第8話 勇者の旅路と、最初の夜
村を出て、どれくらい歩いただろう。
太陽は頭の少し右上。足はもう、じんじん痛い。
(……玄関から一歩出ただけで、こんなに世界広かったっけ)
レオン・ハルト十八歳。
人生初の「世界を救う旅」の、一ページ目である。
「勇者の旅ってさ……もっとこう、カッコよく始まるもんじゃなかったっけ……?」
誰もいない道端でぼやいても、答えてくれるやつはいない。
現実:
•背中の荷物は重い。
•靴ずれが地味に痛い。
•さっきから虫がしつこい。
村人たちが「戻ってきたときのために」と持たせてくれた干し肉と黒パンが、よけい重く感じる。
(ミアの前では、ちょっとだけカッコつけたけどさ)
玄関でのやりとりが、鮮明に頭に浮かぶ。
『怖いですって、ちゃんと言ってください』
震える足で敷居をまたいで、ミアはそう言った。
だからレオンも、ちゃんと返したのだ。
『怖いです。むちゃくちゃ怖いです』
――実際、今も普通に怖い。
「……こわいです。はい」
ひとりごとのように口に出して、少しだけ肩の力を抜く。
森の木々は高くて、風がざわざわ言っている。
どこからか、鳥とも獣ともつかない鳴き声も聞こえてくる。
足元の草むらが、がさりと揺れた。
「ひっ」
反射的に飛び退いて、半歩下がる。
草むらから飛び出してきたのは――片耳の折れた、小さなウサギだった。
目が合ったウサギは、慌てて逆方向の茂みに飛び込んでいく。
「……心臓に悪い」
胸を押さえながら、レオンは苦笑した。
(あれが魔物だったら、今ので終わってたな、俺)
勇者候補のくせに、臆病なのは自覚している。
村長も「ビビりじゃが、そこがええ」とか、よく分からない褒め方をしていた。
(それでも……)
村のほうを振り返る。
(玄関で“行ってきます”って言っちゃったからには、帰らないわけにはいかないんだよな)
――怒られに。
玄関の敷居で「怒りに来ました」と言ったミアの顔が浮かぶ。
あれは正直、魔王より怖かった。
「ちゃんと戻って、“怖かったです”って言えるくらいには、がんばろ」
口に出すと、不思議と足取りが少しだけ軽くなった。
◇
昼を少し過ぎたころ、森が切れて、開けた道に出た。
土が固く踏み固められた道。
車輪の跡が何本も走っている。
遠くで土煙が上がるのが見えた。
「あれは……馬車か?」
レオンは目を細める。
荷を山のように積んだ荷馬車が、一台こちらに向かってくる。
幌には、見覚えのある印が描かれていた。
(あの紋……)
木の枝と、小さなリンゴの絵。
「ドランおじさんの行商だ!」
思わず手を振る。
「おーい!」
荷馬車が、ぎしぎし音を立てて止まった。
「おお? その声は……レオン坊じゃないか!」
御者台から顔を出したのは、ひげ面の中年男だった。
「やっぱりドランおじさんだ!」
「お前、こんなとこで何やっとる。いつもの広場で木振り回しとる時間じゃろ」
「今は、その……勇者候補として王都まで」
「マジか!」
ドランが、目を丸くしたあと、腹を抱えて笑った。
「村長のじじい、自慢しとったぞ。“うちのレオンが勇者候補になっとるんじゃ”ってな」
「じ、自慢しなくていいのに……!」
「何言うとる。あのじじいにとっちゃ、初めての“世界デビュー”じゃけえ」
ドランは、手綱を軽く引いて馬を落ち着かせた。
「乗ってくか? この先の宿場町までなら、荷台に空きがある」
「いいんですか?」
「勇者候補に最初から足ボロボロにさせるわけにもいかんじゃろ。
最初の一歩くらい楽させちゃっても、誰も文句言わん」
レオンは、一瞬だけ迷った。
(……歩いてくほうが勇者っぽいか?
でも、足痛いし……)
ミアの顔が頭をよぎる。
『途中でこわいって言ってもいいですか?』
あのとき、マサトが言っていた。
『途中で怖いって言えるほうが、長生きするって』
(なら、正直に行くか)
「正直、助かります。もう足が……」
「素直でよろしい!」
ドランは、豪快に笑って荷台を叩いた。
「ほれ、荷どけるから座れ。干し肉くらいなら出してやる」
「ありがとうございます!」
レオンは荷台に乗り込んだ。
干し草と木箱だらけの荷台。
それでも、さっきまでの土の道よりはずっとマシだった。
◇
馬車は、ガタゴトと音を立てながら街道を進んでいく。
「で、ミア嬢ちゃんにはちゃんと挨拶したんか?」
ドランが、にやにやしながら訊いてきた。
「……しました」
レオンは、無意識に背筋を伸ばした。
「玄関で」
「ほう!」
「怒りに来られました。“世界のためだからって顔するな”って」
思い出しただけで少し胃が痛くなる。
だがドランは、嬉しそうに笑った。
「ミア嬢ちゃんが怒るってのは、そりゃ大したことじゃぞ」
「そ、そうなんですか?」
「あの子、我慢するほうが先じゃからな。
怒るってことは、“お前に帰ってきてほしい”ってちゃんと出したってことじゃ」
「……」
玄関のミアの顔が、また浮かぶ。
窓辺の子じゃなくて、敷居のところに立っていた、小さな背中。
「戻ったら、ちゃんと言おうと思ってます」
ぽつりと漏らしていた。
「“いなくてもいい子なんかじゃない”って」
「ほう」
ドランが、感心したように頷く。
「なら、戻ったときだけやなくて、途中でも言うてやってもええかもしれんな」
「途中?」
「お前、王都に着くまで何日もかかるじゃろ。
その間、ミア嬢ちゃんは“待つだけ”になる」
ドランは、手綱を操りながら続ける。
「待つだけってのは、けっこうキツいもんじゃ。
“ちゃんと生きとるんじゃろか”“忘れられとらんじゃろか”って考える」
「……」
「手紙でもあれば、少しはマシになる」
レオンは、はっと顔を上げた。
「手紙……」
「おう。わし、このあと王都まで行ってから、また辺境のほう回る予定じゃ。
いつものように、村長んとこにも寄る」
ドランがちらりとこちらを見る。
「“ミア嬢ちゃんに渡してくれ”って手紙があったら、ついでに届けてやらんこともない」
「……本当に?」
「わしを誰だと思っとる。辺境と町を行ったり来たりして何十年じゃ。
手紙一通、荷の上に乗せとくだけなら朝飯前よ」
レオンの胸が、どくんと跳ねた。
(旅の途中で、ミアに何か届けられる……)
そんな発想はなかった。
玄関で「行ってきます」と言ったきり、次に言葉を交わせるのは、戻ってきたとき――
ずっとそう思っていた。
「か、書いていいですか?」
「いいに決まっとる。むしろ書かんかったらわしが怒る」
ドランは、荷物の中から小さな包みを引っ張り出した。
「宿場町に着いたら紙とインク、少し安く売ってやる。勇者候補割引じゃ」
「そんな割引、本当にあるんですか」
「今できた」
適当だが、その適当さが妙に心強い。
「書くこと、今から考えとけ。
“勇者様は今日も元気です”って嘘書くくらいなら、最初から書かんほうがマシじゃけえな」
「……ですよね」
レオンは、小さく息を吐いた。
(怖かったこととか……ちゃんと書けるだろうか)
玄関で「怖い」と言えたように、紙の上でも言えるかどうか。
その不安を抱えたまま、荷馬車は進んでいく。
◇
日が傾き始めたころ、小さな城壁が見えてきた。
石で組まれた壁。
門の前には荷馬車の列。
兵士たちが簡単な荷物検査をしている。
「ここが宿場町ロゴスじゃ」
ドランが言う。
「“大きい村”みたいなもんじゃ。宿も飯屋も揃っとる」
門をくぐると、空気が変わった。
焼きたてのパンの匂い。
行き交う人の声。
馬のいななきと、どこかから聞こえる楽器の音。
「……すげえ」
レオンは完全におのぼりさんだった。
村の収穫祭とは違う、雑多でごちゃごちゃした活気。
それが、不思議と心地いい。
「ほれ、あそこが俺のお気に入りの宿じゃ」
ドランが指さしたのは、木造二階建ての宿屋だった。
看板には、麦の穂とスープ皿の絵。
「飯の盛りも布団の具合もええ。勇者候補にも安心設計じゃ」
「そんな設計あるんですか」
「今できた」
まただ。
安宿のカウンターで簡単な手続きを済ませ、レオンは二階の一番端の部屋の鍵をもらった。
◇
部屋は狭いが、清潔だった。
ベッドと、小さな机と椅子がひとつずつ。
窓の外には、夕方の空と、細い街路が少し見える。
「すごい……」
思わず口から漏れた。
村にはないものばかり。
でも、窓の向こうの空の色だけは、どこか懐かしい。
「ほれ、約束の品じゃ」
軽くノックして、ドランが顔を出す。
手には、紙束と小さなインク壺と、羽ペン。
「勇者候補割引で、ちぃと負けといた」
「ありがとうございます」
「礼は、ちゃんと書くことで返せ」
ドランは、紙束を机の上に置いて言った。
「ミア嬢ちゃんが読んで、“待っててよかった”って思える手紙を書け」
そう言って、ひらひらと手を振りながら部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
残されたのは、レオンと、紙とインクと、静かな部屋。
「……さて」
レオンは、椅子を引いて腰を下ろした。
目の前の紙は、真っ白だ。
インク壺の表面が、ランプの光を揺らしている。
羽ペンを手に取ってみる。
けれど、ペン先は紙の上に下りていかない。
(何から書けばいいんだ、これ)
ミアのことは、よく知っているつもりだ。
窓辺で笑う顔も、熱を出して寝込んでいる顔も、玄関で震えながら怒った顔も思い出せる。
でも、「手紙」にしようとすると、どれも言葉にうまく変換できない。
「“元気です”は嘘だしな……」
小さくぶつぶつ言ってみる。
「“世界を救ってきます”なんて書いたら、明らかにカッコつけだし……」
ペン先が、紙の上すれすれを泳ぐ。
ミアの前では、変に格好つけたくない。
でも、怖いことしか書かれてない手紙を送りつけるのも、違う気がする。
(……本当のことだけ書くって決めたんだろ)
玄関で、「怖いです」と言えたときのことを思い出す。
(だったら、紙の上でもちゃんと怖がろう)
そう思っても、最初の一文字がなかなか降りてこない。
窓の外は、いつの間にか群青色に変わっていた。
街のざわめきは続いているのに、この部屋だけ別の世界みたいに静かだ。
ランプの火が、ゆらゆら揺れる。
「……書くしかないんだよな」
そうつぶやいて、レオンはペン先を紙の上にそっと近づけた。
けれど、やっぱりその夜は――
一文字も書かないまま、考えてばかりで終わった。
世界一こわい旅の、最初の夜。
ミアに届くはずの手紙は、まだ真っ白なページのまま、机の上で静かに待っていた。




