19.ファルとセシリー(後編)
ファル様、と呼びかける前に、わたしの声がセシリー様の呟きに遮られた。
「……ファーガス殿下」
ファーガス殿下!?!?
あ、とわたしは小さく声をあげる。
セシリー様の呼んだその名が呼び水になり、わたしの記憶の扉は盛大に開かれた。
そうだった。四年前、図書館で働いていたわたしは、貴族名鑑の編纂を手伝った。
その際にカエン子爵という爵位を見た。
カエン子爵という爵位は、領地の付属しない爵位だ。というより、昔は領地があったのだが、時の国王陛下に献上されて領地が直轄領となったために書類上その領地はなくなり、王家直轄領となっている。
そういった土地は王家の療養地などに定められることがあり、王族の方々は生まれた土地や幼いころ育った土地などの爵位を名乗ることがある――そう、つまり……。
ハッと気づいたわたしは最大の敬意を表す礼をした。いくら社交に疎いわたしでもこれだけはできる。
「顔をあげて。オリヴィア嬢」
笑いを含んだ声は、やはりわたしの知る人の声だった。
おそるおそる視線をあげれば、そこにいたのはやはり、ファル・カエン子爵。緑の髪を一つに束ね、口元にはゆるやかなほほえみをたたえて。
ただし、正装の今日は、王家の紋章の入ったボタンをつけている。
ファル様――いえ、ファーガス殿下は、わたしの前を通りすぎると、セシリー様と向かい合った。
「セシリー。これを君に」
「ファーガス殿下」
セシリー様はわたしとファーガス殿下が顔見知りであったことにも驚いたようだが、花束をさしだされると、困惑に近い視線を殿下に向けた。
さぐる視線にもファーガス殿下は真正面からセシリー様を見つめ返し、そして。
「君のことが好きだった。ずっと前からだ。……どうしていいかわからなかった。この薔薇を受けとってほしい。そして、その……できれば、もっと二人の時間を作りたいんだ」
セシリー様は両手で口元を覆い、信じられないといった表情だったけれども、ファーガス殿下の言葉に目には涙が滲んでゆく。
わたしはふと、ファーガス殿下の胸元に、スイートピーのピンがついているのを見つけた。スイートピーは、セシリー様がわたしといっしょにさがした、殿下の誕生日花だ。
贈りものを贈るだけだなんて言ってしまったけれど、きっとちゃんと想いはこもっていたのだろう。
セシリー様からの気持ちをファーガス殿下は受けとっていただろうし、同じものを返そうと努力していたに違いない。
涙を浮かべたセシリー様が花束を受けとった。そんなセシリー様を、花束ごと抱きかかえるようにして、ファーガス殿下が破顔する。
ああ、お二人とも、とても幸せそうだ。
「ありがとう、オリヴィア嬢」
第一王子殿下の顔になったファーガス殿下はにこやかに言う。
「君とアーサーを見ていたら、俺も勇気を出さなくてはと思ったんだ。……なにより、直前にあんなに仲睦まじそうな様子を見せつけられてはな」
「そんな、こちらこそありがたいお言葉でございます」
わたしは慌てて頭をさげる。
アーサー様も人垣をかきわけてわたしのそばまで来てくださると、同じように頭をさげた。
今になれば、ファーガス殿下とアーサー様の互いへの態度も、理解できる。
ファーガス殿下はセシリー様をいっそう抱きよせると、その頬にキスを贈り、
「お前らに負けないくらい、俺も今からイチャイチャする!」
と、宣言した。腕の中のセシリー様は真っ赤になっていらっしゃるけれども、はにかんだお顔は決して否定を表してはいなかった。
わたしたちが引き合いに出されるのが不思議だけれど、とにかくよかったなあ……と思ったところで。
「その勝負、受けてたちましょう?」
なぜかわたしの身体もぐいっと抱き寄せられたかと思うと、頬に、柔らかな感触。
さすがにもう、間違えない。これはアーサー様の唇だ!?
わたしが反応できないでいるあいだに、また広場がどよめきに包まれた。
第一王子VS宰相の婚約者とイチャラブ対決が始まったのである、意味がわからなくて当然だ。
ただ、それが祝福すべき対決であるらしいことは、皆が理解した。
「おめでたいことですな、ファーガス殿下!」
「宰相様も!」
「今日はなんとよい日でしょう!」
今度もまた殺到した貴族たちに取り囲まれ、口々に祝いの言葉を述べられながら、セシリー様とわたしは真っ赤な顔のまま視線を合わせて苦笑をこぼした。
人垣の外側で、様子をうかがおうとぴょんぴょん飛び跳ねているティアラ様の桃色の髪が揺れていた。