第7話 玄関で怒りに来ました
レオンの出立の朝、村長バーンズの家の前は、ちょっとした祭りみたいになっていた。
まだ日が昇りきる前だというのに、村の連中はすでに集合済みだ。
「本当に行くんか、レオン」「腹はくだしてないか」「今ならまだやめてもええんじゃぞ?」
「やめませんって!」
レオンは、玄関の前で木剣を抱えながら、半分泣きそうな顔で返している。
家の前には、村人からの差し入れが山のように積まれていた。
干し肉、干し果物、黒パン、なぜか自家製の漬物樽まである。
「こんなに持っていけませんよ!」
「帰ってきたときにも食うんじゃ」「腹壊して帰ってくるなよ」「道中で変な女の子に全部やるなよ」
「誰もそんなことしません!」
ツッコミの方向が忙しい。
村長は、そんなやりとりを囲炉裏端の爺さんみたいな顔で眺めていた。
「レオン」
「は、はい!」
呼ばれて、レオンが姿勢を正す。
「わしはな、お前に“世界一の勇者になれ”とは言っとらん」
「……ですよね」
レオンの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
「“世界のために命を投げ出せ”とも言っとらん」
「それは、はい。できれば勘弁してほしいです」
「じゃろうな」
村長は、にやりと笑った。
「わしが言ったんは、一つだけじゃ」
「……」
「行くからには、ちゃんと戻ってこい。
戻ってきて、“怖かった”“何度も逃げたくなった”って顔して、ここに立て」
レオンの喉が、こくりと鳴る。
「――それができん勇者は、うちの敷居、二度とまたがせん」
「……戻ってきます」
レオンは、木剣を握り直した。
「世界一の勇者にはなれないかもしれないですけど。
ここに戻ってきて、“怖かったです”って言う勇気くらいは出します」
「よし」
村長が、満足そうにうなずく。
「で、そのときに怒ってくれるやつがおらんと、締まりが悪いんじゃが――」
言いかけたところで、ちらりと玄関のほうを見た。
視線の先。
まだ開いていない木の扉の向こう側。
「……さて、どうなるかのう」
俺も、その扉を見つめる。
階段の上で、今まさに“バトン”を受け取っている子の顔を思い浮かべながら。
◇
二階の部屋。
「……じゃあ、行きましょうか」
俺がそう言うと、ミアは大きく息を吸い込んだ。
さっきまで手の中で握りしめていた毛布を、きゅっと整え、ベッドの端にそっと置く。
立ち上がる動きは、もう迷いが少ない。
数日前の「ベッドから足を下ろすだけで精一杯」だった子と、同じ人間とは思えないくらいだ。
「今日のバトンは、“玄関まで”」
ミアが、自分に言い聞かせるように呟く。
「行けるところまででいい。行けなかったら、“そこまでのページ”になる」
「はい」
俺も頷く。
「“全部一気にクリアしなきゃダメ”じゃない。
昨日までのミアが運んできたバトンを、今日のミアがどこまで持って行けるか。それだけです」
視界の端で、ミニルナがちょこんと現れ、親指を立てた。
「クエスト再確認入りました〜。“玄関までの世界一こわい散歩”です〜」
声は俺にしか聞こえない。
ミアは、扉のほうを見つめたまま、小さく笑った。
「……行きます」
ベッドから一歩。
机の横を通り抜ける。
本棚の角に軽く手を添え、呼吸を整える。
扉の前に立つと、喉が干からびる音がした。
「マサトさん」
「はい」
「怖くなったら、“怖い”って言ってもいいですか?」
「むしろ、言ってください」
俺は、笑ってみせる。
「“途中で怖いって言えた日”っていうページも、ちゃんと価値がありますから」
ミアは、目を閉じてから、ゆっくり扉に手を伸ばした。
ぎぃ、と木の軋む音。
廊下の空気が流れ込んでくる。
昨日、一段目まで足を運んだ階段が、正面に見えた。
「……」
ミアの足が、ぴたりと止まる。
「こわい?」
「……こわいです」
即答だった。
「前に転んだときのこと、思い出しちゃって。
あのとき怖かったの、まだちゃんと終わってない感じがして」
「終わってない怖さを抱えたままでも、“一歩目”は出せますよ」
俺は、なるべく穏やかな声で言う。
「“怖さゼロになってから動き始める”っていう条件は、この世界のどこにも書いてありませんから」
ミニルナが、こくこくと頷く。
「ワールドコアさんの仕様書にも、そんな項目はありませんでした〜」
「だそうです」
わけのわからない根拠を出しながらも、ミアは少し笑った。
「じゃあ……」
一段目へ、足を運ぶ。
昨日と同じ場所。
けれど、今日は“ここがスタート地点”だ。
「ここから先は、まだ知らないところばっかりですね」
「はい」
「じゃあ、“知らないところ一歩目”の日ってことで」
ミアは、手すりをぎゅっと握った。
「怖くなったら、戻ってもいいですか?」
「もちろん」
祖母が、後ろから声をかける。
「ここまで来たら、それだけでも十分じゃ。ここで“こわい”って言えたら、それだけでもええ」
「……ありがとう、おばあちゃん」
ミアは、足元を見つめたまま、もう一度だけ深呼吸をした。
そして。
二段目に、足を下ろした。
コトン。
昨日より、ほんの少し低い視界。
階段の下の玄関が、遠くに見える。
三段目。
四段目。
息が上がるのは、病弱な体のせいだけじゃない。
心臓が、どくどくと音を立てている。
「……マサトさん」
「はい」
「こわい」
「はい、こわいですね」
俺は、隣に立ちながら答える。
「世界一こわい散歩って、村長さんが言ってました」
「おじいちゃんの口癖になってます」
「でも、こわいからって、ページの価値が下がるわけじゃないですからね」
ミアは、苦笑しながらもう一段降りた。
やがて、階段を降りた先――
一階の廊下に、両足が揃う。
視界の先に、玄関の扉があった。
そこは、ミアの世界にとって特別な場所だ。
両親が「すぐ戻る」と言って出て行き、戻らなかった場所。
前に行こうとして、途中で倒れた場所。
「……」
ミアの指先が、震えた。
「ミア」
祖母が、そっと肩に手を置く。
「怖かったら、ここで“こわい”って言ってもええ。
ここから先、今日は行かんでもええ。
それでも、わしらはちゃんと“ここまで来たミア”を見とる」
ミアは、唇を噛んだ。
「……行きたいです」
絞り出すような声だった。
「怒りたい、って昨日、マサトさんに言いました」
「ああ」
「レオンに、ちゃんと怒りたいです。
“世界のためだから”って顔して、私の前で怖いって言わないの、怒りたい」
拳を握る。
「怒れないまま、また窓のところから見送るの、やだ」
その一言が、この子の中の“こわい”を上書きする。
俺は、少しだけ後ろに下がった。
「じゃあ、先に行ってください」
「え?」
「ここから先は、“ミアのページ”ですから」
玄関の扉まで、三歩。
扉を開いて外に出るまで、あと一歩。
ミアは、一歩一歩、数えながら近づいていった。
「……一歩」
廊下の真ん中。
「二歩」
扉の前。
「三歩」
扉の前で立ち止まり、手を伸ばす。
木の感触。
手のひらに、冷たさとざらつきが伝わる。
「――開けます」
誰に聞かせるでもなく宣言してから、ミアは扉を引いた。
◇
光が、一気に差し込んできた。
外の空気は、部屋のそれより少し冷たくて、土の匂いが混じっていて、人の声がする。
「……」
ミアは、玄関の敷居の手前で、一度目を閉じた。
両親が出て行ったときの記憶。
自分が倒れたときの記憶。
全部まとめて抱えたまま――。
そっと、一歩、敷居をまたぐ。
外だ。
ミアの足が、初めて“玄関より外側”に降り立った。
ざわ、と周りがどよめく。
「ミア?」「ミアじゃないか」「ミアが玄関から出てきたぞ!」
村人たちの声が、一斉にあがる。
レオンの肩がびくっと跳ねた。
「ミ、ミア……?」
玄関の前で木剣を抱えていた青年が、呆然とした顔でこちらを見る。
ミアは、小さく息を整えた。
世界が、ちょっとだけ広い。
足元が、ちょっとだけ心許ない。
それでも、ここまで来た。
ここは、戻れる場所のはずだ。
「……レオン」
名前を呼ぶ声は、小さいけれど、はっきりしていた。
「お、おう?」
レオンの声が裏返る。
「玄関で待ってるって、聞いたから」
「え、聞いてたの?」
「おじいちゃんから」
ミアは、胸の前で手を握りしめた。
「――玄関で、怒りに来ました」
その一言で、空気が止まる。
村人たちの視線が、一斉に二人に集中した。
レオンの目が、さらに見開かれる。
「お、怒りに……?」
「うん」
ミアは、前に一歩進んだ。
いまにも膝が笑いそうになりながら、それでも踏みとどまる。
「“世界のためだから”って言って、勝手にいなくなろうとしたこと。
“怖くない”みたいな顔して、怖いってちゃんと言わなかったこと」
ひと呼吸おいてから、言葉を重ねる。
「――そういうの、怒りに来ました」
レオンは、木剣を握る手に力を込めた。
「……怖いに決まってるだろ」
搾り出すような声だった。
「こわいよ。めちゃくちゃこわいよ。
世界のどっかにいるはずの魔王とか、よく分かんないし。
王都の偉い人たちも、なんか“世界のために”って軽く言うし」
声が震えている。
「でも、“みんなのかわりに行きます”って言ったからには、怖くないふりぐらい――」
「ふりしなくていいって言いに来たんです」
ミアが、きっぱりと言った。
「レオンが怖くないふりしたら、私が怖くなるから」
レオンが、言葉を失う。
「“世界のためだから仕方ないよな”って顔していなくなったら、
私の中で、レオンがどっか遠くに行っちゃうから」
ミアの指先が、震えながら木剣の先をつまんだ。
「だから、“怖いです”ってちゃんと言ってください。
ここで、“怖いけど行きます”って言ってください」
レオンは、木剣を握り直した。
息を吸い、吐く。
玄関の敷居の上で、足を少し開く。
「……怖い」
小さく呟いた。
「怖いです。むちゃくちゃ怖いです。
できることなら、このままここで、ミアの部屋の窓の下で一生木剣振ってたいです」
村人たちから笑いが漏れる。
「でも」
レオンは、ミアをまっすぐ見た。
「ミアに“行ってきていいよ”って言ってもらったから行きます。
怖いけど、“帰ってきたい場所”があるから行きます」
ミアの唇が震える。
「……戻ってきたら、ちゃんと怒らせてください」
レオンの声は、さっきより少しだけ強くなっていた。
「“怖かった”“何回も逃げたくなった”“途中で泣いた”って、全部言うから。
そのとき、笑わずに怒ってくれますか」
「怒ります」
ミアは即答した。
「世界のためだからって顔して、危ないことした分、ちゃんと怒ります。
でも、戻ってきたって分かったら、ちょっとだけ安心します」
声が、少しだけ震えた。
「……だから、戻ってきてください」
玄関の敷居の上で、二人の距離は、ほんの数歩。
でも、この数歩は、世界のどんな距離よりも重い。
「約束破ったら、許しません」
「はい」
レオンは、苦笑しながらも頷いた。
「世界一の勇者にはなれないかもしれませんけど。
“ここで怒られに戻ってくる男”にはなります」
村人たちから、わっと拍手が湧いた。
「よう言うた!」「戻ってきたら畑手伝わせたるけえの!」「まずはミアに怒られてからじゃ!」
村長は、腕を組んだままじっと二人を見ていた。
その横で、俺はノートを開き、震える手で一行を書き込む。
・玄関で怒りに来た日。
レオン、「怖い」と言ってから旅立つと約束。
視界の端で、ミニルナがホログラムを広げる。
【ミア行動ログ:+1】
【レオン“帰還宣言”ログ:新規追加】
【代償テンプレ適用傾向:大幅低下 → ほぼ無効】
【ワールドコア評価:この世界は“続きが読みたい物語”候補】
「見ました?」
ミニルナが、小声でささやく。
「代償テンプレさん、この案件から実質撤退です〜。
“誰か一人を代償にすればいいじゃん”っていう構造、そのままだともう通りません〜」
「そりゃそうだろ」
俺は、玄関の二人を見ながら答える。
(この玄関のページ一枚だけで、お前の安易な犠牲エンドより、何倍も世界を支えてるんだよ)
心の中で、代償テンプレに中指を立てる。
レオンは、最後にもう一度だけミアを見た。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
ミアの返事は、小さくて、それでも世界で一番まっすぐだった。
レオンは、木剣を肩に担ぎ、村の外へ歩き出す。
ミアは、玄関の敷居のところで、その背中を見送り続けた。
窓辺からじゃなく、玄関から。
“世界のための勇者”じゃなく、“ここに戻ってくるレオン”として。
――世界一こわい散歩と、世界一こわい旅の、それぞれの一ページが、同じ玄関から始まった。




