第2話 バグだらけのプロト勇者
空からとめどなく降り注ぐのは、美しい雪などではない。
無数の文字化けしたテキストデータの羅列と、表紙に赤インクで無惨に「ボツ」という巨大なスタンプが押された原稿用紙の残骸だった。
灰色の未完成なポリゴンで構成された荒野を抜け、崩壊したファンタジー風の街並みへと足を踏み入れた三城は、その狂気的で異様な光景に幾度となく眉をひそめた。
足元の石畳は途切れ途切れになり、テクスチャが剥がれ落ちて裏側のワイヤーフレームが剥き出しになっている。道沿いに並ぶ家々は、まるで悪意のある現代アートのようだった。建物の半分は重力を無視して宙に浮き上がり、もう半分は地面に深くめり込んでいる。屋根の上の煙突からは、煙の代わりに「ERROR」という赤い文字列がモクモクと立ち上っていた。
林檎が下から上へ向かって落ちていき、時計の針がデタラメな速度で逆回転している。物理法則などというものは、この『廃棄領域(ゴミ箱)』においてはとうの昔に放棄された概念らしい。
路地裏に目を向ければ、さらに悲惨な光景が広がっていた。
顔のテクスチャが貼られていない、のっぺらぼうの村人たちのデータが、まるで壊れたレコードのように同じ動作を延々と繰り返しているのだ。
「今日は、いい天気ですね。今日は、いい天気ですね」
音声データだけが虚しく響く中、彼らは壁に向かって歩き続け、ゴンッ、ゴンッと頭をぶつけ続けている。彼らにはもう、自分たちが何者であり、どんな世界に生きているはずだったのかすらわからないのだろう。ただ、プログラミングされた初期のルーチンだけを、意味もなく永遠に繰り返し続けているのだ。
「……趣味の悪い現代アートの展覧会かよ。創り手の投げ出した無責任な残骸が、ここまで醜悪な景色になるとはな」
三城は忌々しげに呟き、黒いロングコートの肩に積もった設定資料の切れ端を乱暴に手で払いのけた。
その紙切れには、『主人公は無条件でヒロイン全員からモテる。理由は特にない』という、三城が審査官として見れば即座にシュレッダーに放り込むような安易な設定が書き殴られており、触れた瞬間にジジッというノイズと共に空中に溶けて消えた。
ルナからのナビゲート通信が途絶えてから、体感で数十分は歩き続けたはずだ。
彼女が通信が切れる直前に言い残した「北東の方向」という言葉だけを頼りに、崩壊した都市の奥深くへと進んでいるが、目当ての『観察者モジュール』――ストーカーの少女の姿はおろか、彼女が通った痕跡すら見当たらない。
ただ、周囲の空気が徐々に重く、息苦しくなってきていることだけは確かだった。
それは気圧の変化ではない。ボツにされ、存在を許されなかったキャラクターたちの「本当は生きたかった」「自分の物語を最後まで演じたかった」というドロドロとした未練が、物理的な重圧となって三城の肌をチクチクと刺してくるのだ。ルナが言っていた『バグエネミーの巣窟』が近いのかもしれない。
三城は警戒を強め、内ポケットから愛用のボロボロのノートと黒インクのペンを取り出した。
この空間はシステムの監視外だが、いざという時には審査官の権限で『設定の強制書き換え』を行えるよう、常にペン先を走らせる準備だけは整えておく。
その時だった。
――ガシャンッ、ズリッ。
瓦礫の山となった路地の奥から、硬質な金属が地面を擦るような音が響いた。
三城は即座に足を止め、音のした方向へ鋭い視線を向ける。息を潜め、ペンのグリップを強く握り直す。
崩れかけた大通りの陰から、何かがゆっくりと姿を現した。
ガシャンッ、ズリッ……。
一見すると、それは白銀の甲冑を着た騎士のようだった。
しかし、その姿はあまりにも異常で、不気味だった。
右半身のテクスチャが完全に欠落しており、内部の構造を示す緑色のワイヤーフレームだけの透明な状態になっているのだ。歩くたびに、その透明な右足が地面をすり抜け、ノイズを散らしている。
左手には、かつては立派な装飾が施されていたであろう聖剣のようなものを握りしめている。だが、その剣身は激しいバグにまみれて輪郭がぼやけ、刃が欠けたり伸びたりを繰り返しながら激しく明滅していた。
そして何より三城を戦慄させたのは、彼の『顔』だった。
兜の奥、本来なら目や鼻、口があるべき場所には、ぽっかりと虚無が広がっており、その代わりに『ERROR:データが参照できません』という黒地に白文字のシステムウィンドウが、無機質に貼り付けられていたのだ。表情を窺い知ることは一切できない。
「バグエネミーか……? キャラクターの怨念が実体化したって奴か」
三城がノートを構え、いつでもプロットを書き込めるよう身構えた、その時。
「オレは……オレは……ッ!」
顔面の黒いエラーウィンドウが激しくノイズを放ち、チカチカと赤く点滅した。
その存在の口――いや、ウィンドウの奥の虚無から、ひび割れたスピーカーのような、ひどく機械的な音声が漏れ出した。
「オレは……■■を倒す!」
意味を成さない、文字化けした伏せ字のような咆哮。
しかし、その激しいノイズ混じりの声には、確かな悲痛さと、自分にプログラミングされた使命に縋り付こうとする哀れな執念が濃く滲んでいた。
彼は三城の方へ顔を向けたが、襲いかかってくる気配はない。ただ、三城の横を通り過ぎるようにして、見えない敵に向かってバグだらけの剣を振りかざし、虚空を斬りつけてはバランスを崩してよろめいている。
ザシュッ、という空を切る音と共に、光のノイズが散る。
「……こいつは、敵じゃないのか?」
三城が警戒を完全に解くことなく、虚空と戦い続ける騎士の観察を続けていると、突如として耳元のインカムから、激しい砂嵐のようなノイズ混じりの音声が飛び込んできた。
『ザザッ……聞こえ……ますか、三城……ピーッ……!』
「白石か! 通信が繋がったのか!」
『……ええ。ルナとセラが、中枢システムの監視の目を掻き潜って、外部から一時的に指向性通信のバイパスを強引に繋ぎました。ですが、この細い回線も長時間は持ちません。現在地の状況を報告してください』
白石の冷静な、しかし僅かに安堵の混じった声に、三城は張り詰めていた肩の力を少しだけ抜いた。
「状況は最悪だ。ボツになった企画書やら設定資料やらが雪みたいに降ってて、視界が悪い。それに今、目の前に奇妙な奴がいるんだ」
三城は、再び「■■を倒す!」と叫びながら転倒した騎士を見やりながら報告を続ける。
「右半分が透けてて、顔にエラーのウィンドウが貼り付いてる甲冑の男だ。壊れたレコードみたいに『■■を倒す!』って喚きながら虚空を斬りつけてるんだが……こいつも、ルナが言ってたバグエネミーの一種か?」
三城の報告を受けた白石は、スピーカーの向こう側で凄まじい速度でキーボードを叩く音を響かせた。数十秒後、彼は淡々とした声で答えた。
『……いえ、三城。それは自然発生したバグエネミーではありませんね。こちらで廃棄領域の残留データをサルベージして照合したところ、そいつはかつてボツになった企画の残骸……それも、物語の初期特有の『設定ブレの残骸』です』
「設定ブレの残骸? どういうことだ」
『ええ。連載企画の立ち上げや、ゲーム開発のアルファ版の段階などで、「とりあえず、こんな感じの主人公で行きましょう」と、仮組みで作られたプロトタイプのデータです。名前はアルス。プロトタイプの勇者・アルスですね。
おそらく、物語が本格的に走り出す前に、作者の度重なる設定変更や思いつきの軌道修正の果てに、用済みとしてそのままゴミ箱に捨てられたのでしょう』
「なるほどな……」
三城は、痛々しい姿で立ち上がり、再び見えない敵に剣を振るい続けるアルスを見つめた。
物語の主役(主人公)になるはずだった男。魔王を倒し、世界を平和に導くという、王道にして最大の使命を与えられて生み出された存在。
しかし、作者の気まぐれか、あるいは編集会議での無責任なダメ出しのせいか。彼はその使命を果たす対象である「魔王」の名前すら、具体的な設定として与えられないまま、この真っ暗な虚無の底にポイと捨てられたのだ。
『■■を倒す!』というセリフ。
それは、倒すべき敵の名前が変数として入力されなかったがゆえのエラーなのだろう。
名前のない敵を、理由もなく倒さなければならない。彼に与えられたのは、そんな空虚な初期衝動だけだった。
「可哀想にな。自分が本当は何のために作られたのか、誰を倒すべきなのか、そもそも自分の物語がどんなジャンルだったのかもわからないまま、永遠にここで見えない敵に向かって剣を振り続けてるってわけだ」
三城の目に、同じように未完成のままボツにされていった幾多のキャラクターたちへの哀悼の色が浮かぶ。
創り手にとっては、ただの思いつきのデータの一つかもしれない。だが、生み出された彼らにとっては、それが世界のすべてなのだ。
『彼に同情している暇はありませんよ、三城』
白石が冷徹に思考を引き戻す。
『セラが並行してストーカーのシグナルを追跡しました。彼女の反応は、その街のさらに奥……かつて王都の中央広場として設定されるはずだったエリアから発せられています。急いでください。彼女のデータが中枢の清掃プログラムによって完全に消去されるまで、あと……』
白石の言葉が、不自然に途切れた。
インカムのノイズがひどくなったわけではない。
目の前で虚空を斬りつけていたプロト勇者・アルスが、不意にピタリと、まるで電源を切られた機械のようにその動きを止めたからだ。
「……おい、どうした?」
アルスの顔面を覆うエラーウィンドウが、チカチカと明滅速度を上げる。
彼はゆっくりと、錆びついた首の関節を軋ませながら、三城の方へ顔を向けた。
ウィンドウの奥に目はないはずなのに、三城は確かに、彼から強い視線を向けられているような錯覚を覚えた。
アルスは構えていたバグだらけの聖剣をゆっくりと下ろした。
そして、テクスチャが剥がれ落ちた左手を真っ直ぐに伸ばし、街のさらに奥――白石がストーカーの居場所だと言った、深い闇の立ち込める方向を指差したのだ。
「オレは……■■を倒す……」
アルスの割れた声が響く。だが、次に紡がれた言葉は、先ほどまでの無意味な繰り返しとは違っていた。
「でも……守る……■■を、守る……ッ!」
その言葉と共に、アルスは右半身のワイヤーフレームを激しくノイズさせながら、足を引きずり、自らが指差した方向へと歩き出した。
ガシャンッ、ズリッ。
数歩進んでは立ち止まり、背後を振り返って三城を見る。その首の傾げ方、待ちわびるような仕草は、言葉を持たないながらも明らかに、三城に対して「こっちだ、ついてこい」と明確な意志を伝えていた。
「……白石。どうやら、現地の優秀なガイドが見つかったらしい」
『ガイド? まさか、そのプロトタイプのNPCですか?』
白石の声に、明らかな疑念と呆れが混じる。
『正気ですか、三城。右半身が欠損し、完全にバグに汚染されている残骸データを信用するなど、リスクが高すぎます。彼が急に暴走して、あなたをバグの沼に引きずり込む可能性だってあるんですよ』
「いや、信用するさ」
三城はノートをしまい、迷うことなくアルスの後を追って歩き出した。
「こいつは今、明確に何かを『守る』って言ったんだ。ただ無意味にバグって暴走してるだけのデータじゃない。こいつの奥底には、創り手が最初に込めた意志が残ってる」
アルスは何かを守るように、そして三城を先導するように、暗い街の奥へと足を引きずりながら進んでいく。
ボツにされ、名前も、使命も、魔王の正体すら奪われたプロトタイプの勇者。
彼に残されていたのは、作者が一番最初にノートの切れ端に書き殴ったであろう、『誰かを守るために戦う』という、勇者としての根源的な初期設定だけ。
その純粋な熱量だけが、この狂気に満ちた廃棄領域の底でも、奇跡的に消えずに彼の核として残っていたのだ。
その彼が向かう先に、何があるのか。彼が守ろうとしている『誰か』とは、一体誰なのか。
「お前が守りたいってのは……もしかして、俺が探してる、あのストーカーの女の子のことか?」
三城の問いかけに、アルスは答えない。エラーウィンドウは沈黙したままだ。
ただ、崩れかけた身体を引きずりながら、黙々と、しかし確かな足取りで街の最深部を目指して歩き続ける。
空からとめどなく降るボツ原稿の雪が、彼らの足跡をすぐに白く覆い隠していく。
『……三城。ノイズが強くなってきました。中枢の妨害プログラムがこちらのバイパスに気づいたようです。そろそろ、通信が持ちません』
インカムから聞こえる白石の声が、深い波の底に沈むように、遠ざかっていく。
「ああ、わかった。ここまで繋いでくれたサポート、感謝する。白石、ルナ、セラ。ここから先は、俺とこの『バグだらけの勇者』で行く」
『……死なないでくださいよ。あなたが消えたら、ただでさえ人手不足のストーリー課の仕事が回らなくなりますからね。あなたの未決裁の書類の山、私が処理する羽目になるのは御免です』
「相変わらず素直じゃない皮肉な励ましだな。……絶対に、あいつを連れて帰るさ」
プツンッ、という鋭い電子音と共に、インカムの通信は完全に沈黙した。
外部との繋がりを完全に絶たれた、深い、深い静寂。
聞こえるのは、アルスの足を引きずるガシャンという金属音と、遠くで物理法則を無視した建物が崩れ落ちる重い音だけだ。
三城はポケットの上からノートの感触を固く確かめると、バグだらけの勇者の痛々しい背中を追い、底知れぬ闇が沈む街の最深部へと、静かに歩みを進めた。




