11-5 抗えない導き -Fill side-
(ほんと……どうしようかな……)
ぜぇぜぇ、と荒い息を繰り返しながら、フィルは必至に考えを巡らせていた。
一度、肩越しに振り向いて背後を見やる。
目玉の機械達は列になって追って来ている。個々の速度が同じだから、ではなく二体が横に並べるほど大きい廊下ではないからである。
走り始めてから、すでに二十分は経過した。
初めに使った薬のおかげで、目玉の機械達との距離は少しも縮まっていないが――その状態が続くのはもってあと数分。五倍に増やした体力はもうほとんど残っていない。再び薬で増やすことも出来ない。体力増幅の薬は非常に便利ではあるが、強すぎるため連続では使えないのが難点だった。最低でも三日は間を開けなければ、消耗した細胞をさらに痛めつけることになり、最悪一週間は身動き出来なくなる。
フィルはかなり焦っていた。
体力の限界が近付いているから、というのもあるが、それよりも――
(……まいったな)
正面に視線を戻し、廊下の先を睨む。
奥がぼやけているせいで、廊下は一直線に伸びているようにしか見えない。しかし時折、ぼやけた箇所の左右、もしくはどちらか片方に、周りの壁より少し暗い色の靄が生まれ、そして近付くにつれ岐路へと変化する。
最初に立てた予想とは違い、ひたすら廊下が真っ直ぐ続くとか、行き止まりに追い込まれることは今のところない。部屋やドアどころか、落とし穴や攻撃性のある罠も一切無い。仕掛けられてはいるのかもしれないが、発動はしていない。目玉の機械達以外の、新たな敵が現れることすらない。
それは何故か。
この狭い廊下に罠を張る方が楽に仕留められるのに、何故要塞の主はそうしてこないのか。
――答えは簡単だ。
ガヅンッ
フィルが十字路の手前に来たところで、石が擦れる音と共に床から飛び出した分厚い壁によって、正面と右側の道が一瞬で塞がれた。
フィルは慌てて進路を変え、残った左の道へと駆け込む。
これまでもそうだった。岐路はあれど、選べる道はない。常に監視しているらしく、必ず直前で道を閉ざす。そうやって残された道へ行く以外の選択肢を消している。
(誘導されている……よほど来てほしい所があるんだね……)
焦る最大の理由は、敵の狙いはわかっているのに、フィルには抗う術がないことだった。
華月か矢鏡ほどの力があれば、目の前で道が閉ざされても、瞬時に破壊して好きな方に進むことが出来ただろう。
しかし、フィルでは肉体強化を使っても壁を壊すことは出来ない。先程使った爆薬なら壊せるかもしれないが、障壁ではその威力に耐えられないため、相当離れなければ自分も巻き込まれてしまう。目玉の機械達を振り切れば、それも可能にはなるが――壊したところで別の壁で塞がれるか、進路の先に新たな敵を送り込まれてしまえば終わりである。見張られているこの状況では、どう足掻いても阻止されるだろう。
(天界に置いてきた薬があればなぁ……あの機械だって倒せるのに……)
今まで作ってきた薬の種類は数万にも及ぶ。対して、現在の手持ちは百にも届かない。それも実戦では使えないものばかりだ。
だから、後悔している。任務を受けず天界にいることが多かったため、わざわざ持ち歩く必要は無い、と最低限の物しか持たないようにしていたことを。
(……まぁ、無い物を考えても仕方がない。そんなことより――)
次に現れた十字路を右に曲がり、頭を切り替える。
この先に何が待ち構えているのか想像し始め、そしてふと気付いた。
(――あれ? 待って……変だ……
誘導してくるってことは、敵はずっと僕を見ているはず。特定の場所で望み通りの死に方をする姿を見るのが目的……。でなければ導く必要が無い。
――でも、それだとおかしい。
どうして敵はこっちに集中しているんだ?
先に別の仲間が来ているはずなのに……もしかして、華月達のように捕まった?
まさか、すでに殺されてるなんてことは――いや、それは無いか。もしそうならシンから連絡が来るはずだ。
なら、全員同時に相手にしているとか? ……いや、それもないな。そんな不利にしかならないことをするとは思えない。もしやってたら相当なバカだ。
――となると、一番可能性が高いのは……珍しく妖魔が手を組んでいることか。それならこの状況にも説明がつくし。その場合、先の二人は別の妖魔と戦っているはずだから……運が良ければ見つけられるかも……)
そこまで考えたところで、変化が起こった。
廊下の奥に靄が生まれ、左右に分かれる丁字路が現れる。それだけならこれまでに幾度もあったが、今回は一つ違う。
正面の壁に、横書きで大きな文字が書かれていた。
フィルは目を凝らし、
『正解はどっちだ?』
文字を読んだ瞬間、露骨に顔をしかめた。
(当たりがあるとは思えないなぁ……
――でもこれで、追いかけっこからは解放されるかな。その後も大変だろうけど……)
ふうっと小さく溜め息を吐き、間もなく分岐点へと到達する。
フィルは瞬時に左右の道を視認し、どちらも奥に伸びるだけで違いが無いとわかると、迷わず右を選んだ。どちらにしろ結果は同じだろうから、左に行っても良かったが、なんとなく利き手の方にした。
右の廊下に入り、少し進んだところで――
ギュインッ!
金属を擦ったような音が鳴り、次の瞬間には、床から生えた無数の黒い棒によって作られた、大きな半球体の中に閉じ込められる。
「……っ!」
咄嗟に足を止めたフィルは、暗闇の中で前後左右を見やり、ガクンッと床が揺れるとその場にしゃがみ込んだ。続いてわずかな振動と、落ちているかのような感覚に襲われる。
フィルは素早く呼吸を整え、自分の周りに球形の障壁を張った。落下の衝撃くらいなら、これで完璧に防ぐことが出来る。
――だが、振動が止んでも衝撃は一切なかった。
一拍の間静寂が訪れ、それからガコンッと音を立て、全ての黒い棒が床に吸い込まれていく。
同時に光が戻り、辺りを見回すその前に――
パチパチパチパチ、と左側から拍手の音が鳴り響く。
警戒した眼差しをそちらへ向け、フィルはゆっくり立ち上がった。
「おめでとー侵入者さん♪ 正解よ♪」
小さな城なら余裕で入るくらい広大な部屋の中に、女が一人いた。
歳は二十代後半頃。肩下まで伸ばしたルビー色の髪に、ヘビを彷彿とさせる切れ長の黄色い眼。膝丈のぴっちりした貫頭衣は毒々しい紫色で、その下から伸びる足は黒いタイツに包まれている。靴は動きにくそうな黒のピンヒール。右腕には、曲がった鉄の板と何本ものコードを組み合わせて出来た、手甲のような機械をつけていた。
出入り口の無い部屋の中心部には、四角い石柱十二本が距離を開けて立ち並び、巨大なひし形を描いていた。石柱は全て長さが違い、フィルに最も近い、角に位置する石柱がおよそ人の三倍であり、奥へいくほど長くなっている。
女は、フィルに最も近く最も短い石柱の上に、足を組んで腰掛け、悠然とフィルを見下ろしていた。
「でも良かった♪ 貧弱そうだから、ここまで来られないんじゃないかと心配だったのよ。意外と体力あるのね♪」
豊満な胸を反らし、女は嬉しそうに笑った。
フィルはじっと女を見返し、その方に体の正面を向ける。
「……悪魔……」
ぼそっと呟かれた言葉に、女は少しだけ目を細めた。女の目は、本来白いはずの部分が闇色に染まっていた。
魔族と悪魔には大きな違いがある。
魔族となるのは憎悪に縛られた者であり、悪魔となるのは欲にまみれた者である。
魔族は生前と全く同じ姿を取るのに対し、悪魔は目だけが生前と異なり、白目が黒へと変化する。
魔族と妖魔を見分けるには、このどちらかがわかればいい。
女は恍惚の表情を浮かべ、
「元掃除屋、ブレッディ三兄弟の一人、次女のギータよ。
あ、掃除屋って言っても、部屋をキレイにする清掃業者なんかじゃないわ。アタシ達が目障りで邪魔だと判断した人間を消す。それで国も、アタシ達も退屈しなくて済む、とてもステキな仕事よ」
「……わざわざ自己紹介してくれるなんて、外道な快楽殺人鬼の割に礼儀正しいね」
「だって、自分を殺す相手のこと、ちょっとだけでも知りたいでしょ?
別に教えなくてもいいんだけど、アタシ達は優しいから、餞別に教えてあげることにしてるの♪」
誇らしげに語るギータを、フィルは静かに睨んだ。
(――まずい)
走ったため全身から出た汗が、一気に冷えていくのを感じる。身震いしそうになる体を必死に抑え、左手で右の前腕に軽く触れた。
(彼女……間違いなく上級クラスだ……)
神と主護者は神気を、魔王と妖魔は邪気を常に纏っていることは、普通の人間かよほど鈍い者でない限り、直接見ればわかる。但し視界に映るわけではなく、威圧にも似た感覚が自然と伝わってくるのである。非常に朧げなものだが、その"気"の量と実力が比例するため、ほとんどの者がそれにより相手の強さを測る。
しかし、絶対に信じ切ることはしない。何故なら、強い者ほど"気"を隠すことが出来るからだ。少しでも弱く見せて油断を誘うのは戦術の基本。自分の実力をさらけ出すのは、何も考えていない者か相当自信のある者だけある。
そしてギータは――後者だった。
彼女からは全く邪気を感じ取れない。それが出来るのは、トップクラスの実力がある者だけである。
「さて、正解したアンタにはご褒美あげないとね♪」
不気味に笑い、ギータが言った。
「褒美、ね……。仲間を返してくれるといいんだけど」
「つれてきたいのは山々だけど、金髪の方はマラク――弟の領域に落ちちゃったし、変な髪色の方は姉さんの領域に飛ばされちゃったから無理なのよね。この間捕まえた女も姉さんに取られちゃったし……
全員アタシがやりたかったけど、他人の領域には手を出しちゃダメってルールがあるから、諦めるしかないのよねぇ」
肩をすくめ、ギータは残念そうに溜め息を吐いた。
フィルはぴくりと片眉を跳ね、
(女……しかも一人……?
でも、先に来てる仲間は二人いるはず……ってことは、もしかして――)
ある考えが浮かんだところで、ギータが柱の上に立ち上がる。
「ま、とりあえずアンタだけで我慢するわ。いっちばん弱そーだけど……
ここまで辿り着いたご褒美に、いたぶりながらゆーっくり殺してあげる!」
言うと同時に、ギータはピンと伸ばした両腕を上げ、まるで一丁の拳銃を持っているかのように両手を構えた。伸ばした右手の人差し指をフィルに向ける。
そして――
ドゴッ!
「……っ!」
向けられた人差し指の先から拳サイズの黒い塊が高速で飛び出し、フィルのすぐ前の床に当たって砕け散り、瞬時に消える。音からして結構な重量のものが当たったはずだが、床には傷一つ付いていない。
ギータはにぃっと笑い、
「まずは準備運動」
二発目を撃った。
それはフィルの頭目掛けて飛んできて、フィルはバック転をして避けた。次に胴体に向かってきた塊は、半歩右にずれながら体を横向きにして避け、その後足に向かってきた塊は大きく退って避けた。
ギータは一秒間に二発のペースで撃ち続け、フィルは避けながら徐々にギータから離れていった。
「この手甲はね、魔力を塊にして大砲みたいに撃ち出せる道具なの。術にしなくても攻撃出来るし、ダイヤより硬い鉱物を使って作った床や壁には傷も付かない。
ついこの間完成した、アタシの新兵器よ。どう? 凄いでしょ?」
攻撃の手を休めることなくギータが言った。
壁際まで追い込まれたフィルは、頭に飛んできた塊をしゃがんで避け、
(そんなの、とっくにエルナがやってるよ。道具なんて使わずに)
鼻で笑いそうになるのを堪え、今度は左回りに壁際を駆ける。塊が壁を叩く音を聞きながら、周囲に視線を走らせる。
その様を見て、ギータは一瞬訝しげな顔を作り、すぐに不気味な笑顔に戻った。フィルが角付近にきたところで撃つのを止め、構えたまま両手を少し下げる。
「ふーん……な・る・ほ・ど」
楽しげに言うギータから目を離さず、フィルも一旦足を止めた。
「出口を探しているようね。壁際にいるのは、音で空洞の場所を探ってるってとこかしら。
――なら、いいこと教えてあげる。
この部屋の出入り口は二つ。壁で塞いでいるだけで、どこかにあるわ。
開け方は、かたーい壁を頑張って壊すか、アタシを倒して、アタシが持ってるマスターキーを奪えばいいの。体のどこかに隠してあるから、頑張れば見つかるわ。
さ、どっちにチャレンジする?」
「…………」
フィルは応えず、静かに右袖から長針を取り出し、左手で逆手に構え、下ろした右手を後ろに隠す。その手の中に直径五センチの黄色い球を現して、
(今の話が正しければ――恐らく壁は壊せない……なら、逃げるのは無理だろうな……
――となると、油断している今のうちに倒すしかない……!)
ギータが立っている柱の根本に向かって全力で投げた。球は猛スピードで飛んでいき、狙い通りの場所に当たった瞬間――
バグオォンッ!
派手な音を立て、爆発を起こした。
白い煙が広がり、下部が抉れた一番短い柱がフィルの方に傾く。その両隣の柱には大きなヒビが入り、周りに細かい欠片を落とす。
ギータは足場が崩されたことに驚きもせず、倒れる柱を蹴って斜め右に跳び、一メートルほど離れた床に着地した。すぐにその左側に、ズンッという重い音と共に柱が転がった。
真っ白い視界の中、ギータはふん、と鼻を鳴らし――
キンッ
左後ろから振り下ろされた長針を、手甲の半ばで受け止めた。
フィルは長針から手を離すと同時に、わずかにしゃがみながらギータの懐に入り込む。右手を伸ばし、首を掴むその前に――視界からギータの姿が掻き消えた。直後、脇腹に鈍い痛みが走り、その衝撃で宙を舞う。十メートル以上離れた位置に左肩から落ち、一度跳ねて、今度は二メートル先の床に落ちた。それからすぐに、右の脇腹を左手で押さえて回復をかけながら立ち上がり、石柱全てを覆う煙を見つめた。
(駄目だ……やっぱり速さで負ける……)
ギリッと歯噛みし、次の作戦を考え始める。
煙でうっすらとしか見えないギータはくすりと笑うと、左手は腰に当て、右手はだらりと下げた。そして、長針が突き立つ手甲がバラバラに分解し、床に落ちる。
「まさか、この短時間で手甲の急所を見破られるなんてね。
設計上どーしてもそこだけ弱くなっちゃって、でも一か所だし目印も無いし、わからないだろうからこれでいっかーって思ってたけど……こうもあっさりバレるなら、改善しないとダメね。思ったより発射速度も遅かったし」
ギータは短い溜め息を吐き、小さく頭を振った。
この間に煙は完全に消え、ギータの姿が再びはっきりする。
「でもひどいじゃない、壊すなんて。これ一つ作るのにも大分手間かかるのよ?
材料集めるだけでも大変だったのに……」
言いながら、右手を軽く上げ、にっこり笑う。
「まぁ――」
ボッ!
ギータから何かが飛んでくるのと、フィルの真下から変な音がしたのは同時だった。
フィルが気付いたのは、一瞬後。
自分の両足が、太ももの半ばから下が――消えていた。
「――っ!?」
フィルは目を見開いた。支えを失った体はすぐに床に落ち、ギータに頭と両手を向ける形でうつ伏せになる。遅れて届いた激痛に顔を歪め、思わず両手を握りしめた。抑え切れない呻き声を洩らしながら、ゆっくり顔を上げて後ろに目を向け、途切れた両足から赤い血が滴る様と、手前から奥に広がっていく焦げ跡を確認した。火炎系の術で燃やされたのだと理解した。
「代わりに足貰うから、別にいいけど♪ 準備運動の意味なくなっちゃったわね♪」
愉しそうに笑うギータを、フィルは必至に睨んだ。
「あぁら良い顔♡ 苦痛に歪む顔ってどうしてこうステキなのかしらねぇ♡
でもアタシ、そういう顔より泣き顔とか絶望した顔の方が好きなん――」
ギータの言葉が終わるより早く、フィルは手の平サイズの丸いガラス瓶を右手に出し、前に向かって放り投げた。透明な液体が詰まったその瓶は、小さな放物線を描いて二人の間に落ち、そのわずかな衝撃でパキッとひびが入った。途端。
カッ!
一気に瓶が弾け、強烈な光を生み出した。
「閃光弾!?」
自然と瓶を目で追っていたギータはまともにくらい、驚きの声を上げた。もう意味はないとはわかっているが、咄嗟に両手で目を覆う。
次の瞬間、太い何かでがら空きの胴を突かれ、まるで弾丸のように後ろに吹っ飛ばされた。石柱を二本折り、猛烈な勢いで壁に激突し、わずかに周囲をへこませる。
ギータは盛大に舌打ちし、目を開け――
倒れた自分の上に降ってくる、六個のガラス瓶を見た。
そして、大爆発が起こった。
真っ赤な炎が炸裂し、土煙と衝撃波が荒れ狂う。
やがて収まり、土煙が晴れた後には――
わずかに抉られた壁と床と、
「……アンタ"蘇生"が使えるのね」
壁の破片と砂埃を払いながら、平然と身を起こすギータの姿があった。服の裾が少し焦げ、額から眉間に血が流れる。
石柱の奥にいるフィルを、ギータはじろりと睨んだ。
フィルは立っていた。半分以上短くなったズボンからは、失ったはずの両足が伸びていた。その足でギータを蹴り飛ばしたのである。
治癒力を上げるだけの回復、その上位技が"蘇生"である。多大な力を消費するが、肉体の損傷、破損を無事な状態にまで戻すことが出来る。また、回復とは違い死者にも効果がある。但し、肉体を復活させるだけで、生き返らせることは出来ないが。
(あの爆薬でも倒せないか……)
フィルは息を飲み、無意識に半歩下がった。裸足の足に床の冷たさが伝わる。
ギータはゆっくり立ち上がり、筋肉をほぐすように首を回した。
「すぐに殺したらつまんないから手加減してたのに……蘇生が使えるならその必要なかったわね。嬲っても簡単には死なないだろうし……」
静かに言って、ふーっと息を吐く。
それから、
「アタシの顔に傷付けやがって! このクソ野郎がっ!」
そう怒鳴り、ギータは両手をばっと広げた。
途端、床から噴き上がった紅蓮の炎がフィルを取り囲んだ。
フィルは瞬時にドーム型の大きな障壁を張り、身を守った。
「いたぶってあげようと思ってたけど気が変わったわ!
焼かれる恐怖を味わいながら死ぬがいい!」
ギータの言葉に呼応するように、押し寄せる炎の勢いが強まった。
フィルは苦悶の表情を浮かべ、障壁の維持にのみ集中する。しかし、凄まじい火力に耐えられず、徐々に収縮していく。手を伸ばしても余裕で届かないほど大きかった障壁が、しゃがまなければならないほど小さくなった。たまらず片膝をつく。
「アッハハハハハハ!
ほらほらどうしたの? そんなんじゃ、炎は防げても熱は防げないでしょ?
もっと頑張ってアタシを楽しませなさい!」
更に炎が強まり、障壁の中の温度が急激に上がる。全身から噴き出た汗は瞬時に蒸気となり、襲い来る高熱がじわじわと肌と服を焼いていく。反射的に目と口をきつく閉じ、障壁を維持するとともに周囲に冷たい水を現し、全身に回復をかけた。だが――
(まずい……!)
服が燃え落ちることは防げたが、焼ける速度の方が速く、体の修復は出来なかった。仕方なく回復は止め、代わりに蘇生を使い続ける。おかげで無傷の状態にまで戻り、維持出来るようになったが、これでは通力の消耗が激しすぎる。通力が尽きるのは時間の問題だった。
(このままじゃまずい……どうする……どうする……!?)
必死に考えを巡らせるが、有効な手は浮かんでこない。
ピシッと音を立て、障壁に大きなひびが入った。
「ねぇ、アンタも神の手先なんでしょ? なのにもう終わり? アタシがちょーっと本気になっただけで死んじゃうのね! アッハハハハハ!」
苦しむフィルを見下ろし、狂ったように笑うギータ。
その間にも、障壁のひびは広がっていく。
一瞬、意識が遠のきそうになり、フィルは慌てて頭を左右に振るが――眠気にも似た感覚は消えるどころか徐々に増していく。
限界を感じ、もう駄目だ、と諦めかけた。
瞬間――
石柱の真上の天井が崩れ、そこから大量の水が流れ込んでくる。
「なっ!?」
水は炎とギータを飲み込み、障壁をあっさり破ってフィルを押し流した。
すぐにどちらが上かもわからなくなり、荒れ狂う水流に息が続かず、フィルは水を吸い込み――直後、後ろ襟を掴まれ引っ張られた。その勢いで後方に飛び、水から出て背中から壁に激突する。衝撃で肺に詰まった水が押し出され、一メートル下の床に足から落ちる。着地は出来たが立っていられず、しゃがんで俯き、苦しそうに咳き込んだ。
「何!? なんなの!?」
取り乱したギータの声に視線を上げると、部屋中を濡らした水が宙に溶けて消えていく様子が見えた。
そして、石柱の横に立つギータとフィルの間に、赤いコートを着た人間がふわりと舞い降りる。
フィルは目を見開き、覚えのあるその背を見つめた。
「やぁ。元気そうだね、黒医者」
赤いコートを着た人間が、振り向きもせずに言った。爽やかな男の声だった。
歳は二十代前半。青銀の短髪に、やや吊り気味の銀の目。身長はシュバルトとほぼ同じ。膝まで届く赤いコートは前を開けて、中に紺色の丸首シャツと黒いズボンを着ている。両手には黒い手袋をはめ、首からは小さなオレンジ色の石を付けたペンダントをさげていた。
「誰よアンタ!?」
男を睨み、ギータが叫んだ。
男はすまし顔でギータを見返し、
「……あぁ、殺す相手に名を教えるのがあんた達のルールだったな。
じゃあ、合わせよう。いつもは名乗らないが――」
明るい口調で言って、爽やかに微笑んだ。
「俺は水系最強の使い手、センリ・イールレイス。
神と称するクソガキに仕える、元殺し屋さ」
これで11話、終了です。