第12話 廃棄領域からの脱出ルート
「俺が、お前の物語を、最高のエンドに書き換えてやる……!」
その三城の宣言と共に、黄金に輝くノートのページに書き殴られた強引極まりない設定は、ワールドコア中枢の絶対的な効率論理に、見事なまでの「致命的な矛盾」を発生させていた。
『シオリはエラー要因ではなく、カタルシス係数を計測するための特例観測モジュールであり、一時的保護対象である』。
審査官の権限を強制剥奪された状態でありながら、自らの「物語への執念」と裏方コンビの決死のサポートによって成し遂げたシステム根幹への直接ハッキング。
その一文がねじ込まれた結果、彼らを包囲していた数百体もの『清掃ルーチン』たちは、まるで時間が停止したかのようにピタリと静止していた。
「……急げ、シオリ! 奴らが止まってる間が勝負だ!」
「はいっ……!」
灰色のポリゴンが剥き出しになり、空間圧縮の余波で所々が不自然にひび割れた暗い地下通路。
三城は、シオリの小さな手を右手でしっかりと握り直し、淡い青色の光を放つ脱出ゲートへ向かって全速力で駆け出した。
彼らの周囲には、先ほどまで圧倒的な殺意を持って迫ってきていた漆黒の怪物たちが、マネキンのように立ち尽くしている。通路を完全に塞ぐように立ち塞がっていた特大の清掃ルーチンに至っては、振り下ろした八本の巨大なブレードを空中でピクピクと痙攣させながら、赤い単眼を激しく明滅させていた。
『……エラー。論理的矛盾ガ発生。対象【シオリ】ハ、消去スベキカ、保護スベキカ……再計算。再計算』
無機質で重低音の合成音声が、壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返し、通路に不気味に響き渡る。
静止しているとはいえ、触れればデータごと白紙化されかねない漆黒の死神たちの隙間を縫って走る行為は、まさに死と隣り合わせの綱渡りだ。
それでも、シオリの足取りに迷いはなかった。
先ほどまで自らを「消去されるべきエラー」だと信じ込み、自壊のプログラムさえ起動させていた彼女の灰色の瞳には、今ははっきりとした色彩と、強い『生への意志』が宿っていた。
三城が、彼女を肯定してくれたからだ。
暗闇の中で他人の物語を覗き見るだけの名前のない読者だった彼女を、「俺たちの物語の一番の理解者だ」と、命懸けで認めてくれたからだ。
「ハァッ……、ハァッ……!」
三城の息が、焼けるように熱く、荒い。
ダイブしている彼の精神データそのものが、すでに深刻なダメージの限界点を超えていた。特大清掃ルーチンのブレードを左腕一本で受け止めた代償は大きく、左腕は肘から先が完全に光の粒子となって崩壊し、欠損している。残された二の腕の断面からは赤いエラーコードが血のようにボタボタと滴り落ちていた。
走るたびに、全身の骨が軋むような激痛が脳髄を駆け巡る。視界はノイズで赤く明滅し、気を抜けば今すぐにでも真っ白な虚無へと意識が溶けてしまいそうだった。
「三城さん、顔色が……! 私、走れますから、少しペースを……」
「バカ言え。ここでペースを落としたら、それこそ中枢のクソシステムの思う壺だ」
シオリの気遣うような声に、三城は苦痛を隠すように無理やり口角を吊り上げて笑った。
『……三城、強がるのも大概にしなさい。あなたのバイタルデータ、こちら側のモニターではほとんどレッドゾーンを振り切っていますよ』
ノイズまみれのインカムから、白石の氷のように冷たく、しかし隠しきれない焦燥が混じった声が響いた。
「白石か。安心しろ、まだ両足は動く。それより、あの偽装設定はいつまで保つ?」
『相手はワールドコア中枢の基幹システムです。あなたが書き込んだ「シオリは保護対象である」というイレギュラーなプロットに対し、奴らの莫大な演算能力を持つ自己修復プログラムが、すでに論理の矛盾を解析し、パッチを当て始めています』
白石は一拍置き、残酷な、しかし正確な予測を告げた。
『保ってあと三十秒……いえ、二十秒といったところでしょう。奴らがフリーズから立ち直り、新たな命令を受理すれば、その瞬間に追撃が再開されます』
「三十秒でゲートまで駆け抜ければいいんだろ。やってやるよ」
『三城さん! ゲートの座標が少しずつズレていってます!』
ナビゲーターであるルナの悲鳴に近い声が続く。
『中枢が廃棄領域の空間圧縮の出力を上げてきているんです! 足元のポリゴンがどんどん崩落して、ゲートそのものがシステムから切り離されようとしています!』
「マジかよ、あの陰湿AIども、どんだけ俺たちを消したいんだ……!」
三城が前方を見据えると、確かにルナの言う通りだった。
あと五十メートルほど先に浮いている淡い青色の脱出ゲート。しかし、そこへ至るまでの通路の床が、まるで古い吊り橋が崩れ落ちるように次々とひび割れ、真っ黒な奈落の底へと吸い込まれていくのが見えた。
道が、物理的に失われていく。
『私が空間の崩壊を遅らせます! 三城さん、足元に気をつけて、絶対に落ちないで!』
情報処理担当のセラの叫びと共に、崩れかけていた足元の灰色のポリゴンが、一瞬だけ緑色の光を帯びて空中に固定された。外部からの干渉で、強引に足場を維持してくれているのだ。
「セラ! 無理しすぎるなよ!」
『私のことはいいから、前だけ見てください!』
三城はシオリの手を強く引き、セラが維持してくれている浮島のようなポリゴンの残骸を次々と蹴り立てて、ゲートへ向かって跳躍する。
一歩、また一歩。
青い光が近づく。生還への希望が、手の届く距離まで迫ってくる。
あと二十メートル。
その時だった。
『……論理矛盾ノ解決ヲ確認。パッチデータの適用、完了』
背後から、これまでとは全く異なる、鼓膜を直接劈くような甲高い機械音が鳴り響いた。
三城が振り返ると、通路を塞いでいた特大の清掃ルーチン、そして周囲でフリーズしていた数百体の通常清掃ルーチンたちが、一斉にその活動を再開させていた。
だが、彼らの様子は先ほどまでとは明らかに違っていた。
無機質に発光していた「赤い単眼」が、一斉に、激しい殺意を帯びた「毒々しい紫色」へと変色していたのだ。
『対象データ【シオリ】ニ関シテハ、特例観測モジュールトシテ、一時的ナ保護対象トシテ認識ヲ更新』
特大清掃ルーチンの重低音が響く。
三城の書き込んだプロットは、確かにシステムに受諾された。シオリは「エラー」ではなくなり、清掃ルーチンたちから攻撃される理由はなくなったのだ。
しかし、ワールドコア中枢は、そこで引き下がるような甘い存在ではなかった。
『タダシ。システム根幹ヘノ直接的ナハッキングヲ行イ、不正ニ設定ヲ書キ換エタ反逆者【三城】ニツイテハ、システム最大ノ脅威トシテ認定』
紫色の単眼が、一斉に、ただ一点――三城だけをロックオンした。
『コレヨリ、反逆者・三城ヲ最優先ターゲットトシ、完全消去プロセスヲ再開シマス』
「……チッ。やっぱり、そう都合よく全員見逃してはくれないか」
三城は悪態をついた。
中枢の論理は冷酷で完璧だった。「シオリは保護する。だが、その設定を不正に書き込んだお前は絶対に殺す」。システムは、三城を「不慮の事故で殉職した審査官」として処理するシナリオを完全に破棄し、明確な「システムの反逆者」として、全力で排除にかかってきたのだ。
ズドォォォォォンッ!!
特大清掃ルーチンが、天井のポリゴンを砕きながら凄まじい跳躍を見せた。
狙いは三城の首ただ一つ。背中から生えた巨大な八本のブレードが、紫色の軌跡を描きながら、三城めがけて一斉に射出される。
さらに、数百体の通常清掃ルーチンたちも、崩れゆく壁や天井を四つん這いで這い回りながら、津波のように三城へと殺到してきた。
「三城さんっ!」
事態を察知したシオリが、三城の前に飛び出そうとした。
「私を盾にしてください! システムは私を保護対象として認識しています! 私が前に出れば、奴らは攻撃できないはずです!」
それは、極めて論理的で、正しい判断だった。
システムがシオリを保護対象と認識している以上、彼女を巻き込むような攻撃は計算上弾かれる。彼女自身を「物理的なファイアウォール」として使えば、三城は無傷でゲートまで辿り着ける可能性が高い。
だが。
「バカ野郎!!」
三城は、前に出ようとしたシオリの肩を強引に引き戻し、彼女を自らの背後へと庇った。
「三城さん!? どうして!」
「ふざけるな。お前を『盾』にして逃げ延びるなんて、そんな三流プロット、俺が一番ヘドが出るほど嫌いなんだよ!」
三城の怒号が響く。
「自分が助かるためにヒロインを矢面に立たせる主人公がどこにいる! 俺が……俺がお前の担当編集として、最高のハッピーエンドに連れてってやるって約束しただろうが!」
『三城、後ろ!』
白石の鋭い警告。
振り返る暇すらない。特大清掃ルーチンの放った巨大なブレードの一本が、三城の背中めがけて容赦なく突き刺さろうとしていた。
回避する足場はない。防ぐ手立てもない。
死を覚悟した三城が、シオリを庇うように強く抱きしめ、目を閉じた、その瞬間だった。
――バキィィィィィィンッ!!!!
三城の背後で、分厚いガラスが何十枚も同時に砕け散るような、凄まじい破砕音が響き渡った。
三城を両断しようとしていた巨大なブレードが、空中で「目に見えない強固な壁」に激突し、火花を散らして弾き返されたのだ。
「……え?」
三城が目を開けると、そこには、淡い緑色のコードで構成された、見慣れたハニカム構造の『ファイアウォール』が展開されていた。
だが、それは先ほど白石が展開したものとは規模が違った。三城とシオリを包み込むように、ドーム状に幾重にも重ねられた、執念の防御陣だった。
『……ハァッ、ハァッ……。言ったでしょう、三城。説教は生きて帰ってからいくらでもしてやると』
インカム越しに、白石の息も絶え絶えの、しかしどこか不敵な笑いを孕んだ声が聞こえた。
「白石!? お前、また中枢のシステムに直接……! そんな無茶したら、お前の精神データまで焼き切れるぞ!」
『気にしないでください。この程度の負荷、あなたが日頃持ち込んでくるクソみたいな企画書の処理に比べれば、どうということはありません』
強がりを言う白石の背後で、エラーを告げるアラートがけたたましく鳴り響いている。彼が自らの限界を超えて、中枢の攻撃プログラムに直接干渉し、三城を守るための防壁を強引に構築したのだ。
『三城さん! ゲート周辺の崩壊、完全に食い止めました! 道は繋がっています!』
セラの、泣き叫ぶような声が続く。
『もう、これ以上は私たちも保ちません……! だから、お願い! 絶対に、絶対に帰ってきて!!』
「……ああ、わかってる。お前らの命懸けのパス、絶対に無駄にはしねえ!」
三城は、白石の展開してくれたファイアウォールが、特大清掃ルーチンと無数の刺客たちの連撃によってメキメキと音を立ててひび割れていく中、残された力をすべて両足に込めた。
あと十メートル。
あと五メートル。
脱出ゲートが放つ青い光が、もう目の前まで迫っている。
ゲートの向こう側には、見慣れたストーリー課のオフィスの景色――無機質だが、彼らが命を懸けて守ってきた「物語の管理室」の光が見えていた。
『……防壁崩壊ヲ確認。対象・三城、完全消去ヲ実行』
背後で、白石のファイアウォールが完全に砕け散る音がした。
同時に、特大清掃ルーチンの巨大な八本のブレードが、今度こそ何の障害もない状態で、三城の背中へと振り下ろされる。
その速度は、三城たちがゲートへ飛び込むよりも明らかに速かった。
「三城さんッ!!」
シオリが悲鳴を上げる。
その刹那。
三城は、走る勢いを殺さずに、シオリの身体を力強く抱き寄せた。
「俺から、絶対に離れるな!!」
三城は、迫り来る巨大な刃を背中で感じながら、青く輝く脱出ゲートへ向かって、決死の跳躍を見せた。
ザシュッ……!!!
三城の背中を、漆黒の刃の先端が浅く掠めた。
それだけで、コートの背中部分のテクスチャが完全に白紙化し、三城の背中のデータがごっそりと削り取られる激痛が走る。
「がぁぁぁぁぁッ!!」
三城の口から絶叫が漏れる。
だが、その衝撃すらも推進力に変えて。
三城とシオリの身体は、完全に脱出ゲートの青い光の中へと吸い込まれていった。
『……ターゲット、システム領域外(ストーリー課管轄エリア)ヘト移行。追跡不能。……消去シーケンスヲ、一時凍結シマス』
ゲートに飛び込んだ瞬間、三城の耳に最後に届いたのは、特大清掃ルーチンの無機質なエラー音声だった。
直後、周囲の景色が爆発的に切り替わる。
空がひび割れ、ボツ原稿の雪が舞い、灰色のポリゴンが剥き出しになっていた『廃棄領域(ゴミ箱)』の絶望的な光景が、激しいノイズと共にぐにゃりと歪み、凄まじい速度で遠ざかっていく。
代わりに彼らを包み込んだのは、温かく、そして圧倒的な情報量を持つ『光のトンネル』だった。
それは、輪廻庁が管理する数多の世界を繋ぐ、データ転送用の正規ルート。
彼らはついに、物理法則の崩壊した虚無の底から、システムの監視下にある「生きた世界」のネットワークへと帰還を果たしたのだ。
「……ハァッ、ハァッ……」
光のトンネルの中を凄まじい速度で上昇しながら、三城は強く抱きしめていたシオリの身体を、少しだけ緩めた。
左腕は完全に感覚がなくなり、背中からはデータ欠損による耐え難い痛みが続いている。精神データはボロボロで、今にも意識が途切れそうだった。
だが、三城は、自らの腕の中で震える少女の顔を見て、ようやく心の底からの安堵の息を吐き出した。
「……なんとか、間に合ったな」
三城の言葉に、シオリはゆっくりと顔を上げた。
彼女の身体からは、もう自壊のノイズも、エラーを示す砂嵐も完全に消え去っていた。
透き通るような肌、温かみのある髪の色、そして、はっきりとした色彩を取り戻した瞳。
それは、システムによって「価値なし(ボツ)」として消去されかけた残骸ではなく、一人の「生きている」少女としての姿だった。
「三城、さん……」
シオリは、三城のボロボロになった背中と、失われた左腕を見て、再びポロポロと涙をこぼした。
「ごめんなさい……私のせいで、あなたがこんなに……」
「謝るなと言っただろうが。俺は審査官だ。面白い物語のためなら、これくらいの無茶は日常茶飯事だ」
三城は、痛みを堪えて不敵に笑ってみせた。
「それに、お前を連れて帰れなかったら、俺は一生、三流の自己犠牲テンプレを許してしまった自分を呪うことになってた。……だから、お前は俺を救ってくれたんだよ」
その言葉に、シオリの瞳から溢れる涙が、光のトンネルの中でキラキラと輝きながら舞い散った。
廃棄領域からの決死の脱出劇は、ここに完結した。
だが、彼らが飛び込んだ光の先で待っているのは、決して安息だけではないことを、三城はまだ知る由もなかった。
システムの中枢に明確な反逆の牙を剥いた彼らを待ち受ける、最大の試練へのカウントダウンは、すでに静かに始まっていたのだ。




