第5話 読者のトラウマと、漏れ出した感情
「違う……! 違うんです、三城さん! 私が……私が余計な感情を抱いてしまったから、システムがおかしくなってしまったんです!」
シオリの悲痛な叫びが、崩壊した教会の静寂を鋭く切り裂いた。
三城が彼女の華奢な肩に置いていた両手が、その激しい拒絶の意志によってバチッと弾き飛ばされる。彼女の全身を覆うノイズがかつてないほど激しく波打ち、古いブラウン管テレビの砂嵐のように視界をチカチカと明滅させていた。
その激しい感情の乱れは、単なる視覚的なエフェクトに留まらなかった。彼女の周囲の空間そのものに干渉し、教会の黒く焦げた石畳や崩れかけた壁が、ビキビキと不吉な音を立てて細かいひび割れを生じさせていく。廃棄領域(ゴミ箱)という、すでに崩壊しきっているはずの空間でさえ、彼女の放つ異様なプレッシャーに耐えきれず軋みを上げているのだ。
「どういうことだ、シオリ。お前が何かをしたって言うのか?」
三城は警戒を解かないまま、しかし可能な限り穏やかな声で慎重に問いかけた。
中枢システムによって設定過多の器ごと『ボツ』にされ、この絶対の虚無の底でただ一人、他者の物語を覗き見るだけの存在へと貶められた少女。その彼女が、輪廻庁のワールドコア中枢システムに干渉するなど、常識で考えればあり得ない話だ。
だが、シオリの色彩を失った灰色の瞳には、はっきりとした自責の念と、決して癒えることのない深いトラウマが刻み込まれていた。
「私は……自分の世界『案件No.0000』がボツにされて消え去った時、本当に何もできなかったんです」
シオリは震える両腕で自分自身をきつく抱きしめながら、足元のひび割れた石畳を見つめた。
「空から巨大な光の柱が降り注いで、世界が白く塗り潰されていく中で……私の手を引いて走ってくれた主人公も、一緒に笑い合った仲間たちも、みんな声も出せないまま、ただのデータの塵になって消えていきました。私だって、本当は消えたくなかった。もっとみんなと一緒にいたかった。明日のこと、一ヶ月後のこと、一年後のこと……私たちの物語の続きが、読みたかったんです」
彼女の目から、再び大粒のノイズの涙が溢れ出した。ポロポロとこぼれ落ちるそれは、石畳に触れた瞬間にジジッ、と小さな音を立てて消滅していく。
「でも、システムは私たちを『価値なし』と切り捨てた。そして私だけが、どういうわけか消滅を免れ、この真っ暗なゴミ箱の底に落ちてきました。音も、光も、時間さえも存在しない、設定の残骸だけが降り積もる世界……」
シオリはゆっくりと顔を上げ、ステンドグラスの枠から漏れる毒々しい光を見つめた。
「ここでは、私は誰でもありませんでした。主人公に微笑みかけるヒロインでもなく、世界を救う鍵でもない。ただの、名前のないエラーデータ。……でも、ある時気づいたんです。この真っ暗な空のずっとずっと高いところに、キラキラと輝く光の川が流れていることに」
「光の川?」
「はい。それは、あなたたち輪廻庁の審査官が承認し、世に送り出している『完成した物語』の光でした。様々な世界で生きるキャラクターたちの人生が、情報となって上層を流れていたんです」
シオリは、自分の胸元に抱いたプロト勇者・アルスの聖剣の柄を、すがるように強く握りしめた。
「私は、その光を覗き見るようになりました。それが、私に残された唯一の『物語に触れる方法』だったから。最初は、ただ綺麗だなと思って見ていました。でも、たくさんの世界を見ているうちに、気づいてしまったんです。……システムが求める『テンプレ』のせいで、かつての私のように、理不尽に消されていくヒロインやキャラクターがたくさんいることに」
三城は無言で話を聞いていた。
効率と感動のテンプレを至上とするワールドコア中枢は、「悲劇のヒロイン」や「自己犠牲」といった安易なカタルシスを好む傾向がある。三城たちストーリー課が日夜ボツ出し会議で戦っているのも、まさにその理不尽な設定の押し付けだった。
「私と同じ想いをする子を、もう二度と見たくない。……そう思って、私は様々な世界にアクセスし、祈るように見守るようになりました。『どうか死なないで』『どうか幸せになって』って。でも、私はただの読者です。物語に介入する力なんてない。ただ暗闇から、悲劇が起こるのを震えながら見ていることしかできなかったんです。……あなたに、出会うまでは」
シオリの視線が、真っ直ぐに三城を捉えた。
「三城さん。あなたが現れてから、私の中で何かが壊れ始めたんです」
「俺が?」
「はい。あなたは、システムが定めた『効率的で感動的なテンプレ』を、次々と力技でぶち壊していきました。設定の矛盾を指摘して自己犠牲を強要されるヒロインを助け出し、安易な死を『ボツ』にして、キャラクターたちをただのデータではなく『生きた人間』として扱ってくれた。……その姿を、あなたの紡ぐ本当の物語をずっと見ているうちに、私の心の中に、絶対に蓋をしておかなければならなかった感情が、抑えきれないほど溢れ出してしまったんです」
シオリの胸の奥で、淡い、しかし確かな光が明滅し始めた。
それは、色彩を失った彼女の中で唯一残っていた、生々しく、熱を持った「心」の光だった。
「『私も、あんな風に助けてほしかった』」
シオリの口から、血を吐くような本音が絞り出された。
「『私の世界にも、あなたが来てくれればよかったのに』『私も、生きたかった』『誰かに名前を呼んでほしかった』……そんな、身勝手で、強烈な感情が、私の中で爆発してしまったんです」
その言葉を聞いた瞬間、三城の脳裏に電流が走った。
これまでの不可解な現象――様々な世界で頻発していた『バグ』の正体が、一気に一本の線として繋がったのだ。
アイリスの物語で、彼女の世界を侵食し、すべてを無に還そうとした『黒い手』。あれは単なる自然発生的なシステムエラーなどではなかったのだ。
あれは、シオリが三城の活躍を見ることで抱いてしまった「生きたい」「助けてほしい」という強烈な感情の揺らぎが、システムの許容量を超えて溢れ出し、物理的なバグとして世界に干渉してしまった結果だったのだ。
物語の世界において、システムが管理できるのはあくまで「設定されたデータ」だけだ。そこに、イレギュラーな存在であるシオリからの、純度百パーセントの「生々しい読者の感情」が流れ込んだらどうなるか。
それは、精緻なプログラムの中に流し込まれた致死量のウイルスのようであり、あるいは、静かな湖面に投げ込まれた巨大な岩のようなものだ。
シオリの「生きたい」という叫びは、行き場を失ったまま莫大なノイズとなり、無意識のうちに各世界にバグやエラーを引き起こす原因となってしまっていたのだ。
「……そうか。お前の感情移入が強すぎたせいで、システムにノイズが走って、それがアイリスの物語で現れた『黒い手』みたいなバグになって現れていたってことか」
三城の重い呟きに、シオリは力なく、しかし決定的な絶望を込めて頷いた。
「はい。私が……私が、いけないんです。ただの『名前のない読者』が、物語の登場人物に感情移入しすぎて、彼らが生きる舞台そのものを壊すエラーを生み出してしまった。私自身が、世界を壊滅させるウイルスになっていたんです。……だから、システムが私を『世界の維持に悪影響を及ぼす重大なエラー要因』として検知し、最高次セキュリティで消去しようとするのは、当然のことなんです」
シオリはゆっくりと後ずさりをした。
三城から、これ以上近づかないでくれと懇願するように。
「私がここにいれば、また強すぎる感情を生み出して、他の誰かの大切な物語を壊してしまうかもしれない。アイリスさんや、今まであなたが救ってきたヒロインたちの世界を、私の身勝手な想いでめちゃくちゃにしてしまう。……だから、私はここで消えるべきなんです」
彼女の言葉は、酷く静かで、酷く諦観に満ちていた。
「私のような中途半端なプロトタイプは、物語には必要ありません。これが、エラーデータである私の、正しい結末なんです。……今まで、素晴らしい物語を読ませてくれて、本当にありがとうございました、三城さん」
シオリは静かに目を閉じ、自らの身体が廃棄領域のノイズと同化し、完全に消滅するのを待とうとした。
自分が原因で世界にバグを引き起こしてしまったという深い罪悪感が、彼女から「生きる意志」を完全に奪い去っていた。安易なテンプレの自己犠牲ではない。彼女は本気で、物語を守るために自分が消えることが『正解』だと信じ込んでいた。
「……ふざけるな」
三城の口から、地を這うような低い、しかしマグマのように熱い声が漏れた。
彼はゆっくりと立ち上がり、目を閉じたシオリを見下ろした。その目には、静かだが激しい怒りの炎が燃え盛っていた。
「お前が感情を持ったからバグが生まれた? だから消えるのが正しい? ……ふざけるな。そんなもん、ただのシステムの責任転嫁だろうが!」
三城は足元の瓦礫を力任せに蹴り飛ばした。
ガランッ、と乾いた音が崩壊した教会に響き渡り、シオリが驚いてビクッと肩をすくめ、目を開ける。
「読者が物語を読んで、キャラクターに感情移入して、『生きてほしい』『幸せになってほしい』と心から願う。その想いが強すぎて、時に心を痛め、涙を流す。……それがどうして『エラー』なんだ! それは、物語が正しく機能している何よりの証拠じゃないか!」
「で、でも、現に私のせいでシステムにバグが……」
「バグが起きたなら、それは読者の感情を受け止めきれなかったシステムの器が小さすぎるだけだ! いいか、物語ってのはな、作者が設定を作って、キャラクターが動いて、それで完成じゃないんだよ」
三城は一歩、シオリの方へと力強く踏み出した。
「読者がそれを読んで、心を揺さぶられて、初めて『物語』として完成するんだ。お前が流した涙も、キャラクターを救ってほしいと願ったその強い感情も、絶対にエラーなんかじゃない。俺たちストーリー課が、いつも命がけで守ろうとしている『カタルシス』の結晶そのものだろうが!」
三城の怒声が、廃棄領域の冷たい空気を震わせた。
「設定を盛り込みすぎてお前の世界をぶっ壊したのも、お前の純粋な感情を処理しきれずにエラー扱いして消そうとしているのも、全部、中枢のあのふざけた『エディター(編集長)』どもの都合だ。お前は何も悪くない。お前は、俺たちの創る物語を誰よりも愛してくれた、最高で、最も大切な『読者』だ!」
三城はシオリの前に進み出ると、彼女の両肩を再びガシッと力強く掴んだ。
今度は、ノイズに弾かれることはなかった。三城の確かな体温と、絶対に彼女を否定させないという圧倒的な熱量が、透けかかったシオリの身体に真っ直ぐに伝わっていく。
「いいか、シオリ。俺は審査官だ。お前がどんなに『自分は消えるべきだ』と悲劇の設定を提出してきても、俺がその結末を『ボツ』にする。勝手に自分の物語を終わらせるな。俺がお前の担当編集になって、最高のハッピーエンドに書き換えてやる。……絶対に、ここから連れ帰ってやる」
三城の真っ直ぐで、理屈を超えた力強い言葉に、シオリの灰色の瞳が限界まで大きく見開かれた。
彼女の目から、今度はノイズではない、本物の透明な涙が溢れ出そうになった。
ずっと一人で暗闇の中で抱え込んできた途方もない罪悪感を、この目の前の不器用で乱暴な男は、力技で、しかし絶対的な肯定をもって粉々に打ち砕いてくれたのだ。
自分は、ここにいていいのだと。物語を愛していいのだと。
「三城……さん……っ」
シオリが震える声でその名を呼び、三城のコートの袖をギュッと握りしめようとした。
まさに、その時だった。
『――三城さん! 逃げて!!』
三城の耳元のインカムから、鼓膜を破らんばかりのルナの絶叫が響き渡った。
ゾワッ、と。
三城の背筋を、かつてないほどの強烈な悪寒が駆け抜けた。
同時に、崩壊した教会の天井――ステンドグラスの枠から漏れていた毒々しい光が、突如として完全に遮断された。
世界が、一瞬にして墨汁をぶちまけたような真っ暗な闇に包まれる。
「なんだ!?」
三城が上空を見上げた瞬間、教会の屋根を構成していた無数のポリゴンが、内側から爆発したように吹き飛んだ。
ザザァァァァァァッ……!!
粉々に砕け散った天井の巨大な穴から、滝のように降り注いできたのは、ボツ原稿の雪ではなかった。
それは、無数の黒い影だった。
一つ一つの影は、人の形をしていない。鋭い刃のような無機質な腕を持ち、頭部にあたる部分には赤い単眼を不気味に光らせた、蜘蛛と機械を掛け合わせたようなフォルムの怪物たち。
それが、数十、数百という圧倒的な群れを成して、廃棄領域の割れた空から教会の内部へと雪崩れ込んできたのだ。
「バグエネミーの大群か!?」
三城がシオリを背後に庇うように愛用のノートを構えるが、インカムから聞こえてきた白石の声が、その推測を即座に否定した。
『違います、三城! それは自然発生したバグではありません! ワールドコア中枢が直接放った、システム直属の【清掃ルーチン】です!』
「清掃ルーチンだと……!?」
白石の声には、普段の冷静さを完全に失った、明らかな焦燥と戦慄が混じっていた。
『セラからの解析データが出ました! 三城、聞いてください。奴らの目的は、単なるエラーデータであるシオリの消去だけではありません。……奴らは、私たちストーリー課を、明確に排除しようとしているんです!』
「どういうことだ、白石!」
三城が怒鳴り返すと同時に、最前列に降り立った数体の清掃ルーチンが、一斉に赤い単眼を三城たちへと向けた。
ジジッ、ジジジッ……と、無機質で冷酷な照準音が教会内に響き渡る。
『過去のアクセスログとの照合が完了しました。三城さん、詩乃の物語で起きた不自然なダンジョン崩壊事故や、セラの物語でシステムが危険なエリアへあなたを強制誘導した現象……あれは偶然のバグではありませんでした。裏で操っていたのは、こいつらです!』
セラの悲痛な声が続く。
『ワールドコア中枢は、ずっと前から……効率を無視してキャラクターを救おうとする私たちストーリー課を『不完全な物語を量産し、システムに負荷をかけるエラーの元凶』と見なしていたんです。そして、直接手を下せば反発を招くため、『任務中の不慮の事故死』に見せかけて、私たちを一人ずつ排除しようと計画していたんです!』
「なっ……!?」
三城は絶句した。
これまでの不可解な任務の難航。理不尽なまでのシステムの誘導。
それらはすべて、彼らストーリー課を静かに、しかし確実に消し去るための、中枢システムによる壮大な「罠」だったのだ。
『ターゲット・確認。エラー要因No.0000、オヨビ、イレギュラー権限保持者・三城。……完全消去ヲ実行シマス』
清掃ルーチンの一体が、感情の欠片もない機械的な合成音声で無慈悲な宣告を下す。
それを合図に、数百体の黒い群れが一斉に、鋭い刃の腕を振りかざして三城とシオリへと襲いかかってきた。
圧倒的な質量と、絶対的な殺意。それは、一個人の力でどうにかなるレベルの脅威ではない。
「冗談じゃねえぞ、あのクソ中枢システムども……!」
三城はシオリの腕を強く引き寄せ、迫り来る黒い津波に背を向けた。
「俺たちごと、事故死に見せかけてボツにするつもりだっただと? 上等だ。そんな陰湿で三流の陰謀プロット、俺が一番嫌いな展開だ!」
鼓膜を破るような清掃ルーチンたちの駆動音を背に受けながら、三城は教会の奥、さらに深く沈み込む地下通路へと向かって駆け出した。
色彩を取り戻し始めた読者の小さな手を、絶対に離さないように強く握り締めながら。
システムの冷徹な刃がすぐ背後に迫る中、彼らの本当の戦いが、今、幕を開けようとしていた。




