第10話 ボツ経験者の宣戦布告
――ガシィィィィィィンッ!!!!
無機質で灰色のポリゴンが剥き出しになった薄暗い地下通路に、鼓膜を破り、空間そのものを激しく震わせるほどの凄まじい激突音が反響した。
だが、それはシオリのデータが完全に粉砕され、世界の記録から永遠に抹消された音ではなかった。
「……え?」
死を覚悟し、自らをシステムへの生け贄として捧げるために静かに目を閉じていたシオリが、恐る恐る目を開ける。
彼女の頭上スレスレ、ほんの数センチの距離。シオリを完全に白紙化するためにギロチンのように振り下ろされた巨大な八本のブレードは、まるで目に見えない強固な鋼の壁に衝突したかのように、完全に停止していた。
いや、見えない壁などではない。
その巨大で無慈悲な死の刃を受け止めていたのは、一本の「腕」だった。
「……三城、さん……?」
シオリの目の前で。
三城が、自らの左腕を高く掲げ、見上げるほどの巨体を誇る『特大清掃ルーチン』の圧倒的な刃を、生身の腕一本で強引に受け止めていたのだ。
本来なら、触れた瞬間にデータごと白紙化され、文字通り虚無へと還元されるはずの死の刃。それが、三城の左腕の肉に深く食い込み、鮮血の代わりに大量の真っ赤なエラーコードとポリゴンの破片を激しく噴き出させながらも、決して彼を両断することはできていなかった。
「が、ぁぁぁ……ッ!」
三城の口から、獣のような苦悶の呻きが漏れる。
痛覚を完全に再現したダイブ環境において、システム直属の処刑兵器から直接受ける負荷は、生身の人間が巨大なプレス機に挟まれるのに等しい、想像を絶する激痛をもたらしていた。左腕のテクスチャがジリジリと焼け焦げるように剥がれ落ち、内部構造である緑色のワイヤーフレームが痛々しく剥き出しになっていく。
システムが放つ絶対的な「消去」の力が、審査官である三城の精神データそのものを削り取ろうと牙を剥いていた。
それでも、三城の左腕は一ミリたりとも下がらなかった。彼の足元に敷き詰められた石畳のポリゴンが、その途轍もない圧力に耐えきれずに蜘蛛の巣状にひび割れ、砕け散っては虚空へと吸い込まれていく。
「どうして……!」
シオリが悲鳴のような声を上げた。
三城の言葉で色彩を取り戻しかけ、しかし自ら起動した自壊プログラムの砂嵐ノイズに再び塗れた彼女の顔が、驚愕と絶望に歪む。
「どうして私を庇うんですか! 私を見捨てて、その隙にゲートへ逃げればよかったのに! 私が消えれば、システムは正常に戻るんです! そうすれば、三城さんたちは助かるのに……!」
「……逃げる、だと?」
三城は、左腕の骨が軋む音を響かせながら、食い込む巨大なブレードをギリギリと押し返し、低く掠れた声で笑った。
「冗談じゃねえ。……俺が、今までどんだけお前みたいな『勝手に死んで終わろうとするヒロイン』の企画書をボツにしてきたと思ってんだ……!」
『……非論理的行動ヲ検知。イレギュラー権限保持者・三城。対象ノ庇護ハ、システム全体ノ崩壊ヲ招ク要因トナル。速ヤカニ抵抗ヲ放棄シ、消去ヲ受ケ入レヨ』
通路を完全に塞ぐ特大の清掃ルーチンが、感情の欠片もない重低音の合成音声を響かせる。
巨大な赤い単眼が不気味に明滅し、八本のブレードにさらに莫大な圧力が加えられた。
ミシリ、と三城の左腕から、データが致命的に破損する嫌な音が鳴る。
「うるせえよ、ポンコツ機械が」
三城は顔を上げた。
目元を隠していた前髪の奥。その瞳には、かつてないほどの、限界点を超えた激しい怒りの炎が燃え盛っていた。
それは、冷徹なシステムに対する怒りだけではない。目の前で自らを犠牲にしようとしたシオリに対する、担当編集としての強烈な「ダメ出し」の炎だった。
「いいか、シオリ。よく聞け」
三城は、激痛に顔を歪めながらも、背後で震えるシオリを真っ直ぐに見据えて言葉を紡いだ。
「ヒロインが自分の命を犠牲にして、それで世界が平和になって丸く収まる。……ふざけるな。俺は、そんな安っぽい三流の自己犠牲テンプレが、この世で一番嫌いなんだよ!」
三城の脳裏に、この廃棄領域にダイブする直前、プロローグの会議室で白石と共に酷評した企画書の内容がフラッシュバックしていた。
『愛する者のために身を引くヒロインの健気さ』。
『世界を救う代償としての自己犠牲』。
そして、『それを乗り越えて前を向いて歩き出す主人公』。
「主人公がどれだけ強大な力を持っていようが、どれだけ仲間と絆を深めようが、最後にたった一人のヒロインすら救えなくて何が『前を向いて歩き出す』だ! ミアの物語で、幼馴染の死という安易な悲劇テンプレをぶち壊したように! アイリスの物語で、世界を救うための生け贄という理不尽な法則から彼女を救い出したように! 俺は、ヒロインを便利な舞台装置として殺す展開なんて、絶対に承認しねえんだよ!」
「三城さん……」
「お前が死んで、システムが正常化して、それで俺たちが助かったとして……俺たちが『ああよかった』って笑って帰ると思うか? 残された側が、どれだけの絶望と後悔を抱えて生きていくか、少しは想像してみろ! 勝手に自分の物語を終わらせるな!!」
三城の怒声が、薄暗い地下通路に雷鳴のように響き渡った。
シオリはハッと息を呑んだ。
彼女は物語を愛していた。読者として、暗闇の底から数え切れないほどの物語を見つめてきた。だからこそ、三城の言っていることの意味が痛いほどに理解できた。
自己犠牲は、決して美しいだけの結末ではない。それは時に、残された者にとって永遠に癒えることのない呪いとなるのだ。
「でも……でも、私は! 私がイレギュラーな感情を持ったから、システムにエラーが起きたんです! 私が『生きたい』なんて身勝手なことを願ったから、アイリスさんの物語を黒い手で壊しかけた! 私は……皆さんの美しい物語の舞台に立つ資格なんてない、ただの有害なエラーデータなんですよ……!」
シオリの目から、再びノイズではない、透明な本物の涙が溢れ出した。
自らが愛する物語を、自らの手で汚してしまったという耐え難い罪悪感。それが、彼女を頑なに「死」へと縛り付けていた。
「感情を持ったからエラーが起きた? だから消えるのが正しい?」
三城は、さらに強くブレードを押し返しながら、喉の奥で獰猛に笑った。
「……はっ。笑わせるな」
三城は、巨大な清掃ルーチンの赤い単眼を真正面から睨みつけた。
それは、シオリに対する言葉であると同時に、この理不尽な世界を管理するワールドコア中枢システムそのものに対する、真っ向からの宣戦布告だった。
「読者が物語を読んで、キャラクターの生き様に心を打たれ、感情を揺さぶられる! 一緒に泣いて、笑って、心の底から『生きてほしい』『幸せになってほしい』と願う! ……それがどうして『エラー』なんだ! それは、物語が正しく機能している何よりの証拠じゃないか!」
『警告。対象ノ発言ハ、システムノ絶対効率主義ニ反逆スルモノト認定。……コレヨリ、最大限ノ消去リソースヲ投入シマス』
清掃ルーチンの駆動音が一段と甲高く跳ね上がり、ブレードがさらに深く三城の腕に食い込む。
左腕のテクスチャが半分以上失われ、三城の身体そのものが激しい砂嵐のノイズに包まれ始める。
『三城さん! もう限界です、腕が持たない!』
インカムから、ナビゲーターであるルナの悲鳴が聞こえる。
『白石さんもセラさんも、システム干渉の限界を超えて倒れそうです! このままじゃ、三城さんまで完全に白紙化されちゃいます!』
「限界なんて、とっくに超えてるさ……! だがな、ルナ。俺はストーリー課の審査官だ。こんなクソみたいなバッドエンドを、承認するわけにはいかないんだよ!」
三城は血を吐くような声で叫んだ。
「いいか、シオリ! 物語ってのはな、作者が設定を作って、キャラクターが動いて、それで完成じゃないんだ! 読者がそれを読んで、心を揺さぶられて、初めて『物語』として完成するんだよ! お前が流した涙も、エイルの物語や、詩乃の物語を見守って、彼女たちを救ってほしいと願ったその強烈な感情も、絶対にエラーなんかじゃない! 俺たちストーリー課が、いつも命がけで守ろうとしている『カタルシスの結晶』そのものだろうが!」
三城の言葉は、ただの精神論ではなかった。
それは、物語という存在の根源を突く、揺るぎない真実だった。
「設定を盛り込みすぎてお前の『案件No.0000』の世界をぶっ壊したのも、お前の純粋な感情を処理しきれずにエラー扱いして消そうとしているのも、全部! 中枢のあのふざけた『エディター(編集長)』どもの都合だ! お前は何も悪くない! お前は、俺たちの創る物語を誰よりも愛してくれた、最高で、最も大切な『読者』だ!」
その言葉が、シオリの胸の奥深くに、まっすぐに突き刺さった。
ずっと一人で、暗闇の中で抱え込んできた途方もない罪悪感。自分はバグの元凶であり、消えるべき存在なのだという呪縛。
それを、目の前の不器用で、乱暴で、しかし誰よりも物語を愛する男が、力技で、絶対的な肯定をもって粉々に打ち砕いてくれたのだ。
自分は、ここにいていいのだ。
物語を愛して、キャラクターの幸せを願って、そして……自分自身が『生きたい』と願っても、いいのだと。
「三城……さん……っ!」
シオリの灰色の瞳から、大粒の涙が滝のように溢れ出した。
その瞬間だった。
彼女の身体を覆っていた、自らを完全に白紙化するための砂嵐のようなノイズが、ピタリと止んだ。
それだけではない。古いモノクロ映画のように色褪せていた彼女の髪や肌に、ほんの少しずつではあるが、確かな『色彩』が宿り始めたのだ。
読者としての純粋な感情が、自らを否定するバグのプログラムを完全に上書きした瞬間だった。
「やっと、泣き止んだか。……なら、次は俺の番だ」
三城は、限界を迎えていた左腕を振り払うようにして、巨大なブレードをわずかに押し返した。
その一瞬の隙を突き、彼は右手に握りしめていた『ボロボロのノート』と『黒インクのペン』を、胸の前に高く構えた。
ワールドコア中枢によって、すでに審査官の権限は強制的に剥奪されている。いかに審査官の道具とはいえ、今のそれはただの紙切れと同化したはずのノートだ。
だが、三城の全身から放たれる圧倒的な「物語への執念」と、シオリを取り戻すという強烈な意志が、システムの縛りを強引に食い破ろうとしていた。
「権限がないなら、力技でシステムを上書きするまでだ」
三城の右手に握られたペンが、ミシリと音を立てる。
「システムが勝手に決めたバッドエンドも、お前が自分に科した自己犠牲のプロットも……全部まとめて、俺がここで『ボツ』にしてやる!!」
三城がペンを限界まで握りしめた瞬間。
ただの紙切れだったはずのノートのページが、毒々しい赤色のエラーコードを跳ね除け、太陽のように眩いほどの黄金色へと発光し始めた。
『……警告。警告。イレギュラー権限保持者・三城ノデバイスヨリ、異常ナ高エネルギー干渉ヲ検知。システムノ根幹設定ヘノ直接ハッキングノ可能性……』
巨大な清掃ルーチンが、初めて「困惑」するかのように赤い単眼を激しく明滅させ、後退しようとする。
だが、もう遅い。
『三城さん、それ……! ダメです、そんなことしたら!』
インカム越しに、ルナの信じられないものを見るような声が響いた。
『それ、通常のプロット修正じゃありません! システムの根幹への直接ハッキングと同じです! そんなことをすれば、中枢から完全に「反逆者」として認定されて、ストーリー課という部署そのものが……!』
「ストーリー課の存続より、目の前の読者一人救う方が先決だ!」
三城はルナの制止を全く意に介さず、黄金に輝くノートのページに、黒インクのペンを力強く、叩きつけるように走らせた。
彼が書き込もうとしているのは、単なる物理現象の修正ではない。
シオリという存在そのものの『設定』を、システムの根幹から強制的に書き換えるための、禁断のプロットだった。
「俺が、お前の物語を、最高のエンドに書き換えてやる……!」
地下通路を埋め尽くす黄金の光。
システムによる冷徹な排除と、読者の哀しい自己犠牲。その両方を力技でねじ伏せるための、ボツ経験者(審査官)による最大の宣戦布告。
廃棄領域の底で、かつてない規模の「設定の書き換え」が、今まさに実行されようとしていた。




