第6話 心折れるヒロイン
310回目。
あるいは、311回目だったかもしれない。
もはや俺自身、正確なカウントを忘れかけていた。
聖アストライア学園、演劇部部室。
いつものように、放課後の練習時間が始まろうとしていた。
「――ええと、次は第3幕、舞踏会のシーンから……ですよね」
部長であるアイリスの声が、微かに震えていた。
彼女は台本を握りしめているが、その指先は白くなっている。
顔色は悪く、目の下には隈が浮いていた。
「おいアイリス、声が小さいぞ! 筋肉が萎縮しているのか?」
アレン王子が心配そうに声をかける。彼なりに気を使っているのだろうが、その声量は逆に彼女を怯えさせていた。
「フン……覇気がないな。それでは闇に飲まれるぞ」
カイドウもまた、腕を組みながら眉をひそめている。
いつもなら「うるさいです!」とツッコミを入れるはずのアイリスが、今日は何も言い返さない。ただ、「ごめんなさい」と小さく呟くだけだ。
「……お嬢様」
俺――執事セバスチャン(仮)は、紅茶を差し出しながら彼女の様子を観察した。
限界が近い。
記憶はリセットされているはずだ。だが、魂に刻まれた「300回以上の失敗ログ」が、彼女の自己肯定感を削り取っている。
『どうせ上手くいかない』
『また皆に迷惑をかける』
そんな無意識の諦念が、呪いのように彼女を縛り付けている。
「……やりましょう。私、頑張らなきゃ」
アイリスは無理やり笑顔を作り、舞台中央へと歩み出た。
照明が点灯する。
ハカセが(俺に改造されたせいで)安全な光を当て、コレットが(俺に味を変えられた)普通のスープを配膳する。
全てが「無難」に進んでいる。
だが。
今日の敵は、暴走キャストではなかった。
「あ……」
セリフの途中。
アイリスが、何もないところで躓いた。
足がもつれたわけではない。まるで、見えない壁に弾かれたような、不自然なよろめき方だった。
ガシャン!
彼女が持っていた小道具のグラスが床に落ち、砕け散る。
「ご、ごめんなさい! 私、また……!」
アイリスが慌てて破片を拾おうとする。
その時だった。
ピカッ。
頭上のスポットライトが、勝手に動いた。
アイリスを照らしていた光が、スッと移動し――舞台袖に立っていた人物を照らし出したのだ。
「あら?」
照らし出されたのは、真紅のドレスを纏ったライバル令嬢、エレオノーラだった。
彼女は突然のことに驚きつつも、生来の度胸ですぐにポーズを決めた。
「オーッホッホ! 照明係も分かっていますのね。真の主役が誰であるかを」
エレオノーラが扇子を広げ、優雅に舞台中央へと歩み出る。
その動きは完璧だった。
歩幅、姿勢、視線の配り方。すべてが計算され尽くした「100点の演技」だ。
そして、恐ろしいことが起きた。
彼女がアイリスの横に並んだ瞬間、砕け散ったグラスの破片が、まるで映像の逆再生のように修復され、エレオノーラの手元に収まったのだ。
「……え?」
アイリスが息を呑む。
『システム判定:配役の最適化を確認』
『推奨:キャスト変更。主演――エレオノーラ・ローズベルト』
俺のインカムにだけ、無機質なログが流れてきた。
観察者だ。
奴は、ついに実力行使に出た。
度重なる失敗に痺れを切らし、システム権限を使って「主役のすげ替え」を提案してきたのだ。
「……すごい」
アイリスが呟いた。
彼女の目には、スポットライトを浴びて輝くエレオノーラの姿が映っている。
圧倒的な華。揺るぎない自信。
自分にはない、全ての「主役の条件」を持った少女。
「やっぱり……エレオノーラさんの方が……」
アイリスの手から、台本が滑り落ちた。
バサリ、という音が、妙に大きく響いた。
「――私、降ります」
静寂。
アレンが、カイドウが、マリアが、動きを止めてアイリスを見る。
「アイリス? 何を言って……」
「無理なんです、私じゃ! 何度やっても失敗するし、みんなに迷惑かけるし……私なんかが主役じゃ、永遠にこの劇は完成しない!」
彼女は叫んだ。
それは、300回のループで溜め込んだ絶望の吐露だった。
「エレオノーラさんがやるべきです。あんなに綺麗で、上手で、完璧なんだから……。私なんかより、ずっと『星の乙女』に相応しい……!」
アイリスは顔を覆い、舞台から逃げ出した。
講堂の扉を開け、走り去っていく背中。
誰も追いかけられなかった。
あまりに痛切な悲鳴に、暴走キャストたちでさえ言葉を失っていたからだ。
「……お嬢様」
俺だけが、静かに動き出した。
この展開は予測していた。
そして、ここが正念場だ。
「皆様はリハーサルを続けてください。……主役を連れ戻してきます」
俺は一礼し、彼女の後を追った。
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屋上。
夕暮れの風が、錆びついたフェンスを揺らしている。
アイリスは、貯水タンクの陰にうずくまっていた。
「……ひっく、うぅ……」
膝を抱え、小さく震える背中。
俺は足音を立てずに近づき、彼女の隣にそっとハンカチを置いた。
「……セバスチャンさん」
彼女は顔を上げないまま、鼻声で呼んだ。
「どうして来たんですか。……戻ってください。今頃、エレオノーラさんが完璧な演技をしてますよ」
「ええ、そうですね」
俺は淡々と事実を告げた。
「先ほど確認しましたが、エレオノーラ様のアドリブは見事でした。アレン様の筋肉とも、カイドウ様の演出とも、不思議と噛み合っていましたよ」
「……ほら、やっぱり」
「システム上の芸術点も、現時点で85点を記録しています。このままいけば、明日の本番は間違いなく大成功。100点のハッピーエンドで幕を閉じるでしょう」
俺の言葉に、アイリスの肩がビクりと跳ねた。
そうだ。
彼女が降りれば、すべて解決する。
観察者は満足し、リセットボタンを押すのをやめ、世界はループから解放されて「明日」へと進む。
それが、最も合理的で、効率的な解決策だ。
「なら……いいじゃないですか」
アイリスが顔を上げた。その瞳は赤く腫れ、涙で濡れていた。
「劇が成功するなら、それが一番です。私が主役じゃなきゃいけない理由なんて、どこにもない……」
「本当に?」
俺は問いかけた。執事としての仮面を、少しだけ外して。
「本当に、それでいいんですか? アイリス」
世界が歪む。
俺たちの周囲に、ノイズのような光の粒子が舞い始めた。
観察者の干渉だ。
奴は今、アイリスに「YES」と言わせようとしている。この物語を終わらせるための、同意の署名を求めている。
『……楽になれ』
風の音に混じって、甘い囁きが聞こえた気がした。
『お前が降りれば、誰も傷つかない。誰も失敗しない。完璧な世界が手に入る』
アイリスの瞳から、光が消えていく。
彼女はシステムに誘導されるように、唇を開いた。
「……はい。私は……」
「――ボツだ」
俺は強く、短く言い放った。
その言葉は、甘い囁きを切り裂く刃のように響いた。
「え……?」
「そのセリフはボツです。聞き飽きました。三流の悲劇ヒロインでも、もう少しまともなことを言いますよ」
俺は彼女の前にしゃがみ込み、視線を合わせた。
眼鏡の奥の瞳で、彼女の迷いを射抜く。
「アイリス様。貴方は勘違いをしている」
「勘違い……?」
「ええ。貴方は『完璧な劇』を作りたいのですか? それとも、『あのメンバーと劇』を作りたいのですか?」
アイリスが息を呑む。
「あいつらを見てください。筋肉馬鹿に、中二病患者、殺意の高いメイドに、テロリストのような料理人。……正直、最悪のキャストです」
「ふ、ふふ……ひどい言い方」
「事実です。あんな連中と『完璧な劇』を作るなんて、土台無理な話なんですよ。エレオノーラ様が入ったところで、せいぜい『綺麗な崩壊』になるのがオチです」
俺は手帳を取り出し、これまでの300回の記録を見せた。
そこには、失敗の記録だけではない。
アレンがアイリスを庇って筋肉で壁になったこと。
カイドウがアイリスのために花火を打ち上げたこと。
マリアが徹夜で衣装を直していたこと。
そんな、無数の「過程」が記されていた。
「彼らがなぜ、あんなに暴走するのか分かりますか? ……楽しんでいるからですよ。貴方と一緒に作るこの学園祭を、心の底から」
「……みんなが……私と?」
「ええ。彼らは貴方の『完璧さ』なんて求めていない。貴方が転べば笑い、貴方が泣けば怒り、貴方が笑えば一緒に笑う。……彼らが求めているのは、貴方という『座長』がいる、この泥臭い舞台そのものです」
アイリスの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
それは、諦めの涙ではなかった。
凍り付いていた感情が溶け出し、熱を持って流れ落ちる、再生の涙だった。
「私……私ね……」
彼女は鼻をすすり、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「私、下手くそだけど……みんなと練習してる時が、一番楽しかった。アレン先輩が壁を壊して、カイドウ君が爆発して、マリアが怒って……そんな毎日が、ずっと続けばいいのにって……」
「……ええ」
「だから……悔しい。私がダメだから、みんなの頑張りが無駄になるのが……悔しいよぉ……!」
彼女は俺の胸に縋り付き、子供のように泣きじゃくった。
その泣き声は、夕暮れの空に響き渡り、観察者の甘い囁きを完全にかき消した。
パリン。
空間に漂っていたノイズが、弾け飛ぶ音がした。
誘惑の拒絶。
ヒロインは、楽な道を選ばなかった。
泥にまみれ、傷だらけになりながらも、自分の足で立つことを選んだのだ。
「……泣くだけ泣きましたか?」
しばらくして、俺はハンカチで彼女の顔を拭いてやった。
「は、はい……。ごめんなさい、セバスチャンさんの燕尾服、鼻水でぐしゃぐしゃに……」
「構いません。これは戦闘服ですから、汚れも勲章です」
俺は立ち上がり、彼女に手を差し出した。
「さあ、戻りましょう。主役がいないと、脇役たちが暴動を起こしかねません」
「……はい!」
アイリスが俺の手を取る。
その握力は、さっきよりもずっと強かった。
「セバスチャンさん。私、決めました」
彼女は夕日を背に、真っ直ぐな瞳で宣言した。
「私、完璧なんて目指しません。100点なんていりません。……30点でもいい。みんなが笑って、楽しんで、最後に『やってよかった』って思える……そんな最高にハチャメチャな劇にします!」
「……了解です。そのオーダー、しかと承りました」
俺は恭しく一礼し、ニヤリと笑った。
そうだ。それでいい。
100点の予定調和なんてクソ食らえだ。
俺たちが目指すのは、観察者の予想を遥かに超える、規格外の「30点満点」だ。
「では、作戦を変更します。お嬢様」
「作戦?」
「ええ。個性を殺すのはやめました。……全員の暴走を、すべて『演出』として組み込みます」
俺の脳内で、新しい台本が高速で構築されていく。
アレンの筋肉も、カイドウの爆発も、エレオノーラの乱入も。
すべてを武器にする、狂気の「アドリブ進行表」。
「戻ったら、新しい台本を配ります。覚悟はいいですか?」
「はい! ……あ、でも私、セリフ覚えるの苦手で……」
「大丈夫です。セリフなんてありません。すべて『ノリと勢い』で書いてありますから」
俺たちは顔を見合わせ、初めて共犯者のように笑い合った。
310回目の夕暮れ。
ループはまだ終わらない。
だが、ここからが本当の「物語」の始まりだ。
心折れたヒロインは死んだ。
今ここに誕生したのは、カオスを統べる最強の座長だ。




