八、
休憩時間は美智瑠にとって、引き締め続けていた気を少しだけ緩められる貴重な時間だ。特にトイレの個室に籠っている間は、おっちょこちょいのアルバイターから素の矢部美智留に戻れる。
青山は未だに辞職していない。周囲は、そんな彼を心臓に毛が生え過ぎた驚くべき精神力の持ち主だと揶揄している。だが、どうやら青山は宇月とは遂に破局したようだ。この情報だけは、猫のように気まぐれな横須賀から耳打ちされて知った。
美智瑠は、コンビニで買った鮭ハラミと焼きたらこのおにぎりを一つずつ事務所のテーブルの上に置いた。飲み物は節約の為、空になったペットボトルの中に家の蛇口を捻って出した水道水を満タンにいれてきている。
本来であれば、ペットボトルに口を付け水道水をがぶ飲みした後、おにぎりを貪るように食べ始めるのだが、美智瑠はしばらく金縛りにでもあったかのように身動きがとれなかった。ある懸念が脳裏をよぎったからだ。この鉄壁の守りである布マスクを外してしまえば、一巻の終わりだ。父親から殴られた頬の痣を隠し通すことが出来なくなってしまう。そうなれば、警察沙汰になりかねない。とうとう本当の意味での家庭崩壊は免れない。美智瑠は決して、布マスクを外してはならないと本能的な危機感さえ覚えた。
目の前にあるおにぎり二つとペットボトル一本を手に持って、立ち上がる。そのまま憩いの場である従業員専用トイレへ向かい、個室に入って鍵を閉めた。トイレは洋式となっており、美智瑠は躊躇うことなく便座に腰を下ろした。予想通り便座は温かかった。吐く息が白くなるような上着が手放せない寒い季節だ。温もりあるものに素肌が触れるだけでホッと一安心する。水道水で渇いた喉を潤してから、膝の上におにぎりを置いてビニールを剥がして食べた。
美味しい。けれど、米を噛んで頬を動かす度、殴られた箇所に鈍痛が走った。幾らなんでも、何もしていないのに突如として逆上し娘を殴るだなんてどうかしている。強制的な痛みを与えられる毎に、飲んだくれの父親に対する激烈な憎悪が沸き上がってくる。
同時に、トイレ特有の消臭剤の臭いがむごたらしい程鼻にまとわりついてきて、美智瑠は急に潔癖症にでもなったかのように眉間に皺を寄せた。さわさわと背中の産毛を得体の知れない悪寒が撫で上げる。五感がおののきざわめいた。
御不浄とも呼ばれるトイレで、よりによって飯を食うなんて行為、普通ではあり得ない。一気に正気に戻った美智瑠は、汚い場所でおにぎりを頬張る己自身がひどく惨めで穢らわしい存在に思えて致し方なくなった。一旦そう考えてしまうと、自然の流れでずるずると精神状態を崩すような軽微の吐き気が込み上げてくる。これ以上、余計なことを考えてはいけない。美智瑠はおにぎりの最後の一口を口の中に放り込むと、布マスクを装着してトイレから出た。
自分で自分を貶めて衰弱した心に活を入れた。何食わぬ顔、と言っても殆どが布マスクに隠れた顔で堂々と店内に入ると、
「いらっしゃいませ!」
大きな声を張り上げ深々と一礼した。
それから自棄を起こしたかのように大股で歩いて、事務所へ入ると、
「お疲れさまー」
「お疲れ様です」
完璧な笑顔の青山とすれ違いざまに挨拶を交わしてから、事務所の奥まで移動して椅子に座った。
座禅のように目を瞑り、思考を巡らす。その最中に、浅慮故に便所飯と言う自傷行為に及んだ自らを美智瑠は責めた。後から胸が痛む。よくよく考えてみれば、自分の頬の痣なんて誰も気にも留めやしないだろうに、何故今ここで素直に夕食をとらなかったのだろう。後悔ばかりが身に沁みた。
「お疲れ様です。ここ、空いてますか?」
ミステリアスな雰囲気漂う青山の元カノ宇月が、向かいの席を指して言う。
「あ、はい! もちろん……空いてます!」
美智瑠は慌てた様子で、テーブル上に無造作に置いたままのバッグを胸に抱き締めた。思考することに集中していた意識が、今や完全に宇月だけに向いている。
「それじゃあ、失礼します」
宇月が椅子を引いて、無駄のない滑らかな動きで座る。
「はい」
美智瑠は照れたように顔を赤らめてはにかんだ。
宇月はまさに美智瑠の思い描く理想の女性だった。逆三角形型の輪郭にスッと高い鼻。形の良い薄い唇をして、笑っても笑わなくても常時浮き出ている涙袋はいつ見ても艶っぽくて魅力的だ。こう言った外見をしている為に、容姿端麗な青山と交際出来ていたのだろう。
宇月に聞いてみたいことはたくさんあった、特に元カレである青山について。けれど、人の不幸を嬉々として世に晒すパパラッチのような真似は信条に反する為、口が裂けても聞けない。
美智瑠はしばらく俯き黙り込んだままでいると、
「矢部さんって、青山くんのことどう思う?」
宇月が唐突に口を開けて訊ねた。
「……えっ!」
「前々から思ってたんだけど、矢部さんって青山くんのこと好きだよね?」
「……あっ……!」
美智瑠は思わず口を開けたまま固まった。
「ごめん、ごめん。変なこと聞いちゃった」
宇月がその様子を見て、拳を唇に当ててクスリと笑う。
「いえ、全然。私なんかで良ければ何でも聞いてください!」
美智瑠は、先輩からの質問には何でも答えようと言う気でいた。
「ほんと? じゃあ、矢部さんは平気な顔して嘘つく人のことどう思う? 嘘を嘘と感じさせない人のこと。嘘を貫き通す人のこと」
「……そ、そんな人いるんですか? どこかでボロが出るような気がしますが」
考えていることの殆どが顔に出る美智瑠は、宇月の言葉に少し動揺した。
「嘘ついてるのにボロが出ない演技上手な人って、たくさんいるから、すごく怖い。でも、大人になるってそういうことだよね。平然と巧妙な嘘をつけるようになっちゃう」
「宇月さん……、何かあったんですか?」
「あった。嘘つき男に騙されたの。私も初めて出来た恋人だったから有頂天になってて恋は盲目状態だったし、その人のことも周りのことも何一つ見えてなかった」
「……そっ、そのっ、あのー、もしかしてその初めて出来た恋人って、まさか……?」
宇月は神妙な面持ちでゆっくりと頷いた。
「そう、青山一。爽やか系のイケメン貴公子だと思ってたのに」
「人は見かけによらないですね。……あっ、すみません!!」
「ううん、気にしないで。本当にその通りだから。……まだ決めてないけど、私、ここ辞めようかな」
「ええっ!? 何でですか? 宇月さんは何も悪くないじゃないですか!?」
美智瑠はつい感情的になって声を張り上げた。
宇月は引き結んでいた唇の両端を軽く持ち上げた。
「ありがとう。矢部さんは可愛いね。……じゃあ、私はこれから歯磨きして仕事に戻るから。お先に失礼します」
そして、無駄のない動きで立ち上がると、長く美しいビロードのような黒髪を揺らして颯爽と去っていった。一人残された美智瑠は、あんなに天から全てを授かったような女性でさえ、人生は順風満帆には行かないのだと言うことを知り愕然とした。




