第14話 警告と、新しい同居人
プシュウゥゥゥ……ッ!!
輪廻庁ストーリー課の最奥、何重もの物理的・システム的プロテクトによって守られた『特殊ダイブルーム』。
その薄暗い空間の中央に鎮座する、卵型の巨大なダイブポッドのハッチが、分厚い冷却ガスをけたたましく吐き出しながら、ゆっくりと上部へとスライドしていった。
「ハァッ……、ハァッ……、がっ……!」
ポッドの内部から、頭部や四肢に接続されていた神経接続用デバイスのケーブルを乱暴に引き千切りながら、三城が上体を起こした。
現実世界のローカルサーバー内に構築された彼らのアバター肉体に、物理的な欠損はない。廃棄領域(ゴミ箱)の最底辺で特大の清掃ルーチンのブレードを受け止めて失われた左腕も、脱出ゲートへ飛び込む直前に漆黒の刃に掠め取られた背中の深い傷も、すべてはダイブ先における精神データ上の致命的なダメージに過ぎない。
だが、その脳髄に深く刻み込まれた、生身を削り取られるような強烈な激痛の記憶と、極限の極限まで精神力をすり減らした凄まじい疲労感は、確実に三城の存在そのものを蝕んでいた。
額からは脂汗が滝のように流れ落ち、呼吸は真っ赤に焼けた鉄の塊を無理やり飲み込んだように浅く、そして熱い。ポッドの縁を掴む彼の手は、小刻みに痙攣していた。
「……三城!」
「三城さん!」
コンソールにかじりついて、彼のバイタルデータを死に物狂いで監視していた白石とセラが、弾かれたように椅子を蹴立てて駆け寄ってきた。
ホログラムモニターから実体化モジュールを解除したナビゲーターのルナも、涙目でポッドの縁にすがりつくようにして彼を見上げる。
「生きて……生きて帰ってきたんですね、この大バカ野郎っ……!」
ルナが三城のコートの胸ぐらを掴み、ポロポロと涙をこぼしながら泣きじゃくる。
「うるせえよ。……誰がバカだ。最高にカッコいいハッピーエンドのプロットを持って帰ってきた、一流のヒーローだろうが」
三城は割れるような激しい頭痛に顔をしかめながらも、いつものように口角を吊り上げて憎まれ口を叩いてみせた。
「まったく……。中枢システムのカーネル領域に直接ハッキングを仕掛けて設定を強制的に書き換えるなど、前代未聞の暴挙ですよ。あなたの精神データが完全にパンクしなかったのは、単なる悪運としか言いようがありません」
白石は神経質そうに眼鏡のブリッジを押し上げ、相変わらずの氷のように冷ややかな口調で小言を並べた。だが、その声は微かに、しかし確かに震えており、彼がどれほどの緊張と焦燥の中で三城の無茶をサポートしていたかが痛いほどに伝わってきた。
「悪運じゃねえさ。お前らが最高のタイミングで防壁を張って、中枢の冷徹な目を逸らしてくれたおかげだ。……サンキューな、白石、セラ、ルナ。最高のサポートだったぜ」
三城が珍しく素直に礼を言うと、白石は気まずそうにふいっと視線を逸らし、セラは「三城さんがそんなに素直だと、逆に明日世界が終わるんじゃないかって怖いです……」と鼻を盛大にすすりながら泣き笑いした。
「それで、三城さん……! 彼女は……!?」
セラが、期待と不安の入り混じった瞳で、ダイブルームの隅に設置された『外部データ受信用コンソール』を見つめた。
三城が廃棄領域という絶対の虚無から連れ帰ったエラーデータ――シオリ。彼女は三城の精神データと共に光のトンネルを抜け、ストーリー課の管轄下にあるローカルサーバーへと直接ダウンロードされる手はずになっていた。
「ああ。俺が『特例観測モジュール』として設定を上書きして、強引に正規データに見せかけたからな。システムには弾かれずに、こっちの領域に届いてるはずだ」
三城がポッドから這い出し、よろける足取りで受信用コンソールへと向かう。
ピピッ、と。
軽快な電子音が鳴り、受信用コンソールの上に設置された円筒形のカプセルが、淡い青色の光を放ち始めた。
内部で無数の光の粒子が渦を巻き、徐々に一つの「形」を成していく。
それは、意味を成さない白紙のデータではない。エラーを示す砂嵐のノイズでもない。
確かな質量と、色彩を持った、一人の人間の姿として。
プシュッ、と軽い音を立ててカプセルが開いた。
そこから恐る恐る、まるで初めて大地を踏みしめるかのように足を踏み出したのは――。
「……ここが、三城さんたちの……」
透き通るような白い肌。光の加減で柔らかく、温かく輝く栗色の髪。そして、深い海のように澄み切った青い瞳を持った、十代半ばほどの可憐な少女だった。
彼女の身体からは、廃棄領域で彼女の存在を頭ごなしに否定し続けていた、あの痛々しい砂嵐のノイズは完全に消え去っていた。足元の床を踏みしめるその靴の音も、しっかりと現実の質量を持っていることを証明している。
「シオリ……ちゃん?」
セラが、信じられないものを見るように一歩前に出た。
これまでモニター越しに、色彩を持たないノイズまみれの姿しか見たことがなかった彼女が、今、息を呑むほどに美しい「生きた少女」として目の前に立っているのだ。
「あ、あの……」
シオリは、自分の手をギュッと胸の前で握りしめ、ひどく緊張した様子でセラたちを見回した。
「初めまして……でいいんでしょうか。私は……シオリと言います。ずっと、真っ暗なゴミ箱の底から、皆さんが命懸けで作る物語を……見上げさせてもらっていました」
シオリの声は、もう割れたスピーカーのような機械音ではなかった。鈴を転がすような、透明感のある温かい声がダイブルームに響き渡った。
「シオリちゃん……っ!」
セラがたまらず駆け寄り、シオリの小さな身体を力強く抱きしめた。
「わぁっ!?」
「よかった……! 本当によかった……っ! ずっと一人で、あんな冷たいところで、私たちの物語を……私たちのヒロインたちを心配してくれてたんだよね……!」
セラは大粒の涙をこぼしながら、シオリの背中を何度も何度も撫でた。
「せ、セラさん……苦しい、です……」
「あっ、ごめんなさい! つい嬉しくて!」
慌てて離れるセラに、シオリは驚きながらも、ふわりと花の咲くような柔らかい笑顔を見せた。
「ううん……温かいです。誰かに触れてもらえるなんて……すごく、温かい」
シオリのその純粋な言葉に、白石も小さく息を吐き、目元を片手で覆った。
「まったく……。これだけ無茶苦茶な設定の書き換えを行って、データに一切の欠損がないとは。あなたの『読者』としての魂の強靭さには、感服するしかありませんね」
「白石さん……。あの、私が逃げるための壁を作ってくださって、本当にありがとうございました」
シオリが深く頭を下げる。
「私に感謝など不要です。私はただ、三城のバカげた尻拭いをしただけですから。……ようこそ、輪廻庁の掃き溜め、ストーリー課へ」
「はいっ!」
シオリは、心の底から嬉しそうに頷いた。
「ほら、感動の対面は後にして、とりあえずオフィスに戻ろうぜ。俺はもう限界だ。泥水みたいに甘いコーヒーがないと、マジで死ぬ」
三城が壁に寄りかかりながら、大げさに肩で息をして見せた。
「あ、そうでした! 私、とびきり甘いやつ淹れてきます! シオリちゃんも、コーヒー飲める? それともココアがいいかな?」
「あ、えっと……じゃあ、ココアでお願いします」
和やかな空気に包まれながら、一行はダイブルームを後にし、いつものストーリー課のオフィスへと戻った。
窓のない広大なフロアには、相変わらず「異世界転生」や「追放もの」といった安易なテンプレ企画書の束が、山脈のようにうず高く積まれている。
点滅する無数のモニターからは、現在彼らが管轄している数万にも及ぶ世界から、膨大なデータがリアルタイムで流れ込み続けていた。
「ここが、すべての物語が管理されている場所なんですね……」
シオリは、目を輝かせながらオフィスの景色を見渡した。
彼女にとっては、ずっと暗闇の中から見上げていた星空の、その星々を生み出している「天界の工房」に足を踏み入れたようなものだ。
「まあ、現実は星を作るロマンチックな工房ってより、クソみたいなテンプレの粗製濫造と戦う、血で血を洗う戦場だけどな」
三城は自分のデスクにどかっと腰を下ろし、セラが運んできたマグカップを受け取った。
中身は、致死量に近い砂糖とミルクが投入された、ひどく甘いコーヒーだ。それを一気に喉に流し込み、三城は深く、長いため息を吐き出した。
疲労の限界を迎えていた精神データに、糖分という名の疑似的な回復パッチが当たっていくのを感じる。
「はい、シオリちゃんには特製のマシュマロ入りココアね!」
「ありがとうございます、セラさん」
シオリは両手でマグカップを受け取り、フーフーと息を吹きかけてから、恐る恐る一口飲んだ。
「……美味しい」
彼女の顔が、途端にパァッと明るく輝いた。
「甘くて、温かくて……。味覚のデータが、こんなにはっきりと感じられるなんて……」
廃棄領域という、色も味も、温度すらもない虚無の世界で、長い間たった一人で過ごしてきた彼女にとって。その一杯のココアは、自分が確かに「生きている」という何よりの証明だった。
「これからお前は、俺たちの『特例観測モジュール』として、このオフィスで俺たちの創る物語を特等席で読めばいい」
三城が、マグカップを片手にシオリに向けてニヤリと笑った。
「俺たちがどんなクソプロットをボツにして、どんな最高のエンドを書き上げているか。一番近くで、その厳しい『読者』の目で監視してくれ」
「はい! 私、一生懸命、皆さんの物語を読ませていただきます!」
シオリは力強く頷いた。
彼女の胸元には、廃棄領域から持ってきた『プロト勇者・アルスの聖剣の柄』が、チェーンでネックレスのように下げられていた。彼女を守って散った名もなき勇者の意地は、今も彼女の心臓の一番近くで、共に生き続けているのだ。
「おや。ずいぶんと騒がしいと思ったら、随分と可愛らしい珍客が来ているじゃないか」
ふと、オフィスの奥のドアが開き、飄々とした声と共に一人の女性が姿を現した。
ストーリー課一等審査官――黒瀬 天音だ。
「遅い出勤ですね。部下が命懸けでゴミ箱の底からエラーデータをサルベージしてきたというのに」
白石が皮肉たっぷりに眼鏡を光らせる。
「いやいや、中枢(上層部)への言い訳を考えるのに忙しくてね。お前たちが派手にシステムに穴を開けてくれたおかげで、私の端末には警告のメッセージが山のように届いているんだよ」
黒瀬は頭を掻きながら、三城のデスクの前までやって来た。
そして、ココアのマグカップを両手で持ったまま緊張して直立不動になっているシオリの前に立つと、その目元を少しだけ和らげた。
「あなたが、噂の『名前のない読者』さんだね」
「は、はい! シオリと申します! あの、勝手にお邪魔してしまって申し訳ありません……!」
「謝る必要はないよ。三城の奴が無理やり連れてきたんだろう? うちの審査官が、君の愛した物語を壊しかけてすまなかったね」
黒瀬は、シオリの頭を優しくポンと撫でた。
「ここは、非効率で、感情的で、システムから『不要』とされた物語たちが集まる掃き溜めだ。君のような熱心な読者がいてくれるなら、これほど心強いことはない。……ゆっくりしていきなさい」
「……黒瀬さん。ありがとうございます……っ」
シオリの瞳に、再び安堵の涙が浮かんだ。
「さて、三城。お前は少しは自分の命を大切にするんだな。お前が消えたら、この山のようなテンプレ企画書、誰がボツにするんだ」
黒瀬が呆れたようにため息をつく。
「誰が消えるかよ。俺は死ぬまで、読者に媚びない最高の物語を創り続けるって決めてるんでね」
三城が不敵に笑い返した、まさにその時だった。
――ビィィィィィィィィンッ!!!!
突然。
鼓膜を劈くような、心臓の鼓動を強制的に停止させるかのような、極めて不吉な警告音がオフィス全体に鳴り響いた。
「な、なんだ!?」
三城が弾かれたように立ち上がる。
和やかだったオフィスの空気が、一瞬にして絶対零度に凍りついた。
普段の白っぽい蛍光灯の光が、血のような毒々しい赤色へと強制的に切り替わる。
そして、オフィス内に設置された無数のモニター。
それらが一斉にブラックアウトしたかと思うと、次の瞬間、すべての画面に「同じ文字列」が、巨大な赤いフォントで叩き出されたのだ。
『三城さん! こ、これ……!』
コンソールを操作しようとしたルナが、恐怖に顔を引きつらせて絶叫した。
『メインシステムからのアクセス権限が、すべて……ストーリー課の権限が、すべて強制的にロックされています! 私、システムに触れません!』
「なんだと……!?」
白石が自分の端末のキーボードを激しく叩くが、画面には【アクセス拒否】の無慈悲な文字が羅列されるだけだ。
「完全に外部から遮断されています。これは、通常のバグやエラーではありません。ワールドコア中枢からの、直接的な物理封鎖です!」
「どういうことだ、白石!」
三城の問いに答えるように。
オフィスの正面に設置された、最も巨大なメインモニターに、冷徹で、感情の欠片もないシステムからの『通告』が表示された。
【警告:イレギュラー権限保持者・三城による、システム根幹への不正干渉を確認。】
【警告:存在しないはずのエラーデータ(案件No.0000関連)の不当な保護を確認。】
「……ちっ。やっぱり、あの強引な設定の書き換え、中枢には完全にバレてたか」
三城は奥歯を噛み締めた。
廃棄領域でシオリを救うため、彼は審査官の権限を大きく逸脱し、システムのルールそのものを書き換えるという禁忌を犯した。それが中枢システムに見逃されるほど、この世界は甘くはなかったのだ。
だが、モニターに表示された文字列は、それだけでは終わらなかった。
次に表示された一文は、三城たちの予想を遥かに超える、最悪の『結末』を突きつけるものだった。
【警告:以上の事象を以て、輪廻庁ストーリー課の著しい権限逸脱を確認。】
【当該部署は、システムの効率的維持において重大な脅威(エラー要因)と認定されました。】
【これより、輪廻庁ストーリー課の解体、および所属職員全員の『最終審判』へ移行します。】
「……なっ!?」
三城は絶句した。
セラが両手で口を覆い、シオリが恐怖で三城のコートの袖を強く握りしめる。
ストーリー課の解体。
そして、所属職員全員の完全消去。
「ふざけるな……!」
三城の口から、激しい怒りが爆発した。
「俺一人の責任ならともかく、ストーリー課全体を連帯責任でボツにするだと!? 非効率だから? システムに反逆したから? そんなふざけた理由で、俺たちの居場所を丸ごと消し去るつもりかよ!!」
中枢システム――『完璧なテンプレと絶対の効率』を司る絶対者は、ついにその冷酷な本性を完全に露わにした。
彼らは、三城やシオリという個人のエラーを修正する段階をとうに諦め、不完全な物語を愛し、キャラクターの命を救おうと足掻く「ストーリー課」という組織そのものを、『世界の維持に不要なバグの温床』として根こそぎ焼き払う決定を下したのだ。
【案件No.9999:完全自動テンプレ管理システムへの移行プロセスを開始。】
【不要な物語(ストーリー課)の消去まで、残り――】
モニターの端で、無機質なカウントダウンが静かに、しかし確実に時を刻み始める。
「三城さん……! 私のせいで……やっぱり私が来たから、皆さんの居場所まで……っ!」
シオリが泣き崩れそうになるのを、三城は力強く肩を抱き寄せて支えた。
「違う。これはお前のせいじゃない。俺たちが、あの中枢の気に食わない『最高の物語』を創り続けてきた証だ。システムが俺たちに恐れをなして、強制終了を仕掛けてきただけだ」
赤色灯が激しく回転し、けたたましいアラートが鳴り響く絶望的なオフィスの中で。
三城は、巨大なモニターに表示された冷徹な「ボツ宣告」を真っ向から睨みつけ、喉の奥で獰猛な獣のように笑った。
「上等だ。……俺たちの職場(居場所)を勝手にボツにして、自分たちに都合のいい自動テンプレシステムに変える? そんな胸糞悪いクソみたいなプロット、この俺が承認するわけねえだろうが」
三城は、ボロボロになった愛用のノートを内ポケットから引き抜き、黒インクのペンを強く握り直した。
「俺たちが今までどれだけのクソ企画をひっくり返してきたと思ってんだ。第1章のミアの物語の悲劇も、第4章の詩乃の物語の理不尽も、全部俺たちがぶち壊してきたんだぞ。相手が世界のシステムだろうが、創造主だろうが関係ねえ。……一番デカい『ボツ』のハンコを、中枢のど真ん中に叩き込んでやる!」
物語を愛する者たちと、効率を支配するシステムとの、存在を懸けた真の最終決戦。
すべての物語の根源たる『ワールドコア中枢』への反逆の狼煙が、今、絶望のサイレンと共に高らかに上がった。
ーーー第7章 完




