7
アデリナがロープを掴み、壁面に足を掛けながら、ぎこちない動きで空気穴を上へと登っていく。
「急げ」
ドライオが下から叫んだ次の瞬間、洞穴全体が大きく揺れた。
振動でロープごと揺さぶられたアデリナが、壁面に身体を打ちつけられて悲鳴を上げる。
「ロープを離すんじゃねえ」
ドライオは叫んだ。
「落ちてきたって、構ってやれねえぞ。自分のことは自分でやれ」
耳をつんざく激しい掘削音。
「こっちは化け物のお守りで手一杯だ」
ドライオの言葉に返事はなかったが、アデリナは必死の形相でロープにしがみついていた。
「おう、そうだ。生きるなら必死になれ」
自分を鼓舞するように、ドライオは叫んだ。
「ちゃんと足場を確保しておけ、手だけに頼るな」
「私はいい」
アデリナが叫び返す。
「もう来るぞ」
「わかってらあ」
ドライオが声を張り上げた次の瞬間、暗闇から洞穴いっぱいの巨大な岩石が飛び出してきた。
意志持つ岩石。
岩竜。
怒りの唸り声を上げた怪物は、激しく壁に身体をぶつけながら、ドライオの方を向く。
よし、いいぞ。
ドライオは思った。
ここは岩竜の宝物庫からは、ちょうど洞穴がぐにゃりと歪曲した先だった。
だから、岩竜は一直線にこちらに突っ込んでくることができない。
最大の脅威である、死の突進を防ぐことができる。
そう読んだドライオの勘は当たった。
岩竜の巨体が間近に迫るが、先ほどのような勢いはない。
それでもその四肢には、人間が対峙するにはあまりに圧倒的な生命力が漲っていた。
残酷なまでに明白な、生物としての格の違い。
ドライオの全身が総毛立つ。
吞まれるな。
ドライオは、吼えた。
かつては同じ獣だった遠い祖先の記憶を呼び覚ます、戦士の叫び。
それは、岩竜の起こす地響きにも負けない強さで洞穴に響きわたった。
ドライオは、岩竜を待たなかった。
自ら踏み込んでいくと、振り上げた戦斧を、思い切り岩竜の頭目がけて振り下ろす。
まるで爆発のような音と、火花。
戦斧は大きく弾き返されたが、ドライオは躊躇しなかった。全身の筋肉を躍動させ、その体格からは想像もできない身軽さでそのまま岩竜の上に飛び乗る。身をかわす空間が洞穴にない以上、そこにしか活路はなかった。
「がああっ」
ドライオは獣のように吼えながら、戦斧をもう一度振り上げた。
狙うのは、頭。
とにかく、頭だ。頭を潰せ。
振り下ろす。
鈍い音。
もう一度。
繰り返し、繰り返し、戦斧を振り下ろす。
鍛え上げられた金属と岩とがぶつかり合う音が、洞穴に何度も響いた。
怒りの声を上げた岩竜が、壁に自分の身体を叩きつける。
岩竜と壁面に挟まれそうになったドライオは、とっさに背中の胸像を庇った。
しまった。
それが致命的な失敗になった。
岩竜の圧倒的な質量。
激痛の中で、自分の身体が圧し潰される嫌な音を聞いたドライオは、血を吐き散らしながらそのまま床に転がった。
そこに、岩竜の巨大な足が迫る。だが、とっさに身体が動かない。
くそが。
ドライオは己の甘さを悔やんだ。
俺としたことが、つまらねえ気を遣っちまった。
背中のこいつがなきゃ、もう少しうまくやれたものを。
「ドライオ!」
アデリナの悲鳴。
すまねえな、アデリナ。ルークの回収には、誰か他の戦士をよこしてくれ。
霞む視界の中でそんなことを考えたドライオの目の前で、不意に岩竜がたたらを踏んだ。
低く唸ると、そのままよろめくように壁にぶつかる。
効いてやがる。
ドライオは瞬時に理解した。
俺が何度もぶち当てた斧のせいで、岩竜が目を回してやがるんだ。
それに気付いた瞬間、ドライオはありったけの生命力を振り絞った。
歴戦の戦士の嗅覚が、活路を嗅ぎ分けていた。
痛みには気付かないふりをした。跳ねるように立ち上がると、岩竜に向かって駆ける。そのまま、その巨体を足場にして大きく跳んだ。
届け。
ドライオは熊のような手でロープを掴むと、壁に身体を打ちつけながら両足を踏ん張った。
「ドライオ!」
上から叫ぶアデリナに、ドライオは真っ赤な口で叫び返す。
「行け、早く」
胸像を背負った背中の重みを確かめると、ドライオは歯を食いしばった。
「ぐううっ」
痛みをこらえて、身体を引き上げる。
下から、地響きのような岩竜の怒りの咆哮が聞こえてきた。
ずしん、ずしん、と壁が揺れる。
ドライオは歯を食いしばったまま、空気穴を這い上がった。
狭い場所を抜け、外の光がはっきりと届くようになったとき。
視界が戻ったのだろう。岩竜が激しく壁に身体を叩きつけ始めた。
世界の終りのような地響きだった。
ドライオは息を止め、全身の力を振り絞って、とにかく這い上る。
急げ。急げ、急げ。
怒りに任せた岩竜の大暴れに耐えきれず、ついに空気穴が崩壊した。
すんでのところで、それに巻き込まれずに這い上がったドライオは、岩場の上にたどり着くと、激しく喘ぎながら、自分の登ってきた穴を見た。
ドライオの目の前で、空気穴は内側から崩れるようにして埋まっていった。その底の方から、なおも岩竜の怒りの咆哮が微かに聞こえてきた。
「ああ、くそ。見たか。俺はまた生き残ったぞ」
叫ぶように言うと、ドライオは斧をその場に放り出した。
「えらい目にあったが、とにかく何とかなったな」
袖口で乱暴に額の血を拭い、ドライオは背負い袋を下ろす。
「岩竜が落ち着くまで、しばらくはここから動かねえほうがいい。他の魔物も怖気づいて寄っては来ねえだろうしな」
それに答えず、アデリナは呆然とした顔で日光に晒された金の胸像を見つめていた。
ドライオはその顔を眺め、それから地面に真っ赤な唾を吐いた。
「時間潰しに教えろ」
ドライオは言った。
「こいつが誰なのか。それくらいの義理はできただろうが」
「……ルークは」
アデリナは呟くように言った。
「私の婚約者だ」
「ほう」
ドライオは眉を上げる。
「婚約者、ね」
「ああ。私たちは、愛し合っていた。だが、ルークの実家が没落したことで、婚約は無理やり解消させられてしまった」
「家の格が合わねえってことか」
ドライオは口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「そうすると、お前の家はものすげえ金持ちってことだな」
「金持ちには違いないな」
アデリナが告げた彼女の家の名前に、ドライオは鼻を鳴らす。
「すげえな。世が世ならお姫様じゃねえか」
「何がすごいものか」
アデリナは吐き捨てた。
「そんな家に生まれたせいで、私とルークは引き裂かれたんだ。だが、ルークはそんなことでは諦めなかった」
そう言ってアデリナは愛おしそうに胸像の頬を撫でた。
「家を再興するために、魔物の財宝を得ようとしたんだ。そして、その冒険はほとんど成功しかけた。だが、財宝を手に入れかけたそのときに、奴に気付かれてしまった」
「黄金蜥蜴か」
ドライオは呟く。アデリナは目を見張った。
「よく分かったな」
「そりゃあな。一獲千金を狙うなら、黄金蜥蜴を探すのが一番手っ取り早い」
黄金蜥蜴。
見る者を金に変える力を持つ魔物。
普段は目を閉じたまま生きるその魔物が、ルークの立てた物音に、身の危険を感じて目を開いてしまったのだ。
「ルークはたちまち金に変わり、従っていた戦士と従者は逃げた。知らせを受けた私が従者を連れて駆けつけた時には、そこに残っていたのはルークの下半身と巨大な足跡だけだった。信じられるか? 黄金蜥蜴のねぐらが、今度は岩竜に襲われたんだ。ルークの上半身は岩竜の集めた宝物の一つにされてしまった」
「岩竜は、もともと岩でできてるからな」
ドライオは答える。
「黄金蜥蜴に身体を多少金に変えられたって、痛くも痒くもねえだろう」
「私は、虚しく下半身だけを持ち帰ることになった」
アデリナは言った。
「持ち去られたルークの上半身を探すために、ありとあらゆる情報を集めたんだ。ほとんどは金目当ての取るに足らない偽情報だったが、その中に岩竜のねぐらの空気穴の話があった」
「なるほどな」
ドライオは、ルークからじっと目を離さないアデリナの顔を見た。
「その話は本当だったわけだ」
「ああ」
「だが、探し当てたはいいが、この後どうするんだ。婚約者の身体は真っ二つだし、黄金に変わっちまったまんまだ」
「方法を探すさ」
アデリナは答える。
「人を金に変える力があるのなら、その逆の力だってあるはずだ。上半身と下半身を繋ぎ合わせる方法だって、この世界のどこかにきっと必ずある。だからルークの像を復元した上で、元の身体に戻す」
さて。そんなうまい方法があるかね。
見つかる前に、婆さんになっちまわねえといいがな。
ドライオはそう口にしかけたが、アデリナの表情があまりに真剣だったので、危うく飲み込んだ。
「情報を掴んだら」
そう言って、アデリナは潤んだ瞳でドライオを見た。
「その時はまた力を貸してくれるか。ドライオ」
「ふん」
ドライオは不機嫌に唸る。身体を揺すり、服のあちこちから金貨を取り出した。
「岩竜のねぐらに飛び込んで、これっぽっちしか手に入らなかったんだ。もうお前には付き合わねえよ」
そう言うと、大儀そうに立ち上がる。
「まずは、まともな戦士の雇い方を覚えるんだな」
「お前が教えてくれるのか」
「俺はもうごめんだって言ってるだろうが」
ドライオは鼻を鳴らすと、岩場の下に目を向けた。それから、にやりと笑う。
「だが一つ、いいことを教えてやるぜ」
「何だ」
「お前の連れてきた馬は、賢い」
そう言って、ドライオは眼下の荒れ野を指差した。
「地下で岩竜があんなに暴れてたのに、ちゃんとあそこで待ってるぜ」
アデリナがようやく胸像から顔を上げ、下を覗き込む。
「さあ、そろそろ行こうぜ」
ドライオはそう言うと、戦斧を拾い上げた。
「鷹岩とは別のルートで帰らなきゃならねえからな。お前のルークはあの馬に乗っていってもらおう」