幸せが、そこにあった。私のものではない幸せが。
7年前、父を失った。蒸し暑い朝だった。母は私を叩き起こし、
「救急車を呼んで!早く!!」
と叫んだ。
何が起こっているのか訳もわからず、ただ恐怖だった。受話器を取る手は緊張と恐ろしさで震えていた。隣の部屋から蘇生の音が聞こえる。
119だ、早くしないと!119だよ!
どれだけ思っても体が言うことを聞かない。
呆然と立ち尽くし、涙はあふれるばかりだった。
時間が経つ。
受話器はいつの間にか床に落ちていた。
わずか5分は永遠を呼んだ。日常が崩れていく。
母が泣き叫んだ。
私は、人殺しだ。
思い出したくもない記憶。涙がポツポツこぼれる。
不意にアナウンスが流れた。
「詩河岬」
ここが、七年ぶりの思い出の底。父との思い出の地だ。列車が停まる。
暑苦しい風が私のスカートを揺らした。
なんにも無い駅と自分のうわぐつを見比べて、思わず笑みがこぼれてしまった。
晴れやかな気分だった。
改札を通り、停留所へと向かう。太陽が私を照らしつけた。
ベンチに座ってバスを待つことにする。
どうせ行くあてもないし、ゆっくり行こう。
バスには高齢のおばあちゃんが一人乗っているだけで、クーラーが効きすぎているほど空いていた。
頬ずえをつき、動き出す景色を眺める。
懐かしい街の景色はところどころ変化していたが、どこか切なく寂しい雰囲気は変わっていなかった。
終点の停留所が見えた。
セミの声が私を包む。
緑に照りつける夏の日差しが目に焼き付いた。
よく行っていたスーパー。
店内は人の気配がなく、クーラーの冷気が肌に刺さった。
大好きだったお菓子コーナー。
見上げてギリギリ見えるほど高くにあったグミは、ちょうど胸の高さにあった。
よく父に買ってもらっていたっけ。
のどが渇いていたから、ラムネを一本買った。
外に出て、汗をかいたラムネを頬につけてみる。
ひんやり冷たくて、泣きあとに触れると妙に心地がよかった。
小学校の周りを一周してみた。
何年か通っていてそれなりの感慨もあるかと思ったけど、案外何もなかった。
鉄棒、タイヤ飛び、二人乗りのブランコ、つる性植物のグリーンカーテン。
全てが思い出のまま、固まったままだった。
何だか拍子抜けしてしまって、公園のベンチで考えごとをしていた。
この場所は確かに過去だけど、過去ではない。’今’が生きている。
つまり、過去があれば今も未来もついてくる......?
じゃあ、未来から逃げられるの?
答えの分かりきった問いから逃げるように、ラムネの汗がしたたるのをただ無心で見えていた。
記憶をたどりながら、昔住んでいた家へ向かった。
通学路は案外覚えていた。頭が重い。
なにかが飽和しそうで、でもそのなにかが分からなかった。
下を向き、泣きながら歩いた。セミの抜け殻がそこら中に転がっている。
到着したそこには、生活があった。
ピカピカとは言えない表札。
小さな2つの自転車。
黄色と青とで組まれた朝顔の植木鉢には、ひらがなで大きく名前が書いてあった。
いくつもの花を咲かせ、支柱につるが巻き付いていた。
家のなかから子どもたちと大人の笑い声が聞こえてくる。
幸せが、そこにあった。
私のものではない、幸せが。
ずっと苦しいままなんて、そんなの、辛いだけじゃん。涙があふれた。