第7話 壊れた勇者の意地
――ガキィィィィィンッ!!!
暗く、底知れぬ絶望が沈殿する地下コロッセオのすり鉢状になった底で、空間を切り裂くような甲高い金属音が反響した。
それは、ただの物理的な衝突音ではない。絶対的な「消去」を司るシステムと、それに抗う「存在」との、データレベルでの激しい軋轢の音だった。
三城とシオリに迫っていた、数百体にも及ぶ漆黒の刺客・清掃ルーチンたちの一斉攻撃。一切の感情を持たず、ただ対象を白紙化するためだけに振り下ろされた無機質で鋭利なブレードの雨を、空中で「何か」が強引に弾き飛ばしたのだ。
凄まじい火花とエラーコードが散り、システム直属の怪物たちが、物理法則を完全に無視した理不尽な衝撃によって、後方へと大きく吹き飛ばされる。
「……え?」
死を覚悟し、シオリを庇うように抱きすくめていた三城が驚愕に目を見開くと、彼らの目の前に、一つのシルエットが立っていた。
右半身のテクスチャは完全に欠落し、内部構造である緑色のワイヤーフレームだけが剥き出しになった透明な状態。兜の奥、本来顔があるべき場所には『ERROR:データが参照できません』という黒いシステムウィンドウが不気味に貼り付いている。そして、全身から激しい砂嵐のようなノイズを撒き散らしながらも、決して揺るがない足取りで立つ、満身創痍の甲冑姿。
先ほどの崩壊した教会での戦いで、ツギハギの魔王の凶刃からシオリを庇い、限界を超えたダメージを受けて完全に光の粒子となって消滅したはずの、プロトタイプのNPCだった。
「勇者……! お前、生きて……いや、データがまだ残っていたのか!?」
三城の信じられないものを見るような声に、その男――プロト勇者・アルスは振り返らない。
彼は、完全に刀身が砕け散り、柄だけになっていたはずの左手の聖剣に、バグとノイズで無理やり形作った、荒々しく燃え盛る「光の刃」を発生させ、迫り来る黒い津波に向けて力強く構えていた。
「オレは……オレは……ッ!」
顔面の黒いウィンドウが、警告を示すように激しく赤く点滅し、割れたスピーカーのような、ひび割れた声がコロッセオの底に響き渡る。
全身のデータが崩壊し、自分が何者であるかも、戦うべき魔王の名前すらも失った、不完全で哀れなプロトタイプの勇者。だが、彼の存在の根源に深く刻み込まれた、たった一つの初期設定だけは、このゴミ箱の底の絶対的な虚無の中でも、決して消え去ることはなかった。
「オレは、勇者だ……! だから……守る……■■を、守るッ!!」
数百という、中枢システムが放った圧倒的な死の群れを前にして。
名前を失った壊れた勇者が、名もなき読者を守るために、再びその残された命のすべてを燃やして立ち塞がったのだ。
『イレギュラー・データノ干渉ヲ確認。……論理的ニ説明不能ナ残存データ。タダチニ排除シマス』
吹き飛ばされた清掃ルーチンたちが、まるで流体金属のようにすぐさま体勢を立て直し、感情の欠片もない赤い単眼を一斉にアルスへと向けた。
ジジッ、ジジジジッ。
無機質なロックオンの駆動音が幾重にも重なり合い、不気味な合唱となって地下空間に響き渡る。
次の瞬間、数十体の清掃ルーチンが、蜘蛛のような不気味で立体的な軌道を描きながら、全方位から一斉にアルスへと襲いかかった。
「ガアァァァァッ!!」
アルスは、言葉にならない咆哮と共に、ノイズまみれの光の剣を嵐のように振るった。
ズバァッ! と、凄まじい剣圧が先頭の一体を真っ二つに両断する。しかし、システム直属の暗殺プログラムである清掃ルーチンは、ただの物理的な斬撃では完全に消滅しない。両断された黒い影は、空中でドロドロと液状化するように再び繋がり合い、即座に死角であるアルスの背後へと回り込んで、鋭いブレードを無慈悲に振り下ろした。
ザシュッ!!
「がっ……!」
アルスの左肩の装甲が深く切り裂かれ、そこから鮮血の代わりに、大量のポリゴンの破片と真っ赤なエラーコードが噴水のように噴き出した。
「勇者!!」
三城が叫ぶが、アルスは膝をつくことすら許されない。
前後左右、さらには頭上の虚空から、息もつかせぬ連続攻撃がアルスを執拗に襲う。彼は光の剣を円を描くように振り回し、迫り来るブレードを弾き、あるいは自らの身体で強引に受け止めながら、三城とシオリが立つ後方へと敵を絶対に近づけまいと、不落の盾になり続けていた。
だが、その代償はあまりにも大きすぎた。
清掃ルーチンのブレードは、触れたもののデータを「なかったこと」にして強制的に白紙化する力を持っている。アルスが攻撃をその身に受けるたび、あるいは剣で攻撃を弾くたびに、彼自身のデータが文字通りガリガリと削り取られ、虚無へと還元されていくのだ。
すでに欠落していた右半身のワイヤーフレームが徐々に途切れ途切れになり、唯一残っていた左腕の白銀の甲冑も、ボロボロに崩れ落ちていく。
「やめて……! もう、やめて!」
三城の背中に庇われていたシオリが、悲鳴のような声を上げた。
「私のために、これ以上傷つかないで! あなたはもう、十分に戦ってくれたじゃない……ッ! もういいから、逃げて!」
色彩を取り戻し始めた彼女の灰色の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
しかし、アルスは止まらない。
顔面のエラーウィンドウに『致命的損傷』『自己崩壊率90%突破』という真っ赤な警告文が滝のように流れ続けているにもかかわらず、彼の足は、ただの一歩も後ろへ退くことはなかった。
「くそっ、なんでだ……!」
三城は、自分の不甲斐なさに歯が砕けそうなほど強く奥歯を噛み締めていた。
ワールドコア中枢によって審査官の権限を強制的に剥奪された今の三城には、設定の書き換えによってこの状況を覆すことができない。
かつての詩乃の物語で起きた不自然なダンジョン崩壊事故をプロット修正で強引に乗り越えた時のように、あるいはセラの物語でシステムが危険なエリアへ強制誘導した現象を力技で突破した時のように、愛用のノートで設定を書き換えてこの窮地を脱することが、今の彼には不可能なのだ。ただ、一人の壊れかけたNPCが盾となって削られていくのを、見ていることしかできない。
「教会で魔王の攻撃を受けた時、あいつのデータは完全に消し飛んだはずだろ……! お前みたいな中途半端なプロトタイプが、どうしてシステム直属の完全なプログラム相手に、そこまで動けるんだ!」
『……それが、初期設定が持つ原初の熱量ですよ、三城』
激しいノイズにまみれたインカムから、白石の静かな、しかし確かな敬意を含んだ声が聞こえてきた。
「白石! どういうことだ!」
『洗練されたキャラクター設定も、物語の整合性も、彼にはもう何一つ残っていません。ですが……あのアルスという存在を、名もなき作者が一番最初に創り出そうとした時、そこに込めた「誰かを守るために傷つき、戦う主人公」という、純度百パーセントの熱量だけが、彼という存在の核に深く焼き付いて離れないのでしょう』
白石の言葉に、三城はハッとした。
設定を無秩序に盛り込みすぎて破綻し、システムに切り捨てられた『案件No.0000』。その世界でボツにされ、名前も使命も奪われたプロト勇者。
だが、どんなに世界が崩壊しようと、どんなにシステムが彼を「価値なし」と切り捨ててゴミ箱の底に落とそうと。
彼を生み出した作者が、一番最初にノートの切れ端に書き殴ったであろう『誰かを守る勇者』という純粋な想いだけは、この暗黒の虚無の中でも決して消滅していなかったのだ。
『論理的なロジックと効率だけで構成された清掃ルーチンには、その「意味のない感情の熱量」を処理しきれない。だから、圧倒的な格上であるはずの中枢プログラムが、バグだらけで消滅寸前のNPC一人に足止めを食らっているんです』
「……上等じゃねえか」
三城の目に、熱いものが込み上げてきた。
彼は、必死に剣を振るうアルスの背中を、強く、誇り高く見つめた。
「名前も設定もなくても、筋の通った理屈じゃなくても……こいつは立派な、俺たちの物語の主人公だ」
コロッセオの底で、凄惨な死闘が続いていた。
アルスの左足のテクスチャが完全に白紙化し、彼はついにバランスを崩して、ガクンと膝をついた。
『ターゲットノ活動限界、ヨビ完全ナ論理崩壊ヲ検知。――一斉処理ヲ開始シマス』
それを好機と見た清掃ルーチンの群れが、一斉に跳躍した。数十体の黒い影が、空中で一つの巨大な塊へと融合し、巨大で禍々しい一本の漆黒のブレードとなって、膝をついたアルスの頭上から無慈悲に振り下ろされる。
それは、彼を完全に世界の記録から抹消するための、処刑の刃だった。
「勇者ァァァァッ!!」
三城が叫んだ。
シオリが悲鳴を上げ、両手で顔を覆った。
だが、膝をついたアルスは、残された唯一の左腕で、ノイズまみれの光の剣を頭上へと高々と掲げた。
顔面を覆う『ERROR』のウィンドウが、かつてないほど激しく、狂ったように赤く明滅する。
「オレは……! オレはぁぁぁぁっ!!」
アルスの全身から、目も眩むような、眩いほどの純白の光が迸った。
それは、彼の残存するすべてのデータ、いや、命そのものを極限まで圧縮し、一撃の力として解放する、最初で最後の奥義だった。
かつて彼が、設定を与えられなかったために叫ぶことすら許されなかった、必殺技。
「■■……■■■■■■ェェェェェェェッ!!」
文字化けした、意味を持たない絶叫と共に、アルスの剣から放たれた極太の光の奔流が、振り下ろされた巨大な漆黒のブレードと、真っ向から正面衝突した。
ゴアァァァァァァァァッ!!!
圧倒的な光と闇の衝突。
地下コロッセオ全体が、巨大な地震に見舞われたかのように激しく揺さぶられ、周囲の石畳が次々とひび割れて、重力を失ったように宙に浮き上がる。
システムが絶対の効率で生み出した「消去」の力と、名もなき作者と勇者が意地で守り抜いた「熱量」。
相反する二つの力が極限で拮抗し、空間そのものがメリメリと軋みを上げて悲鳴を上げた。
「いっけえええええええッ!!」
三城の、魂の底からの叫びが響く。
バキィィィィィィンッ!!!
何万枚ものガラスが同時に砕け散るような轟音と共に、白銀の光が漆黒の闇を完全に食い破った。
アルスの放った命の一撃は、巨大な清掃ルーチンのブレードを粉々に粉砕し、そのままコロッセオの観客席の一部を吹き飛ばし、彼らを閉じ込めていた分厚い灰色の壁に、巨大な大穴――脱出のための完璧な突破口を穿ったのだ。
「……やった……!」
三城が目を見張る。強固で絶望的だった包囲網の一角が、完全に崩れ去っていた。
だが、その奇跡の一撃を放ったアルスの身体は、すでに限界の限界を迎えていた。
左腕は剣を握ったまま根元から消え去り、胴体も半分以上が透け、チリチリと静かな音を立てて光の粒子となって、空中に溶け出し始めている。
彼はもう、立ち上がることも、剣を握ることもできなかった。
「勇者……」
シオリが震える足で駆け寄り、崩れゆくアルスの前で膝をついた。
アルスは、顔面のエラーウィンドウの明滅を弱めながら、ゆっくりと、本当にゆっくりとシオリの方へ顔を向けた。
その首の動きすら、データが欠落してカクカクと不自然なものになっている。
「オレは……」
アルスの声は、もうほとんど激しいノイズに掻き消されて、聞き取ることすら困難だった。
それでも、彼は必死に、最後の言葉を紡ごうとしていた。
「オレは……君を、守れたか……?」
それは、先ほど崩壊した教会で、彼が一度目の消滅を迎える直前に口にしたのと同じ、不器用で純粋な問いかけだった。
「うん……! うんっ……!」
シオリは何度も何度も、大粒の涙をこぼしながら力強く頷いた。
「守ってくれたよ……! あなたは、私を二度も助けてくれた……私の、たった一人の、本物の勇者様だよ……っ!」
その言葉を聞いた瞬間。
アルスの顔面を無機質に覆っていた『ERROR』の黒いウィンドウが、パリンッ、と澄んだ音を立てて砕け散った。
その下から現れたのは、設定資料集のラフスケッチで描かれたような、鉛筆の線画だけで構成された少年の顔だった。
未完成で、色も塗られていないその顔は。
本当に、本当に優しく、己の使命を全うしたという誇り高い笑顔を浮かべていた。
「よかった……。これで、オレの……物語は……」
アルスは満足げに目を閉じ、静かにその唇を動かした。
「最高の……物語だった……」
直後、アルスの身体は眩い光の粒子となり、今度こそ完全に、一枚のテクスチャすら残さずに、廃棄領域の暗い虚空へと溶けて消え去った。
カランッ、と。
彼が最後まで握りしめていた柄だけの聖剣が、冷たい石畳の上に落ちて、寂しい音を立てた。
「…………っ!」
シオリは床に突っ伏し、声を上げて泣き崩れた。
三城は奥歯を噛み締め、アルスが消えた空間に向かって、深く、深く一礼した。
「よくやった。お前は、俺が審査したどのテンプレ勇者よりも、立派な主人公だった……!」
『――三城さん! シオリさん!』
インカムから、ルナの焦燥しきった声が飛んできた。
『アルスさんが命懸けで開けてくれた突破口から、すぐに逃げてください! 残りの清掃ルーチンたちが、すぐに自己修復を完了して追撃態勢に入ります!』
ルナの言葉通り、吹き飛ばされた清掃ルーチンたちの残骸が、ドロドロと黒い液体のように集まり、再び不気味な刃の腕を形成し始めていた。
これ以上、ここにとどまることは、アルスの死を無駄にすることを意味する。
「行くぞ、シオリ!」
三城はシオリの腕を力強く掴み、彼女を立たせた。
「嫌だ……! 彼が、私のせいで……!」
「泣くな! あいつはお前を守るために命を張ったんだ! ここで立ち止まったら、あいつの意地までボツになっちまうだろうが!」
三城の怒声に、シオリはハッと息を呑んだ。
彼女は袖で乱暴に涙を拭うと、アルスが遺した聖剣の柄をしっかりと胸に抱き直し、三城の顔を見上げた。
「……はい!」
「ルナ! 突破口の先へ向かう! 出口のナビゲートを頼む!」
『了解です! 白石さんとセラさんにも伝えます、外部からのファイアウォール展開の準備を!』
三城はシオリの手を強く握り締め、アルスがその命と引き換えに穿った、壁の大穴へと向かって駆け出した。
背後からは、再び駆動音を響かせた漆黒の死神たちが、津波のように迫ってきている。
だが、彼らの目にはもう絶望はない。勇者が繋いでくれたこの命を、絶対に終わらせるわけにはいかないのだ。
ワールドコア中枢の理不尽なシステムへの反逆。
その脱出劇は、外部で待つ「裏方コンビ」の援護を巻き込み、いよいよ最終局面へと突入しようとしていた。




