◆47 一つの区切り
雪のように白い肌。
そして、ぽってりとした赤い唇。
豊かな金髪を美しく結い上げ、長い首が露になっている。濃紺のエンパイアスタイルのドレス、スクエアカットの襟ぐりからは零れ落ちそうなほど胸が。
キースの母とは思えぬほどの若々しい容姿。
顔の右半分に広がる蜘蛛の巣のような黒い柄が目を引いた。
見るからに、色々と人ではなくなっている。ただし、リリアンのような恐ろしさではなく、美しさが際立っていた。
「面倒なのが来た。何でここがわかったんだろう?」
リンフォードはいつものような軽口を言いながらも、それでも警戒している。
「恐らく、僕のここに反応している」
キースは視線をフローレンスから逸らすことなく、自分の胸を押さえた。リリアンもキースが持つ穢れを目安にしていた。恐らく情報が共有されていて、迷うことなく見つけられたのだろう。
「キース、精霊様が貴方をお望みよ。さあ、わたくしと一緒に行きましょう」
フローレンスは妖艶な笑みを浮かべ、手を差し出す。キースが拒否するとは少しも思っていないかの振る舞いだ。キースは眉間にしわを寄せた。
「断る」
「どうしてかしら? 精霊様に望まれているのよ? あなたならばよい器になる、とおっしゃっているのに」
「それほどの誉なら、母上が器になればよいのでは? ああ、精霊様に望まれていないのでしたね」
「まあ、なんて可愛げのない子なのかしら。躾が必要ね」
断られることに対して驚きを見せず、フローレンスは困った様子で頬に手を当て首を傾げた。
仕草はとても優雅であるが、背中にいる魔物はそうじゃない。長い蜘蛛のような手が大きくなり、キースを捕らえようと勢いよく向かっていく。キースは剣を抜き地面を蹴ると、魔物に向かって飛びあがった。
蜘蛛の腕を一気に切り裂くが、すぐにそれは復活する。辺境で見た魔物よりもはるかに速い再生速度。それだけ穢れの力が強いのか、それともフローレンスの抱える穢れが特別なのか。キースは無表情に再生する魔物を斬り続ける。
「ブリジット、こっちだ」
リンフォードはブリジットを庇うように抱き寄せると、そのまま木の陰へと隠した。
「いいかい、何があっても大人しく、ここで隠れているんだ。もし、私たちがどうにもならない状態になったのなら、逃げてほしい」
「え? 殿下は?」
「キースに加勢する」
一番に守られないといけない人が、表に立とうとしている。ぎょっとしてブリジットは彼の腕を力いっぱい掴んだ。
「ちょっと待ってください。殿下は守られないと」
「キースに母親を殺させるわけにはいかないだろう?」
それは王族だからという覚悟ではなくて、キースの心を慮っての言葉。ブリジットはそれを言われてしまうと弱い。引き留める手が緩んだ。
「じゃあ、ちゃんと隠れているようにね。君に何かあったらキースが大変なことになりそうだから」
最後まで軽い言葉を残して、キースの方へと走っていく。その後姿を見つめ、ロッドを握った手にぐっと力を入れた。
「ベル! わたしにできることって何かない!?」
「ブリジットにできることって、歌うことぐらいでしょう? 止められるかはわからないけど、多少なりとも弱められるかもしれないわ」
「そうだった!」
ブリジットには歌うこと以外の方法がない。
握っていたロッドをマイク代わりに、木の陰に隠れてとにかく歌った。思いつく限り、前向きな曲を。
背後には木がへし折れる音、建物に強く激突した音が響くる。
聞こえてくる周囲の恐ろしい音に体を震わせながらも、次から次へと必死になって歌う。
「うわっ」
「殿下!」
キースとリンフォードの焦った声が耳に入った。
二人の様子に気を取られ、歌が止まる。
「ブリジット、歌を続けて!」
ベルの鋭い声に、ブリジットは歌に集中した。彼らの助けになりたいという気持ちを込めて、歌う。
再び小さな魔法陣がいくつもフローレンスの周りに現れ始めた。
「次から次へと! 鬱陶しいわね」
舌打ちしながら、フローレンスが手を払えば、簡単に魔法陣は砕けた。
ガラスが割れるような音はブリジットのなけなしの勇気を削る。だけども恐怖心を押さえつけて、歌う。
フローレンスの動きを封じるように魔法陣が再び生まれた。無視できなくなったのか、フローレンスの注意がブリジットに向く。
一瞬にして、目の前に美貌の主が現れた。背中に魔物を背負って。フローレンスではなく、魔物の目を見てしまったブリジットは顔をひきつらせた。
いつもなら悲鳴を上げているところだが、ここで歌をやめてしまっては命の危機。
そう思うけれども、恐怖に喉が締め付けられて歌が止まる。
「あっ……うぁ」
焦れば焦るほど、喉が強張り、声が上手く出ない。フローレンスは目を細め、唇の端を大きく釣り上げた。
「あなた、邪魔よ」
フローレンスがブリジットに止めを刺す前に、キースが剣を構えてこちらに飛び込んだ。フローレンスは不愉快そうに唇を歪め、振り返る。
「どいつもこいつも!」
背中の魔物がさらに体を大きくし、キースとリンフォードに向けて攻撃する。
二人は少しの余裕を見せて、それをすぐに切り落とした。だけど魔物の腕はいくら切り落としても、勢いを落とさない。すぐさま黒い靄が腕を模り、元に戻ってしまう。
キースもリンフォードも決して弱いわけではないが、この異常なほど早い再生速度にはどうにもできずにいた。
「くっそ。何なんだ、あの回復速度は!」
リンフォードが口穢く吠える。そして、伸びてきた魔物の腕を斬り飛ばす。
「ほほほ。精霊様の力に、人間でしかないお前たちが敵うわけ、ないでしょう?」
「叔母上がそこまで精霊に傾倒しているとは思っていませんでしたよ」
「わたくしは精霊様に愛されているのよ。精霊様が愛してくださる限り、わたくしは世界で一番の女なの。わたくしを見下すなんて許さないわ。誰も彼も、わたくしの前に惨めに跪けばいいのよ」
「見下す? 叔母上を?」
リンフォードはそんな勇気ある人間がいただろうかと、内心首をひねる。
「ああああ! 思い出しただけでも憎たらしい! わたくしはお兄さまに愛されているのよ、だからわたくしがこの国の一番に決まっているのに! あの女、王妃だからと……あああっ、忌々しい!」
「うわ、母上が止めを刺したのか」
おそらくフローレンスが思っているようなことで注意したわけではないだろう。いつまでも兄である国王に寄生しているからこその指摘で。
「そんなどうでもいい理由で……魔物になったのか?」
「わたくしは魔物じゃないわ! 精霊様に愛される者よ!」
キースの呟きは、フローレンスの癇に障った。
先ほどよりも倍以上の攻撃を向けられる。攻撃は激しく、ブリジットの側まで飛んでくる。
「きゃあ!」
ブリジットは頭を抱えて、しゃがみこんだ。
「あら?」
フローレンスも何か感じるものがあったのだろう。必死な様子で切り込んでくるキースとブリジットを交互に見やる。
徐々に忌々しさが消え、代わりに何かを思いついたような嫌な笑みが浮かんだ。
「あら、あなた。魔力は多いみたいだけど、魔法は使えないのね。ふふ、いいこと考えちゃった」
それって絶対によくないことですよね!?
ブリジットは声なき声で叫んだ。
フローレンスは手を伸ばすと、ブリジットの頬に触れた。
「わたくしのかわいい子はいつだって飢えているの。いい餌になるのではないかしら?」
触れた指が黒く溶け、どろりとした液体に変化する。ブリジットは慌ててフローレンスの手を振り払う。
「うひゃああ、ナニコレ、気持ち悪い」
「ブリジット、擦らないで。浄化するから」
ベルがさっと近づき、浄化の魔法をかけてくれた。だが、ベル程度の力では浄化しきれず、すぐに黒いものが肌の上を広がっていく。
「浄化しても落ちないわよ。わたくしのかわいい子の餌になるといいわ」
フローレンスが指を鳴らすと、ブリジットに向かって小さな蜘蛛たちが飛んできた。
「きゃああ、餌って、本気!?」
ブリジットは慌てて蜘蛛たちを避けるようにして逃げ回る。だが肌に着いた黒い染みが目印になっているのか、蜘蛛は迷うことなくブリジットを追う。
「流石、叔母上。ろくなことを考えないね」
「本当に。これが母親とか、悪夢でしかない」
リンフォードはフローレンスがブリジットに気を取られている隙に、彼女の背中に生えている魔物を体ごと切り落とした。大きな魔物がどちゃりと地面に落ちる。切り離された反動で、フローレンスが地面に倒れ伏した。
「ぎゃっ! わたくしを傷つけるなんて! 許さないわ!」
フローレンスはリンフォードに恐ろしいほどの怒りを見せた。そして、すぐに起き上がると宙を滑るように移動する。狙いはリンフォードだ。
魔物とフローレンスを引き離すために、リンフォードは動く。
フローレンスが怒りで我を忘れている隙に、キースは動けなくなった魔物の核を目を凝らして探す。辺境に湧く魔物ならば核の場所は熟知しているが、昆虫型は初めてだ。大抵は心臓辺りにあるのだが。そもそも昆虫の心臓の位置が分からない。
「このあたりか」
適当に当たりを付けて、蜘蛛の腹に剣を突き刺した。だが地面に縫い付けられた蜘蛛はもぞもぞと手足を動かし、キースに攻撃しようとする。
「腹じゃなくて頭だ! 頭から剣を突き刺せ!」
リンフォードは襲いかかるフローレンスを払いのけながら叫んだ。
「余計なことを!」
怒り狂ったフローレンスは黒い穢れをキースに浴びせる。
「邪魔させない!」
ベルがキースとフローレンスの間に入り、結界を張る。キースはフローレンスを気にするそぶりも見せず、蜘蛛の魔物の頭をめがけて剣を突き刺した。
グギャ、と変な音を立てて蜘蛛が痙攣する。そのまま力を入れて突き入れれば、固い何かが剣先に触れ、ぱきっと割れる。
「あああああああっ!」
フローレンスの苦痛に満ちた叫び声。
蜘蛛の魔物が消えると同時に、フローレンスの肌が一気に枯れた。瑞々しかった肌は茶色に変色し、しわくちゃになっていく。水分が抜けたような姿。
「浄化」
ベルが浄化の魔法を使うと、灰のようになって崩れ落ちた。