第6話 世界一こわい散歩、前夜
レオンの出立前日、村長バーンズの家は、いつもより少しだけ騒がしかった。
一階では、祖母が保存食の確認をし、村人が差し入れを持ってきては、
「これは道中で食べる分」「これは戻ってきてからの分」と勝手に仕分けしている。
――そして二階の一番奥の部屋では、ミアが布団の上で膝を抱えていた。
「……もし、明日、玄関まで行けなかったらどうしよう」
ぽつり、と落ちた声は、窓ガラスにも届かないくらい小さい。
傍らの椅子に座っていた俺は、ノートを閉じて膝の上に置いた。
「“どうしよう”って?」
「レオン、きっと玄関で待ってると思うから」
ミアは、ぎゅっと膝を抱きしめる。
「ちゃんと“いってらっしゃい”って言いたい。
世界のためとかじゃなくて、私のために戻ってきてって怒りたい。
――でも、途中で苦しくなって、倒れちゃったらって考えると」
言葉を区切るたび、肩が少しずつ縮こまっていく。
「前に、一回そうなったから。
玄関の途中で倒れて、おじいちゃんとおばあちゃんにすごく心配かけて……」
「それで、“玄関まで行く=迷惑かけるかもしれない”ってなったわけですね」
「うん」
ミアは、申し訳なさそうに笑った。
「明日、行けたらいいなって思うけど。
行けなかったら、“やっぱりいなくてもいい子なんだな”って、レオンに思われないかなって」
「それは、まずないと思いますけど」
「え?」
「いなくてもいい子だったら、たぶんレオン君はあんなに振り返らないですよ」
窓の外では、村の子どもたちが今日も木の枝を振り回している。
その真似をして剣を振る少年の姿を、ミアはずっと見てきた。
「でも、そう思っちゃうんです」
ミアの指先が、毛布の端をきゅっとつまむ。
「明日、ちゃんと玄関まで行ける自信がなくて。
行けなかったら、全部ダメになるみたいで、こわくて」
――ああ、これは。
視界の端で、ミニルナがちょこんと現れる。
「“ラストステージ一発クリアできないとゲームオーバー”みたいに思っちゃうやつですね〜」
うるさいが、説明としては正しい。
「じゃあ」
俺は、ノートを指先でとんとん叩いた。
「考え方を、ちょっとだけ変えてみません?」
「考え方?」
「はい。
明日って、“玄関クリアの日”じゃなくて――」
ミアが不安そうに見上げる。
「“今日のミアから、明日のミアにバトン渡す日”なんだって思ったほうが、いいかもしれません」
「……バトン?」
「リレーのバトンです」
ノートを開き、今までのページをぱらぱらめくる。
「ほら、一日目、“立った日”。
二日目、“部屋の中を歩いた日”。
三日目、“扉に触った日”。
四日目、“廊下一歩の日”。」
どの行にも、ちっちゃく日付と「今日はここまで」が書いてある。
「今までもずっと、“昨日のミア”から“今日のミア”にバトン渡してきたわけです」
「……」
「だから明日も、“玄関コンプリートしなきゃダメ”じゃなくて、
“今日のミアが持ってるところまで、明日のミアにバトン渡せたらクリア”で良くないですか?」
「バトン……」
ミアは、小さく復唱した。
「そこまで行けたら、その先は“明日のミアの仕事”で。
途中で止まっても、“止まったところまでバトンを運んだ日”って、ちゃんとページになるので」
「そんなふうに考えて、いいのかな」
「いいんです。というか――」
笑いながら肩をすくめる。
「俺はそういう物語のほうが、読んでて好きです」
玄関フラグ一発クリアのスーパー少女より、
途中で怖くなったり、立ち止まったりしながら一歩ずつ進む子のほうが、よっぽど応援したくなる。
「……じゃあ」
ミアは、少しだけ顔を上げた。
「今日のバトン、どこまで運べばいいですか?」
「そう来ましたか」
俺は立ち上がり、扉のほうを振り向く。
「今日は、“階段の一段目”までにしましょう」
「か、階段……」
ミアの表情が、一気に強張る。
「玄関へ行くには、いずれ通らなきゃいけない場所ですから。
でも一気に下りなくていい。今日は“一段目に触るところまで”」
「一段目……」
ミアは、ぎゅっと毛布を握りしめた。
「前、あそこで転んだんです。
足がふらついて、頭を打ちそうになって、おじいちゃんが間に合って」
「その記憶があるから、なおさら怖いわけですね」
「うん」
それでも――、とミアは続ける。
「でも、明日、玄関まで行きたいって思ってるのも本当だから。
……行ってみたいです。階段の一段目」
「了解です。じゃあ、“今日のミアのクエスト”決まりました」
ミニルナが、視界の端でパチパチと手を叩く。
「クエスト登録入りました〜。“階段一段目にタッチ”です〜!」
「うるさいから静かにしてて」
「は〜い」
ミニルナが、口の前に指を当ててしゅんとなる。
見えているのは俺だけだから、ミアにはただ俺が空中と会話している怪しい人に見えている……はずだが、もう慣れてきたのか突っ込まれなかった。
◇
ミアは、ゆっくりベッドから足を下ろした。
立ち上がるのは、もうほとんど問題ない。
部屋の中も、数日前よりずっとスムーズに歩ける。
扉まで。
扉を開けて、廊下へ一歩。
ここまでは、昨日まで積み上げてきた“バトン”の範囲だ。
問題は、その先。
廊下の先に、階段がある。
階段の一段目は、すぐそこだ。
手すりの木の色が、部屋のそれとは少し違う。
段差の影だけ、妙に濃く見える。
「……」
ミアの足が、ぴたりと止まった。
喉が、ひゅっと鳴る。
足の裏が、じわりと汗ばむ。
「前は、ここで足を滑らせたんです」
かすかな声。
「怖かった?」
「――怖かったです」
少し間をおいてから、はっきりと言った。
祖母が後ろでそっと見守っている。
俺は、すぐ横で、手を伸ばせる距離にいる。
「今も、こわいです」
それでも。
ミアは、自分の胸元あたりをぎゅっと握りしめた。
「でも、“前の私”は、ここまで来られなかったから」
「……」
「今の私は、“ここまで来た私”だから」
その言葉に、俺も思わず息を呑む。
ミアは、一度だけ目をぎゅっと閉じてから、足を前に出した。
コトン、と一段目に足が乗る。
それだけの音なのに、世界中の鐘が鳴ったように聞こえた。
「……乗った」
ミアが、自分で確認するようにつぶやく。
「はい。乗ってます」
階段の一段目。
見た目はただの板だが、今のミアにとっては、玄関への扉みたいなものだ。
「ここから先は、明日のミアに任せましょうか」
俺がそう言うと、ミアはきょとんとした。
「え?」
「クエスト達成です。“階段一段目にタッチ”。
……ここで引き返せば、“一段目までの散歩の日”ってページになります」
「でも、玄関まで行ってみたいです」
「“明日”のミアが、ですね」
ゆっくりと言う。
「今日のミアは、今日の分のバトン、ちゃんと運びましたから。
この先は、“明日のミアの仕事”に残しておいてあげてください」
「残して……」
「全部今日やっちゃったら、明日のミアの出番なくなっちゃうでしょう?」
ミニルナが、こっそり親指を立てる。
「“明日の自分の出番を残す”って考え方、ワールドコアさんも大好きですよ〜」
「黙ってろ」
ミアは、少しだけ考えてから、ふっと笑った。
「……そうですね」
ほんの少し、肩の力が抜ける。
「明日のミアのために、残しておきます。
玄関までの道、全部じゃなくてもいいから」
「十分です」
俺は、そっと階段の一段目の脇にしゃがんだ。
「じゃあ、“今日のここまで”って決めて、戻りましょうか」
「うん」
ミアは、名残惜しそうに一度だけ玄関のほうを見てから、くるりと身を翻した。
階段から廊下へ。
廊下から部屋へ。
ベッドへ戻るまでの足取りは、行きよりも少し軽い。
祖母が、「よう頑張ったのう」と頭を撫でた。
「世界一こわい散歩の、前夜じゃな」
「……もう、おじいちゃんのそれ、口癖になってる」
階段下から聞こえてきた村長の声に、ミアが苦笑する。
視界の端で、ミニルナが小さなウィンドウを開いた。
【ミア行動ログ:+1】
【“階段一段目”ログ:追加】
【代償テンプレ適用傾向:わずかに低下】
「はい、“階段”まわりもちゃんとページになりました〜」
「実況しなくていい」
◇
そのころ、一階の囲炉裏端では、レオンが緊張した顔で茶を啜っていた。
「……あの、村長」
「なんじゃ」
「ミア、明日……玄関まで、来ると思いますか」
レオンの視線は、天井の向こう――二階のほうに向いている。
「分からん」
村長は、あっさりと首を振った。
「体調のこともあるし、心の具合もある。
“来たい”と思う気持ちと、“こわい”と思う気持ちと、両方あるじゃろ」
「……ですよね」
「わしにも分からんのじゃ。
ミア自身にも、たぶんまだ分かっとらん」
レオンは、拳を膝の上で握りしめる。
「でも、もし来てくれたら……」
途中まで言って、言葉が詰まった。
村長は、しばらく黙って茶を啜っていたが、やがてゆっくり口を開いた。
「ミアが玄関まで来るかどうかは、明日のミアが決めることじゃ」
「……はい」
「お前が今日決めてええのは、一つだけじゃ」
レオンが顔を上げる。
「“来ても来なくても、玄関で待っとるかどうか”だけじゃ」
その言葉に、レオンの目が見開かれる。
「ミアが来んかったからと言うて、拗ねて外出とったら話にならんじゃろ。
“こわくて来られなんだ日”かもしれんのじゃ」
「それは……」
「お前はお前で、世界一こわい旅に出る。
ミアはミアで、世界一こわい散歩をしとる。
どっちもこわいんじゃから、途中で止まる日もある」
村長は、火のはぜる音を聞きながら続ける。
「来たら、“よく来たな”と言う。
来なんだら、“また今度でええ”と言えるように、玄関で待っとれ」
「……」
「それができん勇者は、世界をどうこうする前に、うちの敷居くぐらせん」
レオンは、しばらく唇を噛んでいた。
やがて、静かに頷く。
「――明日、玄関で待ってます」
拳を握る手に、少しだけ力が戻っていた。
「ミアが来ても来なくても、“ここにいた”って言えるように」
「それでええ」
村長は、満足そうに笑った。
「戻ってきたときにも、同じ顔でそこに立てるようにな」
「……戻ってきたとき、ですか」
「当たり前じゃ。
戻ってきて、“怖かった”ってミアに言うんじゃろ。
怒られるのも込みで」
レオンの頬が赤くなる。
「誰がそんなこと……」
「ミアが言うとった」
「ミアが!?」
囲炉裏の炎が、ぱちぱちと弾ける。
「楽しみじゃのう、“世界一の説教タイム”」
「それ、全然楽しみじゃない!」
レオンの抗議に、村長は声を立てて笑った。
その笑い声は、床板を通して二階にも届く。
ベッドの上で目を閉じていたミアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
――今日のミアは、階段一段目までのバトンを運んだ。
明日のミアが、玄関まで行けるかどうかは、明日になってみないと分からない。
それでも。
世界一こわい散歩の前夜としては、悪くないページだった。




