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最初は手や足を掛ける場所がそこかしこにあり、登りやすかった岩場も、上に上がっていくにつれ徐々にその様相を変えてきた。
危なっかしく足を揺らしたアデリナが落とした小石を、舌打ちして手で払いのけてから、ドライオは、左足はまだだ、と叫んだ。
「右足をもう半歩そっちに寄せろ。そうだ、それで左足が隣の出っ張りに届くだろ」
下からアデリナの動きに注意を払い、逐一助言を送りながら、ドライオ自身は何重にも巻いたロープを肩に担ぎ、危なげなく岩を登っていた。
なるほど、こんなところにある穴なら今まで誰にも気づかれなかったのも頷ける。
ドライオは振り返って眼下に広がる荒れた草原を見ながら、そう思った。
アデリナの態度は少しばかり心配だが、期待してもよさそうだ。
崖に向き直り、熊のように大きな手で出っ張りを掴む。
「よし、そうだ。そこを掴んで自分の身体を引っ張り上げろ」
アデリナに最後の指示を送り、その身体が岩場の上に見えなくなったところで、ドライオは自らも大きく腕を伸ばして最後の登攀を始めた。
「こんな危ねえ草原で、わざわざ岩登りをする酔狂なやつはいねえから、誰も気付かなかったのも頷ける」
ひざまずいて、岩場の上にぽっかりと開いた穴を覗き込みながら、ドライオは言った。
「よく見付けたな。誰だか知らねえが、こんなところを」
「全くの偶然だったそうだ」
ドライオの傍らに立つアデリナは静かに答えた。
「魔物の群れに追われて、やむなくこの岩場の上に逃げたら、ぽっかりと穴が開いていたと言っていた」
そう言いながら、穴の奥の暗闇をじっと見つめる。
「この情報を手に入れるのに、ずいぶんと金を使った」
「そりゃそうだろうな。誰だって垂涎の話だ」
ドライオは頷く。
「そいつは自分では来なかったのか」
「穴を見付けた後で、街に戻るまでに片脚を失ったそうだ。もう宝探しのできるような身体ではなかった」
「そうか」
ドライオは肩をすくめ、ロープを解き始める。
「昨日話した通り、俺が先に下りる。安全を確認したら、お前が下りてくる。それでいいな」
「ああ」
アデリナは頷く。
「それでいい」
「俺たちだけで岩竜に出くわしたら、万に一つの勝ち目もねえ。そのときはどんなにお宝が目の前にあったって逃げるんだ。いいな」
「そんなことは分かっている」
アデリナのそっけない返答に、ドライオは鼻を鳴らす。
「いいか、誰だって分かってるんだ。宝を実際に目の前にするまではな」
そう言って、じろりとアデリナを見上げる。
「俺の指示を守らなかった時の責任はとれねえ」
ドライオは重ねて言った。
「その時は、死ぬからな」
「分かったと言っている」
アデリナは苛立ったように答えた。
「さっさと降りろ」
「焦るんじゃねえよ」
ドライオは岩場に根を下ろした灌木にロープをしっかりと縛り付けると、数回それを引っ張って強度を確認した。
「よし」
相棒の戦斧と大きな背負い袋以外の荷物を全てそこに置くと、小さなランプを手にドライオは穴の縁に足を掛けた。
「じゃあ行ってくる」
「ああ」
頷くアデリナを一瞥し、ドライオはゆっくりと穴に降下を始めた。
途中、巨漢のドライオには窮屈な場所がいくつかあったものの、彼はなんとか穴の底に下りることに成功した。
鼻をひくつかせるまでもなく、穴の中には強い獣の臭いが充満していた。
それは、この穴が間違いなく岩竜のねぐらであることの証でもあった。
「……期待しねえわけにはいかねえな」
ドライオはそう呟くと、そろそろと暗闇の中を進み始めた。
ランプは掲げることなく、なるべく下に向ける。
万が一にも、灯で岩竜を刺激するわけにはいかなかった。
だが、しばらく進んだところで足を止めた。
こっちじゃねえ。
岩竜の臭いが強くなっていた。
地上にあった岩竜の洞穴の入り口からいって、奥に進む道はこちらかと思っていたが。
どうやらこのねぐらは地中で複雑に曲がりくねっているようだ。
ってことは、こっちに進むのは命取りだ。
自ら進んで岩竜に鉢合わせるような愚かな真似をするわけにはいかない。
だが、逆に言えば。
ドライオは素早く身を翻すと、元来た方向に駆け戻る。
こっちは安全ってことだ。
自らが下りてきた地点まで戻ると、ドライオは垂れ下がっているロープを強く五回引っ張った。
それは、下りてこいという合図だった。
ほどなくしてアデリナの身体が見えた。
遥か頭上の空気穴から入る光は、ごくわずかだ。
ドライオは小さくランプを揺らしてアデリナに合図した。
「臭いな」
危なっかしく穴を下りてきたアデリナは、鼻を手で押さえて獣臭さに辟易した顔をした。
「岩竜は眠っているのか」
「知らねえ」
ドライオは首を振る。
「ただ、いるのは向こうだ」
そう言って、先ほど確認した一方を指差す。
「だから、正解はこっちだ」
「そうか」
アデリナは頷く。
「それなら、急ぐぞ」
「ああ」
ドライオは先頭に立った。ランプの灯を頼りに、慎重に奥へと進む。
ごつごつとした岩肌の洞穴とはいえ、巨大な体躯の岩竜が行き来する場所だ。人間である二人には十分に広い通路だった。
時々、岩壁に残された巨大な爪痕や岩同士のこすれ合ったような痕跡を目にするたび、アデリナは顔を強ばらせた。
ドライオも、それを確認して内心舌打ちする。
岩竜の生態はよく知らねえが、この通路を頻繁に行き来しているのは間違いないな。
宝物を銜えて帰ったとき以外にも、ちょくちょく見に来てやがるぞ。
今眠っているからって、安心できねえってことだ。
やがて、まるで自然にできた階段のような段差を数十段も下りたところで、ランプの灯に照らし出された光景に、二人は息を呑んだ。
「すげえ」
ドライオは思わず呟いた。
赤、青、紫、緑。
蠱惑的な輝きを見せる宝石が、数えきれないほどの金貨の上にいくつも無造作に転がっていた。
金貨のところどころから、精緻な作りの装飾品も顔を覗かせていた。
「岩竜の財宝だ。これだけありゃ、一生遊んで暮らしたって余るぞ」
だが、アデリナはそれに答えず、ドライオの脇をすり抜けて財宝の中に突き進んでいくと、素手で金貨の山をひっくり返し始めた。
「おい」
ドライオが声をかけるが、アデリナは振り向きもせずに一心不乱に金貨をかき分けながら、言った。
「他の物はいくらでもくれてやる。だからお前も探せ」
「…ああ」
それでようやくドライオも思い出した。彼ともあろう者が、目の前にした財宝の絶景に、依頼のことを忘れてしまっていた。
「金の胸像、か」
最初からアデリナの欲しているのは、それだけだった。財宝などは、護衛の戦士を釣るための餌に過ぎない。この光景を目の当たりにしても、それは揺るがないようだった。
ドライオは、自らも金貨の山を掘り返し始めた。
だが、すぐにその行為がひどく物音を立てることに気付く。
「おい、アデリナ」
脇目も振らずに金貨をかき分けるアデリナに、ドライオは声をかけた。
「ちょっと音がでかい。これじゃ岩竜に気付かれちまう」
だが、その声はアデリナに届いていないように見えた。
苛立ったようにアデリナの放り捨てた豪華な冠が、岩の床に落ちて大きな音を立てた。
「おい、アデリナ」
ドライオはもう一度言った。
肩越しに覗いたアデリナの顔は、まるで何かにとり憑かれているように見えた。
「ルーク」
そう呟くのが、ドライオにも聞こえた。
「ルーク。ルーク」
うわごとのようにそう呟きながら、アデリナが金貨をかき分ける。
怪訝な顔をしたドライオは、歴戦の戦士の経験で、その意味するところに勘付いた。
「おい、まさかそのルークってのは」
「ああ、くそ。邪魔だ」
アデリナが、金貨の山に突き刺さっていた宝剣を乱暴に投げ捨てる。
宝剣は床を転がり、乾いた音が洞穴の奥へと響いていく。
「やめろ」
ドライオは駆け寄ってアデリナの腕を掴んだ。
「正気か。岩竜に気付かれるぞ」
「ここにいるんだ」
アデリナは身をよじってドライオの腕から逃れようとした。
「ルークが、ここに」
美しい金髪を振り乱し、アデリナがドライオを睨みつける。整った顔だけに、それは凄絶な表情だった。
だが必死に力を振り絞っても、女の力では戦士の太い腕からは逃れられなかった。
「やめろ、アデリナ。落ち着け」
低い抑えた声で、ドライオは彼女を説得に掛かる。
「お前のルークは見付からねえ。そんなことをしていたら」
その言葉を遮るように、ずしん、という地響きがした。
ドライオはアデリナの腕から手を離して、背中の戦斧を手に取る。
「来ちまった」
深いため息とともに、戦士はそう言った。