第5話 世界一こわい一歩と、途中のページ
一日目。
「……よし。今日は、“立つ”ところまででいいですからね」
ミアの部屋。
窓からは、村の広場が小さく見える。
ベッドの縁に手をつきながら、ミアがこくりと頷いた。
「うん……」
祖母が反対側からそっと支える。
俺は、すぐ手が出せる距離で見守りつつ、ノートを膝に広げた。
「じゃあ、いきます」
ミアは毛布をどけ、ゆっくりと足を床に下ろす。
白くて細い足の裏が、板張りの冷たさに触れる。
それだけで、少し息が詰まる。
「……っ」
「ゆっくりでいいですよ。今日は“立ったら勝ち”ですから」
「“歩く”じゃなくて?」
「はい。“立つ”クリアで本日のミッション完了です」
ゲーム風に言うと、ちょっとだけ顔が緩んだ。
ミアはベッドの端を握りしめ、上体を持ち上げる。
膝が震える。祖母の手が、背中をそっと支える。
「……!」
ふらつきながらも、足に体重が乗った。
数秒。
十秒。
それ以上。
「立ってる」
ミアが、自分で小さくつぶやく。
「はい、立ってます」
俺も、ちゃんと宣言する。
「“今日はここまででええ”ですよ」
祖母が、いつもの口調で言う。
「むりして倒れたら、そのあとが続かん。今日は“立てた日”として終わらせよ」
「……うん」
ミアは、少し名残惜しそうにしながらも、素直にベッドに腰を下ろした。
俺はノートに、一行書き込む。
・一日目:ベッドから立つ。
地味だ。
でも、この一行がなかったら、二行目は永遠に来ない。
視界の端で、ミニルナがぴょこんと顔を出した。
「ヒロイン“起立ログ”入りました〜。
代償テンプレさん、ちょっとだけ顔しかめてますね〜」
「いいから黙って見てろ」
「は〜い、静かにニヤニヤしてます〜」
返事は軽いが、ウィンドウの端で小さく数値が動くのが見えた。
【ミア行動ログ:+1】
【代償テンプレ適用傾向:ごくわずかに低下】
◇
二日目。
「今日は、部屋の中、一周してみましょうか」
「い、一周……」
ミアが、目を丸くする。
「無理そうなら半周でもいいです。四分の一周でも」
「じゃあ……四分の一周からで……」
「了解しました。では本日のクエスト、“四分の一周チャレンジ”で」
祖母がくすっと笑う。
「マサト殿は、何でも遊びみたいに言うのう」
「遊びっぽくしないと、怖さのほうが勝っちゃいますからね」
ミアは、昨日より少しスムーズに立ち上がった。
ベッド→窓辺→本棚。
たったそれだけの距離が、今の彼女には“冒険”だ。
途中で一度、息が上がる。
「……ごめんなさい。ちょっと、くらくらして」
「“途中でこわいって言う日があってもええ”って、村長さんがさっき言ってました」
俺は、聞いたばかりの台詞をそのまま返した。
「“途中でこわいって言えるほうが、長生きする”って」
「おじいちゃん、そんなこと言ってたの?」
「言ってたよ。“途中でこわいって言うのは、途中までちゃんと来た証拠じゃ”って」
祖母が笑いながら補足する。
「だから、今日はここまででええ」
部屋の半分も行ってないかもしれない。
でも、“ベッドから出て歩いた日”と、“部屋の中を見ながら歩いた日”はちゃんと違うページだ。
ノートの二行目。
・二日目:部屋の中を少し歩く。“途中でこわい”って言えた。
「途中までのページほど、読んでておもろいんじゃ」
階下から、村長の声が聞こえてきた。
「本もそうじゃろ。最初のページと最後のページしか読まん本なんぞ、面白くもなんともないわい」
「……おじいちゃん」
ミアが、小さく笑う。
「ね、いいこと言いますよね〜おじいちゃん〜」
ミニルナが、枕元の上空でコクコク頷く。
「“途中までのログ”が増えるたびに、ワールドコアさんのほうも“この世界、ちゃんと続いてるな”って認識してくれるんですよ〜」
「後でその説明、ちゃんとやりますかね。俺の脳のメモリ的にも」
「は〜い、“難しい話はあとでまとめます枠”ですね!」
◇
三日目。
「今日は、扉まで行ってみます?」
廊下につながる、その扉。
ミアは、しばらくじっと見つめていた。
「……うん。行ってみる」
立ち上がる動きは、だいぶスムーズになってきた。
ベッドから一歩。
机の横を通り抜ける。
本棚の角に軽く手を添えて、呼吸を整える。
扉まで、あと二歩。
「……っ」
そこで足が止まった。
「怖いですか?」
「こ、怖いです」
正直に言ったぶん、頬が少し赤くなる。
「前に、あの扉を開けて、玄関まで行こうとして……途中で倒れて。
おばあちゃんとおじいちゃんに、すごく心配かけちゃって」
「……」
「だから、“扉を開ける=迷惑かける”みたいな感じが、まだちょっと」
そう言いながらも、足は扉のほうを向いている。
「今日は、“触る”だけでもいいですよ」
「触るだけ」
「はい。開けるのは、また別の日にしましょう」
ミアは、深呼吸を一つして、そっと手を伸ばした。
扉の表面に、指先が触れる。
木の感触。ひんやりしたノブ。
ただ、それだけ。
「……触った」
「はい、触りました」
祖母が、後ろからそっと抱きしめる。
「よう頑張ったのう。ほれ、今日はここまででええ」
「うん……」
ミアの目が、少しだけ潤んでいた。
俺は、その指先の震えごと、ノートに書き残す。
・三日目:扉に触れる。前と違う“扉までの距離”を歩けた。
「ね、“途中までのページ”がどんどん増えてますよ〜」
ミニルナが、視界の端でウィンドウを開く。
【ミア行動ログ:+1】
【“扉”関連ログ:新規追加】
【削除ルーチン判定:一時保留 → 様子見】
「ほら、“様子見”に変わりましたよ〜。
“この世界、途中まではちゃんと進んでるな”って」
「世界の整理係、結構慎重なんですね」
「そうなんですよ。
“途中がスカスカで、エンディングだけ代償テンプレで締めてる世界”は、
わりと容赦なく削るんですけど」
「お前、今まで何見てきたんだよ」
「いっぱいです〜。いっぱいボツにしました〜」
「ボツ重ね女神」の軽い告白は、とりあえず聞き流す。
◇
四日目。
「……廊下、一歩、行ってみるかのう」
階段下から村長の声がした。
「そんな急に……」
祖母が少しだけ眉をひそめる。
「急には言っとらん。ミアが、“外の風、もうちょっと近くで感じたい”言うとったからじゃ」
ミアが、ぱっとこちらを見る。
「おじいちゃん、それ……」
「聞こえとったぞ。窓辺でぶつぶつ言うとったの」
にやにや笑う村長に、ミアの耳まで赤くなる。
「……い、言ってたかも」
「なら、今日はそこに一行、書き足す日じゃ」
村長は、真顔になる。
「行けたら、“廊下一歩”って残る。
行けなんだら、“廊下の手前でこわくなった日”って残る。
どっちにしても、途中のページじゃ」
「途中のページ好きすぎません? おじいちゃん」
「よう分かっとる」
祖母が苦笑する。
「……行ってみたいです」
ミアが、小さく、だけどはっきりと言った。
部屋の中は、もう慣れた足取りだ。
扉の前で一度深呼吸して、ゆっくり扉を開ける。
廊下の空気が、ふわりと流れ込んでくる。
ほんの少し、冷たい。
でも、それは「外とつながっている」という証拠でもある。
「……」
一歩。
それだけで、足が震えた。
床板が、部屋と違う音を立てる。
階段のきしむ気配、外の風の音が、少しだけ近くなる。
「ミア」
祖母の声。
「途中でこわくなってもええんじゃからな」
「うん」
もう一度、深呼吸。
「……こわい」
でも、そのまま、足を前に出した。
廊下に、一歩。
それだけで、世界の色が少し変わったように感じた。
「おお」
階段下から、村長の声がする。
「世界一こわい散歩の、第一歩じゃな」
「……世界一は大げさだよ、おじいちゃん」
ミアが、少し笑う。
「大げさなくらいでちょうどええ。
わしから見たら、世界一こわい一歩じゃ」
俺はノートを開き、今日のページに書き足す。
・四日目:廊下一歩。世界一こわい散歩の第一歩。
ミニルナが、頭上でくるくる回りながらウィンドウを広げた。
【ミア行動ログ:+1】
【“玄関までのルート”ログ:生成開始】
【代償テンプレ適用傾向:さらに微減】
「はい、“玄関までのルート”っていう線が、ワールドコアさんの中で光り始めました〜」
「まだ玄関まで行ってないんですけどね」
「“そこに向かおうとしたログ”だけでも、線はできるんですよ〜。
“途中までのログ”がちゃんとある世界は、削除ルーチンさんも簡単には消しづらいんです」
「つまり、“途中のページ”は、本当に世界の骨なんですね」
「そういうことです!」
◇
その日の夜。
「レオンの出発、いつなんじゃ?」
囲炉裏端で茶を啜りながら、村長がぽつりと言った。
「王都の使いの話じゃと、“あと一週間前後”言うておったな」
祖母が答える。
「首都の事情もあるんじゃろうが……そんな悠長なこと言うとる場合かいな」
「おじいちゃん、こわい顔してる」
ミアが笑う。
「こわいに決まっとるじゃろ。
ミアが玄関まで行くんは、世界一こわい散歩じゃ。
レオンが外に出ていくんも、世界一こわい旅じゃ」
「……そうだね」
「どっちもこわいんじゃから、途中で立ち止まる日もある。
それでも、一歩ずつ進んどるなら、わしはそれでええ」
村長はそう言って、茶碗を置いた。
「マサト殿」
「はい」
「記録局様のノートにも、ちゃんと書いといてくれ」
真剣な顔で、こちらを見る。
「“こわい日も、途中のページとして残す価値がある”ってな」
ああ、このじいさん、やっぱり分かってる。
「もちろんです」
ノートの片隅に、そっと書き込む。
・“こわい日”も、ちゃんとページになる。
視界の隅で、ミニルナが満足そうにうなずいた。
「これで、“ミアはいなくてもいい子”なんて、
ワールドコアさんも言いづらくなってきましたね〜」
「言わせないように、こっちもページを増やしていこうな」
心の中でそうつぶやきながら、俺はペンを置いた。
――レオンの出立まで、あと数日。
玄関までの残りの距離と、ワールドコアのカウントダウン。
両方の数字を意識しながら、
この世界の「途中のページ」は、静かに、しかし確実に増えていった。




