◆5 前世の記憶
「わたし、全部捨てて異世界転生したい!」
技術報告書の最終チェックをしていると、一緒に仕事していた後輩が机に突っ伏して叫んだ。PC画面には沢山のウィンドウが開き、机の上もあちらこちらに資料が散らばっている。
「どうして、今日なのよ。今日は久しぶりの定時退社だったのよ。聞こえないふりをして出て行けばよかった」
後輩のその気持ちはよくわかる。
来週提出でよかったはずの報告書が今日中に変更になったのは、定時過ぎてから。今日こそは、と定時ダッシュをもくろんでいた実乃里は思わず上司に殺意を抱いたものだ。
だが、このプロジェクトリーダーをしている実乃里にはノーと言うことはできず。
実乃里はちらりと時計を見た。
時刻は午後十一時十分。
そろそろ終電がなくなる時間帯だ。あと少しで終わる、と言いたいところだが、恐らく深夜零時を超える。確実にタクシーだ。
それでも、できる限り早く帰りたいと思うのが人というもの。
実乃里は嘆くばかりで手を止めている後輩に発破をかける。
「くだらないことを言っていないで、さっさと報告書の修正をする! 気合を入れれば、日にちを超えずに済む!」
「だって先輩! わたし、今日残業予定ではなかったんですよ!」
「わたしだって帰る予定だったわよ」
恨むべきは無茶なことを言い出したクライアントとそしてそれをヘラヘラしながら受け入れた上司。
何が「いつものようにちゃちゃちゃって簡単に修正するだけでしょう」、だ。複数のデータのとり直しが必要な修正を、ちゃちゃちゃで表現するんじゃない。マジで許すまじ。毎日足の小指を強打する呪いをかけてやりたい。
「くすんくすん。本当に酷い。今日もタクシー帰りだなんて! 残業代とタクシー代がトントンって、テンション下がりますぅ」
「大丈夫、ちゃんと経費で落とせるように交渉したから」
「そういう問題じゃないです。今日はリアタイで、アニメが見たかったんです。ううう、未公開の特別篇だったのに……」
変なスイッチが入ってしまったのか、後輩はしくしくと嘆き始めた。この忙しい時に、と思いつつも、メンタルを思いやるのも先輩の仕事。
仕方がなく彼女の隣に座り、話を聞く体制を取る。
「アニメの話?」
「そうです。すごくいい話なんです。魔法があって、精霊がいて。上位精霊が生まれなくなってしまって、世界が危機に瀕しているんです。聖騎士が萌え萌えで!」
「へえ、そう」
「それで、今日の特別編は原作には一行しか出てこない裏事情なんですけど、アニメだけは拡大九十分で世界の真実が語られるんですよ。これ、逃したら絶対ダメなやつ」
後輩がのめり込んでいるアニメはよほど神のようだ。こういうのめり方をしたことがないので、実乃里にはよくわからない感情だった。なので反応もごく普通のものになる。
「見逃し配信やっているでしょうに。週末、見なさい」
「そういうことじゃないんですよ。リアタイで見るからこそ、ファンであって。出遅れた私は、ファンとして死罪ものです。命を捧げないといけないレベルです」
そこまで嘆くようなことなんだろうか、という疑問は口にしない。
「そういえば、貴女に教えてもらった投稿サイト、とても良いわね」
「先輩に教えたのってどれでしたっけ?」
「日本最大級のサイト。ちょっとファンタジー要素が強めの」
「ああ。あのサイトですか。異世界転生が随分と下火になってしまっているので、わたしは最近アクセスしていないんですよねぇ」
話しているうちに気持ちが落ち着いてきたのか、いつもの受け答えになってくる。すぐにでも仕事に戻りたかったが、すでに集中力は切れ。切り上げずに話を続けた。
「異世界転生、古い作品ならそこそこ読んだかしら。どれも長いから、読み切れていないんだけども」
「異世界転生のいいところは、なんといっても転生チートですよ。異世界転移もいいですけど、この体で向こうの世界に渡るのはちょっと遠慮したいです。よっぽど自分に自信がないとやっていけません」
「ええ?」
「だって、この体と頭脳ですよ? 能力の上限が見えています。いくら神さまがチートを与えたからと言って、使いこなせるだけの力量がない」
異世界という現実離れした話なのに、やたら現実的な意見。
思わず苦笑いした。
実乃里もよほど疲れていたのか、このくだらない話に安らぎを覚え始めていた。
「先輩もいざという時のために異世界転生ガイドを読んでおいた方がいいですよ」
「何よ、それ」
「だって異世界がないことが証明できない以上、異世界に転生することもあり得るんです。その時に万が一、前世の記憶を持ったままならそれだけでアドバンテージになります。わたしは楽して人生勝ち組になりたい」
突然の語りに、ふむふむと聞き入る。確かに、異世界があることを信じていない人の方が多いかもしれないが、それは科学的に証明できていない。宗教や思想は証明にはならないのだ。もっとも異世界に行った人のデータなど取れるわけもないのだが。
「前世の記憶を持ったまま、というのが珍しい気もするけど」
「備えあれば患いなしです。ぶっちゃけ、ラノベ読んでいれば大体わかると思います」
「ああ、確かに。俺つえー系は好きじゃないけど、知識チートは面白いわね」
いくつかのお気に入りの作品を思い浮かべた。どの作品もこの世界の知識を使って楽しくのし上がっている。自分で開発したわけではないけれども、知っていることを広めるだけで豊かに暮らしていけるのならこれほど楽なことはない。開発は楽しいけれども、苦しみもすさまじいのだ。特に壁にぶち当たった時の絶望感。自分の能力の限界を突き付けられると、それこそ病むレベルだ。
「ちなみに、わたしのお薦めは美容関係と料理です」
「大抵は石鹸作って、化粧品作っているわね。あとはサンドイッチと唐揚げ」
「唐揚げ、何で異世界では誰も作らなかったんですかね。マヨネーズは変な菌がいそうで、まずいと思いますけど」
どうしようもないところまで、妄想が膨らみ始めた。本当ならば、実乃里がストップをかけるべきだろうが、止まらない。ずるずると異世界について話し込んでしまう。
恐らく二人とも疲れている。
「先輩、話が古すぎです。今はもうそのタイプのテンプレは流行らないですよ」
「そう? 一周回ってもう一度再流行とかしないの?」
「んー、あるかもしれませんが、一周回り切っていませんって。今のお勧めは『最後の精霊の愛し子』ですよ。うううう、今日のアニメ、見たかった……」
再びどんよりとし始めて、実乃里は天を仰いだ。それから再び後輩のつむじを見つめ、慰めるようにポンポンと肩を叩いた。
「まあまあ。異世界転生する条件はブラックな企業に勤める社畜でしょう? 今日、この仕事を終えたら、立派に条件を満たすことに――」
そこまで話して、突然大きな爆発音がした。
「え?」
逃げることも何が起こったかもわからないまま、体は吹き飛ばされ叩きつけられた。
◆
ゆっくりと目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。誰かが休めるようにベッドに寝かせてくれたようだ。
先ほど感じていた気持ち悪さと頭の痛さはすっかりなくなっていた。期待した精霊魔法は貰えなかったけれども、前世の記憶を手に入れた。
前世の記憶は唐突に、そして違和感を覚えることなく馴染んでいる。もっとパニックになるものかと思ったが、案外普通。
考えをまとめていくうちに、自分が前世ですでに亡くなったことをジワリと認識した。
「……そっか、わたし、死んだんだ」
言葉にすれば、とても悲しい。突然の死の知らせに家族は悲しんだことだろう。優しい前世の家族を思い出してしまえば、心残りは沢山ある。
そして。
後輩は無事に異世界転生しただろうか。
なぜ爆発したのか全く分からないが、「実乃里」が亡くなっているのだ。一緒にいた彼女も無事だったとは到底思えない。
できれば、彼女の希望通りに異世界転生して、前世の記憶でチート人生を送ってもらいたい。
ついでにあの技術報告書、途中だったけれども大丈夫だったのか、と確認できないようなことを思った。