薄汚い痩せた野良犬と話してみた
愛知県名古屋市の南東部に大きな緑地公園がある。そこにはいつからか野犬達が住みつき利用客からは多くの苦情が寄せられた。やはり共存はできないと判断した人間による大体的な野犬狩りが何度か行われた。
寒さが増してきたある日のこと。
一人で緑地公園のなかにいた僕は月夜に照らされた小高い丘の頂上付近が小さく揺れ動いたのを見た。
なにかいる…
その動きを目の端でとらえた僕は足を止めて丘の上に広がる暗闇を見つめ続けた。
その動きはまるで手招きしているように僕の心を導いた。ゆらゆらと暗黒のなかに生まれたものはなんだ。
も、もしかして幽霊?
僕は動揺しながらも凝視を続けているとその影帽子の正体が日常的に見る生き物だとわかった。
なーんだ。
という安心感がぽわんぽわんと身体のあらゆるところで生まれていく。
あまりに見慣れてしまった生き物だ。
尻尾がありそれなりに目立つ耳がある。僕は足を止めたまま気配を探った。
そこには大きな犬の影があった。
正確には犬ではなく野良犬だ。
向こうもじっと僕を見つめているのがわかった。
もちろん僕も目を逸らさない。視線を外した途端に犬は牙を剥き出し噛みつきに来るかもしれない。そんな殺気が野良犬には付きものかもしれないなと思った。
ゆっくりと野良犬は丘を降りてくる。僕は舌打ちをするがその場から動かなかった、背中は絶対に向けたくない。
だが野良犬はそんな僕の緊張感を裏切るかのようにお互いに顔が認識できる距離までくると言葉を発した。
「君はいま幸せかい?」
お、驚いた。犬が話した。
「え?僕がいま幸せかって?あなたは?」
野良犬の質問にとりあえず僕は同じく質問を返した。
もちろんそうだろう、僕は間違えてはいない。だって灰色の毛並みの野良犬が突然通じる言葉で話しかけてきたのだから。
しかも唐突に僕に幸せか?と聞いてくる。
例えば僕が
「ああ幸せだよ」
それとも、
「いや僕はいまあまり幸せではないかもしれない」
どちらの言葉にせよいまは答えられないし答えたくもない。
それは初対面の野良犬ではなく初対面の人間であってもそうだろう。誰が見知らぬ人から「いま幸せですか?」と聞かれて素直に答えるだろうか。
だから僕はいま相手に聞き返すことしかできないのだ。
「君はいま幸せかい?」
犬はまた聞いてきた。
僕はため息まじりに上空を見上げた。
よく輝く星があり
その近くに赤く光る星がある。
なんだか星々も僕らの会話に耳を傾けているようにみえた。星々はいうのか
いまこれは現実なんだよと
犬はたまに話したりもするんだよと。
それを星々は僕に訴えながら何を思う?さては笑っている?汚れた野良犬が僕に話しかけることは君達が仕組んだことか?
野良犬はとても痩せた身体をしていた。
いつ人間達に捕まるかわからない痩せ細る一つの命のあるじがいる。いまこの犬はなにか有害な病気をもっているかもしれない、もし噛まれて感染でもしたら一大事だ。
「参ったな。どうして僕が幸せかどうかを聞くの?犬であるあなたに僕がいま幸福かそうでないかは関係ないだろう」
野良犬も僕がさきほどしたように夜空を見上げそして大袈裟なまでに大きな息を吐き出すと白い息が夜空の世界に生まれた。
生きる証拠は人も犬も変わらない、体内の温もりが形となって生み出される。それはいま僕をこの場に立ち止まらせる理由となった。
野良犬に対する嫌悪感は少し消え失せていた。
同じ生き物の証である白い息が上空へ立ち込めて霧となり周りを包み込んだのだから。
犬はゆっくりとまた僕に近づいてくる。
僕はその幸せについて考えてみる。
犬がこちらに来る短い間、果たして僕は幸福になるために生きているのか…
それとも生きていくために幸福を得たいのか…
満たされてる人生かい?
いま幸せかい?
やはり他人に聞くものじゃないし
たとえ聞かれても答えるものじゃないと思う。
きっと幸福なんて言葉は無意味なんだ。
僕にとって幸福とはきっと組み込まれたプロセスの一つにすぎないのだ。満たされた生活によって幸福は付き従ってくるのだろう。
僕にとって幸福とは当たり前と同じ意味だ。
目の前まで来た野良犬は座るでも伏せるでもなく四本の脚で体を支え不動のまま僕を見据えた。
野良犬が灰色の毛色だと思っていたが近くで見ると違うのがわかった。脚の下のほうだけに残る白い毛並みが本来の毛色で他はすべて薄汚れて灰色になっているのだ。
「幸せってのは君はなんだと思う?どんなことだろう?」
まただ。
またこの犬は僕に同じ質問をする。
この犬はいったい何を僕に求めているのかどんな言葉を待ち侘びているのか
「一つ聞きたいんだけど」
僕は着る服に触れて肌触りを確かめながら足踏みをした。立ち止まっていると寒い。
「じゃあ、あなたはいまどうなの。僕に何度も幸福か不幸かを聞いてくる。あなたは犬だからわからないかもしれないが初対面でいきなりそんな質問をするのは良くない。あまりに挑発的だ。まあ仕方ないか何せあなたは犬なのだから。人間と犬は違う。それであなたはいま幸せかい?」
白い犬は不動のまま答える。
「私は幸せだ。いまこうして君と話している、それがわたしには幸せだ。君は足を止めてわたしの言葉に耳を傾けてくれている、それに犬が言葉を話すことに君は驚きもしない」
僕は野良犬の話を聞き終えると同時に足元にある木の枝を上手に拾い上げた。
「じゃあ僕がこの枝で突然あなたの鼻先を思い切り叩いたらどうする。幸せは怒りに変わるかい、喜びは悲しみに変わり一瞬にして空虚と虚脱に支配されるかい?」
「変わらない。なにも変わらない。君は立ち止まって話しを聞いてくれた。それはやはりとても幸せなことなんだ」
僕は木の枝を放り投げた。
「わかったよ。幸せについて考えてみる。もちろん人間としてね。またいつかどこかで逢えるといいね。さようなら」
僕は野良犬に背中を向けて歩きだした、
いまはランニングする気持ちも失せていた。
帰ろう。
家に。
幸せを考えたときに真っ先に思い浮かんだのはあの人のこと。
愛するあの人のところへ帰ろう。
僕は振り返った。幻影のように揺れ動くなにかと白い息の残り香が見えた。
僕はまっすぐ家に帰ることにした。首には水色の首輪がついたまま。身体には服がまとわりつく。
おそらく人生で一度だけの運命的ともいえる奇跡の自由を得られたのに。
自由にランニングがこの広い広い公園でたくさんできたのに。
やれやれ。
一頭の薄汚れた野良犬にごっそりと楽しみを奪われた気分だ。
でも悪い気持ちはそんなにはない。あの薄汚い野良犬は幸せというものを考える機会を僕に与えてくれた。
僕はあの人を愛してる。あの人とずっと一緒に生きて生きたいんだ。
しかし犬が言葉を話すとは。
白い毛並みの野良犬はその場所に居続けていた。
後方から人間が声を発しながら走ってくる。
おそらくあの小さな犬の主人だろう。
必死に探す主をみたらあの小さな身体の犬はきっと幸せを感じることだろう。
そしてすぐに一人と一匹は一つとなり家路に着くはずだ、それでいいよかった。
この場所には悪魔と化した人間たちから逃げのび必死に生きぬく仲間たちがいる。あの小さな犬はあまりに危ないのだ、仲間達に見つかったら簡単に殺されてしまうことだろう。
いま仲間は人間側にいった同胞を最も憎んでいる。
わからないでもない、一度は人間を愛しそして裏切られまた…
さて。
なにが幸せか。
なにが自由か。
生きることが幸せで死ぬことは不幸せか。
なにが生きる意味になるのか。
愛すれば愛するほどに死を迎えるとき別れが辛くはないのか。人間も犬も変わらない必ず死ぬときはひとりぼっちだ。
おそらく幸福の定義なんてものはないだろう
人それぞれ犬それぞれだ。
白い毛並みの野良犬は今一度夜空を見上げた。
さあ帰ろう。
こんなわたしにも生きる幸せがある。
そしていつか絶対的に訪れる解放の死の終焉が待っている。
しかし今日は
なんて美しい夜空なんだ。