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五、

 あの前代未聞の暴露事件から、花江加奈子の姿を見ることはなくなった。どうやら宣言通りアニメショップを退職したようで、ロッカーの鍵は返却され、名札も綺麗に剥がされている。

 優に一週間は経ったが、青山一は何食わぬ顔で職場に出勤している。異性だけでなく同性の目をも保養してしまう美男子ぶりは健在だが、そのカリスマ性に、はっきりとした翳りが見えた。性病持ちと言う情報によって、有り余る程あった性的魅力が消え失せたのだ。

「ねえ、青山くんが性病あるって本当なのかな」

「花江ちゃんが暴露してたよね」

「なんかショック~」

「せっかくのイケメンが台無しじゃない?」

「言ったら悪いけど、性病持ちって聞いた時からイケメンに見えなくなっちゃった」

「分かる。男みたいな考え方かもしれないけど、ヤれるかヤれないかって、すごく大事だよね」

「ハハハハ。確かに」

「でもさ、青山くんって花江ちゃんとしたんだよね。もし本人が性病あるって分かってるのに性交渉したら罪にならないのかな?」

「……さあ、どうだろ? でも、医療費くらいは払ってほしいよね」

「ね」

 ロッカーを開けて雑談する二人の女性従業員の話を聞きながら、美智瑠は事務所の椅子に座ってコンビニで買ったカリカリ梅おにぎりを頬張っていた。声に聞き覚えがあると思い、ちらりと二人の顔をうかがうと美智瑠はぎょっとした。

 彼女達は、青山と花江とは同期入社で親しい関係であったはずだった。それなのに、ここ最近ずっと色んな人から話のネタにされている。普通ではないズレを引き起こしただけで、どんなに仲が良かったとしても、あっという間に永遠に話題にされてしまうと言うのは少し不憫だ。尚更、孤独は自分を守る為の鎧であり、職場で一人ぼっちでいたとしても何ら恥ずかしいことではないと美智瑠は声を大にして宣伝したくなる。

 青山はナルシストだがフェミニストで、いつも柔和な笑顔を美智瑠に向けて明るく挨拶をしてくれる。二ヶ月前頃から才色兼備で箱入り娘の宇月結子と交際しているのは周知の事実だ。手を出すのが早いと噂の青山だが、宇月とは珍しく純愛を貫いているようだ。

 花江はクールで感情を顔に出さない大人びたところがあるが、仕事ができる。美智瑠はこれまで会話らしい会話を花江としたことはない。

 ところが、美智瑠だけは青山と宇月が出来ていたことさえ知らなかった。ましてや、青山が花江を犯して性病をうつしていただなんて寝耳に水だ。全て、あの時の花江の告白を聞いて初めて知った。

 恋愛交際未経験の美智瑠からしてみれば、会話の内容全部が生々しくて別次元の話のように聞こえる。

 ペットボトルを傾けて緑茶で喉を潤し気持ちを切り替えた後、すぐに布マスクを口に装着した。これがないと安心して外へ出掛けることができない。自分の心を守ってくれる大切な相棒だ。布マスクが手放せなくなった決定的な出来事は、およそ一年前まで遡る。

     ◆

 急遽休んだアルバイターの代わりに早番出勤した美智瑠は慣れない勤務時間を終えると、職場から家までの帰り道を進んだ。

 歩行者用信号機の色が赤から青に変わった。すると、車は列をなしたまま車道で停車し、信号待ちをしていた人々は一斉に横断歩道を歩き出す。

 代わり映えのしない日常の光景を目にしながら美智瑠は突然、激しい渇きを覚えて人間以外の生き物を愛でたくなった。

 家路の途中にある自動販売機を見つけると、缶のリラクゼーションドリンクを購入して、その場で一気飲みした。後味が爽快で喉がスースーしてすっきりはしたが、それでもまだ何かが足りない。判然としない渇きがある。だから、もっと癒しが欲しい。

 そんな中、外から見ても緑の多さが窺える白津神社は、ちょうど良いくらいの自然を内包していて、安らぎで満たされている。適度に木々が生え、色とりどりの花たちが咲き、池では鯉や亀が泳いでいる。気分転換には、まさにもってこいの場所だ。

 美智瑠の足は、自然と吸い寄せられるかのように白津神社へ向けて歩みを進める。一歩、二歩、三歩、石畳を踏んで神社の中へと入った。

 すると、突風が美智瑠の体を友好的に撫でた。風に踊らされる木の葉が、自然の威厳さを醸し出し、白津神社が神聖な場所であることを暗に示唆している。

 穏やかな夕方の陽気に包まれて、美智瑠は心地良さからうっとりと目を細めた。軽く深呼吸をして、都会のオアシスの清澄な空気を存分に味わう。

 美智瑠が境内の真ん中まで進んでゆくと、前方から学生服を着た男子学生の集団が近付いてくるのが見えた。

 途端に、美智瑠の胸に鋭い緊張が走る。苦い記憶がよみがえる。美智瑠には小学生の時に、同級生の男子数名から受けた陰湿ないじめが原因で、一年間ほど保健室登校をした過去があった。懸命に耐えて、出席にしがみついて、感情を押し殺してもどうにもならなかった日々。傍観者はいても、誰も助けてはくれなかった。

 弱肉強食。そんな習いたての四字熟語が、小学生である美智瑠の胸に深く刻み込まれた。

 だらしなく歩く男子学生の集団は、亀のような歩みだがしかし着実に美智瑠の方へと距離を詰めてくる。彼らの纏う気だるげな雰囲気が、地味で素朴な気性である美智瑠にとっては恐ろしかった。

 美智瑠は俯いて、石畳ばかりを見ながら恐怖で震える脚を無理矢理に動かして、そのまま彼らの横を通り過ぎようとした。

 男子学生達の話し声が明瞭に聞こえ始める。ふざけあい、じゃれあい、笑いあい、学校生活を謳歌している少年達の声だ。突然、その声がぴたりと止まる。

 同時に、美智瑠は複数の視線を感じた。おそらく、少年達の目がこちらへ向いているのだろう。

 美智瑠は彼らの方へ、顔を直視するわけでなく、さりげなく彼らの足元に目を遣った。美智瑠の視界に、少年達の学生靴と学生服が写り込む。

「おい、見ろよ!」

「顔ヤバい」

「すっげー怪物ブス」

「おい、聞こえるだろ」

「本当のこと言って、ごめんなさーい!!」

 男子学生の集団が、次々と暴言を吐く。今までの人生で人の気持ちなど考えたことがないとでもいうかのような陰険な加虐性を彼らから感じた。

 美智瑠のやわな心に、凶悪的に太いとげが間断なく連続して突き刺さった。激しい衝撃と痛みで心は慟哭した。

 なぜ、こんな見ず知らずの男子達から酷い言葉を投げられなければならないのだろう。

 見た目が悪いから? 地味で暗い雰囲気があるから? 何も反撃してこなさそうだから?

 だから、何を言ってもいいと思ったのだろうか。

 許せない。

 復讐心が沸々と湧く。地面に落ちている石の一つや二つ、言葉の代わりに投げつけてやりたい。

 そんな強い気持ちを抱いていながら、美智瑠は何も行動に移せず無言で俯いて石畳の上を歩き続けた。

     ◆

 美智瑠は休憩後、速やかに布マスクを装着してから仕事場へ戻り上司の指示をあおいだ。

 未だに、事務所内で聞いた青山と花江に関する会話が耳の奥にこびりついている。

 恐らく自分も影で色々言われているに違いない。美智瑠は月に一回以上は必ず気分の問題を理由にアルバイトを休む。そんな甘ちゃんを、自分にも人にも厳しい仕事の鬼である副店長が黙っているはずがない。そのように考え出すと、非常に肩身が狭くなるので、極力思考の針をそちら側へはやらないよう気を付けている。人間関係のストレスで潰れないようにする為には、少しのことでは動じないタフさと物事を気にしすぎない鈍感力が大切だ。美智瑠は今年で二十歳になったばかりだ。まだまだ成長途中である。

 そんな美智瑠は今、青山と横須賀の三名で、ラミネートし終えたばかりのPOPを貼り付ける作業に取り組んでいる。年がら年中マスクで顔を覆い隠している素顔がいまいち謎のバイトリーダーからそう命じられたのだ。

 POPには明瞭に

『感涙必至! 絶対あの頃を思い出して泣ける! アオハル漫画の最高峰が遂にアニメ化!』

 と、手書きで記されているが、それよりも美智瑠が気になってしまうのは、この仕事を任された錚々たるメンバーであった。

 つい先日、二股交際と性病持ちがバレた青山はまるでどこかの国の手負いの王子様のようだ。周囲にキラキラオーラを振り撒き、明るく完璧な笑顔を浮かべているのにも関わらず、それがわざとらしく見えて痛々しい。かつては美智瑠の心のアイドル的存在だった青山が、今はすっかり胡散臭さの塊のようになってしまった。すぐ傍に居ると言うのに以前のように、全くときめかなくなってしまったことに虚無感さえ覚える。

 美智瑠の右隣に居るのは、誰に対しても仔犬のように人懐こくて仕事を覚えるのも早いとみんなに称賛されている横須賀修司だ。一年後輩だが、職場で友達も出来ず常にマイペースな美智瑠を何かと気に掛けてくれる。年齢は彼の方が二つ上で、フリーターだと言う。好きなアニメはゆるゆる日常モノだそうで、狙いすぎていないけれど萌えポイントをしっかり押さえている女の子が程々に登場するホッコリ系アニメが好みのようだ。レジで二人並んで客待ちしている際に教えてくれた。

 ガムテープをつけ終わった青山が、今度はPOPをプラスチック製の棚に貼り付けてゆく。美智瑠は次に貼るべき、もう一つのPOPに手を伸ばした。

 その時、想定外にも手が青山の手に触れた。

 瞬間、美智瑠は肩をビクッと震わせ反射的に手を引っ込めた。

 実を言えば、美智瑠はこの時を“心のアイドル”との接触をずっと夢見ていた。眠れない日は、青山とのあんなことやこんなことを妄想し尽くしては恍惚に浸る夜もあった。それなのに、彼の肌理こまやかな色白肌に触れたにも関わらず、こんなにも感動しないだなんて夢にも思わなかった。彼の手に汚物めいた気色悪ささえ感じて、美智瑠は今すぐにでもアルコール消毒液をスプレーして両手を揉み合わせ除菌したくなった。

「ごめん。気が付かなかった」

 さっと手を膝の上に置き不安げな表情を浮かべて即座に謝ってくる青山の姿が、どことなく儚げで哀れみを誘う。

「いえ! こちらこそ、すみません! 」

 美智瑠は慌てて謝り返した。

「ちがう。悪いのは俺の方。……このPOPもどんどん貼りつけちゃおう。矢部さん、ここ押さえてて。修司はガムテープ係ね、はい」

 青山はそう言って、修司にガムテープを手渡した。

「はい! 隊長っ!」

 横須賀が、びしっと敬礼のポーズを取る。

 三人はそれから私語を控えて黙々と次から次へPOPを貼り付けていった。

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