十六、
昼間の明るい陽射しが開け放たれた窓から差し込んで美智瑠の片頬を強く照らす時、滅多に鳴らない自宅一階の階段付近にある固定電話が久方ぶりに鳴った。慌ててファントムダイスの最新刊の漫画本を両手の平を使ってパタンと閉じる。
恐らく一階の畳部屋では父が寝転びながらテレビでも見ているに違いない。政治家や芸能人への批判を撒き散らす大声が、ちょうどトイレへ行く為に出た廊下では丸聞こえだったことを思い出す。
美智瑠は焦った。固定電話の着信音等が父の神経に障るようなことがあってはならない。
漫画本を置き、自室から飛び出して階段を駆け下りた。
「もしもし」
急いで受話器を取り、声を絞り出す。若干声調が不安定なのは、日頃の運動不足が原因で呼吸が乱れているせいだろう。美智瑠は昔から体を動かすことが苦手である為、超が付く程のインドア派だった。
「あ、私、株式会社スタートラインの薮木と申しますー。お世話になっておりますー」
男性の軽薄で気怠い声が受話器越しに聞こえてくる。不真面目そうなのに敬語であると言うちぐはぐさに、美智瑠は多少の不信を感じた。
株式会社スタートラインの薮木とは、実に聞き馴染みのない会社名と名前だ。初めて耳にしたかもしれない。一体、矢部家の誰にどのような用事があると言うのだろう。
美智瑠は、その先を促すように恐る恐る
「はい」
と、慎重に応えた。
「矢部総司様のご自宅でお間違えないでしょうか?」
薮木と名乗る男性の口から父のフルネームが飛び出すと、美智瑠は思わず黙り込んだ。胸中で戦慄が砂嵐のように吹き荒れる。この段階で嫌な予感しかしなかった。
気持ちが落ち着いてから
「はい。そうです」
と言ってすぐ、個人情報を明かすような返事を迂闊にしなければ良かったと後悔した。
「あ、私ですねー、消費者金融やっておりましてー、総司様のケータイに何度かお電話させていただいたんですがねー、お出になられなかったんで緊急連絡先にご記入いただいた、こちらの電話番号に掛けさせていただきました」
えっ、消費者金融……?
嫌な予感は見事に的中したものの、美智瑠は驚愕と困惑から目と口をあんぐり開けた。消費者金融と言う言葉が両肩に重くのしかかって来て、受話器を持つ手がブルブル震えて落っことしそうになる。波紋のように震えは広がってゆき全身がガタガタと震えだす。今にもタガが外れそうだった。
「……あ、あのっ! それって、もしかして私の父に借金がある……って、ことですかっ?」
「そうですよ。あれれれれ、あなた娘さんですよねえ? ご家族なのにお父さんが借金してるの知りませんでしたかー?」
薮木の鼻につく言い方に、吐きそうになる程腹が立ったが唾をごくりとのみ込んでグッと堪えた。
父は一体どういう経緯で、いくら借りて、何に遣ったと言うのだろう。
「……全然、知りませんでした」
「まあ、今、知っていただけたと言うことで大丈夫ですよ。総司様ご本人にお電話代わっていただけないですかねー?」
「……」
「もしもし。聞こえていますかー?」
呑気な男声が受話器から聞こえてくる。
「……」
美智瑠は目を大きく見開いた。これは本当に現実に起きていることなのだろうか。あまりにも衝撃的過ぎる事態に気が動乱している。
「もしもし、娘さん? もしもーし!」
「……」
「貴女のー! お父さんがー! 百万円借金してます! 返してもらわなければならないので、お父さんに電話代わってもらってもいいですか?」
「……」
「……ちっ。話になんねえな」
美智瑠には、もう発声する気力も体力も残されていなかった。握力が急激に弱まり、受話器を持つ手が緩む。
「黙って逃げる気か!? 借りたものは返さないと駄目だろ!? さっさと父親に電話代われっ!」
次の瞬間、受話器が手の中からこぼれて音を立てて床に落下した。
美智瑠は力なく膝から崩れ落ちて、おめおめ泣いた。こんなにも辛いことが多い人生を歩まないとならないなんて、自分は一体何の為に生まれて来たのだろう。
「……う、ぅぅぅっ……」
「おい、聞こえてねえのかあ! 早く、父親に電話代われつってんだろっ!」
床に転がった受話器から罵倒が鳴り響く。
涙で視界不良の中、美智瑠は手探りで受話器を掴み取ると恐々と右耳にあてた。
「……」
電話相手の消費者金融の男は、神から生きることを許された悪党だ。堂々と、生き生きと、前向きに美智瑠を絶望の淵へと追い詰める。それでいて、友達や恋人や家族もちゃんと存在しているのだろう。
「おいっ!! 聞いてんのかよ、オラァッ!!」
新たな不幸を我が家に持ち込んできた、この男のことを絶対に許せない。そう考えると、腸が煮え繰り返ってくる。
「……うるさいっ!! 借金なんかしてねえよ!! このクソ野郎!! もし自宅まで来たら殺してやるからっ!!!」
ガシャンッ!
美智瑠は力の限り吠えるように叫ぶと、泣きじゃくりながら立ち上がって、受話器を固定電話に乱暴に置いた。
一階の畳部屋では、飲んだくれの父が酒の力を借りて横になり鼾をかきながら泥のように眠りこけていた。




