1日目:花火の夜に(3)
やや人がまばらになった道路沿いのエリア。花火は見えづらいが人口密度は低い場所で、グレンは道路と土手を隔てる木の柵に体重を預けながら待っていた。彼もまた濃紺の浴衣を着ており、手持無沙汰に頬杖を付いて花火を眺めている。
やがて戻って来たワイトの姿を認めると、うんざりした口調でグレンは眉を顰める。
「お前、どんだけ食えば気が済むんだよ」
「え? クレープとお好み焼きとたこ焼きとかき氷と」
「もういい黙れ」
グレンは露骨に呆れた表情を浮かべた。
「お前、何しに来たか分かってんのか」
「花火大会だろ」
「違ぇよ! いや間違ってないけど違ぇよ! 本題はそこじゃないだろ!」
「本題じゃなかったとしても、どうせ花火大会に来るんなら楽しまなきゃ。
それにアオだって浴衣着て雰囲気を楽しんでんじゃんか」
「お前に無理やり着せられただけだろうが! なんで野郎と二人で来た花火大会で浴衣なんざ着なくちゃいけねぇんだよ……!」
溜め息を吐いてグレンは右手で顔を覆う。確かに周りを見渡せば、浴衣を着ている男性はカップルか男女混合のグループに少数いるくらいだ。
だがワイトはさして気に留めず、しれっと言った。
「なんだよ、祭りには浴衣って相場が決まってんだろ。それに、この後あいつらと対峙することになったら、あれは浴衣の方が圧倒的に合うじゃんか」
「……あれ、本当に付けるのか?」
「バレたくなきゃね」
「そりゃ、バレたかねぇけどよ」
「この状況で隠すんだったら一番自然じゃん」
「自然……いや自然っつうか、いやでも雰囲気としちゃ自然……」
やや口ごもり気味に悶々と悩みながら、グレンは頭を抱えた。
ワイトはグレンの隣に並び、たこ焼きのパックを空ける。
「ともあれ、もう大体満足したから、あとは一緒に待機してるよ」
「これ以上ふらふらするっつんなら流石にキレてたけどな」
たこ焼きをつまみながら、疲れたようにグレンはまた頬杖を付いた。自分もたこ焼きを口いっぱいに頬張りながらワイトは尋ねる。
「そんで、あいつらはどこに居るのさ」
無言でグレンは懐からオペラグラスを取り出してワイトに渡すと、前方を指差す。ワイトは彼の示した方角へそれを向けた。夜間の為ほとんど顔は確認できないが、シルエットや雰囲気でぼんやりとそれらしい人影は認識できる。
「街灯が立ってるところのちょっと右側辺りのやつ?」
「ああ。あの浴衣を着た四人組の騒がしそうな集団だ」
「目標、確認っと。……って」
一瞬、オペラグラスから目を離して怪訝な顔を浮かべてから、再びワイトはじっとレンズを覗き込んだ。
「……ところてん?」
「は?」
「いや、こっちの話。……ま、いっか」
ちらっと舌を出しながらワイトはオペラグラスをグレンに返す。
「にしても、こんな遠くからで術が届くのかよ?」
「補助装置があるから問題ない。遠距離攻撃の練習は散々したし、この距離だったら失敗はしねぇよ」
彼らのいる場所と、目的の人物がいる場所までは百メートル程の距離があった。だがオペラグラスを覗き込みながらグレンは特に気負いなく言う。
と。彼が間合いを図るように四人を見つめていると、一人がにわかに振り向いた。花火とは真逆の、グレンたちがいる方角をじっと眺めている。オペラグラス越しに視線が合ったような気がして、ぎょっとしてグレンは目を離した。
「どうしたの、アオ」
「気付かれた? ……いや」
もう一度、恐る恐る彼はオペラグラスを覗き込む。その人物は訝しげに辺りを見回してはいるが、グレンのことまでは気が付いてはいないようだった。
「まさか。この距離でこの人混みだろ」
「でも、何か察してる様子だった。……もしかして」
グレンは口に手を当てて考え込む。
「……そういえば、あいつらには俺と同属の奴がいたよな」
「まさか、共鳴? うっわ、マジかよ。タイミング悪いなー」
グレンは顔を顰めて、念の為オペラグラスを懐にしまいながらも首を横に振った。
「今の段階なら直接の面識はねぇし、見つかることはないだろ。もし今後も接触を続けりゃ、あいつには早晩気付かれるだろうが、今夜中に片を付けりゃいい話だ」
ワイトは「まあそっか」とグレンの台詞に納得したところで、最後の一個となったたこ焼きを平らげる。
「今後、どういう行動しろって言われるかにもよるけどな。けど、こうなっちゃ何が何でも今日中に確認しなきゃ厄介だな」
「はっきりさせなきゃならねぇだろ。あの野郎にこれ以上、嫌味を言われねぇ為にもな。
ようやく掴んだ糸口なんだ。……当たりであってくれよ」
執念のこもった眼差しで、グレンは前方の河川敷を見つめた。
夜空には巨大な花火が打ちあがっている。何発目かの巨大なしだれ柳が視界を覆い、風で煙ごと掻き消えた後に、色とりどりの花火が次々打ち上がり、軽快な音と色彩とが空を埋め尽くした。ワイトは夜空を見上げる。
「グレン、スターマイン。……次がナイアガラだ」
ワイトの言葉に、グレンもまた空を見上げた。彼は一歩後ずさり柵から離れると、懐から黒い手袋を取り出す。手袋の先端には布が無く、指の部分が外に出るようになっている。それを素早く手に嵌め、意を決したように前方を見据えると、グレンは告げた。
「作戦、……開始」
ワイトもまた同じ手袋を嵌め、身軽に柵の上に腰かけると、グレンと同じ方角を向きながらくっと口角を上げた。
「了解」
華やかなスターマインが終わると、これまでよりずっと低い位置で滝のような幾重もの光の筋が輝きだすのが見える。それを合図とばかりに、これまで座り込んでいた観客は一斉に立ち上がった。四人も慌てて立ち上がる。
ナイアガラは低い位置に展開しているので、立ち上がっても他の観客に邪魔されなかなか良く見えない。一番背の低い杏季は飛び上がるようにして必死になっていた。
だがその中で一人、奈由だけは怪訝な表情を浮かべたまま、ナイアガラを堪能するでもなく立ち尽くしている。周りに合わせて立ち上がったはいいものの、他の皆のように花火を鑑賞する気にはなれない。
何かが背について離れないような、そんな妙な感覚が先ほどから彼女を襲っており、もやもやとした気持ち悪さを感じてしようがなかったのだ。
――……何。何なの。
周りを見回しても、そこにはナイアガラを鑑賞する人々がいるばかりであった。眉根を寄せて奈由はまた前に向き直る。
そして自分の思索に対し、奈由はひっそり訂正をした。
――何、……というよりも。
――誰……か?
根拠もなく思った、その時。
ちくり、と、何かが全身を貫いた気がした。ぴくっと彼女の手が意図せず反応する。
一瞬遅れて、彼女は自分の異変に気が付いた。
身体が、動かない。
完全に硬直している訳ではなく、動かそうと思えば動かすことはできる。しかし動作は酷く緩慢で、油の切れたロボットのようにぎこちない動きしかできない。
目線だけは意思通りに動かせたため、奈由は他の三人を視線で追った。
赤の他人である他の観客は気付く様子もないが、今まで彼女たちと一緒に過ごしていた奈由は違和感を覚える。
潤は腕を動かそうと試みているのか奇妙な角度で曲がっているし、春は首を明後日の方向に動かそうとしていたし、杏季は飛び上がっていない。
どうやら奈由を含めた四人が皆、同じ状態に陥っているようであった。
感覚という感覚が鈍っているようで、外気が皮膚を撫ぜても、手首を動かしてみても、自分のはずなのにどこか他人事のようにしか感じられない。それはどことなく歯医者で受けた麻酔の感覚と似ていた。
彼女らは他の観客に囲まれた喧噪の中で、やおら闇の空間に静止した。
が。
突如、目前で眩い光が弾けたように思えた。同時に耳鳴りのようなキンという音が身体の奥底から響き渡り、倒れ込みそうな眩暈に襲われる。
しかし一瞬の後にそれが収まると、先ほど身体が動かなくなったのと同じくらい、不意に彼女たちの身体は自由になった。急に自由になった身体に今度は戸惑い、奈由は自分の手の平をそっと握りしめる。
「何? 何、今の!」
上ずった調子で口を開いたのは潤である。他の三人は咄嗟に返答をすることが出来ず、ただお互いにお互いの顔を見合わせた。
ふと辺りを見渡せば、頃合いよくナイアガラが終わり、観客は元いた席に座り始めたところである。四人は挙動不審に辺りを見回しながらも、元の場所へ座り込んだ。
「みんな、……さっき動けなくなってた、よね」
春の言葉に三人は頷く。自分の腕をさすりながら、杏季は気味悪そうに身を縮めた。
「わああ、何なの今の。怪奇現象?」
「怪奇、じゃなく。……故意、だと思うよ」
小声で奈由が言う。
「確証は、ないけどね」
彼女の言葉に春は目を見開いた。しかし奈由もその先は続けようとしない。ちらりと肩越しに彼女は後ろを振り返るが、引き続き花火を楽しんでいる人混みがあるばかりだった。
四人の困惑はお構いなしに、花火のプログラムは終焉へ向けて突き進む。感覚の戻った身体には、花火の爆ぜる太鼓にも似た音が心臓まで響き渡り、虹彩には鮮やかな光の花が映し出されていた。
戸惑いながらも、彼女たちはただ黙って、今年の夏を彩る夜空を見上げた。
間もなく。花火大会は、終わろうとしていた。