◆6 精霊の森での暮らし1
「ああ、懐かしい夢を見た」
ブリジットはのっそりとベッドから起き上がる。何度か瞬けば、先ほどまで現実だと思っていた場所が消えていく。幼い時の、忘れてしまっていた楽しい記憶。ブリジットはリュエット伯爵家で本当の娘のように育っていた。あの時は、こんな風に離れてしまうとは思っていなかった。
「久しぶりに戻って来いと言われたからかしら」
テーブルの上にある手紙を見て、単純な自分に苦笑する。
見慣れた文字は十六年間、妹として大切にしてくれた兄のテイラーのもの。テイラーは幼い頃から懐いてくるブリジットを嫌がらずに面倒を見てくれていた。口は悪いが、非常に優しいのだ。もちろん彼女を大切にしてくれたのはテイラーだけでない。養親であるリュエット伯爵夫妻も同じ。
温かな思い出しかないから、ちょっとしたことがきっかけですぐにリュエット伯爵家に戻りたくなってしまう。
ロウンズ伯爵領にある精霊の森の管理人として暮らすようになって二年。
リュエット伯爵家から出たきっかけは王都で流れる不愉快な噂だ。家を出る以外に、噂を鎮める方法がなかったともいえる。前世の記憶があったから、一人で暮らすことに抵抗はなかった。
だが、周囲の人たちの反対はすさまじかった。養女と言えども、箱入り娘で育った貴族令嬢だ。平民のように一人で暮らすなどあり得ない、というのが周囲の人たちの意見。
前世の記憶を取り戻すまで、明らかに貴族令嬢として使用人たちに支えられてきた。それに生活様式は現代日本と似ているようでやはり違う。魔法や魔道具があり、地球とは違う発展をみせている。「実乃里」であっても、苦労することは目に見えていた。それでも。
「あんな噂をたてられていたなら、一緒に暮らせないよね」
テイラーをたぶらかす、ふしだらな養女。
そんな風にブリジットは社交界で噂されていたのだ。驚いたのはリュエット伯爵夫妻も同じ。
どうしてそのような噂が回っていたかと言えば、テイラーに婚約を申し込んで断られた人たちによるものだった。大人の世界ではない、子供でも成人でもない若い人たちの間だけで広がったそれはとても質が悪く、なかなか払拭できない。
ブリジットの出自ははっきりしている。親世代ならブリジットの両親の事情をよく知っている。それぐらい、当時、注目を浴びた醜聞だった。ただ王族より緘口令が敷かれており、子供たちには伝えられていない。だから、大人たちの中で広まらずに、成人間もない人たちによる悪意ある憶測が、子供の付き合いを通して、まことしやかに広まってしまったようだ。
ブリジットにとっても、テイラーにとっても、リュエット伯爵家にとっても、不名誉な噂。
王都にほとんど来ることはなくても、放置していい噂ではない。だから、ブリジットは居心地の良いリュエット伯爵家を出ることにした。
時々一人で暮らすことに寂しさを感じるが、それでも家を出たのは正解だと思っている。
「しかし、今思い出しても凄いわね。成人したばかりのわたしに向かって娼婦だなんて。信じる人の神経を疑うわ」
「娼婦? 誰が?」
不思議そうな声に顔をそちらに向ければ、いつの間にか森の精霊であるプラムがいる。彼は下位精霊で、体長は十センチメートルぐらいの小さい精霊だ。緑のくるくるした髪に赤い三角帽子、そしてキラキラした濃紺の瞳。いかにも精霊と言った姿をしている。口が達者で、ブリジットとの会話を好む。
プラムはふわふわと漂いながら、ブリジットへと近づいた。
「わたしがよ」
「ブリジットが? 娼婦ってすっごく色っぽい女性のことでしょう? 言い出した人、目が悪いの?」
若干失礼なことを言われて、ブリジットはむっとする。
「わたしだって着飾れば十分色っぽいわよ」
「うーん、ブリジットは色っぽいんじゃなくて、とても綺麗なんだ。銀の髪は精霊にとって特別なんだよ」
なんだか話が噛み合わない。そもそも精霊の森から出たことのないプラムは娼婦がなんであるか、よくわかっていないのだろう。こういう話の食い違いは、時々起こる。生き物として別物だと理解してからはあまり気にしなくなった。
「特別だと思うなら、精霊魔法が使えるようにしてくれてもいいのに。前世の記憶があるのに、チートじゃないなんて信じられない」
これが一番の不満。
前世の記憶を取り戻したのだから、転生特典があってもいいはずだ。なのに、膨大な魔力はあっても、魔法も精霊魔法も使えない状態。
そして家を出て、プラムと出会い、自分が精霊の愛し子であることはわかった。その流れで、森の管理人になったが、それだけだった。
「ブリジットは前世日本人だっけ?」
「そうよ」
「日本人は転生してきても受け入れるのが早いよね。精霊の愛し子は皆、異世界の魂を持つんだけど、日本人であることが多いんだ」
「期待していたのはそういう肩書じゃない」
前世日本でごく普通に流行っていた異世界転生。
神様が与えてくれる様々なチートな能力。魔法があれば、どんなハズレであろうと、ざまぁができるだけの何かを持っていた。転生先に魔法がなければ、知識チートがあった。
でも、ブリジットは何もない。
貴族家で育った娘に前世の記憶が与えられただけ。おかげで、誰にも前世の記憶があると暴露していない。知識チートすらも使えないのだ。大っぴらに言って、期待されても困る。
「パンが不味かったら、柔らかパンを広めて、ウハウハだったのになぁ」
「パン、不味い方が良かったの?」
プラムにはブリジットの嘆きが理解できなかったようだ。首をひねりながら聞いてくる。
「食べ物は美味しい方がいいのは間違いないわ。ただ、わたしの前世の記憶、あんまり役に立たないなと思って」
「うーん?」
ブリジットの前世の記憶は意外とはっきりとしている。「実乃里」の時間とブリジットの時間は途切れることなく続いている状態。
昨日のこととして、前世の日本での生活を思い出しても違和感がないほど。
明日、会社に行って仕事の続きをしろと言われても、きっとできてしまう。それぐらい、ブリジットと実乃里は同一だ。
二つの記憶を持ってこの世界を見れば、「異世界転生してきた魂」が多いことに気が付く。
プラム曰く、同時に存在することはないらしいが、途切れることなく愛し子はいる。
明らかに日本人の転生者だとわかるのは、醤油と味噌を製造販売している商人。こちらは二百年前に他国の貴族で、商会を起こし、日本でロングセラーとなっていたお菓子をリリース。爆発的に人気となった菓子からはじまり、晩年に醤油と味噌を売り出したそうだ。ロングセラー菓子を見ただけで、日本人だと断言できる。そもそもこの世界にコアラはいない。
日本では当たり前にあったものが、この世界でも流通している。それこそ日本人であった前世持ちがそれなりにいたという証拠だ。
そこそこ便利なヨーロッパ風の世界に随分遅く転生してきたブリジットができることなど、ほとんどない。
知識チートでウハウハ、と豪語していた後輩に世の中、そんなに甘くないと伝えたいぐらいだ。
「もうちょっと早く生まれたら、小金持ちぐらいにはなれたかもしれないのに」
ブツブツと呟き、キッチンに行くと朝のコーヒーを淹れる。
このコーヒーも随分前に当たり前となった飲み物だ。幸せなことに、辺境の地であってもインスタントコーヒーが手ごろな値段で手に入る。当然、カップスープ系も存在する。
「もっとゆったり暮したらいいじゃない。どうして愛し子たちって、一生懸命、改善しようとするのかな?」
プラムは心底不思議そうに聞いた。