第1話 ゴミ箱へのダイブ
非常事態を告げる回転式の赤色灯が、無機質な輪廻庁の廊下を毒々しく舐め回している。
けたたましいサイレンの音が鼓膜を容赦なく叩きつける中、三城は、どこまでも続く真っ白なリノリウムの床を全力で疾走していた。革靴が床を蹴り上げるたび、硬質な足音がサイレンの音に混じって不規則なリズムを刻む。普段はだらしなく着崩している黒のロングコートが、彼の焦燥を代弁するようにバサバサと大きく翻っていた。
「くそっ……! あのクソシステムども、やりやがったな!」
三城の口から、ギリッと歯を食いしばるような罵倒が漏れた。
彼らが『観察者モジュール』――通称『ストーカー』と呼んでいた、所属不明の謎のアクセスログ。ここ最近、ストーリー課が管轄し、三城たちが介入してきた数々の世界に出没しては、ただじっと物語の推移を、そしてヒロインたちの運命を見守っていた存在だ。
彼女の視線に、悪意や世界を改変しようとする攻撃的な意図は一切感じられなかった。むしろ、その眼差しにはどこか切実な、物語の登場人物たちの幸せを祈るような、ひたむきな熱すら感じていた。それゆえに三城たちも「まあ、実害がないなら特等席で読ませておこう」と、半ば読者の一人のように扱って黙認していたのだ。
だが、輪廻庁の基幹を司る『ワールドコア中枢』――無数に生み出される世界の根幹を管理し、絶対的な『完璧なテンプレと効率』を至上とする冷徹なシステムは、彼女の存在を許さなかった。彼女の持つイレギュラーな熱量を「システムの維持に悪影響を及ぼす重大なエラー要因」と冷酷に断定したのだ。
そして今、彼女は『廃棄領域(ゴミ箱)』へと強制的に突き落とされようとしている。
廃棄領域。
それは、輪廻庁に所属するすべての審査官にとって、最も忌み嫌われる絶対のタブー領域だ。
設定に致命的な矛盾が生じて自壊した世界。キャラクターの行動原理が破綻して進行不能になったプロット。そして、先ほどのボツ出し会議のように、三城たち審査官によって「価値なし(ボツ)」と判断され、切り捨てられた無数の物語の残骸が行き着く、絶対零度の墓場。
そこは物理法則も、物語を構成する最低限のロジックも存在しない、完全なる虚無の底である。
一度そこに落ちれば、二度と元の世界に浮上することはできない。データは狂気に当てられて少しずつ欠損し、やがては世界の記録から完全に白紙化され、永遠の忘却へと消え去る運命にある。
「……冗談じゃねえぞ。俺たちの管轄の周りをうろついてた、大事な読者候補だ。それを勝手なテンプレ判断で消去させてたまるか!」
三城は廊下の突き当たりにある、重厚な金属製のスライドドアに飛び込むように手をかけ、システムロックを物理的な力任せに強引にこじ開けた。
そこは『特殊ダイブルーム』。通常は、深刻なバグが発生して崩壊寸前となった世界へ、審査官が直接物理介入を行う際にのみ使用される、ストーリー課の最終兵器とも言える部屋だ。
薄暗い室内の中央には、卵型の巨大なダイブポッドが鎮座している。その周囲を囲むように配置された円形のコンソール群では、すでに小柄なシルエットが、凄まじい速度でキーボードを叩いていた。
ストーリー課の専属ナビゲーターAI、ルナである。普段はホログラムの姿で三城に軽口を叩く彼女だが、今は実体化モジュールをフル稼働させ、額に汗のテクスチャを滲ませるほどの異常な処理速度で、システムのプロテクトに介入していた。
「三城さん! いくらなんでも無茶苦茶です!」
飛び込んできた三城の顔を見るなり、ルナは悲痛な声を上げた。その手はキーボードの上を猛烈な勢いで滑り続けている。
「廃棄領域へのダイブなんて、自殺行為以外の何物でもありません! あそこはそもそも『世界』として成り立っていない、ただのデータの残骸の集積所なんです! ダイブした瞬間に、三城さんの精神データそのものがシステムに『不要なバグ』として処理され、バラバラに分解される確率が――」
「99パーセントくらいか?」
「99.999パーセントです! 実質ゼロと変わりません! 生きて帰ってくるための帰還プロトコルだって、全く確立されてない未知の領域なんですよ!?」
「なら、残りの0.001パーセントの奇跡(主人公補正)に懸ける。俺の精神力を舐めるなよ、ルナ。これまで俺が、どれだけ矛盾だらけで中身スカスカの、クソみたいなボツプロットを読破してきたと思ってるんだ。少々のバグや論理崩壊ごときじゃ、俺の自我は絶対に揺るがない」
「そういう精神論の問題じゃありませんっ! 物理的にデータが消滅するって言ってるんです!」
ルナが今にも泣き出しそうになりながら叫ぶが、三城の歩みは止まらない。彼は迷うことなくダイブポッドの前に立ち、強制起動のハッチに手をかけた。
プシュウゥゥゥ……と、凍てつくような冷却ガスを吐き出しながら、分厚いガラス張りのハッチが上部へとスライドして開く。
その時、室内のスピーカーから、息を切らした白石とセラの声が響いた。先ほどまでいた会議室から、急いで通信回線を繋いできたのだ。
『……三城。君の度を越した無謀には慣れているつもりでしたが、今回ばかりは完全に正気の沙汰とは思えませんね』
白石の、いつも通りを装った冷ややかな声。しかし、その奥には隠しきれない焦燥と、システムに対する強い疑念が混じっていた。
『セラから共有されたデータログを見ました。中枢が発動した今回の強制清掃プロトコルは、明らかにおかしい。ただのエラー排除の枠を大きく超えています。まるで、最初から彼女を……いや、我々ストーリー課の動きを監視し、あえて我々が手を出しづらいこのタイミングを狙って実行したかのような――』
「白石、お前のその理路整然とした推察は、後で甘いコーヒーでも飲みながらゆっくり聞いてやる。今はただ、俺が飛ぶためのナビゲートに集中してくれ」
三城がそう遮ると、スピーカー越しに白石の深いため息が聞こえた。
『……馬鹿が。向こうでデータが塵になって死んだら、始末書も書けませんよ。必ず五体満足で帰ってきなさい』
それは、白石なりの最大の「行ってこい」という合図であり、不器用なエールだった。
『三城さん! 対象の落下速度がさらに上がっています! あと百二十秒で、廃棄領域の最深部――データを完全に無に還す完全消去エリアに到達してしまいます!』
セラの悲鳴に近い報告が飛ぶ。
「上等だ。ギリギリ間に合うな。一番おいしいところで飛び込むのが、ヒーローのテンプレってもんだ」
三城は躊躇いなくダイブポッドの中に身を横たえた。
冷たいジェル状のシートが背中を包み込み、頭部と四肢に、精神をデータ化して転送するための神経接続用デバイスが自動で固定されていく。視界が徐々に暗転し、システムの起動音が耳元で高く鳴り響く。
「ルナ、対象の座標はわかるか?」
「……対象のログが最後に確認された周辺宙域に、こちらから強制的にゲートをこじ開けます。ですが、そこから先は完全にシステム外の未踏領域です。私のナビゲート電波も、どこまで届くか保証できません……!」
「十分だ。大体の位置さえわかれば、あとは俺が自分の足で探してやる」
「三城さん……死なないでくださいね。本当に、絶対にですよ」
「誰に言ってんだ。俺は輪廻庁ストーリー課の審査官だぞ。他人が勝手に作った理不尽なバッドエンドなんて、俺が絶対に承認してやらない」
三城がポッドの中で不敵な笑みを浮かべると、ルナは涙を拭って小さく力強く頷き、コンソールの最終承認キー(エンター)を、祈りを込めて叩き込んだ。
『ダイブシークエンス、強制起動。目標座標、廃棄領域・第零層――ダイブ、スタート!』
瞬間、三城の意識は、視界を真っ白に染め上げる強烈な閃光と、内臓を直接鷲掴みにされて頭のてっぺんから引きずり出されるような、圧倒的で暴力的な浮遊感に飲み込まれた。
「――ッ!!」
声にならない絶叫が喉の奥で爆発する。
通常、安定した世界へのダイブが「滑り台を滑り降りる」ような感覚だとすれば、今回の廃棄領域へのダイブは「稼働中の巨大なミキサーの中に放り込まれる」ような、致命的な不快感と苦痛を伴うものだった。
三城の視界を、赤、黒、極彩色のノイズが凄まじい速度で駆け抜けていく。それはただの光ではない。千切れたテキストデータであり、設定の矛盾によって生じた致命的なバグの破片だ。
耳を劈くのは、風切り音ではなく、無数の悲鳴だった。
いや、生きた人間の声ではない。
『どうして私を殺したの』
『俺の活躍は、ここで打ち切りなのか』
『もっと、生きたかった』
『私の愛した人は、どうなるの』
それは、これまでに「価値なし」とボツにされ、切り捨てられてきた無数のキャラクターたちの無念、後悔、そして設定の矛盾が引き起こすデータ同士の凄惨な衝突音だった。怨念のようなどす黒いノイズが、三城の脳髄に直接流し込まれる。
絶望の奔流に当てられ、三城の自我がメリメリと音を立てて軋む。指先から皮膚のテクスチャが剥がれ落ち、自分が一人の人間ではなく、単なる記号の羅列に還元されていくような強烈な吐き気と自己喪失感。
だが、三城は奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、精神の核を必死に保ち続けた。
(ふざけるな……! こんなクソみたいな怨念の海で、俺が俺自身を見失ってたまるか……! 俺は、あいつを連れ戻しに行くんだ!)
永遠とも一瞬ともつかない、無限の落下。
やがて、その激しいノイズの渦と耳障りな悲鳴が、唐突に――本当に、テレビの電源コードをいきなり引き抜かれたかのように、プツリと途絶えた。
ドスンッ!!
強烈な衝撃と共に、三城の身体は硬い地面に無惨に叩きつけられた。
「かはっ……、げほっ、ごほっ……!」
肺から空気が強制的に絞り出され、地面をゴロゴロと転がる。全身の骨が軋むような激痛。だが、それは逆に「自分がまだ個としての形を保ち、システムに分解されずに済んでいる」という何よりの証拠だった。
三城は激しく咳き込みながら、ゆっくりと両手を床について立ち上がった。
そして、自分が降り立った「世界」の惨状を目の当たりにし、思わず息を呑んだ。
「……これが、『ゴミ箱』の本当の中身か」
そこは、果てしなく続く荒涼とした大地だった。
しかし、土や岩、草木でできた自然の荒野ではない。地面を構成しているのは、テクスチャが貼られておらず無数のグリッド線が剥き出しになった、未完成の灰色のポリゴンだ。所々が不自然にひび割れ、底知れぬ真っ黒な奈落が不気味に口を開けている。
ふと見上げれば、空は凄まじいことになっていた。
青空でも、星空でも、曇天でもない。
巨大なガラスを無数に叩き割ったような無数の亀裂が天蓋を覆い尽くし、その裂け目から、毒々しい紫色と赤色のノイズが、まるで腐った内臓のようにどろどろと漏れ出している。そして、太陽の代わりに中空に浮かんでいるのは、強烈な光を放つ巨大な「ERROR」の文字列の塊だった。
そして、その狂った空から、静かに、雪のように何かが降り注いでいる。
三城は手のひらを上に向けて、ヒラヒラと落ちてきたその一つを受け止めた。
それは、氷の結晶ではなく、紙切れだった。
いや、正確には「原稿用紙のデータ」だ。
しかし、そこに書かれている文字は激しく文字化けしており、判読することはできない。ただ、紙の端に赤いインク――まるで血のような色で『ボツ』という巨大なスタンプが残酷に押されているのだけが、はっきりと見て取れた。
ザァァァァァ……。
風に舞う、膨大な量の設定資料。真っ二つにちぎれた企画書。矛盾に耐えきれず破裂したプロットの残骸。
それらが、まるで降り積もる吹雪のように、この果てしない灰色の荒野を白く、虚しく覆い尽くしていた。
遠くを見やれば、中世ファンタジー風の街並みの残骸が見える。しかし、遠近法を無視して建つ城は半分でスッパリと切断され、家々の壁には木やレンガのテクスチャが貼られておらず、ただの灰色の箱になっている。重力を完全に無視して、空中にふらふらと浮遊している瓦礫すらあった。
物語として形を成すことを許されず、ただ破棄されたアイデアたちの巨大な墓場。
それが、廃棄領域の真の姿だった。
『ザザッ……ピーッ……み、三城さ……ザザッ! 聞こえ……ますか……!?』
耳元のインカムから、激しい砂嵐のようなノイズにまみれたルナの声が聞こえてきた。
「ルナか! ああ、かろうじて聞こえる。死ぬほど不快な着地だったが、なんとか五体満足だ」
『よかった……! ザザッ……こちらのモニター、三城さんのバイタルを示す波形以外、周囲の景色が何も映りません……! そこは、完全にシステムの外側……論理が崩壊した空間です……!』
「だろうな。景色を見る限り、素人が作った三流のホラーゲームの方がまだマシなレベルだ。……それで、ストーカーのシグナルは追えそうか?」
『ザザッ……微弱ですが、反応があります! 三城さんの現在地から、北東の方向……崩壊した都市エリアの最奥です! ですが、気をつけてください……! その周辺には、無数の「バグエネミー」の反応が……!』
「バグエネミー?」
『廃棄されたキャラクターの怨念や、矛盾した設定が寄り集まって、システムを破壊する魔物のように実体化したものです! ザザッ……接触すれば、三城さんの精神データも侵食され、最悪……!』
ブツンッ。
そこでルナとの通信は、深いノイズの海に完全に沈み、途絶えた。
「……おいおい、一番いいところで通信切れるなよな」
三城は沈黙したインカムを軽く叩き、深くため息をついた。
外部からのナビゲートは失われた。ここから先、頼れるのは己の審査官としての感覚と、ルナが最後に残した「北東」という方角だけだ。
空からとめどなく降り注ぐボツ原稿の雪が、三城の黒いコートの肩に積もっては、チリッ、と小さなノイズを立てて消えていく。
この足元に眠る無数の物語の残骸の中には、かつて自分が赤いペンで「ボツ」の烙印を押し、切り捨てた世界も確実に含まれているはずだ。
その事実に、背筋に冷たいものが走る。彼らの怨念が、バグエネミーとなって襲いかかってくるかもしれない。
だが、立ち止まっている暇はない。ストーカーの消去リミットは、刻一刻と迫っているのだ。
「待ってろよ、名も知らぬストーカーさんよ」
三城は愛用のボロボロのノートを内ポケットから取り出し、しっかりとそこにあることを確認すると、冷たい風を防ぐようにコートの襟を立てた。
「勝手に世界からつまみ出されて、こんな冷たいゴミ溜めで消されてたまるか。お前の物語を終わらせるかどうかは……俺がこの目で、お前がどんな奴かを見てから決めてやる」
物理法則の壊れた、崩壊したファンタジーの街並みへ向けて。
三城は、足元に積もるボツプロットの雪をギュッと踏みしめながら、確かな一歩を踏み出した。




