1日目:樹上の虫かご(後)
第一体育館の入り口の扉はぴったりと閉ざされていた。
少しの間躊躇してから、潤が扉に手をかける。そろそろと開けるが、隙間から覗く限り視界には何もない。
ややあって、潤は勢いよく扉を全開にした。背後から、春が用心しつつ左右を見回す。
「……とりあえず何もいなさそうだけど」
「ちぇー何だよ拍子抜けだなぁ」
潤は体育館内に入り、照明のスイッチを押した。他の三人も後に続くが、がらんとした体育館には虫どころかボール一個落ちておらず、ただ平坦な床が広がるのみだ。
緊張感の切れた春は、固くなった体をほぐそうと腕を伸ばす。そうして思い切り背伸びしたところで。
不意に動きを止めた。
春の視線につられ、三人は天井を見上げる。同様に彼女たちは固まり、潤は口をひくつかせた。
しばらく四人は無言でそうしていたが。
やがて誰にともなく数歩後ずさり、そのまま廊下に戻って扉を閉めた。
「おい。何故閉めた貴様」
「やかましい。お前も逃げただろタラシ」
「タラシは関係ねーだろ変態!」
小声で罵り合ってから深呼吸し、再度、潤は扉に手をかける。
今度は先ほどよりも慎重に扉を開け、四人は恐る恐る中を覗き込んだ。
「生命の神父ですね」
「……もしかして神秘って言いたいのかい、あっきー」
「あ、うん神秘神秘」
「神秘か……そりゃあもう神秘だよね……」
春は深く溜め息を吐き出す。
四人が見つめる先。
体育館の天井には、一匹の蜘蛛が鉄筋と鉄筋の間に巣を張り巡らせていた。全身が黒く、脚には毛がびっしりと生えている。
蜘蛛の生態に明るい人物がいなかったので、それがどういった種なのかは分からない。だが、ただの蜘蛛でないことは誰の目にも明らかだった。
何しろ蜘蛛の大きさは、悠に二メートル近くもあったのだから。
「虫退治、たいしたことないって言ったのは誰だっけ……」
「春日先生」
「あぁ……なら仕方ない……春日先生なら仕方ない……」
遠い目で春と潤はぼやく。
これまでの所業を棚に上げ、気遣わしそうな面持ちで杏季が言った。
「何もしないんだったら別に大丈夫なんじゃないの? むやみに退治しちゃうのはかわいそうだよ」
「あっきーお前、巨大蜘蛛を前に何を言ってんの!? 駄目駄目駄目駄目無理! 共存は無理!」
「流石に現実逃避できないサイズだよ!? あんなのが体育館にいたらクラス全員体育ボイコットだからね!?」
ぶんぶんと首を横に振って潤と春はその案を却下した。
と、ふと春は妙案が浮かび、杏季に提案する。
「そうだあっきー。なんか蜘蛛の天敵とか呼び出せない?」
「なるほど! 了解なのです!」
手を打った杏季はにへらと微笑むと、早速両手を広げ、手の平を上空に向けた。
「かもーん、蜘蛛さんの天敵!」
ポン、という音がして杏季の頭上から煙が上がる。煙の中から、杏季に呼び出された生き物が姿を現した。
巨大蜘蛛と対抗してか、普通よりはかなり大きめサイズの美しい色をした、
蝶だった。
「待て待て待て待てチョウチョって! 蝶って!」
「でっかいクモさんに対抗して、でっかいちょーちょさん!」
「対抗できねぇぇぇ! やられる! 確実に蜘蛛に喰われるわ!」
潤の言葉にあどけなく答えた杏季へ、春が彼女の誤りを的確に指摘する。
「あっきーソレ蜘蛛『の』天敵じゃない! 蜘蛛『が』天敵だ!」
「……ああ!」
「『ああ』じゃねぇよこんの十歳児がァァァ!」
潤の叫びへ言い訳るように杏季が取り繕った。
「だって蜘蛛といったら蝶でセットなイメージが!」
「確かに分かるけど力関係が逆! 無理!
いいからあっきー戻して! このままじゃ目の前で蜘蛛が蝶を食べるとこアップで目撃するグロいことになっちゃうから! 昆虫学者もびっくりな展開だから!」
春に促され、慌てながら杏季が蝶を引っ込めた後。
丁寧に春は彼女へ言い含めた。
「今度は天敵を間違えないで出してね。ハブとマングースでいうマングースの方だからね」
「うん、分かった!」
杏季は笑顔でまた両手を掲げる。やけに自信たっぷりの彼女の口調に、春はどことなく嫌な予感がした。
「ていっ!」
またあのポンという軽快な音がして煙と共に出てきたのは、体長30センチほどのマングースだった。
予感は的中した。
「……戻しなさい」
杏季に頼るのを止め、四人はひとまず他に生物が潜んでいないか探索することにした。蜘蛛の天敵、といっても、あのサイズの蜘蛛に対抗できる生き物がにわかに思いつかなかったからである。
四人はなるべく音を立てぬよう、そろそろと壁際伝いに移動する。
元より体育館内に部屋はほとんどない。鍵のかかって入れない場所を除けば、後は体育館正面に位置する舞台と、その上手・下手のスペースだった。今は舞台が幕で閉ざされていて、中の様子は確認できない。
四人は下手側と上手側に分かれて調べ始める。
「んー、とりあえず下手には何もいねーみたいだけど……はったん、上手はどうよ?」
「こっちもいないよ。隠れてもなさそう。あっきー、音効室は?」
「いないよー。やっぱあの蜘蛛さんだけなんじゃないかなぁ」
異常なしの報告に肩透かしを食らい、仕方なしにまた蜘蛛のいるエリアへ戻ろうとした時だ。
舞台から、がたりと大きな物音がした。
音に反応し顔を上げた潤は、まだ一人、報告の声を聞いていないことを思い出す。奈由だ。
舞台へ続く階段を一気に駆け上がると、ステージの隅で奈由がへたり込んでいた。潤は慌てて彼女に駆け寄る。
「なっちゃん、どうした!? 何かヤバい奴でも」
「……あ」
ふるふると小刻みに震えた奈由は小声で何事か呟き、舞台の中央を指差した。
指の先を視線で追った潤は、そのまま絶句する。
舞台の上には、大きさにして二十センチほどの巨大なプラナリアが一体、照明に照らされながら横たわっていた。
遅れて到着した春と杏季も、その異様な光景に目を奪われる。
呆気にとられるを三人余所に、奈由は惚れ惚れとした表情を浮かべ、耐えかねたように声を漏らした。
「プラナリア……ッ! 可愛いっ……!」
「可愛いか!? 果たしてアレが可愛いか!?」
「可愛いに決まってるじゃん!」
「断定した!」
キッと潤を睨んで言い返してから、奈由は拳を握りしめ、朗々と宣言した。
「諸君、目的は達成した! 綺麗な水と水槽を準備して祝杯だ!!」
「落ち着けなっちゃん! 元の目的そっちじゃない!」
「大変、ぐったりしてる! 可及的速やかに保護しなければ!」
「ぐったりっていうか、形状的に元からそいつそうじゃない!? とりあえずそいつは無害だから置いといて、蜘蛛どうにかしようか!」
「やっぱり検証すべきは再生能力だけど一般的な個体と比較するために川辺にいって数体捕獲してこないと、でもそうか切断実験には一週間の絶食が要るから今のぷーちゃんの栄養状態が明白でない以上実験ができるのは」
「っていうかもしもし!? もしもし聞いてるなっちゃん!?」
プラナリアの発見に浮かれる奈由は、すっかり自分の世界に入ってしまったようだ。一人でぶつぶつと何事か呟き始め、潤の言葉も耳に入っていないらしい。
業を煮やした潤は、とんとんと杏季の肩を指先でつついた。
「あっきー。このままじゃなっちゃんが止まらん。手荒な手段だが仕方ない、アレを召還してくれ」
「……大丈夫?」
「この際だ。危なくなったらすぐに戻すように」
「らじゃ!」
言われて杏季は両手を空に掲げる。件のぽん、という音と煙と共に現れたのは、一匹の小さなポメラニアンだ。
くーん、と召還された犬が切なげに鳴く。
その声に反応し、奈由の肩がぴくりと動いた。視線を上げた先、そこでポメラニアンと目が合い、彼女は固まる。
「……め」
「め?」
潤が反芻するが返事はない。代わりに彼女は、右手を犬に向け。
にわかに、カッと目を見開いた。
「滅せよ地球外生命体!!!!!」
一喝するなり、奈由の背後から、床を突き破って何本もの茨が生える。背筋に冷たいものが走り、潤と杏季はヒッと小さく悲鳴を上げた。
「あっきぃ戻せーーー!!!」
「らじゃーーーーー!!!」
素早く杏季は犬を戻す。次の瞬間、奈由の放った茨は犬の消えた場所へ突き刺さった。間一髪だ。
たたらを踏んでから、奈由は据わった目で潤に詰め寄った。
「何ていうことを……してくれるんですか……」
「だ、だってこのままじゃなっちゃん、日本語通じなさそうだったし」
「そうですけど……よりによって、地球外生命体……」
肩で大きく息をつき、奈由はその場にへたり込んだ。隣のプラナリアさながらに力がない。
粘菌類や植物は好いているが、奈由は犬が大の苦手なのだ。特に人が好んで飼うような小型犬の類は、「あれは人間に取り入り地球征服をもくろんでいる目だ」と地球外生命体と呼んではばからない。
荒療治ではあったが、ひとまず奈由を正気に戻すことには成功したようだった。
「……まあ。ともあれ一刻も早くぷーちゃんを保護するために、まずはあの蜘蛛を一秒でも早く退治することが先決だね」
「そ、……そうだね。薬だっていつ効き目が切れるか分からないし、やるなら早めに片を付けないと」
奈由が突き破った床の様子を心配しながらも、春は同意した。
彼女たちは幕の隙間からそっと蜘蛛の様子を伺う。巨大蜘蛛は変わらず天井に鎮座していたが、先ほどより巣が広がっているようだ。
杏季は口元に手を当てて考え込んでいたかと思うと、不意に舞台から飛び降り、両手を前に突き出してまた生き物を呼び出した。
今度現れたのは、鳥の中では巨大でも種としては普通サイズの鷹である。杏季は二言三言、鷹に囁くと、天井に向けて放った。
「とりあえず、巣を小さくすれば逃げるところが少なくなるかなって思ったんだけど」
「でかしたあっきー」
春が指を鳴らす。
一飛びで天井に辿り着いた鷹は早速、巣を破壊しにかかっていた。足場が減り、必然的に蜘蛛の動けるスペースは狭くなる。
「じゃあ、次は詰めで」
やる気を出した奈由も体育館の床に飛び降りると、右手をすっと伸ばして、下から上にすくい上げるように手を動かす。
彼女の手の動きに合わせるように、窓の近くの床から細い蔓がにょきりと生え、壁伝いに成長し始めた。
春が冷や汗をかきながら呟く。
「また床から蔓が……」
「大丈夫、はじっこだから誤魔化せばなんとかなる」
春の懸念に、涼しい顔で奈由は嘯く。
蔓はやがて天井まで達すると、蜘蛛を捕らえ脚の一本一本に絡みついた。蜘蛛はぴたりと動きを止める。蔓を噛み切るにしてもすぐにとはいかないだろう。
「……はい、拘束しました」
「うおっしゃ!」
潤が笑みを浮かべて拳を握る。
「じゃあ、あーとーはー私が蜘蛛に止めを刺すだけ、っと。……ってうわっ!」
勇んで前へ進み出ようとした潤の首根っこを春が掴んだ。潤は意味ありげな笑顔で春の方を振り向く。
「……何かなあ、はったん?」
「いやあ。つっきーよりも私が行った方がいいかな、と思いまして」
春は潤の肩にぽんと手を置き、取って付けたような笑顔で言う。
「ほら、水だと下に落ちてきちゃうし、水かかるとつっきー大変じゃん? だけど電撃だったら後腐れないし床濡れないし」
「いや大丈夫だよこれしき。はったんの手を煩わせるまでもないさ!」
「何言ってるんだい、今までの虫退治で疲れてるだろう? つっきーは休んでなよ、私がやっとくからさ!」
「大丈夫、潤さんは疲れ知らずだから。それにほら、さっきのはただの余興だろ? 本番はこれからじゃねーか」
二人はふっと真顔になり、本性を出してまくし立てはじめた。
「お前、私の出番盗るんじゃねーよ! さっきだって私のエモノ後からトドメ刺しやがって! いくら雷が派手で格好いいからってなめんじゃねーぞ! そんなに私が活躍するのが憎いか!? 潤さんの勇姿が憎いのか貴様!?」
「自惚れてんじゃねぇよ! お前こそ私の出番盗るなっつーの! 第一、雷だったら確実に仕留められるじゃん! 前も言ったでしょ、水じゃ弱らせるだけ!」
「虫は水に弱いんだよ! 水ン中で生きてられるのは魚ぐらいだろ!」
「じわじわ水でいたぶって殺すなんて、この変態!」
「正真正銘の変態に言われたかねーよこの変態が!」
「黙れこの変態腐れピエロタラシが!」
「だから変態はてめーだろうがよ変態メガネ!!」
潤と春はお互いに殺気だった目で睨み合いながら、じりじりと舞台端ににじり寄る。
「月谷に」
「春に」
二人は幕を押しのけて床に飛び降りると、天井に向けて同時に攻撃を放った。
「「見せ場を取られてたまるかぁぁっ!」」
派手な音を立てて二人の攻撃が天井の蜘蛛に炸裂する。
天井に向かって伸びる水流と電流。二つは標的の巨大蜘蛛をしかととらえ、絡み合って攻撃している。だが攻撃が激しすぎて、蜘蛛本体がどうなっているのかは直視できない。
「馬鹿が二人いる……」
呆れた表情で奈由はぼんやりと二人を眺める。
杏季は心配そうに視線の先を天井に定めたまま、すすすと奈由の側に近寄った。
「ねえ、なっちゃん。確か水って、電気分解で水素と酸素に分かれるんだよね」
「そうだよ」
「……あの蜘蛛さんがいる辺り照明があるけど、爆発とかしないかな? 理系だし、二人とも考えてるとは思うけ」
杏季がまだ言い切らないうち。
派手な爆発音がし、体育館中に鈍い音が反響した。衝撃で、びりりと足下にはまった窓ガラスが震える。
体育館という場所柄、広い空間であったのが幸いであった。壁は無事であり、窓ガラスも割れてはいない。
照明がいくつかと、天井付近が煤けてしまったのを除けば、であるが。
「考えてないから爆発したのではないでしょうか」
静まりかえってから、遅れて奈由がそう呟く。
唖然として硬直する彼女たちの側に、からんと乾いた音を立てて金属片が落ちた。
+++++
「派手にやりやがったなぁ……女子高生コエー」
オペラグラスから目を離し、ワイトはそれを隣に座っていたグレンへ放り投げる。グレンは片手でそれを受け取ると、自分で覗き込むことはせずそのままポケットに仕舞い込んだ。
「ともあれ僥倖僥倖、っと。けどさぁ、グレン」
「なんだよ」
「俺たちにとっちゃラッキーだけど。ちょっとばかし、出来過ぎちゃいないか?」
「……構うもんか」
手にしていた鞄を肩に掛け、グレンは立ち上がる。
「澪女の三年に適合者がいることは間違いない。裏があろうとなかろうと、確かめないことには分からねぇだろ」
「ま。見た限りじゃ、あいつらはほぼ確定だよな。今は油断してるみたいだけど、後でいいのかよ」
「真っ昼間にゃ分が悪いだろうが。そもそもあのクソ野郎のご命令だ。
今夜、片を付けるぞ」
彼らは踵を返し、密かに澪継女子高校を後にした。