2.俺と結婚してくれないか
そんなやりとりのあった翌日。
わたしは、宮殿で、アーサー様といっしょに書類の山に埋もれていた。
各領地へ租税の額を通達する時期が迫っている。そのうえ、領境をめぐっての訴え、鉱山開発の申請、洪水対策と、狙ったかのように決裁書類が積みあげられていた。
昨晩早く寝たおかげで目覚めはばっちりだった。化粧っ気のないわたしだし、ドレスも機能性を重視したシンプルなものだけれど、アーサー様に会うのだから最高のコンディションでいたい。
書類を確認しつつちらりと窺い見たアーサー様は、薄くひらいた窓から入る風に銀髪をそよがせ、目を細めて考え込む顔つきだ。
ふとアーサー様は顔をあげ、
「グレイヒル領は去年も洪水対策による税の減免と援助を申請していたな」
「あ、はい。そうですね。ナイン川が氾濫しやすいということで……抜本的な対策が必要でしょうか?」
「そうだろうな。毎年では予算の無駄だ。領主に話を聞かねばなるまい」
「グレイヒル子爵との会議を設定しますね。馬車を見かけましたから王都にはいらっしゃるはずです」
アーサー様の追及は厳しい。そのぶん、洪水が完全に対策されることは確実だけど、これまでのらりくらりと減免申請だけをしていたのなら、油を搾られるだろう。
グレイヒル子爵、怖いだろうな……と想像しつつ、わたしは自分の手帳に会議の調整を追加した。
お父様の言うとおり、恋人にはなれないだろう。三年の付き合いでも、アーサー様の笑ったところは見たことがない。
いっさいの私情を挟まず政務を処理していく手際から、ついたあだ名は〝氷の宰相〟。
でもわたしからすれば、鋭利な刃のような優秀さにたまらなく憧れるのだ。
ぼーっとアーサー様に見惚れていたら、青い瞳がこちらを見た。
「!?」
「どうした?」
「あ、いえっ! 申し訳ありません」
仕事の手を止めていたことを謝るとアーサー様は不思議そうな顔になり、
「疲れているなら休憩にしよう。このところ忙しい日が続いていたからな」
「そんな、このくらい毎年のことです。わたしは元気ですよ」
「そうは言っても十七連勤だ」
冷静なアーサー様の言葉にわたしは動きを止めた。
十七連勤、かあ……。
それはお父様も心配するはずね。
アーサー様といっしょに仕事ができるのが楽しくて、まったく気にしていなかった。でもアーサー様はきちんと自分たちの働きぶりを把握し、そろそろ疲れが出るころだと予想していたのだろう。
そう、わたしたちは根っからのワーカホリックなのである。
壁には国王陛下直筆の「ノー! 残業! イエス! ワークライフバランス!」という標語が掲げられているが、アーサー様がとんでもない勢いで決裁を処理していくためほかの役人たちがひと息つけているというのはまぎれもない事実であり、国王陛下も強くは言えないらしい。
「茶を淹れる」
表情を変えずアーサー様はそれだけ告げると部屋を出て行ってしまった。
ほどなくして戻ってきたアーサー様の手にはポットとミルク入れが握られている。それぞれを書類が山盛りになっているのとは違うテーブルに置くと、アーサー様は執務室の戸棚を開けた。
「疲れをとるには……ジンジャーにするか」
仕事と同じ手際のよさでティーカップを並べ、茶葉の入った缶を選びだし、ポットに入れて蓋をする。砂時計をひっくり返し、きっちり時間を測ったらティーカップへ――。
ふわりと刺激的な香りが鼻をくすぐった。
そこへ蜂蜜を垂らし、ゆっくりとかき混ぜてからカップを渡してくれる。
ほかほかと立ちのぼる湯気は温かくなったわたしの心みたいだ。
お父様はああ言ったけど。
アーサー様の笑顔を見たことはないけれど。
アーサー様はこうして部下を気遣ってくれる、とっても優しい方だ。
「ありがとうございます……」
「ああ」
赤くなってお礼を言うわたしの向かいで、アーサー様はドバドバと砂糖とミルクを追加した。
頭脳派のアーサー様は糖分摂取に余念がない。びっくりするほどの甘党だ。初見では驚いたが今はもう慣れた風景である。
「それで?」
「え?」
「元気だと言うなら、別の理由があるのだろう。話してみろ」
う……っ!!
心の中で胸を押さえ、わたしはときめきが顔に出ないように表情筋に力を込めた。
疲れているならってハニージンジャーティーを淹れてくれて、そのうえでこれだもんなあ!
憧れの人から尋ねられて、適当にごまかすなんてできない。
「実は、お父様が縁談を勧めてきて……」
アーサー様に関する部分だけは伏せて、わたしは昨夜のやりとりを語った。
父親が大量の縁談を持ち込んできたこと。どうやら自分がきっかけでわたしが仕事に目覚めてしまったことに責任を感じているようだと言うこと。
仕事は続けてもいいと言っているが、よほど結婚相手に理解がなければ、今のようには働けなくなるだろうこと。
話を聞き終わったアーサー様は、「ふむ」と腕組みをした。
「で、結婚するのか?」
「え!? いいえ! しませんよ!!」
しまった。アーサー様部分を伏せたことで、結婚しそうな流れで話が止まってしまった。
「わたしなんて、結婚できるわけがないですし……」
「なぜだ」
「だって、わたし、仕事以外のことは本当になにもできないんです。ご存じでしょう?」
さっきだって、侯爵であり宰相であるアーサー様がお茶を淹れるのを黙って眺めていたのは、手伝おうとしてポットのお湯をぶちまけた過去があるからだ。あのときは徹夜で書類を書き直した。
ダンスも踊れないし、派手なドレスやお化粧も苦手。だから社交界だって出ていない。
同じ年頃の令嬢たちの姿が脳裏によぎる。
みんなかわいらしくて、美しくて、ドレスは似合っていて、男の人とも楽しそうに語りあっていた。
対してわたしはのっぺりとした顔立ちで、アイシャドウを塗ればまぶただけが顔から浮きあがり、口紅を塗れば赤すぎる唇だけが顔から浮きあがる、魔物のような出来栄えになってしまう。
「わたしは仕事に生きていきたいんです」
ちゃんとした笑顔には、ならなかったかもしれない。
宮殿を訪れ、お父様の仕事を手伝ったあの日。
わたしにも役に立てることがあるんだと、嬉しかった。夜会に出てもお姉様のようにはふるまえなくて、どん底に落ち込んでいた自信に、光明が差したのだ。
できる仕事があるなら、一生懸命に取り組んで。
それで、少しでもアーサー様のお役に立てるなら、それがわたしの幸せだ。
「……結婚する気がないというのは、わかった」
わたしの言い訳に、腕組みをしていたアーサー様は深く頷き、同意を示してくれた。
ほっとして、カップに口をつけたところで。
「では、俺と結婚してくれないか?」
いつもの、無表情な、冷酷にすら見える美しいお顔で、アーサー様は言った。
口からお茶を噴出さなかったのを褒めてほしい。
「……はい?」
「承諾してくれてありがとう」
違います、今のは! ……とは言えなかった。