第7章 プロローグ ボツ出し会議と、消えたストーカー
第7章 廃棄領域のゼロ番目と、名前のない読者
「――で? 結局、このヒロインは『世界のために私が犠牲になります、さようなら』で消滅して、主人公は涙を流しながらも前を向いて歩き出す……。で、ハッピーエンド、と?」
どんっ、と。
分厚い企画書の束が会議室の長机に叩きつけられ、重苦しい衝撃音が室内に響き渡った。
輪廻庁ストーリー課の審査官・三城は、乱暴に頭を掻きむしりながら、これ以上ないほどに深いため息を吐き出した。
窓のない会議室には、蛍光灯の無機質で青白い光が降り注いでいる。空気はどんよりとよどみ、テーブルの上に散乱する無数の紙の束からは、世界を創造しようと足掻き、そして途中で投げ出した作者たちの怨念めいたインクの匂いが漂っていた。
ここ、輪廻庁ストーリー課は、無数に生み出される『異世界転生』や『ファンタジー世界』のプロットを事前審査し、不完全なものを修正、あるいは『ボツ』の烙印を押して破棄するための専門部署である。
彼らの仕事は、設定の矛盾やキャラクターの破綻を未然に防ぎ、物語が「世界」として無事に機能するように導くこと。
現在行われているのは、彼らの日常業務にして、最も血で血を洗う精神的な戦場――いつもの『ボツ出し会議』だ。
「ええ、そのようですね。三城の言う通り、プロットの最終盤でヒロインが世界のシステムエラーを補うための『人柱』となり、物語は幕を閉じる構成です」
三城の向かいに座る同僚の審査官・白石が、神経質そうに眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、氷のように冷ややかな声で応じた。
彼の手元には、三城が叩きつけたのと同じ企画書のコピーが綺麗に揃えられて置かれている。だが、その表面には赤ペンで無数の修正指示……というより、もはや呪いの言葉に近い辛辣なダメ出しが隙間なく書き込まれていた。
「作者の意図としては、『愛する主人公の世界を守るために、自ら身を引くヒロインの健気さ』と、『その悲しみを乗り越えて成長する主人公』を描きたかったのでしょう。設定資料のパラメーター推移を見る限り、このヒロインの主人公に対する好感度は、序盤からほぼマックスに近い状態で推移しています。中盤のイベントでも、彼女は献身的に主人公を支え――」
「あー、ストップストップ。白石、お前のその淡々とした冷静な分析を聞いてると、余計に腹が立ってくる」
三城は忌々しげに手を振って白石の言葉を遮ると、手元のマグカップを乱暴に手繰り寄せた。中に入っていたコーヒーは長時間の会議ですっかり冷めきり、まるで泥水のように濁っている。それを一気に喉の奥へ流し込むと、三城は再び、机の上の企画書を親の仇のように睨みつけた。
「安易なんだよ。ヒロインが自己犠牲で消えて、それで世界が平和になって丸く収まる? ふざけるな。そんなもん、ただの思考停止の産物に過ぎねえだろうが」
三城の声には、仕事への疲労感ではなく、物語に対するはっきりとした怒りの熱が混じっていた。
「主人公がどれだけ強大なチート能力を持っていようが、どれだけ仲間と苦難を乗り越えて絆を深めようが、最後に一番近くで自分を支えてくれたヒロイン一人すら救えなくて、何が『前を向いて歩き出す』だ。そんなもん、読者が求めてるカタルシスでもなんでもない。ただの作り手側の都合――『ここでヒロインを死なせておけば、お涙頂戴で読者が感動するだろう』っていう、透けて見える浅はかな計算だ」
三城の脳裏には、これまで彼らが介入し、理不尽な運命から救い出してきた数々のヒロインたちの顔が浮かんでいた。
彼女たちは皆、ただのデータや文字の羅列ではない。笑って、泣いて、怒って、恋をして。その世界で必死に「生きている」一人の人間なのだ。それを、物語を畳むのが面倒になったからといって、システムエラーの生け贄という雑な理由で退場させるなど、到底許せるはずがなかった。
白石は、三城の熱のこもった反論に対して、小さく、しかし明確な同意を示すように肩をすくめた。
「私も同意見です。編集者的な視点から言わせてもらえば、物語の構造として、カタルシスへの導線が完全に破綻していますね」
白石は手元の企画書を指先でトントンと叩く。
「世界を救う代償としてメインヒロインを犠牲にするという展開自体は、手法の一つとして存在します。ですが、それを行うのであれば、それに見合うだけの圧倒的な絶望感と、そこに至るまでの『どうしてもそうするしかなかった』という緻密な必然性が提示されていなければならない。
しかし、このプロットにはそれが一切ない。ただ『システム的なエラーが起きて世界が壊れそうになったから、たまたま適性があったヒロインの命をバッテリー代わりに使って解決しました』と言っているようなものです。これでは読者の感情移入は得られません」
「まさにそれだ。これじゃあヒロインは、主人公を成長させるための『便利な舞台装置』だ。生身の人間に対する扱いじゃない」
三城は手元の太い赤マーカーを手に取ると、キャップを外し、企画書の表紙に向かって大きく、紙が破れんばかりの勢いでバツ印を書き込んだ。
「この企画はボツだ。ヒロインの自己犠牲なんていう、使い古された三流テンプレ。俺たちストーリー課の審査官が、こんなふざけたバッドエンドを通すわけにはいかない」
「妥当な判断ですね。では、この案件は制作者へ差し戻しとし、プロットの根本からの全面改稿を要求します」
白石が手元の端末を素早く操作し、ワールドコアのシステムデータベースに『却下』のステータスを入力した。電子音が鳴り、企画書のデータが差し戻しのフォルダへと送られていく。
「はぁ……次から次へと、どいつもこいつもテンプレ通りの安っぽい悲劇を作りたがりやがって」
三城は疲れたように背もたれに深く体重を預け、会議室の真っ白な天井を仰いだ。
「俺たちは、キャラクターがちゃんと自分の足で『生きてる』物語を見たいんだよ。読者が本気で感情移入して、登場人物の幸せを願って、一緒に笑って、泣けるような。そういう魂の入った物語を、こんな安易なリセットで……」
彼が愚痴をこぼし続けようとした、まさにその時だった。
――ビィィィィィィィィィン!!
突如として、けたたましい、鼓膜を直接劈くような警報音が会議室に鳴り響いた。
同時に、オフィスの照明が通常時の白から、緊急事態を知らせる毒々しい赤色へと切り替わる。警告のフラッシュライトが壁面を舐めるように激しく回転し、平和だったストーリー課の空気を、一瞬にして刺すような緊迫感で張り詰めさせた。
「なんだ!? またどこかの世界で、設定の矛盾が限界を超えてバグが暴走したか!?」
三城が椅子を蹴立てて立ち上がり、コートを翻す。
白石も即座に手元の端末を操作し、すさまじい速度でエラーの原因特定を急いだ。
「いえ……波形が違います。通常のワールドエラーではありません。これは、輪廻庁の根幹を司る『ワールドコア中枢』からの、直接の警告です!」
「中枢からだと? 俺たちが何かやらかしたか?」
その時、会議室の重厚なドアが勢いよく開き、情報処理担当のセラが飛び込んできた。彼女の表情は、これまでに見たことがないほど蒼白に染まり、息が荒く乱れていた。
「三城さん、白石さん! 大変です!」
「セラ、どうした! 何が起きてる!」
セラは駆け寄りながら、手元のタブレット端末を三城たちの前に突き出した。画面には、複雑なシステムコードの羅列とともに、一つの小さな光点が、真っ黒な奈落のような空間へと急速に落下していく様子がグラフで表示されていた。
「これまで私たちが監視していた……あの『観察者モジュール』の反応が……!」
「ストーカーが、どうかしたのか?」
三城は眉をひそめた。
ここ最近、ストーリー課が管理し、三城たちが介入してきた様々な世界(アイリスの世界など)において、謎のアクセスログが頻発していた。誰かが、いや『何か』が、物語の裏側からじっと三城たちの行動や、ヒロインたちの運命の行く末を見つめている気配。
三城たちはそれを半ば呆れと警戒を込めて『ストーカー』、あるいは『観察者モジュール』と呼んでいた。
だが、その視線には悪意や世界を破壊しようとする意図は感じられなかった。むしろ、物語の登場人物たちの無事を祈るような、切実な熱を帯びているように感じたため、三城たちも「実害がないなら泳がせておこう」と静観を決め込んでいたのだ。
セラは震える声で、絶望的な事実を告げた。
「その観察者モジュールが、ワールドコア中枢の最高次セキュリティに捕捉されました! システムは彼女を『世界の維持に悪影響を及ぼす重大なエラー要因』と断定し、現在、強制パージを実行中……彼女は今、廃棄領域(ゴミ箱)へ落下しています!」
「なっ……!?」
三城は絶句し、目を見開いた。
廃棄領域――通称『ゴミ箱』。
輪廻庁の審査官である彼らにとって、そこは絶対に近づいてはならない絶対のタブーだ。
これまでに「価値なし」とボツにされた無数のプロット、設定の矛盾によって崩壊した世界の残骸、そして、存在を許されなかったエラーデータたちが最終的に行き着く、物理法則も物語のロジックも存在しない、完全なる虚無の底。
一度そこに落ちれば、二度と元の世界には戻れない。データは少しずつ欠損し、狂気に満ちたバグエネミーに成り果てるか、やがて完全に白紙化されて消滅するしかない地獄だ。
「最高次セキュリティだと……? 完璧なテンプレと効率を至上とする、あの『エディター(編集長)』どもの管轄じゃないか。ただ暗闇から俺たちの物語を覗き見してただけのストーカーが、なんでそんなシステムの逆鱗に触れたんだ!」
「詳しい理由はわかりません! でも、このまま落下を続ければ、あと数分で彼女のデータは廃棄領域の最深部――完全消去エリアに到達し、完全にデリートされます!」
セラの悲痛な叫びを聞いた瞬間。
三城の脳裏に、先ほどまで白石と議論し、怒りとともにボツにしたばかりの企画書のヒロインがフラッシュバックした。
――『世界のために私が犠牲になります、さようなら』
システムにとって不要なエラーだと一方的に判断され、問答無用で存在を消される。
それは、あの三流プロットで描かれていた、都合よく消費される安易な自己犠牲と、本質的に何が違うというのか。
ただ物語の行く末を祈るように見守っていただけの存在を、少しノイズを出したからといって、有無を言わさずゴミ箱に捨てて消滅させる。
「……ふざけんな」
三城の口から、低い、地を這うような、しかしマグマのように熱い怒りの声が漏れた。
「三城さん?」
「見ず知らずのストーカーだろうが何だろうが、俺たちの管轄する世界の周りをずっとウロチョロしてた奴だ。俺たちの物語の読者みたいなもんじゃねえか。それを中枢の連中が、自分たちの定めたルールから外れたからって、勝手に『エラーだから消します』だ? ふざけるな。そんな理不尽なテンプレ、俺が通すかよ!」
三城は、机の上にあった愛用のボロボロのノートと黒インクのペンをひったくるように掴み取ると、踵を返し、会議室を飛び出した。
「三城! まさか!」
彼の意図に気づいた白石が、鋭い声で呼び止める。
「行くぞ、セラ! ダイブルームのルナを叩き起こしてナビゲートの準備をさせろ! 今から俺が、その『ゴミ箱』にダイブする!」
「で、でも三城さん! 廃棄領域へのダイブなんて完全に自殺行為です! あそこは世界の土台すらないんですよ!? ダイブした瞬間に、三城さんの精神データまでバグに飲み込まれて消えちゃうかもしれないんですよ!?」
セラが泣きそうな声ですがりつく。
「関係あるか!」
三城は足を止めることなく、赤色灯の回る廊下を振り返りながら吠えた。
「俺が助けるって決めたんだ! 勝手に自己犠牲で消えようとする奴も、効率だけ求めて勝手にキャラクターを消そうとするクソみたいなシステムも、まとめて俺が『ボツ』にしてやる!」
サイレンが鳴り響く輪廻庁の長い廊下を、三城は全速力で疾走する。
その先に待つのが、かつてどの審査官も帰還したことのない、狂気と虚無の吹き溜まり『廃棄領域(ゴミ箱)』であると知りながら。
彼の中に恐怖はない。あるのは、理不尽に命を終わらせようとする物語に対する審査官としての激しい怒りと、一人の存在を強引にでも救い出すという強烈な意志だけだった。
これが、すべての始まり。
いや、輪廻庁というシステムの根幹に隠されていた真実を暴き、世界をひっくり返すための、最初の一歩となることも知らずに。
最も忌まわしきボツの烙印を押された世界へ、物語を愛する審査官のダイブが、今、始まろうとしていた。




