第4話 案件No.0000の真実
「シオリ……それが、お前の名前か」
三城がその名を聞き返し、静かに頷きかけようとした直後だった。
彼の声を掻き消すように、崩壊した教会の床下から鼓膜を破るような、おぞましい咆哮が轟いた。
『ギ、ギガァァァァァッ!! ワレハ、ワレコソガァァァ!!』
エラーコードの文字列で構成された重厚なシャンデリアの下敷きになっていたバグエネミー「ツギハギの魔王」が、三つの頭部からドロドロとした紫色のノイズを撒き散らしながら、その醜悪な巨体を激しくよじらせていた。
設定の矛盾を抱えたまま、作者に都合よく切り捨てられ、「ボツ」にされた歴代の没落魔王たちの怨念。その異常なまでの執念は、三城が審査官権限を駆使して強制介入させた物理法則の質量すらも凌駕しようとしていた。
ズズズッ、バキバキバキッ……!
右腕の巨大な機械式チェーンソーが火花を散らしながら床の石畳を削り取り、のし掛かっていたシャンデリアの装飾を粉砕していく。下半身を構成するドロドロの酸性スライムが異常に膨張し、胴体の白骨化したドラゴンの肋骨が、メリメリと嫌な音を立てて巨大化していく。
高貴な吸血鬼、狂気のピエロ、黒いモヤ。相反する三つの属性を持った頭部が、それぞれ全く噛み合わない言語で呪詛を吐き散らす。
「くそっ、やっぱりあの程度の物理攻撃じゃ、完全に沈んではくれないか!」
三城は色褪せた少女――シオリを背後に庇いながら、再び愛用のボロボロのノートと黒インクのペンを構えた。
だが、ペンを握る指先が微かに震える。
あの規格外に膨れ上がったバグの塊を完全に消去するだけの緻密なロジックを、この崩壊した空間で瞬時に組み上げるのは至難の業だ。何より、ここは「世界」としての土台がない『廃棄領域(ゴミ箱)』である。三城がどれほど整合性の取れた完璧な設定を書き込もうと、それを反映し、処理するための「世界のシステム」そのものが存在しないのだ。
魔王の左腕――無数の悍ましい触手の塊が、三城たちへ向けて死神の鎌のように高く振り上げられた。
その絶体絶命の瞬間。
『――三城さん! 伏せて!!』
突如、三城の耳元のインカムから、激しい砂嵐のノイズを切り裂くように、ナビゲーターであるルナの鮮明な声が飛び込んできた。
「ルナ!? 通信が復旧したのか!」
『白石さんとセラさんが、中枢システムの監視の目を盗んで、強引に通信バイパスのポートをこじ開けてくれました! 今、そちらの空間座標に、ストーリー課のシステムから直接、強制干渉を仕掛けます!』
スピーカー越しに、普段の冷静な彼らからは想像もつかないほど激しく、凄まじい勢いでキーボードを叩きまくる打鍵音が響き渡る。
『この領域のデフラグ権限を一時的に掌握……! 対象座標、ロックオン! ……いっけえええええっ!!』
ルナの絶叫と同時だった。
魔王の頭上の空間が、まるで巨大な刃物で四角く切り取られたように、パカッと不自然に開いた。
そこに出現したのは、巨大で無機質な、見慣れた半透明のアイコンだった。
――『ゴミ箱を空にする』という、システム管理者だけが持つ絶対的な実行コマンド。
『ギャ、ガァァァァッ!? ナンダ、コレハァァァ――!!』
巨大なアイコンから、猛烈なデータの奔流――純白の光の滝が迸り、立ち上がろうとしていた魔王の脳天へと直撃する。
ルナの放ったシステムレベルの強制消去プログラムと、三城が作り出した物理的ダメージの連携。相反する設定の寄せ集めで構成されていたツギハギの魔王は、その強烈な負荷に耐えきれず、断末魔を上げる暇もなく、巨体を徐々に緑色のワイヤーフレームへと還元させていく。
激しい明滅。鼓膜を刺すような断末魔のノイズ。そして、何万枚ものガラスが同時に砕け散るような甲高い音と共に、魔王の残骸は完全に霧散した。
あとに残されたのは、粉々に砕けたエラーコードのシャンデリアと、大きくひび割れて黒く焦げた教会の床だけだった。
「……ふぅ。助かったぜ、ルナ。相変わらず無茶苦茶なサポートだ」
三城がノートを閉じ、大きく安堵の息を吐く。
『一時的に魔王のデータを破棄しただけです! この領域にいる限り、また別のバグが寄り集まって復活するかもしれません。通信もいつまで保つか……ザザッ……』
「十分だ。お前たちの無茶に感謝する。白石とセラにも伝えておいてくれ」
三城がそう言うと、インカムは再び深いノイズの海へと沈んでいった。
周囲に、耳鳴りがするほどの異様な静寂が降りてきた。
外で吹き荒れるボツ原稿の猛吹雪も、この崩壊した教会の奥までは届かない。ステンドグラスの枠から漏れる毒々しい紫と赤のエラーコードの光が、斑模様になって床を照らしている。
三城はゆっくりと振り返り、背後にうずくまる色褪せた少女――シオリへと向き直った。
彼女は、魔王から彼女を庇って消滅したプロト勇者・アルスが遺した、柄だけになった聖剣を両手で大切そうに胸に抱きしめていた。その身体は相変わらず色彩を持たず、劣化したフィルム映画のように、ザラザラとしたノイズを纏ってブレている。
「怪我はないか」
三城が目線を合わせるようにしゃがみ込むと、シオリは力なく頷いた。
色彩を持たない灰色の瞳が、おずおずと、しかしどこか縋るように三城を見つめ返す。
「さて。邪魔者も消えたことだし、ゆっくり話を聞かせてもらおうか」
三城は瓦礫の一部に腰を下ろし、シオリの目を真っ直ぐに見据えた。
「お前はさっき、自分のことを『一番最初にボツにされた読者』だと言ったな。……ストーカーさん、いや、シオリ。お前は一体、何者なんだ?」
シオリは抱きしめていた剣の柄をさらに強く握りしめ、視線を足元に落とした。
重苦しい沈黙が流れる。彼女の周囲のノイズが、感情の揺れに呼応するように微かに強くなり、ジジッ、と耳障りな音を立てた。
やがて、彼女はぽつり、ぽつりと、ひび割れた声で自らの過去を語り始めた。
「……私は、かつて『案件No.0000(ゼロゼロゼロゼロ)』と呼ばれた世界に生きていました」
「案件ゼロ番……?」
三城は眉をひそめた。
聞いたことのないナンバーだった。輪廻庁ストーリー課が管理する世界は、現在進行形で数万にも及ぶ。だが、そのナンバリングは「0001」から始まっているはずだ。ストーリー課のデータベースのどこを検索しても、「0000」などというインデックスは存在しない。
「それは、この世界――輪廻庁のワールドコア中枢システムが、一番最初に創り出そうとした『最初の世界』です」
シオリの声には、遠い郷愁と、底知れないほどの深い悲しみが混じっていた。
「その世界の創造主たちは、とても、とても欲張りでした。剣と魔法の王道ファンタジー、最新のSF機械兵器、ドロドロの複雑な政治劇、甘い恋愛模様、それに時間跳躍や平行世界の概念……。読者が喜ぶだろうと思われる『面白い設定』や『人気のテンプレ』を、後から後から、これでもかというほど無秩序に詰め込んでいったんです」
「……なるほどな」
三城は深くため息をついた。
審査官である彼には、その結果がどうなるか痛いほど想像がついた。美味しいと評判の食材を、分量も調理法も考えずに全部一つの鍋に放り込めば、最高の料理ができると信じている素人の浅はかな発想だ。
設定の足し算は、一歩間違えれば、物語の土台そのものを腐らせる猛毒になる。
「最初は、とても綺麗で、毎日がワクワクするような世界でした」
シオリは力なく微笑んだ。その瞬間だけ、彼女の灰色の瞳に、かつての美しい記憶の光が宿ったように見えた。
「私は……その世界の、ヒロインの一人として設定されていました。魔法学園の生徒で、ちょっとドジだけど、みんなを笑顔にするのが好きな、ごく普通の女の子」
彼女の言葉に合わせて、何もない空中に微かなホログラムのような残像が浮かび上がった。魔法使いのローブを着て、仲間たちと笑い合う、色鮮やかなシオリの姿だ。
「主人公と一緒に笑って、泣いて、冒険をして。設定が追加されるたびに、世界はどんどん広がっていきました。ドラゴンが優雅に空を飛び、その横を最新鋭の宇宙船が通り過ぎる。昨日の敵が、時間跳躍をして今日の味方になる。毎日が刺激的で、私たちは自分たちの物語が永遠に続くと信じていました。でも……」
ふっと、空中の幻影がノイズと共に掻き消えた。
シオリの表情が、スッと暗く沈む。周囲の空気が、急激に冷たくなった。
「器(世界)の大きさを無視して無秩序に詰め込まれた設定は、やがてお互いに致命的な矛盾を起こし始めました」
シオリの身体を覆うノイズが激しさを増し、ザザッ、ザザッと耳障りな音を立てる。
「魔法のルールが機械のロジックを否定し、過去を不用意に変えすぎたことで現在の時間軸が崩壊し……世界は、重圧に耐えきれず、至る所で悲鳴を上げ始めたんです。
主人公が剣で斬られて致命傷を負っても、SFのナノマシン設定で瞬時に治ってしまう。だから、誰も死なないし、何の緊張感も悲劇も生まれない。整合性を合わせるために『ナノマシンを無効化する魔法』が後付けされ、今度は『その魔法を防ぐ絶対バリア』が追加される。
……果てしないインフレと、行き当たりばったりの設定のパッチ当て。物語の軸は完全にブレて、主人公は自分が何のために戦っているのかを忘れ、仲間たちは辻褄を合わせるためだけに心にもない不自然なセリフを喋らされるようになりました」
空が割れ、大地が裂け、人々が設定の矛盾によってテクスチャを剥がされ、狂気に満ちたエラーコードへと変貌していく。
かつて彼女が体験したであろう地獄の光景が、三城の脳裏にもありありと浮かび上がった。
それはまさに、今彼らが立っている、この『廃棄領域』そのものの姿だ。
「そして……限界を迎えた世界に対し、ワールドコアの中枢システムは、冷徹な判断を下しました」
シオリは、自分の両手を見つめた。色彩を失い、半透明に透けかかっているその手を。
「『修復不可能。リソースの無駄。よって――価値なし(ボツ)』と」
その言葉は、冷たい氷の刃のように三城の胸に深く突き刺さった。
「システムが、世界ごと消去したってことか……」
「はい。中枢システムによって、私たちの世界『No.0000』は、根こそぎこの『ゴミ箱』へと捨てられました」
シオリの瞳から、大粒のノイズの涙がボロボロとこぼれ落ち、石畳を濡らしてはジュッと音を立てて消えていく。
「空から巨大な光の柱が降り注ぎ、設定も、背景も、一緒に旅をした仲間たちも、私の手を強く握ってくれていた主人公も……みんな、悲鳴すら上げられないまま、ただの真っ白なデータの塵になって消えていきました。
私だけが、どういうわけかこうしてエラーデータとして形を保ったまま、この真っ暗な底に落ちてきたんです。システムのバグだったのか、あるいは……私がただ、誰よりも一番強く『消えたくない』と願ってしまったからなのか」
シオリは顔を上げ、教会のひび割れた天井――その向こうにある、見えない上層の世界を見つめた。
「色を失い、自分の物語を奪われた私は、ただの『残骸』になりました。自分が本当はどんなヒロインだったのか、どんな結末を迎えるはずだったのかも、もうはっきりとは思い出せません」
彼女は、胸に抱いた聖剣の柄にそっと頬を擦り寄せた。
「だから私は……他の誰かの物語を覗き見るしかなくなったんです。上層から流れてくる、ミアの物語や、エイルの物語といった、皆さんが作っている完成した物語の光を、ただ暗闇から見上げるだけの……『名前のない読者』に」
三城は無言だった。
ゆっくりと立ち上がり、乱暴に頭を掻きむしる。
システムによる、絶対的で一方的な切り捨て。
効率とテンプレを至上とし、少しでも矛盾が生じれば、そこで生きていたキャラクターたちの感情や歴史など一切考慮せずに「ボツ」として完全消去する。
彼らストーリー課が日夜戦っている「理不尽な物語の終わり」の極致にして、最悪の原点が、ここにあったのだ。
「……ふざけやがって」
三城の口から、怒りを押し殺した低い声が漏れた。
彼がボツ出し会議で跳ね除けてきた安易な「自己犠牲テンプレ」など目じゃない。システムそのものが、最も残酷で、最も安易な「世界のリセット」という暴挙を行っていたのだ。
「お前は悪くない。設定を盛り込みすぎて破綻させたのも、それを直そうともせずに勝手に消し去ったのも、全部システムと創り手側の都合だ。お前はただ、そのしわ寄せを喰らっただけの被害者じゃないか」
三城はシオリの前に膝をつき、彼女の透けかかった冷たい肩に、両手を強く置いた。
「一人でずっと、こんな暗くて冷たいゴミ箱の底から、他の奴らが幸せになる物語を見上げ続けてたのか。……辛かっただろう」
その三城の言葉を聞いた瞬間、シオリの肩が大きく跳ねた。
彼女は弾かれたように三城から身を引き、顔を激しく歪めた。
ジジジジッ!という激しいノイズが彼女の全身を駆け巡り、周囲の空間そのものがビキビキと悲鳴を上げ始める。
「違う……! 違うんです、三城さん!」
シオリの声が、切羽詰まったように裏返った。
「私は、ただの可哀想な被害者なんかじゃない! 私が……私が余計な感情を抱いてしまったから、システムがおかしくなってしまったんです!」
「どういうことだ?」
三城が眉をひそめる。
シオリは自らの胸を強くかきむしりながら、物語の根幹を揺るがす、決定的な真実を叫んだ。
彼女がなぜワールドコア中枢の最高次セキュリティに捕捉され、強制消去の対象となったのか。
その本当の理由が、今、語られようとしていた。




