなかったけど、俺、コピー持ってるんですよ」


「なんで持ってるの」


「だって、すごく良かったから。勉強になると思って」


中村くんは真剣な目で言った。


「先輩の企画書、今回のコンペの勝者とコンセプトがほぼ同じでした。先輩の方が一年も前に作ってたのに」


「……偶然でしょ」


「偶然であんなに似ます? 先輩、もしかして——」


「中村くん」


私は静かに遮った。


「私は何もしてないよ。今回のコンペには関わってすらいない」


「でも——」


「終わったことは、どうでもいいの」


中村くんは何か言いたげだったが、結局黙った。


「……分かりました。でも、先輩の実力、俺は知ってますからね」


彼は自分のデスクに戻っていった。


私はパソコンに向き直る。


——今回のコンペの勝者。


その企画を練ったのが誰なのか、私には心当たりがあった。


先週、悠真さんとカフェで話した時のことだ。


『駒田さん、一つ相談があるんですが』


『何ですか?』


『今度、審査員を務めるコンペがありまして。どんな企画が良いか、ご意見を伺いたいんです』


彼は参加企業の情報を隠した上で、企画の方向性について私の意見を求めた。


私は自分が以前作った企画書の内容を——もちろん、それが自分のものだとは言わずに——アイデアとして話した。


結果として、そのコンセプトを採用した企業が勝ち、蓮のチームが負けた。


——因果応報、というやつか。


私は小さく笑った。


蓮は昔から、私の企画を「自分の手柄」として上に報告していた。それに気づいていながら、波風を立てたくなくて黙っていた。


今回、その構図が崩れた。それだけのことだ。


「うわ、やば……」


誰かの声が聞こえた。


見ると、営業部のフロアで騒ぎが起きていた。


「白鳥さん、来てるらしいぞ」


「マジ? あの社長令嬢?」


「高梨と揉めてるって——」


私は席を立ち、そっと様子を見に行った。


廊下の向こう、会議室の前で、蓮と麗華が言い争っている姿が見えた。


「待ってくれ、麗華! コンペの失敗は俺だけのせいじゃない!」


「言い訳なんて聞きたくありませんわ」


麗華は冷たく蓮を見下ろしていた。


「負け犬と婚約なんてありえません。父にも報告しましたから、この話はなかったことに」


「な——」


蓮の顔が蒼白になる。


「ちょっと待て、コンペ一回負けたくらいで——」


「一回?」


麗華は嘲るように笑った。


「調べさせてもらいましたわ。あなたの『実績』、ほとんど他人の手柄の横取りじゃありませんの」


蓮が息を呑む音が聞こえた。


「特に、元婚約者の駒田さんでしたっけ? あの方の企画書を何度も自分の名前で提出していたそうですわね」


「それは——」


「わたくし、無能な男には興味ありませんの」


麗華はくるりと背を向けた。


「さようなら、高梨さん。もう二度と連絡しないでくださいまし」


ヒールの音が遠ざかっていく。


蓮は呆然と立ち尽くしていた。


——ざまあ。


そう思った自分に、少しだけ驚いた。


以前の私なら、少しは同情したかもしれない。でも今は——


「……当然の報いね」


小さく呟いて、私は自分のデスクに戻った。


スマートフォンに、メッセージが届いていた。


『今夜、お時間ありますか? 話したいことがあります。——悠真』


私は少し考えてから、返信した。


『大丈夫です。どこに行けばいいですか?』


即座に返信が来る。


『将棋会館の近くのカフェで。一局指しながら、お話ししましょう』


将棋会館。プロ棋士が対局する、あの場所の近く。


『——分かりました』


私はスマートフォンを閉じた。


何の話だろう。


胸騒ぎがした。でも、悪い予感ではなかった。


新しい何かが始まる——そんな予感だった。



***



それは、悠真さんとの約束の前日のことだった。


退勤時間を少し過ぎた頃、会社のエントランスで待ち伏せされた。


「詩織」


聞き慣れた声。振り返ると、高梨蓮が立っていた。


二週間前に公衆の面前で婚約破棄を宣告してきた男。白鳥麗華にも捨てられ、会社での評価も下がり——


——その顔は、見るも無惨だった。


目の下には濃いクマ。髪は乱れ、スーツも皺だらけ。かつての「イケメン枠」の面影は、どこにもない。


「何の用ですか」


私は立ち止まらず、歩き続けた。


「待ってくれ!」


蓮が腕を掴んできた。


私は冷たく手を振り払う。


「触らないでください」


「話を聞いてくれ、頼む」


蓮は縋るような目をしていた。


「俺、間違ってた。お前のこと、ちゃんと見てなかった。でも、今は分かるんだ。お前がいないと——」


「いないと、何ですか?」


私は足を止めた。


「仕事が回らない? 企画書を書いてくれる人がいない? 資料を作ってくれる便利な女がいなくなった?」


「違う!」


「何が違うんです?」


私は真っ直ぐに蓮を見つめた。


三年間、この人の顔色を窺ってきた。機嫌を損ねないように、プライドを傷つけないように、自分を殺してきた。


——もう、そんな必要はない。


「高梨さん」


私は静かに言った。


「あなた、私の何を知っていますか」


「え?」


「私の趣味、知ってますか? 私の特技、知ってますか? 私がどんなことを考えて、どんなことを大切にしているか——知ってますか?」


蓮は口を開いたが、言葉が出てこなかった。


「……三年付き合って、何も知らないでしょう」


私は小さく笑った。


「当然です。あなたは一度も、私のことを見ようとしなかったんですから」


「それは——」


「『地味で従順な女』。それがあなたの私への評価でしたよね」


蓮の顔が強張る。


「飲み会で言ったでしょう。『君みたいな地味な女じゃ、俺の出世の役に立たない』って」


「あれは——違うんだ、あれは——」


「違わないですよ」


私は言い切った。


「それがあなたの本音だった。私は便利な道具。出世の踏み台。それ以上でも以下でもなかった」


「違う、俺は——」


「じゃあ、証明してみてください」


私は鞄から、小さな木箱を取り出した。


「これ——」


「将棋の駒です」


携帯用の将棋セット。ネット将棋だけでなく、リアルの盤面でも指したくて、最近買ったものだ。


「一局、指しませんか」


蓮は目を丸くした。


「将棋? お前、将棋なんて——」


「できない、と思ってました?」


私は薄く笑った。


「三年間、隠してましたからね」


「……何だって?」


「私、将棋が趣味なんです。ネット将棋では『詩織姫』って呼ばれてます。聞いたことありません?」


蓮の表情が変わった。困惑、そして怒り。


「騙してたのか?」


「騙す?」


私は肩をすくめた。


「言おうとしたことはありましたよ。でも、あなた、『女が将棋? 似合わねぇ』って笑ったじゃないですか」


蓮は黙った。


「私、あなたのプライドを傷つけたくなかったんです。だから黙っていた。——馬鹿でしたね、本当に」


私は将棋盤をエントランスのベンチに広げた。


「勝負しましょう。私が勝ったら、二度と近づかないでください」


「……もし俺が勝ったら?」


「好きにしていいですよ。復縁でも何でも」


蓮は少し考えて——そして、不敵に笑った。


「いいぜ。将棋なら、負ける気がしねぇ」


ああ、この人は本当に何も分かっていない。


私は駒を並べた。


「どうぞ、先手で」


「遠慮なく」


蓮が駒を動かす。7六歩。


私は8四歩と応じた。


序盤は穏やかに進んだ。蓮の棋力は、アマチュア初段くらいか。確かに、素人の中では強い方だ。


——でも、私の相手じゃない。


中盤、蓮の攻めを軽く受け流す。


「くそ、何でこんな——」


蓮の額に汗が滲む。


私は無言で駒を進めていく。


一手、また一手。


蓮の陣形が崩れていく。攻める隙を与えず、じわじわと追い詰める。


「待て、待ってくれ——」


「待ちません」


私は最後の一手を指した。


「——詰みです」


十手詰み。


蓮は盤面を凝視した。何度も確認している。でも、どう足掻いても逃げられない。


「嘘だろ……」


「嘘じゃありません」


私は静かに言った。


「あなたはいつも、私を見ていなかった。盤面も、私の心も」


蓮が顔を上げる。その目に、敗北の色が浮かんでいた。


「私は三年間、ずっと——本気を出せなかった」


駒を片付けながら、私は続ける。


「あなたに合わせて、あなたのために、自分を殺してきた。でも、もうやめます」


将棋盤を鞄にしまう。


「さようなら、高梨さん。もう、会うこともないでしょう」


「待て——詩織——」


私は振り返らなかった。


——ああ、すっきりした。


駅に向かって歩きながら、自然と笑みがこぼれた。


本当の意味での、決着だった。


将棋盤の上で、全てを清算した。


盤面は嘘をつかない。


私の強さも、あの男の弱さも、全部明らかになった。


——これでいい。


スマートフォンが震えた。


悠真さんからのメッセージ。


『明日、楽しみにしています。大事な話があるんです』


大事な話。


胸が高鳴った。


『私も楽しみにしています』


返信を送って、私は夜の街を歩いていった。


明日から、新しい人生が始まる。


そんな予感がしていた。



***



悠真さんに呼び出されたのは、将棋会館近くの静かなカフェだった。


「プロ編入試験を受けてみませんか」


開口一番、悠真さんはそう言った。


「——え?」


私は思わず固まった。


「プロ編入試験。アマチュアからプロ棋士になるための試験です」


「それは知ってますけど——」


「駒田さんの実力なら、合格できます」


悠真さんは真剣な目で言った。


「僕は審査員の一人として推薦します。もちろん、最終的に決めるのはあなたですが——」


「待ってください」


私は両手を上げた。


「プロ棋士って——そんな、私なんかが——」


「『私なんか』じゃない」


悠真さんの声が、少し強くなった。


「あなたは強い。僕と引き分けるほど強い。その才能を、もう隠す必要はないでしょう」


「でも——」


「怖いですか?」


私は黙った。


——怖い。正直に言えば、怖い。


幼い頃の記憶が蘇る。将棋が強すぎて孤立した日々。「異常」だと言われた日々。


「……怖いです」


声が震えた。


「また、孤立するかもしれない。『変な女』って言われるかもしれない。——二十年以上、ずっと隠してきたんです。今さら、表に出るなんて——」


「孤立なんてさせません」


悠真さんが言った。


「僕がいます」


——え。


「僕は、あなたの将棋のファンです。対等のライバルとして、ずっと戦いたいと思っている」


悠真さんの目は、真っ直ぐだった。


「そして——」


彼は一度言葉を切った。


「あなたのことが、好きです」


時間が、止まった。


「将棋を通じて、あなたを知った。強さも、弱さも、優しさも、全部」


悠真さんが手を伸ばしてきた。


「僕と一緒に、将棋を指しませんか。——人生という盤面を、二人で」


私は目を見開いた。


これは——プロポーズだ。


「……悠真さん」


「悠真、でいいですよ」


「悠真……さん」


名前を呼ぶと、彼は少し照れたように笑った。


「答えは、急ぎません。じっくり考えてください」


「……いいえ」


私は首を振った。


「考える必要、ありません」


悠真さんが目を見開く。


「私——」


言葉を探す。二十七年間、ずっと隠してきた気持ち。本当の自分を見せることへの恐怖。


——でも、この人の前でなら。


「私も、あなたが好きです」


声が震えた。でも、ちゃんと言えた。


「将棋を指している時、初めて——本当の自分でいられると思いました」


涙が溢れてきた。


「ずっと、一人で戦ってきました。誰にも本気を見せられなくて、誰にも理解されなくて——でも」


悠真さんの手が、私の頬に触れた。涙を拭ってくれる。


「あなたが——初めて、私の将棋を『美しい』って言ってくれた」


「美しいですよ。本当に」


「だから——」


私は笑った。泣きながら、笑った。


「プロ編入試験、受けます。あなたと一緒に、将棋を指したいから」


悠真さんの顔が、ぱっと明るくなった。


「——ありがとう。本当に、ありがとう」


彼は私の手を取った。


「一緒に、頑張りましょう」


「はい」


窓の外では、夕日が美しく沈んでいた。



***



——半年後。


「プロ編入試験、合格おめでとうございます!」


フラッシュの嵐の中、私は深く頭を下げた。


『最も遅咲きの女流棋士』


新聞の見出しに、そう書かれていた。


二十七歳でプロ入り。確かに遅い。でも——


「遅いなんてことはありません」


記者会見で、私はそう答えた。


「将棋に、早いも遅いもないと思います。大切なのは、盤面に向き合う気持ちです」


記者たちがざわめく。


「それと——」


私は真っ直ぐ前を見た。


「やっと、本当の私で勝負できます。それが一番嬉しいです」


会場の後方で、悠真さんが微笑んでいるのが見えた。



***



プロ入り記念の公開対局。


相手は、桐山悠真八段。


将棋会館の大盤解説会場には、満員の観客が詰めかけていた。


「詩織」


対局前、悠真さんが声をかけてきた。


「手加減なしだよ」


「当たり前でしょう」


私は笑った。


「盤面は、嘘をつきませんから」


対局が始まった。


序盤から激しい攻防。悠真さんの鋭い攻めを、私は全力で受け止める。


中盤、私は勝負手を放った。


会場がざわめく。解説のプロ棋士も「これは——」と息を呑んでいる。


終盤、熾烈な寄せ合い。


——ああ、楽しい。


心からそう思った。


全力で考え、全力でぶつかり合う。勝っても負けても、言い訳なんてない世界。


私はずっと、これがやりたかった。


結果は——私の負けだった。


三手差の惜敗。


「——負けました」


頭を下げる。悔しい。でも、清々しい。


「ありがとうございました」


悠真さんも頭を下げた。


「次は、負けません」


私は宣言した。会場が沸く。


「楽しみにしてる」


悠真さんが笑った。



***



対局後の控室。


「詩織ちゃん」


涙声で呼ばれて振り返ると、藤崎先生が立っていた。


幼い頃、将棋を教えてくれた恩師。白髪がさらに増えていたが、穏やかな目は変わらない。


「先生——」


「ずっと、見守っていたよ」


先生の目から、涙がこぼれた。


「詩織ちゃんが本気で指せる日が来て——儂は、本当に嬉しい」


私も泣いた。


二十年以上の時を経て、やっと——やっと、先生の前で本気を出せた。


「ありがとうございます。先生のおかげです」


「お母さんも来ているよ」


先生が顎で示した方を見ると、母が立っていた。


「……お母さん」


「詩織」


母は私を抱きしめた。


「ごめんね。ずっと、我慢させて。『普通の女の子らしく』なんて——」


「いいの、お母さん」


私も母を抱きしめ返した。


「私が、自分で選んだことだから」


「でも——」


「今、幸せだよ」


私は笑った。


「やっと、本当の私で生きられるから」


母の嗚咽が聞こえた。


「詩織——お母さん、あなたのこと、誇りに思う」


「……ありがとう」



***



その日の夜。


悠真さんと二人で、東京の夜景を見下ろしていた。


「今日の将棋、楽しかった」


「僕も」


悠真さんが私の手を取った。


「来月、入籍届を出そう」


「……うん」


「そして——」


彼は私の方を向いた。


「これからも、ずっと、一緒に将棋を指そう」


「当たり前でしょう」


私は笑った。


「あなたに勝つまで、やめるつもりはないから」


「それは大変だ。僕も負けないよ」


「望むところ」


二人で笑い合う。


夜空には、満天の星が輝いていた。


——高梨蓮が全てを失ったと聞いたのは、その数日後のことだった。


会社からは退職を迫られ、白鳥家からは婚約詐欺で訴訟を起こされた。


「自業自得ね」


私は特に感慨もなくそう呟いた。


もう、あの男のことを考える時間すら惜しい。


私には、やるべきことがある。


将棋を極め、悠真さんに勝ち、女流タイトルを獲得する。


そして——いつか、本当の意味で、彼と対等になる。


「さあ、今日も一局」


パソコンを開き、将棋盤に向かう。


盤面は嘘をつかない。


私の人生という盤面も、これから本当の勝負が始まる。


——詰みなんて、まだまだ先の話だ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ