1日目:樹上の虫かご(前)
みんみんと喚きたてる蝉の鳴き声が、人気のない校内へ空虚に響き渡っている。
季節は夏。うだるような暑さの中、目に眩しいほど澄みきった青い空と白い雲が、夏の盛りを告げるように上空に広がっていた。
夏休みを迎えている県立澪継女子高校。その名の通り女子生徒のみが在籍し、『大和撫子』を校訓とする才色兼備な生徒の揃った進学校である。
普段は休み期間でも、自主的に通学する受験生や部活動に明け暮れる生徒たちで賑わっているのだが、お盆休みである本日は流石にしんと静まりかえっていた。
ほんの数分前までは。
「ふはははははははご馳走様でェーーーっす!」
けたたましいアルトボイスの哄笑と共に、どぱーん、と水の跳ね返る音が響く。
床一面に広がっていた黒く蠢く数多の物体が、水流と共に一掃された。
校舎から第一体育館に向かう通路にて、突如出現した水。
それが流れてきた方角には、仁王立ちで右手の平を前へ突き出し、勝ち誇った笑みを浮かべた人物が立っていた。
「なーはははははははははは! 参ったかざまーみろ! しょせん貴様らなんか潤さんの敵じゃねーんだよ、雑魚が!」
背の高いショートカットの人物は、長い人差し指をビッと前方に突きだして威勢良く言い放つ。
先ほど哄笑をあげた当人、月谷潤である。
やや色黒の肌に天然パーマのショートカットという容貌から、一見して精悍な好青年に見えなくもなかったが、これでも女子高生である。その証拠に、今現在も彼女はこの澪継女子高校の夏の制服、半袖ブラウスに箱ひだスカートを着用していた。
と、潤が気分よくポーズを決めているところへ、今度は彼女の後方より閃光を放ちながら電撃が飛んできて、動きが鈍くなった黒い物体と、ついでに潤に襲いかかった。
「ぶがぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!」
もろに電撃をくらった潤は、涙目で後ろを振り返る。
彼女の後ろには、同じく澪継女子高校の制服で眼鏡をかけた少女が右手を広げて立っていた。
今の電撃で、件の黒い物体からはぷすぷすと煙があがっていた。動きを完全に止めたそれを満足そうに眺めると、彼女は首元にかかったポニーテールを邪魔そうに払いながら、悪びれない口調で言い放つ。
「あっちゃー。駄目じゃんつっきー、ちゃんと避けなきゃ」
「『あっちゃー』じゃねぇ! はったん、お前ぜってーわざとだろ! わざと私も巻き込んだだろ!」
「やだなぁつっきー、そんなのわざとに決まってんじゃん」
『はったん』こと畠中春は、声のトーンを落としてどす黒い口調で言う。春は手の平からパリパリ音を立てて、小さな雷の筋を立ち上らせた。
つっきー、もとい月谷潤は、唇を尖らせて春に抗議する。
「ひーどーいー! 私が倒そうと思ってたのに、いいとこ横取りすんじゃねーよはったん!」
「だって、つっきーの術じゃあ弱らせるだけでしょ。ちゃんと致命傷を与えてあげなきゃ、トドメを刺せないじゃないか」
「さりげなく怖い発言しないでください」
「うるさい、床をごそごそ這い回る黒い羽のついた無駄に生命力の高い油ギッシュな塊に存在価値はない」
「ひどい言いよう! ゴキさんかわいそうじゃん!」
「奴に憐憫の余地はない! それと実名を出すなイニシャルトークをしろ!」
「ゴキブリゴキブリゴキブリゴッ……」
連呼しようとして、潤は舌を噛む。すかさず春がまた軽く電撃を放ったせいだった。
春はうっすらと笑みを浮かべながら、両手の指をバキボキと鳴らす。潤はその気迫に気圧され、一歩後ずさった。
「そうやって女の子のこと虐めるタラシは、ちょおぉぉっとお仕置きしないといけないねぇ……」
「ちょ、はったんさん、いやその即ち要するに……話せば分かる!」
「問答無用!」
春の背後にばちばちと電撃が立ち上る。廊下には、再び潤の哀れな悲鳴が響き渡った。
加減されているとはいえ複数回の電撃を受けた潤は、力なくへたり込む。
が、ちょうどその時に階段を登り切って、潤たちのいるフロアへ現れた少女の姿を見つけるや否や。素早い動きでにじり寄り、潤は彼女へひしりと抱き着いた。
「聞いてくれよマイスイートなっちゃん。あの変態が虐めるんだよう。つきましては慰めてくれませんかね」
なっちゃん、と呼ばれた大人しそうな面持ちの少女、草間奈由は否応なしに足を止めた。肩までストレートの髪をさらりと揺らしながら、自分の足下にへばりついた潤を見下ろす。
「離してくれませんかタラシめ暑苦しい」
「ここもここで冷たい! いいじゃん別に減るもんじゃないし!」
「つっきーに抱きつかれた分、増量した汗の所為で体内の水分含有量が減る。あとセクハラです」
「女同士ですけど!?」
春の電撃より、奈由の発言の方がショックの大きい潤だった。
やってきた奈由に春はひらひらと手を振る。
「お疲れなっちゃん。そっちはどう?」
「残念ながらプラナリアもナメクジもキイロタマホコリカビも発見できなかったよ。惜しい」
「あ、うんごめんそれは聞いてない……ええと、残念だったね……。ともあれこっちも片付いたよ。あとは体育館の中だけかな。
ところで、あっきーは?」
「あっきーなら、さっき通路の木に湧いてたアメリカシロヒトリを一匹一匹鳥に食べさせてたよ。もうすぐ来るんじゃない?」
「ザ・地味! 地味に何やってんだ十歳児!」
奈由の説明に思わずそう漏らした潤へ、階下から甲高いソプラノの声で反論が返ってくる。
「地味じゃないよー! 鳥さんたちがいっぱい活躍してくれたもん! あと十歳児じゃないもん!」
タイミング良く響いた声は、今し方話題にあがった『あっきー』、白原杏季のものだ。
声のした方角へ三人が振り向けば、階段からひょこりと茶色がかったツインテールが覗く。やがて現れたのは、吹けば飛びそうな体躯の童顔の少女だった。
合流した彼女を潤はにっと笑んで迎える。
「おかえり十歳児」
「十歳じゃなーいー!」
「何言ってんだよ十歳児。十歳児は十歳児だろ? 十歳児だもんなー、何しろ十歳児だし。なあ十歳児?」
「いっぱい十歳児とか言いやがった!」
頭一つ違う潤を背伸び気味に見上げながら、杏季はむくれる。
そんな彼女を春はすかさず抱きしめて、よしよしと頭を撫でた。
「よしよしあっきー、大丈夫だよ。私が君を慰めてあげるから」
「変態めが……」
ぼそりと呟いた潤の言葉にすかさず反応し、春は腰に手を当て堂々と宣言する。
「変態ですが何か?」
「いや待てそこは元気に宣言する場所じゃねーよはったん!!」
「つまりあれだよねつっきー。今この場で私のことを変態と呼称したからには、つっきー自ら犠牲となって変態の餌食になることを了承したと見做していいよね鎖骨見せろ」
「嫌ですけど!?」
「何を言ってるんだい私にとって鎖骨見せろは挨拶や語尾みたいなものじゃないかつっきー鎖骨見せろ」
「嫌な語尾だなオイ!」
身の危険を感じた潤は、勢いよく後ずさるのだった。
大和撫子を校訓に掲げる才色兼備な進学校。それは間違いではないし、語られた言葉に嘘はない。
だが内実は、その煌びやかなフレーズで世間が抱くイメージと若干の乖離がある。
いつか校長はこう語った。『大和撫子の要素たる、朗らかさ、強かさ、聡明さ、気高さ……これらを兼ね備えた女性を目指すことを本校の校訓としている。だがうちの生徒たちは、強かさばかりが顕著に鍛えられてしまっている』、と。
強かで個性に溢れた生徒たちの集う学び舎。
それが、澪継女子高校だった。
そんな彼女たちが、何故この夏休みの最中に虫退治に勤しんでいるのか。
話は、数十分前に遡る。
「虫が湧いたのよー」
「……はい?」
お盆の真っ只中。
通常であれば校門が固く締まり、生徒は校内に立ち入れない筈のこの時期に、英語教諭の春日告久美から彼女たちは突然呼び出された。
生徒たちから『女帝』と称されている春日教諭は、その名の通り澪継女子高校において最強と目されている教師である。
その笑顔から醸し出される威圧感は半端がなく、誰に対しても有無言わさぬオーラがあった。英語の試験の返却時には、自信のない生徒たちは悉く打ち震える。
そんな春日教諭は、四人組を呼び出した上でにこやかに告げた。
「今、体育館に虫が湧いててね」
「……はい?」
「だから貴方たちで虫を駆除してくれないかしら」
「はいいいいぃ!?」
潤と春は合わせて素っ頓狂な声を挙げた。他の二人は反応できず、ただただ固まる。
四人を代表して挙手した潤が尋ねる。
「先生、すみません。
どういうことなんだかさっっっぱり分かりません!!!」
「そのまんまの意味よー」
「いやもう虫が湧いて出てるのはすんごい良く分かったんですけど、なんでいきなり虫が湧いたのかとか、っていうかなんでうちらが退治すんですか先生!!」
机に肘をかけながら、春日教諭は小首を傾げた。
「だって貴方たち、すぐ近所にいるんだもの」
「いやハイ、そりゃあもうすごい近所にいますけどぉ!」
四人は、澪継女子高校のすぐ近くにある寮で生活している。
普段は他にも生徒がいるのだが、今はお盆休みの為ほとんどの生徒が実家に帰省していた。彼女たちも何人かは帰省していたのだが、今日は夜に開催される澪継市の花火大会に行く約束をしていたので、一時的に寮に戻っていたのだ。
「あなたたち以外、他の先生方も生徒もみんなお盆で出払ってるのよ。だからちょっくら虫退治してくれない?」
「そんな軽いノリで物凄い重労働を頼まないでください!」
春の抗議を女帝は笑顔で制圧した。
春はひるんだ。
負けじと潤は訴える。
「うちらも一応受験生ですしぃ! っていうかうちらみたいな素人じゃなく、虫退治の専門の業者呼べばいいじゃないっすか!」
「呼べない事情があるから貴方達を呼んだに決まってるじゃない」
しれっと真顔で春日教諭が答えた。
人差し指でとんとんと机を叩き、春日教諭は不敵な笑みを浮かべる。
「実は、とある実験に協力してくれた子がちょっとミスっちゃってね」
「実験?」
反応したのは奈由だ。彼女はちょっとやそっとでは滅多にその整った顔のポーカーフェイスを崩さないが、こと実験だの植物だのの話題になると途端に目の色が変わる。
目を輝かせた奈由へ、春日教諭は物憂げに続けた。
「理術、の実験よ」
「理術……!?」
顔を見合わせ、彼女たちは困惑した色を浮かべた。
理術。
それは誰しもが使える、使い物にならない力の事だった。
理術は、己の持つ『属性』に応じたものを、呼び出し操ることができる力だ。
属性は十種類存在し、大きく分けて『自然系統』、『人為系統』の二つに分類されている。
自然系統が『炎・地・草・水・風・雷』の六種類。
そして人為系統が『古・霊・鋼・音』の四種類である。
人々はいずれか一つの属性を先天的に有し、その力を老若男女問わず全ての人間が使うことができた。
物語に出てくる魔法とよく似ているが、これらは区別されている。
何故なら理術は誰もが使えた為、魔の力ではあり得ないことと。
そして魔法と比較するのも馬鹿らしいほど、実に小規模な力であったからだ。
例を挙げると、潤のような水属性なら水鉄砲程度の威力、春の雷属性は冬の静電気程度の威力しかない。
だから理術は『役に立たないもの』として人々に認識されており、日常生活では道具が手元になかった時や悪戯くらいでしか使用されることはなかった。
そんな利便性の低い理術の実験と聞き首を捻ったままの四人を余所に、春日教諭は続ける。
「私の友人で、理術の研究をやってる子がいるんだけどね。今、理術の力を強める薬を開発してるらしくて、極秘でモニターをやってくれないかって頼まれたのよ」
「理術を強める……って、制御装置があるのにできるんですか?」
元々理術の力は弱い。だが不用意な事故を防ぐため、力を更に無力化すべく、全国各所には『制御装置』と呼ばれる理術の力を抑える装置が設置されていた。制御装置がなければもう少し理術の威力は高いらしいが、一般人は誰もその真偽を知らない。
奈由の質問に春日教諭は苦笑気味に答える。
「服用することで装置の影響下から一時的に逃れる作用があるみたいよ。緊急時に活用できないかって開発してるらしくてね。
それで白原さんと同じ古属性の子に頼んで、体育館で虫を召喚してもらってたんだけど。途中で薬の効き目が切れて、元に戻せなくなっちゃったのよねぇ」
名前を呼ばれて、杏季は目を瞬かせた。彼女は四人の中で唯一、人為系統の古属性である。
古は、生き物を召喚することのできる属性だ。ただし、いわゆるファンタジーの世界で登場するような幻想上の動物を召還できるわけではない。あくまで現実世界の生き物を呼び寄せることができるだけだ。
たとえば、ゴキブリとか。
「でも古って、呼ぶとしても一度に一匹、近場にいる生き物を呼べるだけですよ。その薬を飲むと、遠くから沢山呼んだり出来るんですか?」
「それが出来たから現状の騒ぎになってるんじゃない。しかも割と楽しくなっちゃったみたいで、割と沢山呼んじゃって、割とフィーバー状態なのよ。
そういう事情だから専門の業者を呼ぶのは憚られるでしょ。だから貴方たちに頼んでるって訳」
恐る恐る春は挙手する。
「つまり今、体育館には、普段日常生活で見ることのできない量の虫が割とごっそりはびこっていると」
「そういうこと」
「帰りたい……」
小声で春が呟いた。
足を組み直しながら春日教諭は狙い定めたように奈由へ視線を移す。
「大丈夫、危険のある虫は呼んでないしたいしたことないわよ。
因みに虫じゃないけど、その中にはプラナリアもいたと思うわ」
「やります」
脊髄反射で奈由が答えた。
仰天した潤が奈由の肩を掴んでがくがくと揺する。
「なっちゃーん!? 落ち着け考え直せ今ならまだ間に合う!」
「うるさい、私は至って冷静だし私のぷーちゃんへの愛を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえばいい」
「ぷーちゃん!? プラナリアのぷーちゃん!?」
静かな口調ながら完全にノリ気の奈由に、潤は頭を抱えた。
潤の手を引きはがし、奈由は春日教諭に向き直る。
「とはいえ先生。ぷーちゃんは保護するとして、その他の虫に立ち向かう殺虫剤やらバールのようなものやらの武器は欲しいんですが、それは用意してもらえますよね?」
「そんなものより、もっと良いものを用意してるわよー」
「もっと良いもの?」
春日教諭はにやりと笑った。引き出しを空け、彼女は中から半透明のピルケースを取り出す。ケースにはいくつかの錠剤が入っているのが見えた。
「さっき言った薬、まだ幾つかあるのよ。
折角だから、この薬で理術を使って虫退治してくれないかしら」
「ほほう!」
今度は潤が目を輝かせ、顎に手をやる。
「面白そうですな!」
「出た! 単純バカがノリ気になった!」
春は悲痛な叫びを挙げた。
「だってこんな機会、滅多にねーじゃんか! うわ、超楽しそう!」
「言っても虫と対峙して虫退治することに変わりはないんですからね! って言ってる場合じゃねえ私!!
と言いますか先生、まだ薬があるなら、その人にもう一度薬を飲んでもらって虫を戻してもらえば良いのではないでしょうか!」
春は自分自身にツッコミを入れながらもっともなことを言うが、春日教諭は首を横に振った。
「安全性は確認されてるけど、まだ試作品だし複数回の服用は厳禁って言われてるのよ。ついでに私も飲んじゃったから、手伝えないのよねぇ」
「じゃあ、あっきーが行って、ちょちょいと戻してくるとか」
話を振られた杏季もまた首を横に振る。
「他の人が呼んだ生き物は、古でも元に戻せないよ。薬を飲んで出来るようになるかどうかは分かんないけど」
「そうそう、その実験も含めてやってくれないかしら。薬の使用具合を報告してくれたらモニター料としてそれぞれ二千円ずつあげるわよ」
「やります!」
春日教授の言に、杏季は威勢よく手を上げた。春は目を見開いて隣の彼女を一喝する。
「おいコラあっきー! 貴方まで便乗してどうするの!」
「だって買いたい本があるの……花火大会でクレープ食べたらしばらくまた買えなくなるの……」
照れくさそうに杏季は両の人差し指を合わせる。
最後に残った春へ、女帝はドスの利いた声で言った。
「あら畠中さん、アナタ友達にやらせて自分は逃げるつもりなの?」
「ええっと……私は他のみんなを別室で応援でも」
女帝は春の台詞を再び笑顔で制圧すると、ごく静かな声で言い放った。
「……卒業させないわよ?」
「謹んでやらせていただきます!!!」
英語の成績が四人の中で一番振るわない春は、びしっと敬礼しながら答えた。
「薬がいつまで利くかは、個人差もあるから分からないのよ。だから早めによろしくね。検討を祈るわー」
そうして四人は、笑顔の春日教諭に体よく体育館へと送り出されたのだった。
なお一番最初に、虫を元の場所に戻せるかどうかは試みたが無理なようだった。仕方なく彼女たちは、地道に虫を駆除している。
「それにしても、本当に強くなったよなあ。術の威力」
しみじみと呟いた潤の言葉に春は同意する。
「そうだねー。ちょっと眉唾モンだったけどさ。確かに非常時にはいいかも。携帯とか充電できれば便利なのになぁ」
「うーん、私も暑い時にもっと豪快に水遊び出来るのに。時間限定だから口惜しい」
「私ももっと動物さん呼べるし、なっちゃんももっと好きな植物生やせるもんね」
「そう、ね」
奈由はすっと窓に向けて右手を差し出す。しばらく待つと、窓の向こうでは先ほどまで生えていなかった植物が姿を現した。通常では考えられない速さで植物が丈を伸ばしている。白い花を付けたそれはハルジオンのようだった。
自分が地上に生やした花を、奈由は目を凝らして見下ろす。
「薬、……ねぇ」
彼女は視線を落とし、自分の手の平を眺めた。